降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

選挙 「防衛反応」に対するアプローチ

選挙があって、低投票率だった。投票しないのはなぜなのかと考えるときに、僕は一つは自治意識が疎外されているからだと思う。


自分の直接感じることにしか適切に反応できないというのは、普通の状態であると思う。国という抽象的なものに対して訓練もなしに適切にとらえることは誰もできないと思うが、そこに意識を通し働きかける主体になるためには、まず自分の周りのものを自分で直接働きかけて自分で自分の暮らしをつくっているという感覚をもつ必要があると考える。


自分が考えなくても働きかけなくても、お金さえあれば暮らしの基盤をつくるのは誰かがやってくれるという状態がそもそも疎外状況なのだ。考えなくてもいいということは、無関心になるということであり、無責任になるということ。


国家というのはそもそも権力者が自分たちのためにつくったもので、王政などの権力の一部を力で奪いとった市民がその力のつなひきをやめればいつでも初期状態に近づき戻っていく。

 

自治意識が人を健全にすると考える。歯車の一部でしかない存在にされたときに、自治意識は放棄されている。そのとき無責任無関心は当然の帰結だ。

 

そういう意味では、国の規模が大きければ大きいほど人は自治意識を奪われやすいだろう。小さな単位が独立し自立しているとき、人は世界全てに対峙し、責任をもっているもともとの状態だ。ところが大きいシステムはそれを奪う。

 

大きいことの合理性というのは、つまるところ力やエネルギーを集中させること以外に何かあるのだろうか? 僕は知らない。そして力を集中させて実質得をしているのは、力をもっている者、支配する側のほうだ。

 


まずは小さく自立すること。別にストイックに今あるものの使用を否定することはない。二重にすればいい。大きなシステムがありながら、同時に自分たちの小さな自立圏をつくり重ねる。ちょっと経済が変になれば連鎖的に全員困窮するという状態から脱する。その状態を完全に達成しきらなくても、自分たちの力でできることを増していくということ自体が生の充実と人の健全さを派生させていくことが感じられるだろう。世界を自分たちのほうに取り戻しているその状態、その感覚が人に自信と充実を与える。

 

遠いのはわかっているが、遠いかどうかを問題にするときは、それが苦痛だということが前提にある。充実していく道をいく。ただそれだけでいい。そして充実は世界から生きる主導権を自分たちのほうに取り戻していくところにある。完成したときに初めて得られるようなものは相手にせずに過程からして充実するものをやっていく。その時々のゴールは過程を充実させるために設定する。

 

社会がここまで来ている状況を鑑みれば、たとえば今回の選挙だけ野党が大勝したとしても、それが持続的に社会を良く変えていけるだろうか。個々人が自治意識を取り戻し、必要なものは自分たちの関係性のなかでつくりだすというところに戻らなければ、圧力に怯え、自分が世界に対峙するということを奪われた無責任で無関心で考えない個人がその潜在的不安とルサンチマンを利用され、いいように扇動されて自己破滅的方向に雪崩打つだけなのではないか。

 

ところで僕はいつもあるドッグトレーナーの言葉を思い出すのだけれど、そのドッグトレーナーはこう言っていた。

 

「犬はしっかりとしたリーダーを求めている。もしリーダーが頼りないと犬は不安のあまり自分がリーダーになろうとする。」

 

犬にとってリーダーになろうとすることは、不安に対する防衛反応だというわけだ。
この防衛反応という視点から現在の状況を見ることはできないだろうか。健全な状態の個々人の自由意志であるよりも、個々人の防衛反応が社会のこの状況をつくっていると。その場合だと、単純に多くの人に理性的な判断を求め続けることの効果はあまり高くない。理性的な選択とは、防衛反応に走らなくてもよい状態の個人が自然にとるものであるのかもしれない。防衛反応のなかにいる個人にいくら理性的な判断を求めても防衛反応を強めるだけになってしまう。それは北風アブローチなのだ。旅人はより重装備になる。

 

僕は、個々人が防衛反応に走らなくてもいい状態を先につくるということがこの状況に対する根本的な向き合いであると思う。

 

集団のなかにいなければ不安、同じでなければ不都合な目を受ける、自分の意見や気持ちを言いだせない等という、周りでごく当たり前に見受けられる反応は、既に防衛反応だと考える。どんなに多くそういう人がいたとしても、それは「普通」なのではなく疎外状況にいると僕は考える。言ってみれば疎外状況が多すぎてそれがニュートラルだと錯覚されているのが現代ではないか。

 

そこに向き合うことが必要なのだと思う。上記にあげたような防衛反応をしなくてもいい状態をつくり上げていく。同質集団でまとまるということが既に防衛反応だと感じられるようになるぐらいに。もし個々人がそれぞれを個として尊重している環境があれば、さらに同質性にすがる必要があるだろうか? 同質性にすがるのは揺り動かされ自分を失ってしまう強い不安がどこかにあるからではないだろうか。

 

人はそれぞれ違う。だがそれがなかなか認められない。好きで一緒になり、多くの時間を過ごしたパートナーとでさえお互いを自分とは全く別の文化や前提をもつ個であるとして尊重することができない。

 

ここが足元ではないだろうか。周りの人との関係性を成熟させていく力をそれぞれの人がもつ。そのことによって、ようやく個人というものは尊重され、大切にされる。これは個々人が、精神的に自立していくということでもあるが、関係性を成熟させていくということでもある。

 

個人が同質集団の一人ではなく、その人として大切されるという環境が作られる必要がある。選挙のときだけ一斉に投票してと周りに呼びかけるのは仕方がなくても、場当たりのものであって対症療法であると思う。呼びかけ方も「Aしてください。でなければBになります。」的なかたちにどうしてもなってしまう。そういう言われ方は、人は本来抵抗があると思う。

 

人に言われたから行くとか、ある人が頑張ったから行くとかは、直接的な働きかけやプレッシャーがかかっているからいってるわけで、それが一番いい状態なわけでは全くない。問題とすべきは、自分で世界を調整しようとする感覚や自信を失っていることだ。そこを回復しなければいけない。

 

どうやって回復していくのか。それはすぐ横の人、すぐ周りの人の関係性を質的に成熟させていくことだと思う。個々の人がそれぞれの意見や気持ちを表現することができるようになっていくことだと思う。

 

関係性を成熟させていくためには、対話ができる個々人になりあっていくことが必要になる。対話とはまず、同じ前提を共有しない他者と他者の間でおこるもの。そしてそれはどちらかが一方的に相手を変えるようなことではなく、互いを変えるもの。対話がおこったあとには何かが破綻していてもう後戻りはしない。

 

「どうして私はこうしているのにあなたはこうしないの!」となるのは、相手が自分と同じであることが前提になっている。もし相手と自分が全く違うなら自分がそうだからといって相手に怒りをもつことがない。

 

対話は実はすぐやろうとしてもできない。オープン・マインドでやろうとか言っても小手先の態度ではできない。上の例であれば、相手を認めようとしていても「こうすべき」という自分の前提が相手に押しつけられると頭のなかでなっているため、自動的に怒りが生まれ、それに大きく影響されるからだ。

 

対話ができるお互いになっていくということは、この無意識の前提や決めつけ、押しつけに気づいていくというプロセスを抜きには成り立たない。世間でも対話をすればいいとよくいわれているように感じるのだが、こうしようとかいう一時的な態度では対話は成り立たない。継続的な自分自身の思い込みに気づいていく過程が含まれていて初めて対話なのだと思う。

 

対話をスローガンのように受け取らず、思い込みを破綻させていくという実際の過程を含むものと捉え直す必要がある。そして対話がどのようにしたらおこりうるのか、それを発見し、蓄積していく必要がある。

 

僕が鈴鹿アズワンコミュニティに行っているのは、ここでは一度起きてしまった対立の危機を乗り越え、対話できるお互い、話しあいのできるお互いになる仕組みをつくりあげ、それが功を奏している実態があるためだ。対話しようとしても出来ないのがよくあるパターンだが、ある程度の規模がある単位で対話ができるようになる事例を僕は他に知らなかった。

 

対話とは何か。そしてどのようにしたら実際に対話ができるようになるお互いになるのか。スローガンではなく、本当にこれをやって進めていくことがこの状況に対する向き合いであると僕は思う。

 

対話については、斎藤環さんが書いた「オープン・ダイアローグとは何か」で興味深い事例が紹介されている。オープン・ダイアローグを実践している病院では、対話の研修をスタッフ全員が受けている。そして全員が対話できる状態になっているその派生的な効果として、役割による上下関係が薄れていき、誰かが仕事を抜けると一声いえば全員が有機的に動きそれを補える即興性が生まれているという。これは、対話の持つ関係性の正常化の力の例だ。

 

対話ができる関係性になるには、対話とは何かを実際に学び理解する過程が必要だ。対話は妥協点をみつけることが目的でもなく、相手を説得することが目的でもなくて、お互いのなかの思い込みを破綻させ、互いが実際に変化していくのが目的だ。対話ができるお互いになっていくことは、相手と自分を尊重するとはどういことなのかということを学んでいくことでもある。

 

互いを全く違った文化をもった個として尊重できあうようになっていくとき、そこには安心や信頼が生まれてくる。それが人と人との関係性や協働をさらに柔軟に自由にしていく。そのとき、同質性にすがる防衛反応は薄れていき、世界を自分で調整していく態度が生まれてくる。

 

それは終着点ではなく、プロセスだ。お互いがだんだんと対話できる関係性になっていくプロセスに入ること。「終着点」にたどり着くことであるよりも、過程を自分のものとして手に入れること。これが本当に社会が変わることを求めるときに必要な向き合いなのだと僕は思っている。

死の話しをシェアする場は優しい

シーカヤックで海上散骨の仕事をされている方のお話しを聞かせてもらう機会があった。


死の話しをシェアする場は優しい。本当はこんなふうに思っていたんだ、感じていたんだということが自然と話される。それは聞いている人もまきこんでこわばり、停止まっていた心の律動を蘇らせるように感じる。

 

死ということを生きているものの間に置くとき、生は相対化される。生は、生の絶対化によって疎外されている。生きるという責任を人間は本当には負いきれない。生を背負うことは人間の身に余る。死はそのことを認める契機をくれるものだ。

 

生は自分のものではなく通りすぎていくエネルギー。生の主体はエネルギーの流れであって、自意識ではない。もののけ姫のシシ神が触れたものが生を得て、そして枯れていくように、エネルギーそれ自体が一時的に媒体をまとうのだ。

 

自意識というのは幽霊のようなものだと思っている。だから弔いが必要なのだ。死者に対して弔いをしているのではなく、死者にむけているようで生きていることを弔っている。死者の弔いによって救われていくのはここで生きているものたちだ。

 

死を大切にすることは、この生をとむらうことだ。この生のとむらいこそを心は必要としている。一生をかけて人はその生を弔おうとする。それがいわゆるその人の「やりたいこと」なのだと僕は考えている。

セラピーでも、自己啓発でも、信仰でもなく。

内観に行くというと、何で行くのと聞かれることがある。今日もきかれた。

 

内観は、内観療法とも呼ばれ浄土真宗の修行方に着想を得て、吉本伊信が確立した観察法。身近な人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことの三点からみることをきっかけに幼年期から現在までを見直す。幼年期や青年期の体験を現在の大人の視点から見直すことにより自動的な感情の反応を引き起こしているような出来事の見方や感じ方が変わる。

 

内観療法 - Wikipedia

 

何でと訊かれるのも全くわからないこともない。「普通の人」は問題がない限りそういう自分を振り返るとか見つめるとかいうことはしないというのが一般の感覚なのだろう。

 

自分に問題がないといわないけれど、「普通の人」は小さいころから生きてきて自分がピンボール台の内部みたいに自動的反応や反射のかたまりになっていることには気づかないだろうか、と思う。

 

自然状態で生きていたら人は30歳とか40歳が寿命なのだとしたら、デフォルトの状態では人は「一旦身につけた反応の仕方は変わらないまま生を終える」感じなのではと推測する。一度身につけたものを解きほぐす仕組みは自然状態ではほぼカバーされていないのではないか。

 

それが自然状態じゃなくなって長寿になるとき、想定されていない事態がおこる。一度身につけたことが長く生きる際には不都合になっていったり、高コストになってくるのだ。その対応には、文化的にその状態に介入することが必要になってくると思う。デフォルトではたぶん想定外だから放っておいても変わらない。

 

こどもが大人をみたら、いっつも同じ反応だな、それぞれ違うことを退屈な感じでまとめてしまうなと感じるのではないかと思うのだけれど、ある程度きたら人はパターン化した反応の体系としてできあがってしまう。そこからは身体化したことを解きほぐし、そのパターンから脱していくということが質の違う開けを生んでいくと思う。

 

ところで僕はあんまり心というものを特別視することに興味がない。自意識が働きかけてできることなどそんな大したことじゃないと思うし、無意識とは、自意識が直接的には全く関与できないから無意識なのであって、そこを自意識で直接コントロールしようとか、感じようとかすることに意味がないと考えている。

 

無意識はそもそも相手にできないのだから、相手にするのはどこかというと、やはり自意識のほうだ。自意識のあり方が問題や何らかの阻害をおこす。自然でニュートラルな状態、自律的に整うプロセスを強制的に止め、邪魔し干渉するのは自意識だ。その邪魔のあり方、干渉のあり方を理解し害を相殺するということはできると考える。

 

もともとの自然ではなく、生後に構造化された心というのは、パソコンみたいなものだと思う。オペレーションシステム(OS)があって、アプリケーションがインストールされている。OS(=自意識)は同じことの繰り返しであってすぐ古くなる。生まれてからランダムにいれられたアプリケーションはメモリを余計に食って動作を遅くさせ、またアプリケーション間で不和をおこす。問題をおこしているのに気づけば整理したり、取り除く。

 

人とコンピュータが大きく違うのは、OSがアップデートするときだと思う。OSのほうは人が一から十まで考えて全部つくらないといけない。ところが、人のほうはOSが健全に破綻していくと自律的に次が生まれてくる。健康的に今あるOS(=閉じた思考とそれに紐付けられた反応の体系)を破綻させることが生産的であり、面白い。

 

このように、ある意味自分で自分を破綻させていくという倒錯のようなことをするのは、この自意識が文化的に構成されているものだからだと思う。文化的に作られたものは文化的なケアが必要であり、ほっとくと詰まりと滞りを派生させていく。一度人間が手を入れた人工林は継続的に人間がケアしないと荒れていく。心についてもまた同じだろうというのが僕の見方だ。

 

エネルギーが循環していることが生きていることだとする。その循環は自律的だ。何も考えなくても負担があればそれを避けるという動きが生きものには備わっている。より循環がいい状態になることを体は求める。循環は自律的にいい方向に向かう傾向をもっている。

 

体も心も大きくはこの自律的循環に従う。だから僕は自意識ではなく、循環が生きる主体であると思っている。自意識は過去を使ってしか考えられないし、過去を通してしかものを見ることができない。だが循環は自意識がそのような状態でも変化させていく力がある。

 

循環をできるだけ最適な状態にすることで、心にどれだけの恩恵がくるだろうか。生きているだけで自動的にインストールされ、心のなかで勝手に常駐して働いている余計なアプリだらけなのが普通の人の状態だと僕は思う。だからデフラグとか、アプリの削除とか、OSの更新が普通に必要だと思う。

 

それは掃除のようなケアだ。心は一時的な大きい快を求めているように錯覚されているが、実際は整うことを求めていると思う。大きい快は感じていることの麻痺に使われるだけだ。感じていることは麻痺によってではなく、そもそもの不快を取り除くだけで満足はやってくる。

 

セラピーとしてではなく、自己啓発としてでもなく、信仰によるものでもなく、自意識の掃除作業が普通の概念として位置づけられたらいいなと思う。


 

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ

 

 

人という状態

人という言葉がある一方で「人でなし」という言葉もある。人間であるのに人でなしとはどういうことだろうか。あと「鬼」とかいう言葉もあって、一つのことだけを重要視し、それ以外のものには容赦のない態度で臨んだり、切り捨てたりする。

 

 

人でない状態があるのなら、人である状態とは何を指しているのだろうか。「鬼」から考えると、周囲や世界との関係性が無視されていない状態、大切にされている状態といえるのではないだろうか。

周囲との調和性を断ったがん細胞は栄養がある限り寿命をもたず無限に増加するともきいたりするけれど、「鬼」とも重なるところのある「狂気」も疲弊せず、周りを犠牲にしながら自己増殖・自己拡大できる性質がある。周囲との関係性、調和性を無視することによって、通常でない力や推進力が生まれる。

 

 

僕は、生命は本質的にこのがん細胞のような狂気を底にもっているのではと思っている。払いきれない賠償金に暴走した国家があったように、過剰なストレスによって、何が何でも生きようとする力が周囲との関係を断って独立し暴走する事例があらゆるところにある。

 

 

この狂気を底に持ちながら生きるということが成り立っていると思う。狂気とは火のようなものであって、自己増殖するが常に他者に依存しその栄養を消費する。

 

 

生がその推進力を維持するために狂気を内在させていることはおそらく欠かすことができないことだけれど、同時にその本質的傾向は自滅的でもある。がん細胞が宿主まで殺すように、その底にある傾向は周りからも調整されることによってようやく自滅せずにいられる。狂気それ自体は別に消滅を恐れていないと思うけれど。

 

 

がん細胞以外の細胞は寿命があるわけで、そう考えると調和ということが突き詰めれば一時的なものであって、持続には疲弊がともなうものだととらえることもできるかと思う。

 

 

ここで話しは最初に戻って、人というのは種としてのヒトのことではなくて、調和性、周りとの関係性が取り戻された一時的な状態のことを呼ぶものであり、それは常に調整や状態の更新が重ねられることが前提とされたものだと思われる。

 

 

孤立化した個として固まりになり鬼化しないためには、周りとの関係性が断たれず、そこに支えが流入し続けていることが必要なのだろうと思われる。それと同時に既に固まってしまったもの、鬼化したものが解けていくためにも、必要な周りとの関係性がとりもどされていくことが欠かせないだろうと思う。

 

 

人と人であるとき、解けていくものがある。人という状態は、既にあるものではなくて常に作り出されるものだと思う。常に作り出され、調整され続ける関係性のなかで、心は循環し更新されていくと思う。

他者としての自然

人は地球の自然のなかで生まれてきて、人工物も自然の加工にすぎないのなら自然に全て依存している。自然は生きものを育んできたが、宇宙からみたら、地球の自然のなかにいるものは外から意思を持った誰かに守られているわけでも、滅びないように予定されているわけでもない。

 


生命の発生という、勝手におこったことが展開したけれど、その展開には保証がなく、ゴールがあるわけでもない。いってもみれば存在としての生きものは、今のように産み捨てられて圧倒的に放って置かれている。全ての恵みを与えてくれる母なる自然は同時に全くの他者としての自然でもあって、後者をあえて擬人化してみたら、滅ぶのも含めてどうにでもなるようになれば?別に関係ないし、という感じだ。

 

理性があれば人は自分たちの活動による自滅から身を守れるかというと、それは希望や願いであって、それも何の保証もされてない。地球の自然にできるだけ従えばいいというのは、予想できる範囲で滅びをより緩やかなものとしようとする緩和策・延命策なのであって、生きるという問題の根本的な解決策ではない。そもそも根本的な解決というような考えがそぐわないけれど。

 

どんなに素晴らしい延命策が提案されたとしても、突き詰めたところで、こうすればいいというのはない。そこに自由の根拠があると思う。純粋な間違いはもう一方に純粋な正しさがないと存在しない。究極的にはどのようであっても赦されているというのは、生きものを包みこむ自然が全くの他者であることによると思う。

 


思うような未来がこないことへの自暴自棄は、未来を取引の対象としてとらえ、取引の代価を払い続けている現在への反動として現れる。調和を「熱」望することのなかには、何かの無視や抑圧がある。高揚をたきつけて自分や人に何かさせることは、無自覚な分だけ暴力性が高い。

 

生きることのもともとの保証のなさ、方向性の持てなさを受け入れることのほうが、結局は現実的に、人にやさしくなるだろうし、自暴自棄になることもないと思う。生きることのささやかさに戻るとき、失うようなものはそもそも持ってもおらず、それにも関わらず与えられたものが感じられてくるのではないだろうか。

高槻の生命誌研究館に行ってきた 

木曜日は高槻市生命誌研究館に。

鈴鹿の人たちが来るというのでご一緒させてもらう。

 

www.brh.co.jp

 

先について入ろうとすると自動ドアが開かない。あれと思って横の手動のドアがあくのかと思って移動しようとすると中のスタッフの二人が出てきてくれて開けてくれる。古いから反応しにくいとのこと。仕事の役割としてやっているという感じじゃなくて、素の人として迎えてくれている感じだった。その後の案内でも、本当に自分がこのことを紹介したいという感じがあって、とても印象的だった。ここもたぶん素のままでいれる職場なのかなと思った。

 

僕は人間や自分のことを考えるにあたって、自然とは何かとか、生きものとはどのようなものかということをよく参照する。生きもののありようの多様性が新しいものの見方を提供してくれる。

 

ある考え方が行き詰まるとき、あるいは他の考え方と矛盾して膠着するときは、その考え方の前提に誤りがある場合が多いと思う。生きものや自然のあり方をみると、それらは既に答えを生きていて閉じた行き詰まりに穴を開けてくれる。行き詰まりを開くためには、別に何から何まで含めた全体を知る必要はなくて、今の行き詰まりを支えている考えや前提を成り立たせなくさせるだけでさしあたりは十分だ。あとはそこから確かめて押し広げていけばいいだけだから。

 

世間でもっともらしく言われていること、押しつけられることを自然はこえて存在している。だけれど自然の表面上のことだけピックアップして歪め、「自然は」こうだからと人間の抑圧に使われる場合も多い。優生思想などはその典型的なものだ。優れている生命が「正しく」劣等なものは排除されるべきである。自然はそうだからとこじつけるわけだ。

 

森岡正博さんによると、日本でもこの優生思想に基づいて1996年まで人工中絶が規定していた。優生保護法の第一条は次のようになっていた。
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm

 

ーー
第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする
ーー

 

不良な子孫というこの文字は、障害者団体の長年の運動によってようやく改正されたという。このような思想が生まれる基盤を提供したのがダーウィンの進化論だ。生き残ることと優生思想には密接な関わりがある。

 

自然界は適者生存。ある環境においてより優れたものが生き残る。だがそれはただの結果であり、「あるべき姿」とは何も関係がない。生き残るものが生き残ったというだけだ。それをあるべき姿として積極的に利用する優生思想は歪んでいる。もしそれが本当の理なら、何も意図的にしなくても自然にそうなるわけで、積極的に中絶したり、民族浄化を行う必要はない。自らが自然の代弁者、代行者として、弱者に配分される資源を奪う。要はその奪いをしたいわけで、自然は正当化の理由、こじつけにすぎない。

 

障害が今自分にはない人は想像しにくいのかもしれないけれど、自分の役に立たない人はいらないと言われる環境で心をもった人間が人間らしく生きていけるだろうか。明日何らかの病や障害をもち、役に立たなくなれば途端に終わりだということがわかっている社会は生きづらい。

 

人は人の役に立つ間だけ存在していていい。そういう社会に誰が生まれてきたいだろう。だが、自分がやらないならば、誰かが作物や動物を育てなければ生きていけない。その人たちに働いてもらわないと生きていけない。生きるために必要なことを成り立たせないと生きていけない。だから生きることを絶対化したときには、他者の抑圧も許可されるものになってしまう。

 

生きるということを単純に「いいこと」、「素晴らしいこと」、「当然のこと=他者に強制できること」と前提したときに弱者抑圧は自然に派生する。生きるというのは単純に良いと悪いとかを決めて高をくくってしまえない業の深いことだと思う。生きるということ自体を絶対化して検討の外に置くのではなく、相対化する視点が必要だ。

 

自然は地球の生きものの全てを産んだ母であって、同時に生きものが生き続けることな
ど意も理介さない理屈で動いている他者だ。地球の自然を小さく定義するなら人間はそこを逸脱したのだろうし、宇宙をふくめた自然を想定するなら、原発であろうが遺伝子組み換えであろうが、あるものが可能性を展開しただけ。そこではどこまでいっても自然でしかない。ただ生きものに都合がいいか悪いかということがあるだけ。良い悪いは生きものの世界にしかない。

 

だが宇宙をふくめた自然にとっては、生きものなどもともとあるものの一時的な形態に過ぎず、生きたからいいとか死んだから悪いとか何もない。その視点からみるとき、生きものというのは産み落とされ、置いてけぼりにされた孤児であって、生とは儚い夢のようなもの。優生思想が求める優秀さ、能力の高さなど、この儚さのまえに意味がない。全ての生きものは、もうおいていかれているのだから。おいていかれたものとしてあるとき、やさしさは生まれる。意味の無さを獲得することは、有用性から人間の心が疎外されることを終わりにする。

 

進化について書くのを忘れていた。

 

生きものは自分から求めて進化しているだろうか? そこを見ていくと、進化というのはどちらかというと仕方なくおこっていると理解したほうが筋が通るように見えてくる。海の競争の圧に耐えかねるものたちが陸にあがり、そしてそこでも生きるための圧力が高まっていけば生きものは空へと繰り出した。生命誌研究館の進化の展示が面白かったのは、魚類→爬虫類→哺乳類→鳥類という順番にされていたところ。

 

生きものが自分から進化したいものだとか、進化する自律性をもっていると見なすのと、環境の変化に対して仕方なく進化しているとみなすのかで、生命観は真逆にもなるだろう。そして今の社会の強迫はあきらかに前者の見方によって生まれている。しかし生の実態が後者であるならば、まるで倒錯的なことをやっていることになる。

 

進化とは生きものの死にきれなさがおこすものだと思う。
そしてもともとある死にきれなさを人がさらに利用して、恵みを自分のもとにかき集めようとしているのが今の社会ではないだろうか。死にきれなさは業だ。それに飲み込まれ支配されるのか、それを逆手にとり、生きながら生を超えていくのか。後者は生に対する反逆だ。しかし、この反逆のなかで心は生きる。この反逆のなかにやさしさが創造される。

「意味」の空白地帯 学びを取り戻すために

たとえば、学ぶということが生きものにとってもともと備わった行為だと考えるなら。なぜ人間以外の生きものは学校に行かなくてもいいのか。色々な考えかた、こたえかたはあるだろうけど、生きるという、まさに軸に関わることにおいては、生きものは自ら学ぶからだとこたえることもできるのではないだろうか。


この自分が生きるという軸においては、自ら学べる。当事者はその当事者性において学ぶ。生きるということをやっている当事者は、生きるということを自ら学ぶ。
学ぶとは、取り入れることによって、もともとあったものを取り去る行為であり、更新の行為であると思う。取り入れることはいつも取り去るための便宜上の方法であって目的ではない。

 

生きるものは、生きることのプロになるために動機づけられており、そういう身体を持っていると考えてみるなら、経済行為のプロ、職業としてプロになるということは、もともとの動機づけを転用したものととらえることができるのではないか。

 

職業のプロになることが当たり前になり、当然のこととして求められるようになった時代に、この自分が生きることと直接接続されることがないことに発達を強制され、自分が生きること自体の方に活用されるはずだった、もともと持っていた潜在的能力を自分以外の誰かにとって有用なように発達させられることは、社会による、生きることの搾取であるとも考えられないだろうか。

 

大きなシステムのなかで、断片化した能力として位置づけられる個人は、そもそも自らが生きることに直接投資できたはずの潜在的資源と能力を奪われ、いざシステムが機能不全になったときに自律的に生きる力を疎外された無能な存在として野に放り出される。

 

生きづらさというものが、もともと備わっていた能力や自律性を疎外された状態から生まれると考えるなら、その疎外を脱するための環境をこしらえる必要がある。身体化され、当然のものとして一体化した価値観、認識、そういうものをとっていくための環境をつくる。そのときの環境は、お金のかかる建物とか設備とかのハードであるよりは、そこにある人と人との関係性のほうが重要になってくるだろうと思う。

 

人や社会にとってどれだけ有用であるか、どれだけ認められるかという「意味」から自分がニュートラルになる場所が、その一体化を脱していく場が必要だ。何かが「素晴らしい」とき、素晴らしくないものがその背景として必要になる。何かを「素晴らしい」というとき、素晴らしくないものを同時に実体化させ、つくりだしている。

 

よって、価値があるものをつくりだすのではなく、有用性としての意味の空白地帯をつくる。意味を相殺し、ゼロにする場、一瞬をつくる。それはもちろん厳密には存在しない場だけれど、人のなかの自律性は間隙を縫い、事実と事実の合間のなかで、そのゼロを体験することができるのだ。