降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

鶴見俊輔の親問題 ネットから

はてなブログの右上端のリンクから検索をかけると、結構マニアックな言葉でもヒットするのに最近気づいた。本の題名などで検索してもGoogleだとアマゾンなり楽天なりのリンクが上位にくる。そういうのがない。こういうふうにいつも同じものが引っかからない複数の検索エンジンがあればいいなと思った。

 

鶴見俊介の親問題をネットから検索してみる。

d.hatena.ne.jp



昔、鶴見俊輔先生が、「オヤ(親)問題」ということばをよく使われていた、ということを知った。

鶴見先生いわく、オヤ問題とはなにか、それは「解決しなければ生存していけない」問題のことらしい。わたしはその表現はたしかにわれわれが若い頃ぶちあたった「存在問題」をうまくいい得ていると感心した。「生存」といっても、それは動物的な生存のことじゃなく、人間的、つまり精神的な「生存」問題である。


むかし「カラマーゾフの兄弟」を読んだとき、次兄のイワンが「大審問官」という自作の詩劇を弟に語るシーンがあった。そこに新訳聖書の最初にある悪魔がイエスに三つの質問をし、イエスを試す話が出てきた。そのなかに悪魔がイエスにする質問「おまえがもし神なら、なぜパンをたくさん神の力で作り、飢えた民衆に与えないのだ?」と謎をかける。イエスはどう答えたか。有名なフレーズ「人はパンのためにだけ生きるのではない」

 

 

blog.goo.ne.jp

 

「私たちが生きていること、やがて死を迎える自分の問題を探し当てることを学問のひとつの道と認めるならば、そこに育つ学問は民間学である。」(『民間学事典』「刊行の言葉」)/字義どおり読めば、民間学は、「親問題」を探し当てる道として成立する、と述べられている。だが、そのためには、これまで述べてきたように、「子問題」に専心させられてきた(現に専心させられている)没主体としての自分を認識し、その状態からの離脱を目指すことが不可欠である。自らが生きて「いま・ここ」において感覚している世界に軸足を置きなおすことが必要である。これを鶴見俊輔は、「学びほぐし」という言い方で表現している。受けとらされた既成のセーターを一度ほぐして糸にし、自分のからだに合ったものに編みなおすという例で鶴見俊輔はこの言葉を説明している(『教育再定義の試み』)。問題探し、問題づくりの主体を自分に取りもどす基本的作業のことである。/現代において、民間学とは、「親問題」の取り戻しのことである。右の鶴見俊輔民間学の定義は、自分という固有の経験(痛み=『教育再定義の試み』)を問題の起点として大切にするゆえに、このような主体の取りもどしを不可避のものとして要請せざるをえないのである。(前掲書 八一~八二頁)

 

 引用中に「親問題」「子問題」という鶴見俊輔の用語が出て来ます。「親問題」とは、人の生涯において投げ込まれ、それを探りあてようとして、取り組むことになるはずの「自分の問題」を意味します。また「子問題」とは、簡単にいえば学校が要求する「いい子」になるための問題のことです。鶴見俊輔にとって「母親」問題はぜひとも解決しなければならない人生問題であったこと、また両親は自分を生み出す母胎であったことを鑑みれば、この二つの用語の必然性を納得はできます。しかし、直感的に分かりにくいと思われるので、私なりに言い換えておきます。「親問題」とは生涯における切実な「自分にとっての問題」のこと、「子問題」とは学校がおしつける「学校にとっての問題」のことです。

 

www.caresapo.jp

 

1999年にKBS京都が企画・制作したテレビ番組「鶴見俊輔の輪になって話そう」で中学生らとともに様々なテーマでやりとりする「寺子屋」のような機会が13回設けられました。この内容は、晶文社の『みんなで考えよう』シリーズ全3巻にまとめられています。

 この中学生たちとのやり取りの中で明確になったことは、「教師が自分をふくめての問題を出してこない点」にあり、「親についてもそうで、親が子どもをふくめての自分として、人生の問題を問うことがないということ」でした((1)鶴見俊輔著『教育再定義への試み』、115頁、岩波現代文庫、2010年:(2)鶴見俊輔著『大人になるって何?-鶴見俊輔と中学生たち(みんなで考えよう3)』、晶文社、2002年)。

 「親問題」とは、「自分が取り組んでいるもとの問題のこと」で、「人は生きているかぎり、いまをどう生きるかという問題をさけることができないでしょう。生きていれば、そこに問題がでてくる。どうして、生きているのかなってね。自分で、そう問うことが、問題をつくることが、『親問題』」なのです(前掲書(2)、73頁)。

 「今を生きる」ことを教師・親と子ども・青年が共有しているのであれば、教師・親は自分と子ども・青年を含めての「親問題」を設定するのが当前のこととなるのですが、なかなかそれをしていない。自らを自立した尊敬されるべき大人として子ども・青年に対するのですから、自分のことを脇に置き、子ども・青年を教育の客体としているのではないか。

 だから、中学生たちとのやり取りの中で、教師・親に「子どもから何を学んだか」と問いかけることを中学生に勧め、その問いに対する教師・親の答えの多くが「ない」という事態にあることを明らかにするのです(前掲書(2)、11-69頁)。

 教師や親が自らを脇に置いて子ども・青年に対する姿勢と、自分と子ども・青年を含めての「親問題」を設定しない点に、教師・親が子ども・青年と「共に今を生きる」ことをしていない現代教育の深刻さをみてとるのです。そして、このような「親問題」を常に作り続けてきた鶴見さんだからこそ、大学の職を辞してでも、反戦平和や大学への公権力の介入に対しての行動を起こされたのでしょう。

 「自分をふくめての親問題」をつくれない弱さについて、鶴見さんは日本の知識人に対しても指摘していたように思います。『戦時期日本の精神史-1931~1945年』((3)鶴見俊輔著、岩波書店、1982年)で考察された「転向」概念がそれに深く関係するものです。

 

検索のついでに発見した尾崎光弘さんのブログは密度が濃いなと思った。しかし2017年から更新されていない。在野学の冒険というのも読んでみようと思う。

 

在野学の冒険―知と経験の織りなす想像力の空間へ
 

 

僕が自分の考えてきたことには学問的根拠はない。あっちこっちからもってきたものの切りはりのコラージュだ。サバイバルのために妥当だと思われる知見にたどり着いたと思ったら、得たことを基盤にまた仮説をたてて次の水準の理解に行く。その繰り返しをしてきた。

 

精神は、自律的な気の循環によって成り立っているようなもので、自然とその循環の回復を求めるとか。気なんか本当にあるのかとか、そういうことを生きている当事者は確かめている暇はない。生は止まらないのだから。本当にあるとかどうとか知らない。これは現実に対して機能する考えや判断を提供するためのモデルなのであって、そう考えることによって、より多くのことが説明され、妥当な判断ができるようになるものを採用しているのだ。

誰かが言ってるかもしれない。既に確かめられ、否定されているかもしれない。しかし、その論文なり何なりにたどり着いてないのだから、生きていくためには自分で考えるしかない。

僕が考える根源的苦しみに動機づけられる人間の理解と鶴見俊輔の親問題はほぼ同じ問題意識だと思う。自分で考えて勝手にやっていると人と共有ができないから、考えをやりとりするのが難しい。鶴見俊輔の親問題の話しならある程度は応答が期待されるので人とやりとりしたかったらそっちも取り入れる必要性がある。自分の考えも再点検されブラッシュアップされるというメリットもある。