処世術としての「教育」
奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』
ボルネオのプナンは、子どもたちが学校に行きたくないといえば親は特に行かせようとしないといいます。学校に行かなくても生きていく術があるからです。かつての日本でもたとえば漁師の子どもがそのまま漁師になって生きていけるリアリティが強かった時のようだなと思いました。
ごく少数ですが、身の回りでもよく知っている人のところで自然に仕事をはじめる人がいます。
縁もゆかりもないアウェイの会社にエントリーシートを出して、今まで生きて周りとともに作りあげられてきたその人の文脈の重なりを無くして、経済性という一つの文脈のなかで生きていくことは、今まで支配されていた負の文脈を切れるというよい面もあるでしょう。
しかし、大多数の人が、今まで周りと共に生きてきたプロセス、その文脈の重なりを切る選択をしないと生きていきにくいという実態は、人間疎外的であるといえないでしょうか。
それまでのまわりとともに蓄積してきた「時間」、重ねてきた文脈は、その人の個性を支える基盤にもなり得たはずです。公共サービスだけでその「時間」や重ねてきた文脈を補うことができるでしょうか。それによって、生命の維持ができたとして、そこに個々人がこの自分、この私として生きられる土壌はあるでしょうか。本来的には、そういった土壌は生まれてきたときから育まれていくのが妥当なのではないでしょうか。
食べていくためのサバイバルと人間が人間として生きていくための環境づくりは、並行して行われることが欠かせないと思います。「食べていかねば」とよく言われますが、もしそれだけだったら、そんな修羅の世界にそもそも生まれてきたい人がいるかと思います。「食べていかねば」は何でもかんでもを正当化するに足る理由ではないと思います。
さて、教育についてに戻ります。貧困から抜け出すためには教育が必要といいます。そうかもしれない。ですが、そもそもそれぞれの場所で自給体制を備えていた文化に資本主義経済を持ち込み、お金なしには生きられない状態にさせたことを問わずに、涼しい顔でそんなこと言えるのかと思います。
自給、自立体制を破綻させたのが、そもそもそのような「貧困」が生まれた理由であるのに。
そこで言われる「教育」とは処世術としての教育なのだと思います。一般的に言われる「教育」とは資本主義社会においてステータスを獲得し、立ち位置を上げていくための処世術として、価値があるのだと思います。競争が激化するのも、自分にとって意味がわからない(自分の「時間」が動かない)ことを無理やりやっていくのも、そうであれば理屈が通ると思います。
一般的な教育は、この資本主義社会を前提としたサバイバルのためにあるのであって、何ら教養や人間性を涵養するものでもないし、さらにはその「教養」や「人間性」すらステータスを上げるための利用価値として成り立つ時に評価されるといった具合です。
生きる全てが、食うため、より優位に立っていくため、つまりサバイバルに還元されてしまうことを打ち消すのが文化の役割であり、人間性なのだと思います。そんな世界に生まれてきたくもないし、そんな世界で生きていきたくもないので、それを打ち消すために文化があるのだと思います。
文化は教養がある人、お金を持った人、ステータスの高い人のためにあるのではなく、むしろ人間としての切実な危機にある人、現社会で虐げられ、疎外された環境に投げ込まれている人のためにあるのだと思います。自分のステータスをあげ、より高みに立つための「文化」などは、サバイバルなのであって、文化でもなんでもないのだと思います。