降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

生の震え ウルトラクイズから外れて

昔、ウルトラクイズというTV番組があって、多人数が参加してどんどん数が減っていって勝ち残った人がアメリカを横断していくというのがあった。序盤で人数が多いときは、マルペケクイズで、正解だと思うほうにそれぞれ分かれるのだが、不正解だとそのグループは全員失格。うわーと声をあげながら、わからない人は運にかけ、それぞれに分かれ、正解のアナウンスを固唾をのんで待つ。

 

勝ち組、負け組という言葉に僕がもつイメージは、そのウルトラクイズだ。正解すれば、賞金にむけた次のトライアルが待っている。負ければその場で終わり。ただ消えていく。

 

勝ち組にとっては、いつも目の前に正解が待っています。正解は自分が知らなくても、あらかじめ用意されている。正解のあかつきに得れるものは目に見える。正解にどのように近づくか、それがいつも問われている。正解、正解、また正解と社会が提示するチェックポイントをこえ、階段を上がっていく。

 

負け組とは、社会が提示する終わりのない階段の途中で止まっている人、あるいは降りている人だろうか。勝ち組には、これが勝ちだという決まったステータスやセオリーがあり、そのステータスのなかにとどまり、セオリーを遵守することが求められる。またその維持のためにも能力や条件がある。負け組は、あらかじめ決まったステータスにとどまることやセオリーを遵守することが、自分がもつ条件の不足のせいでできないか、あるいは嫌かのどちらかだ。

 

ところが、運良く勝ち組に入った人もそれが自分の力で維持できるとは限らない。老い、病気、事故、社会状況の変化など自分が変えられない条件によって、昨日まで勝ち組だった人が今日は負け組になる。勝ち組は心の底でそのことも知っている。だからこそより勝たなければならない。しかし、自分の力のみで勝ち組に留まり続けることはやはりできないのだ。「正解」は、自分ではない社会によって、自分と関係なくいつも決められるから。あわせきることはできない。

 

自分とは関係ない「正解」がいつもあり、それが至上の価値であるときには、そこに自分はいない。自分は正解にそっている間、価値があるのであり、そこから外れた自分に価値はない。誰もが勝ち組に入り、維持することを望むけれど、「勝ち組に入ろう」とするということは、「正解」のために自分を売り渡し続けるような行為でもある。

 

一方、負け組になったほうは勝ち組になることを全くあきらめ、自分らしく生きられるかというと、そう簡単にはいかない。負け組と認めるふりをしながら、勝ち組に憧れる。さらには本当に認めたからといって、そのことによって何かを与えられたり、保証されるわけでも全くない。

 

負け組になったほうは、すごろくの外の世界にぼーんと放り出されるだけだ。行く道も行き方も価値観も全て自分で創りだすことによってしか、生きていけない世界にただ放り出されたというだけだ。これは、見ようによっては非常に残酷なことだと思う。

 

でも、勝ち組になろうとしていたときに「正解」にあずけていた中心を自分のほうに取り戻していくことは、許されている。自分と関係なくあった「正解」、自分が隷従するしかなかった「正解」を自分の外の世界から自分のほうに引き戻すことができるようになる。明日のために今を売り渡すことから、明日無き今のために生きるという別世界への開けがおこってくる。

 

勝ち組であれ、負け組であれ、人は誰もが明日死ぬ可能性を排除することができない。その意味で、人はその底で誰もが明日無きところに生きている。どのように確実な選択をしたところで、それが全く意味をなさず、あるいは裏目に出る場合もある。生は、そして自然は、人間という小さな存在にとっては不条理だ。

 

誰もが次の瞬間、全ての光を奪われ、意味が失われる世界にいる。たそがれに生きているのだと思う。そこは、勝ち組という価値観にとっては絶望的な世界そのものだろう。確かにそうだ。しかし、世界はそのようにある。

 

だがその時にこそ、生の震えはまざまざと体感されないだろうか。全て消え行くものへの共感が生まれないだろうか。全ては一期一会であること。それはもうただの論理的な帰結では無くなっている。

 

たそがれのなかに生きていることを知ること。人間の勘違いと過ちは、全体としてはもしかしたらもう止められないかもしれない。しかし、生きることを自分に取り戻す余地は残っている。この荒野のなかで。

 

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