降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

生きていくやりくり 媒体の支配を排して

 

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自分が畑で育てたものを食べる難しさを時々相談される。畑でできるタイミングと食べるタイミングがあわない。収穫しても外食すると食べれずに悪くなったり。 僕も料理が得意でないので、野菜炒めの頻度がやたら高いとかある。あと精米機をもっていないので、工夫しないと玄米ばっかり食べるのがちょっと疲れたなとか。作物ができても、自分が食べやすい料理につなげれないと余計疲れるなと思う。気分のめぐりが滞る。 元気になるためにやっているのに、本末転倒になってしまう。 

 

新しいもの、学び始めのものとどう付き合うかは難しく、少なくとも一旦はそれまでの自分の勢いを削がれるんじゃないかなと思う。新しいことをやるのは、最初は気分的には何かが変わる感じ満載で楽しいけれど、それは投資の段階なんだと思う。それに続く運用こそが本番で運用していかないと元のお金も減っていく。 そういう意味で、むしろかなり危機感をもっていいんじゃないかと思う。ああ、種を蒔いてしまった、しっかりしないと危ないな、と。 発芽しなければ、がっかりして気持ちが下がる。蒔きすぎて出過ぎると処理が大変。無理にそればっかり育てても消費できずに疲れるし、他の作物が育てられない。危険ばかり。自分を殺すものは何か、勢いを削ぐものは何か、真剣に考える必要がある。

 

やった結果で、自分が元気を失うというようなことになるのだけは絶対しないと最初から決めておく。作物を育てるというのは、生きていくやりくりの一部分。やりくりの一つとして作物を自分でつくるということがあるので、それが他を圧迫したら問題がある。自分のエネルギーを減らさないためには、一つのことを暮らしに取り入れるとき、それに連なる全てのことの意味が変わることをあらかじめ覚悟しておく必要があると思う。

ある手段、媒体を利用することは、同時にその媒体に身を預け、支配されることでもあると思う。影響され変えられる。「うしおととら」に出てくる、妖怪を倒すための獣の槍は使いすぎると、主体が槍とが一体化して獣になってしまう。一念の奴隷になり、妖怪を殺すこと以外のあらゆる文脈を失ってしまう。自分と利用するものとの距離を失ってはいけない。そして影響が出たらそのままにしてはいけない。毅然とする。自分が利用する。 そして自分が生きるのだと決めたとき、捨てるものが出てくるはずだ。