降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

思考の更新は環境を必要とする

自分や状況を変化させていくにあたっては、世間で言われていることとか、それはそういうふうになっているというような建前はともかく、実態はなんなのかを掴んだ言葉が必要だと思う。

 

フレイレは、言葉は実践によってより妥当なものに更新され、その言葉によってまた実践が更新されるという指摘をしている。実態の核をとらえていない空虚な言葉では、実践もまた空回りする。実践による言葉の更新、言葉の更新による実践の更新は両輪であり、ずっと続いていく。

 

フレイレを知る前から、実態に即した言葉を使わないと思考は同じところをぐるぐるまわるばかりだし、どこにもいけないと実感していた。使う言葉を更新していく。実態の核をよりとらえる言葉にしようとする。

 

読書会で、フレイレ、ファノン、マルコムXなど、50年前の思想が今の日本の状況にあてはまるという指摘がでた。ようやく、現実を、実態をみることができる時代になったのかと思う。それまでは、社会の抑圧状況はなんとなく見なければ見なくてすみ、否認できるものだったのだと思う。

 

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たとえば日本はアメリカの植民地だといった時、どれだけの人がそれが別に過激でも、極めて強いバイアスがかかった特殊な意見でもない実態をいっただけだと受け取るだろう。

 

日本は独立国だ、というのは実態からは乖離している。実態から乖離しているものを前提に話されたことは、実際を変えない。実態を糊塗することによって、関わらずにすみ、考えずにすむほうが生きやすいのだ。その先にツケが待っていたとしても。

 

植民地だというのは一例であって、ありとあらゆる欺瞞に囲まれた日常がある。「迷惑をかけるな」というのは、その欺瞞を暴くようなことはするな、ということでもある。

 

日本の高度成長は自分だけでできたのではなくて、朝鮮戦争の特需によっていた。東ティモールでも苛烈な人権侵害する側を利権のために積極的に応援していた。いわゆる日本の豊かさは国内外の見えない誰かを踏みつけにして、犠牲にすることによって成り立っている。今もまさにそうだ。

 

そういうことは考えたくない、見たくない、そうだと思いたくない。今の安定を壊すものを受け入れたくない。

 

政治的なことをいう人はうさんくさい、活動とかしている人は変わった人だ、というごく「一般的」な感覚。

 

実態の核にせまる言葉は、無難でないために、自分を揺るがされるために忌避される。そして多くの人がそれにならうとき、思考は止まる。何かがおかしいと思うひとも、あまりに多くの人がそれを当然のように信じ、受け入れているところでは、それ以上思考を展開していけない。

 

311より前に、京都自由学校のスタッフになった人がどうしてスタッフになったのと聞くと、ここでは原発の話しをしても大丈夫だからとのことだった。日常では、原発の話しをする人はおかしな人であり、やや危険な人ですらあるのだろう。

 

原発のことがおかしいと思ったり、もっと考えたいと思ったとしても、周りが政治的なこと、社会的なことを話す人はどこか変だとしていれば、その人の思考は展開できず、ずっととどまったままだ。それならば皆と同じように、見ず、聞かず、考えず、そしてとうとう自然に気づきもしなくなるほうが生きやすい。

 

感じていること、考えていることは、「世間の常識」によって展開をはばまれている。現状を見たくない、知りたくない、関わりたくない、強烈な否定の動機によって「偽りの当たり前」が支えられている。そしてその抑圧のもとで、健全な違和感や思考の展開の芽は摘まれていく。「偽りの当たり前」は何十年でも維持される。そして変わらないものは腐敗していく。それが今の現状なのだろう。