降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【報告】浜松のクリエィティブサポートレッツに行ってきた

浜松のNPO法人クリエイティブサボートレッツの1泊2日のツアーに行ってきました。

 

レッツは、武道家で臨床心理士の田代順さんからぜひ行ってみてくださいとおすすめされていたところ、今回陸奥さんのツアーがあったので早速申し込みしました。浜松はアズワン・コミュニティ経由のご縁でトランジション浜松も訪れてみたかったので行く動機は強いところでした。

 

 

夜はサマフェスというイベントがあったのですが、1日目はほぼ自由時間でその時間をどう過ごすかは自分で決めるという最初から自分が問われる感じ。研修とかいうことだとやることが決まっていて、自分がどうであるかというのはあまり気にしなくていいのですが、自分がどうしたいかというのが問われる場だなと思いました。

 

 

こういう時、大抵は僕はただ固まっていますが、固まりつつも、場の空気感はちょっとずつ感じていたかなと思います。場はピリピリした感じがなくて、スタッフも利用者も自然体で過ごしている感じ。自分もバイトで知的障害のある方と関わってはいますが、ここで初対面の利用者さんたちの状態がどうかというところまで感じ取る目がなくて、爆音で音楽やっているときの様子がすごいいい顔で笑ってたなあぐらいでした。

 

 

どちらかというとスタッフの方たちの感じのほうが比べたりできるので感じやすかったです。スタッフの方たちは、役割としてそこにいるよりも、個人としてのキャラが自然ににじみ出ているという印象を受けました。それはこの場の人と人の関係性のフラットさの結果なのか。自然体でいるときの人は、奥行きがあるなあと思います。

 

http://cslets.net/hotnews/news-666

 

100時間ツアーというのは、その場を体験するのにいい仕組みだなと思います。観光ということで、旅人としてそこにいる。旅人というのは、通りすがりの日常の役割に組み込まれてない、どっちつかずの存在です。そういう存在としてそこにいる。

 

 

支援者だとか、ボランティアだとかという守りにもなる役割がなく、ただそこにいるということは、なかなか難しいことなのですが、役割を通して経験することはなぜか「自分の経験」にならないのですね。同じ体験をしても、自分を変える経験にならない。そういうことではあんまり意味ないなと思うのです。役割ではなく、自分として経験する。その時に認識が本当に変わっていくように思います。

 

 

僕は、福祉とは何であるか、アートとは何であるかはわからないのですが、その場にある見えない関係性の状態がどのようであるかということが人の変化にとって大きな影響を及ぼすということにはずっと関心があって考え探っています。場を媒体をどのように設定するか、あるいは人が操作できないところを含めて場や媒体どのように設定されているかによって、その場でおこることが決まります。

 

 

何か面白いことがおこっているということは、自律的なものが間隙を縫って現れてきているということだと思います。自律的なものが現れる場に必要なのは自由さ、お互いの関係性のフラットさ、価値や意味の有無が既に決定されていないことなどがあると思います。逆に言えば、自律的なものが展開するのをいつも邪魔しているものがあって、その干渉をとってあげる必要がある。邪魔しているものは、かたちのあるものであるより、手で触れない「意味」や場の上下関係であったりするので、それを相殺するのは工夫がいります。

 

 

健常者は、障害のある人に比べて、物理的にできることが多く、きちんと自己一致しているかをおいて、場に身体を適応させ自動的に馴致させてしまいます。しかし、その盲目的に馴致する能力は自己疎外的にも働きます。自分自身のフィット感抜きに自分が動いてしまうことで場をしのぐことばかりしていると、自分が何であるかわからなくなり、糸の切れた操り人形のように破綻的で統合を失った不健康な状態になってしまう。

 

 

相模原の事件があったように、障害がある人が何で生きているのかと思っている人はネットを見る限りではある程度いるわけですが、なぜそのように人の命まで操作したいぐらい強迫的なのかと考えれば、そう思う人は既に追い詰められているのだということ見えてくると思います。なぜ追い詰められているのか。脅かされているのか。

 

 

それは人にとって自分が有用であるとき、自分には価値があり、有用でないとき、自分には価値が無いという規範を自分のうちに取り入れてしまったからだと思います。これは大抵環境から無自覚に取り入れられるものだと思いますが、この取り入れによっていつも存在が脅かされています。自分は脅かされながらも必死で有用であるように苦しい仕事などしながらようやく生きているのに、自分が裁かれているのと同じ価値基準によって、裁かれていない人がいる。自分は被害者であり、裁かれていない人は加害者であると感じられます。

 

この認識を取り去るには、身体化され、無意識化した自分の認識が揺り動かされる必要があると思います。無意識に取り込んでしまった規範を意識化させ、破綻させること。これが必要になります。

 

 

障害のある人と水平な関係性で同じ場を共にするとき、障害のある人には自分が常識としている内なる規範が通用しないということに否応なく突きつけられると思います。それによって葛藤し、問いが投げかけられた自分の認識を再吟味するなかで内なる規範(たとえば「人はこうあるべきだ」とか)が破綻すれば、救われるの自分自身です。その時、被害者であった自分が終わり、それにともなう怒りや惨めさの感覚もとれていくのだと思います。

 

 

レッツのこの100時間ツアーが企画されるのきっかけになったのは、
以前、レッツで学生合宿がされたことがあり、そこで学生たちが全員ではないにせよ大きく変わっていったということがあったことだったそうです。

 

 

研修でもなく、仕事でもなく、ボランティアでもなく、役割の鎧に守られていない素の自分としてその場にいること。そしていかにそれを自然に成り立たせるかというところが、工夫やデザインのしどころなのだと思います。

 

 

レッツでは「かたりのヴぁ」という哲学カフェも行われていますが、僕もこの哲学カフェという手法、場づくりのあり方に関心をもっています。哲学ということで、既に前提にされているような価値や習慣をもう一度ゼロにして問う。人を停滞させているのはやはり内なる規範であって、それは意識化され、吟味されることによって変化をおこします。普段の日常の場では、言い出せないことも言える場。それが哲学の場ではないかなと思います。

 

 

僕は心理の大学に行ったりしてどうしたら変化がおこるのかを探ってきたのですが、とても重要な要素としてフラットさがあると気づきました。贅沢をいえば「治療者と患者」という上下間があるとそれも変化の停滞要因になる。また「治療」という時点でもう「治るべき」という価値の序列がしっかりと場にしかれていて、それが変化のプロセスに入ることの邪魔をする。「べき」を感じさせない場が工夫できるのであれば、それに越したことはない。僕的には「成長」とかも「治療」と同じ構造で人を停滞させるので、「成長」とかそういう望ましそうな価値観や言葉からも自由になるのが一番いいと思っています。

 

 

そういう時、哲学というのはフラットに内なるものをプロセスしていける媒体として適していると思うのです。いかにフラットを成り立たせるか。レッツはそれがとても意識された場所だと思います。

 

 

1泊2日ツアーで31時間分のスタンプを押してもらいましたので、また残り69時間を消化していきたいです。