降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

物語 時間の外部化の機能をもつものとして

DIY読書会で物語についての発表があった。

 

いしいしんじ、山極寿一、藤原辰史、竹宮惠子『「物語」はどうつくられるのか』という企画から。

 

物語とは何かとあらためて考えてみた。それは時間の外部化であるのかなと思った。

 

DV加害者の更生プログラムで一番最初にその人が暴力をふるった記憶を呼び戻し、その記憶をもう一度仔細に観察するというワークがあるそうだが、それは言い換えればその時から止まった(繰り返しをしているわけだから。)時間を動かしているということだと思う。

 

自意識は過去の記憶の集積でできていると思う。だから、世界の見え方、感じ方はそれが更新されるまで同じように体験されるし、ある刺激に対するリアクションも同じものとなる。自意識は時間の止まった世界のなかにいる。

 

それはもう決定されてしまった世界であるともいえる。そこに時間を流すためには、時間が止まったその時点に戻り、そこで体験をし直すことが必要であるようだ。

 

ところが、だいたい日々のなかで焦点をあてられ、記憶の更新がされるのは目の前のことだけになる。幼い頃などの記憶などが想起され、再体験される機会はあまりない。しかし、自意識は過去の記憶の集積でできているので、止まった記憶の影響はずっと残り続けている。

 

20年生きたとしたら、デフラグ(断片化したデータを、可能な限り連続して配置・整理し直すこと)されていない20年分の記憶があって、それが世界を彩り、意味づけている。心にとってはたとえば昔いじめられた経験なども現在にある。多分、心に時系列などないのだ。死者もまた残った記憶として現在に存在する。影響は大きい。かつての場面が目の前に現れることがないなら、そこで止まった時間は流れることができない。だが影響を与えてくる記憶を変化させるためには、その時間が止まった瞬間に戻らなければならない。

昔や幼い頃の場面などは日常では再現されにくいのだが、物語はそれを可能とする。物語を媒介させることによって、現在をこえて、それぞれの時点で止まっていた時間に立ち戻り、それぞれの経験に時間を流すことができる。物語は時間が外部化されたものだと思う。ここでいう時間は「変化をおこすもの」ということになるだろう。