降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ジャンル難民発表会 発表原稿 生きることの当事者研究

<プレ発表で以前に投稿したものに加筆したものです。>

→3/2再度編集しなおしました。

 

◇なぜ「生きることの当事者研究」か?

生の主体性の取り戻しと「苦労の社会化」が環境を新生させる


 当事者研究は、社会福祉法人浦河べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、周りの人たちに「研究発表」するものです。専門家である精神科医に診断名をつけられ、指示に従う受動的存在にされていた精神障害者の人たちが当事者研究に取り組むことは、自らの生の主体性を回復させる営みでした。当事者研究においては、精神障害者が専門家が提示する正しさに一方的に従う受動的な存在にさせられてしまうこと自体が、人間の疎外であり、回復の疎外であるという理解があります。また当事者研究は単に個人を変えていくだけでなく、周囲の人たちもまた変えていくところに大きな特長があります。当事者研究において、個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わると、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な、「わたしたち」の世界の外にいた存在だったところから、「わたしたち」の世界の一員、「わたしたち」の隣人になっていきます。当事者研究においては、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な新しい関係性が新生していきます。当事者研究精神障害者のコミュニティから始まりましたが、現在は福祉の支援者の立場をもつ人たちの当事者研究や子どもの当事者研究なども行われており、様々な分野の「当事者」による研究が実践されています。

 

個人が適応することが求められる「社会」の側ははたして本当に健全なのか

 さて、当事者研究が様々な分野において行われるようになったことは素晴らしいことだと思うのですが、僕個人としては、個々の当事者研究が各々の分野に限定されるだけでは足りないのではないかという問題意識があります。既存の精神医療から個々の人たちが奪われた主体性を取り戻していった結果、回復がおこったとしても、次は金銭収入を得るための仕事の話しなり、より「社会適応」していくなりが求められてきます。しかし、その社会自体がいびつであったならば「社会適応」とは一体なんなのでしょうか。社会のほとんどの場所(たとえば国連などであっても。)では、強いものが自分の権益を維持したり拡大するためのパワーゲームに明け暮れており、そのパワーゲームが社会を動かしています。一方、市井の人々は良心的かというと、地域では保育園や薬物依存症者の回復施設に反対運動がおこるなど、市民の矜持のようなものは最近にちかづくにつれ、より融解していっています。

 

一分野のなかに収まる「当事者研究」では足りない

 このような状況において、単に「社会適応」が難しい自分の「苦労」だけを問うだけでは足りないのではないかと思うのです。そうでないと、精神医療の支配の枠組みから個人が主体性を取り戻したとしても、それよりややマシなだけの、別の支配の枠組みに入れられて生を送るだけなのではないでしょうか。なぜ社会がこのようになっているのか、そもそも生きることとはどういうことなのかの理解を、それが得意な「専門家」にまかせていた結果が、現在の社会を構成し、人々をより非応答的存在にしていったのではないでしょうか。

 

当事者研究として、生きることにかかわる全て(世界)と自分との切れたつながりをもどす

 しかし、その問題意識があっても、私は大学の研究者として、膨大な資料を扱えるほど能力も体力もありません。しかも大学の研究者は、まともな人なら自分の一分野だけで定年までかかりっきりにならなければならないほどのもののようなので、自分の必要にはあいません。100年後の社会を変えていくためではなく、自分の今の生を変えていくため、既存の社会制度に生きることを支配されている状況から逸脱し、自分の生を取り戻していく探究が私には必要なのです。アカデミズムではないあり方で、世界や社会、人間、回復とは何かを探っていくことを、生きることの当事者研究と呼べないかと思います。生きることの当事者研究を通して、人は社会によって内面化された古い秩序を更新し、この社会という沼の下から頭一つ抜けだして、世界の風景を自分の目でみることができるのではないでしょうか。

 

必要な逸脱を成し遂げていくものとしての「野生の思考」  

 生きることの当事者研究の目的は、万人が一斉にそれに向かい勉強する(そのこと自体がいびつですが。)教科書を作ることでも、普遍的真実を理解するためでもありません。生きることの当事者研究の意義は、自分のわかる範囲で、自分がそうだと思っている世界の認識を更新していくことです。宇宙のことなど自分にはわからない、外国のことなど、資本主義のことなど自分にはわからない、専門家に教えを乞わなければならないとあらかじめ排除するのではなく、まずは自分の知っていることで世界とはこういうものではないかと再認識したうえで探究をはじめ、より実際に即した世界観に更新していくために、宇宙だろうが経済だろうが、触れられるもの、取り入れられるものは何でも使っていくのです。何の専門家でなくても、メディアの発達によって世界の様々な情報や事例を得られるようになった現在においては、夭折したSF作家伊藤計劃のあり方がそうであったように、個々人は既存の社会から押しつけられたものではない認識を練り上げていくことができるように思います。それは文化人類学レヴィ=ストロースなら「野生の思考」とよぶものかと思います。人々は、「教育水準」の高い国々の人から教えてもらったり、本を寄付してもらわなくても、自分たちの周りのあり合わせの情報や体験、思想を自分なりに組み合わせ、コラージュしていくことで、自分自身の認識の枠組みを更新し、生きていく必要に応じて、時代をこえた思考をすることができるのだと思います。

 

◇生きることの当事者研究 発表
今がどんな社会なのか。そのなかで何がおこっているのか。

 資本主義経済が世界各地で行ったことは自給経済の破壊でした。それぞれの場で成り立っていた暮らしを成り立たなくさせ、お金に依存させます。そして自分たちで生きていく力を奪って、搾取的な仕事に従事させるのです。それぞれの自給経済においては、人々はエネルギー、食物、水、周りの自然環境など、それぞれの人が関わりをもち、調整をする存在でした。それはいわば、人々は自分の生きる世界のまるごとに対して応答する存在だったのです。お金を一手に集中させ、富と権力を得ようとする人たちにとっては、そのように人々が自分の生きること全体に関わり、調整し、応答する(そのことによって人々は意識的でなくても、結果的に自分の主体性と世界との応答性を保っていたのだと思います。)社会は不都合でした。彼らにとって社会は、様々な場所から自分という一箇所にお金が集まってくるように、再構成され、画一化されるべきものだったのです。

 

内面化した抑圧という問題

 それならば人々が集まってそのような体制を打開すればいいではないかと思われるかもしれませんがなかなかそのようにはいかないようです。パウロフレイレは、抑圧者(人々を支配し搾取する権力者)と被抑圧者についての分析を行なっていますが、抑圧されている人は単に肉体的に抑圧されているだけでなく、抑圧者の価値観を自分自身に内面化しており、そのままでは自分が権力者に成りかわろうとするだけだったり、権力者が持っているものを自分個人が欲しがるだけなのです。フレイレは、自分が埋没している世界を一旦距離をとって再認識し、自分自身の抑圧状況を認め、そこから解放されることが必要であると指摘してます。内面化した抑圧から解放されることが必要なのです。それは一斉教育で教えこめるようなことではなく、一人一人が自分の解放を行なっていくことが必要です。

 

賽の河原現象 得られた知見や実践が蓄積されず消えていく社会

 フレイレは独自の識字教育や人々が自らが暮らす世界をフィールドワークすることなどを通して、人々に内面化された抑圧を解放する取り組みを行い、多くの知見を残しましたが、私はフレイレの分析をここ3、4年ぐらいで知り、大変驚きました。何に驚いたかというと、抑圧の内面化などの50年前のフレイレの知見の蓄積は自分の周りでは全く共有されていないし、ネットなどSNS上においてもまるで踏まえられていないのです。三途の川には賽の河原というのがあります。そこでは石を積んでも積んでも石が崩れてしまうのです。あたかもその賽の河原のように、せっかく分析された知見がまるでなかったようになっており、それで昔に議論されて確かめられたことをまた一から議論しはじめたりしているのです。

 

 まるで馬鹿げた状況です。僕はそれまでこう思っていました。昔に発見されたことは国や大学などに踏まえられ、知見はその上に積み上げられてくるものだと。しかし、実際は、抑圧の内面化が問題であり、それをどう解放していくかなどという視点を持った人、実践をしている人が私には見当たらないのです。社会では、発見されたことなどなかったことにされているようです。それはフレイレについてのことだけでなく、林竹二、大村はまなどの教育の実践者においても同様でした。資料としては残っていても、実践としては蓄積はほぼ皆無であり、むしろ当時より後退しているような現状なのです。

 ネット用語ではフィルターバブルという言葉があります。検索エンジンで検索すれば世界の様々な情報が集まるように思えて、実際は複数検索されたものや個人情報などから、アルゴリズムが勝手に自分が見たい情報を選んで表示しているので、いわば自分の外側の観点のものに触れられず、泡の中に閉じ込められるように自分は孤立し、自分の外にあるものに触れる機会をあらかじめ奪われているのです。ネットでもそうですが、蓄積された知見がなかったことにされる賽の河原現象がおこる理由は、オフラインの社会でもそのようなことがおこっているのかと推測するしかありませんでした。このような状況において、自分が現状から抜け出ていこうと思うなら、直接に自分がどこかに探しにいき、調べて見つけていくしかないのではないかと思います。

 

パワーゲームとしての実態を持っている社会
 なぜ発見された知見は無視されたり、なかったもののようにされているのか。たとえば北欧では薬物依存症者を罰しないことで回復がはやまるのでそのような実践がされていますが、日本ではそれは全く実行されていません。知識人は知っていても、社会には反映されないのです。正しいことだからやったらいい、では社会は変わらないようです。その理由が個々人が既得権益のパワーゲームをやっているのがこの社会だからというところにあるように思えます。どんな正しいことでも、自分のパワーゲームに不利ならば、強いものは受け入れないのです。ドラえもんジャイアンのような存在がいれば、人の声を打ち消す声の大きい人がいれば、環境は昔と変わらないばかりか、もっと後退的にもなるのです。人権という概念が昔からあるからといって、過酷な労働と人権侵害を横行させる企業がなくなるわけでも、この先生まれないわけでもないのです。世界経済フォーラムの調査では、日本の男女格差は2017年の調査では良いほうから114位であり、その結果はその前の調査の103位よりなお落ちています。

 

 この調査に偏りがあったり、この調査一つだけでは何も言えない(だから批判するな、お前のような素人が意見するな、というなら、事実上みんなが考えることを誰かにまかせ、現状を追認し、あと回しにするだけですよね。)のかもしれませんが、実感レベル、自分の周りを見たり聞いたりしただけでもう十分だと思うのです。専門家でないと意見を言ってはいけないというのは、今ある抑圧に申し立てする人を黙らせるのに良く使われる抑圧です。人は自分で考え、確かめ、そして認識や感覚を更新していかなければどんどんと無思考無批判になり、不満だけをためて非応答的存在になっていくのですから、個人が考えることに意味がないというふうな働きかけは環境全体を腐敗させるものです。また、「専門家のモラル」や「確かな情報しか伝えない」として、自分は専門外のことには意見しないというのも、自分が現在のポジションで高をくくれるから、社会の抑圧状況を無視できるからやっているわけで、あたかも知らないことは言わないと責任ある態度のように表明されますが、保身に汲々としているだけであるように思います。

 

パワーゲームにのらないものは相手にされない
 専門家が社会を支配する制度の批判については、イヴァン・イリイチが詳細に行なっています。しかし、イリイチがこういっているとか、ネット上でもまるで議論になったりしているのをみません。イリイチフレイレも、テストに出るような、何をやったかどんなことを言ったかは触れられていても、議論されるべきようなものとして取り上げられることはなく、放っておかれています。実際のところがどうなっているかはわかりませんが、現実の体制を抜本的に更新するような提案や意見、議論などは無視され、現状の抑圧やいびつさは前提の上で、手軽に取り入れられる改善策、うまくやる方法などがもてはやされます。推測するに、これもまたパワーゲームの結果なのだと思います。国であれ大学機関であれ、そこで行われているのはパワーゲームなのであり、良心的な、人間的なものがイレギュラーとしてあるのだけれど、それはあくまで傍流であり、減衰していくものであり、大勢のものにとっては強いものから分け前をどれだけ得るかが問題なのであり、パワーゲームと関係ないこと(つまりそれに関わるだけで事実上のマイナス)に意識をむける気は、よっぽどの変人か被抑圧者でもない限りないのではないかと思います。


◇私の当事者研究 精神と言葉について 

前置き
 社会が実態としてどうなっているのか、賽の河原現象に対する仮説など、これまで述べてきたことも私の当事者研究ですが、私はそもそもはこのような社会の分析よりは一人の人が変容していくのか、回復していくのかということを自分なりに確かめていくことを自分のライフワークとしていました。私は学部で臨床心理学、修士課程で文化人類学を学びましたが、どうやら私の求めるようなところにとっては、学問の世界で探究を続けることは迂遠すぎ、また方向もずれているように思いました。私は、生きている当事者、生きていく当事者として人間の変化とはどのようなものかを探る際には、学問的なところでも使われている言葉や概念は使い、それで足りないところは自分で考え、大胆に作業仮説をたて、日々のなかでそれを確かめていくといった、当事者としてのスタイル、持たぬものが探究していくためのスタイルを採用しました。最初で述べたことの繰り返しにもなりますが、当事者研究においては普遍的真実に到達することが目的ではなく、現状の世界認識を更新していくプロセスを自分自身におこすことが目的であり、プロセスを中心にすることに意義があります。かといってまるで見当違いのことや的外れなことを言っているつもりはありません。自分なりの探究によって位置づけしたことは、世間で流通している既存の言説を採用するよりも、生きづらさを感じる当事者にとっては、生きるための道具として機能すると考えています。あるいはこう考えていただいても構いません。すなわちここに書いたこと全体が探究を更にすすめるための「作業仮説」なのです。私は私の当事者研究をすすめるために大胆にあつらえた「作業仮説」をここで紹介しています。以下では、「精神」や「言葉」というものをどう位置づけ、どういう関係を持っていると考えれば、現実をより把握できるのか、また妥当な先行きを予見できるのかを考えました。

 

◇言葉をもった人間とはどういうものか

「精神」の位置づけと「言葉」との関係
 まず身体に血管がはりめぐらされ、そこで新陳代謝(更新)が行われているように、精神もまたチューブのようなものであり、そこに気が流れていると考えてみます。気はスピリチュアルなものというよりは、日常語で「気詰まり」「気まずさ」「気持ちよさ」「気のせい」などといわれるもので、大まかにとらえて心理的な感覚をともなうものとします。「気詰まり」という言葉においては、「気」が詰まったりするのですから、動いたり、流れているもののようです。身体に置いて血行がよい状態がいいように、精神においても気の流れる通路のなかにその流れを阻害する異物がないほうがいいようです。そして人間は精神においてその異物が最小化される状態=気の流れが最大化する状態を求めていると思われます。そして、異物の最たるものが「言葉」であるのだと思われます。

 

精神と言葉
 私が稽古している野口整体で「精神は忘却の過程である」という言葉に出会いました。野口整体の考え方では、血管のようである精神は、自身の管のうちにとどめる異物を消化(同化)しようとします。精神にとどまるものは、それが生体として必要であるから(たとえばネガティブな作用を引き起こすトラウマも生物が生き残るための機能が働いている結果として存在しています。)とどまっているということもあるのですが、異物が外在化されたり、身体化されることによって、とどめる必要がなくなることを精神は求めます。精神は忘却を求めているとも言えるかと思います。

 

 私の解釈ですが、精神にとって重要なのは気の流れの最適性化であり、そこには言葉さえ不要であるようだと思います。プロメテウスの神話において、火(意識=言葉という鏡に写ったものをとらえるもの)の獲得の結果、プロメテウスは岩山にはりつけられ、毎日内臓をワシに食べられます。しかし内臓は毎日復活するので、プロメテウスは助けられるまでは永遠に苦しみをうるわけです。これが言葉をもつことの代償であると考えます。

 

 精神にとって、言葉を獲得することによる業苦(ワシに毎日内臓を啄ばまれる)とは、この広大な世界における卑小な自分の意味を規定されてしまうことであるのではないかと思います。自分を規定されることは、何にも規定されずとらわれていなかった精神にとって屈辱以外の何者でもないのではと思います。たとえば、野生の犬の集団で負け犬がいたとします。負け犬はもちろん強い犬よりは小さく生きなければならないでしょうが、自分自身を言葉の鏡にうつして「負け犬」であるとか「惨めな存在」であるなどという認識はしません。あることがただそのようにあるだけで、そのことの実存的な意味に苦しみません。ところが言葉をもった人間には、言葉の鏡に映された自分の強い惨めさは自分や他人を殺すほどに、戦争すらおこすほどに、耐え難い苦しみです。

 

 そのように捉えるならば、なぜ人が名誉という概念にとらわれ、あるいは「自己実現」のような高い価値を手に入れようとするかが説明しやすいように思います。つまり、人間が自分をより高い意味、価値あるものに高めようとするのはやりたくてやっているのではなく、実態は低められた価値を回復しようとする不本意ながらの反動であり、強制的に磊落させられた自己の価値を代替的に元に戻そうとする行為であるのかと思います。あるエピソードを紹介します。友人のお子さんが買ってきたカレンダーに怒っていたそうです。なぜならそのカレンダーには自分の誕生日が記入される前から天皇誕生日が記入されていたからです。子どもにとっては、そのような序列づけ、つまり自分の価値は誰かより低いという屈辱的な商品鑑定を社会から受けたことと同じなのだと思います。

 

 さて精神との強い結びつきがある腸(はらわた)を生きたまま食べられるプロメテウスの苦しみは、一回では終わらず、毎日続けられます。この「毎日」とは何でしょうか。私が思考するとき、思考は言葉をもって行われます。言葉とは記憶であり、既知であるので、私は思考によって世界を見渡す限り、既知に閉じ込められているのです。言葉とは、時間の止まった過去の世界に自分を投げ込むものなのです。私は明日が今日とほぼ同じようにくることを現実だと信じています。これはつまり「明日」は既知のなかに閉じ込められるということでもあると思います。言葉というフィルターを通して感じられる世界は既に終わったものであり、同じであり、変わらないものです。そこにもし「学び」という、感じ方や認識の更新がなければ、いくら時が過ぎても、私にとって世界は風景の変わらないメリーゴーランドに乗り続けているように同じことの退屈で苦痛な繰り返しになり、その苦痛を打ち消すために人は強い刺激に自分を麻痺させざるを得なくなってしまいます。

 

 能楽師であり、古代の中国語を研究している安田登さんは心とは過去と未来を持つことだと言います。それまで過去と未来を持たなかった人は、毎年王朝に人の生贄を捧げなければいけないのに、逃げてしまったりしなかったそうですが、言葉は、それまで精神にとって存在しなかった「明日」を作りだしました。しかしその「明日」は実態としては過去としての「明日」なのです。私は、そのように過去に閉じこめられ、加えてこの世界において卑小であり、惨めであるという、言葉がつくりだす実存的な屈辱を受けながら、延々とメリーゴーランドのような終わらない世界を体験し続けるのです。

 さらには、人間は言葉の獲得によって、明日やずっと先の「未来」の準備ができるようになったと同時に、「明日」におこりうるかもしれない仮定としての苦しみにさらされ続け流ようになりました。「生きなければいけない明日」に永遠に強迫される存在にもなってしまったのです。


生きづらいものは何をたよりに生きていけるのか
鶴見俊輔の親問題 根源的な苦しみと逆境を自分として生きる力

 さて、では言葉を抱え込んでしまった人間として、特に周りの社会では評価されず、認められていない位置づけにいれられてしまった人間はどのように生きていけばいいのでしょうか。それには、その人の奥にある根源的な苦しみが重要な役割を果たすようです。根源的な苦しみというと、ネガティブな印象を受けるかと思うのですが、根源的な苦しみは自意識の実感としては充実をもたらす源泉として機能するものとしてあるようです。ライフワークとして成り立つようなこと、あるいは苦しい環境の中でも自分として生きる力は、この根源的な苦しみに対する生体の自動的な反発によって生まれているのではないかと考えています。 私は大学では心理学科に所属していましたが、多くの周りの人たちが卒業論文においてそれぞれの「自分の問題」をテーマにしているように感じました。その人はそのつもりでないかもしれませんが、他人である僕からみるとそれはその人の問題の核心であるように思えたのです。なぜそうなのか。卒論という、学生にとって一番大変な課題を乗り越えるためには、それ相応の持続的な関心と動機が必要なわけですが、それをそれぞれが探った結果に行き着くのが、自分の問題ということになるのだと思います。

 

 宮大工は、建築物を作るときに山を買うといいます。そして建物の北側には山の北側に生えていた木をというように、それぞれの方角に元生えていた山の方角と一致させた材を使うそうです。なぜなら山の北に生えている木は北という環境の脅威にもっとも反発して北に強く生長しているからです。

 

 そのように考えると、人間には物心がついたとき(つまり精神が言葉の世界に覆われてしまったとき)から自分の一番の脅威、あるいは生きるにあたっての自分の根源的な脆弱性として潜在的に認識されているものがあり、それに対して身体が最も反発しようとして自分が形成されるということがありそうです。しかし、それは無意識に沈んでいるので、最初からそれに向かうことができません。そして、その苦しみ自体が実感されるよりも、元々持っている苦しみや痛みを乗り越えるような行動をした時に充実感を感じるというあり方であるようです。つまり自意識にとっては、潜在的な苦しみはあるのだけれど感じられず、一方でそれに反発した結果としての充実だけが実感されるようです。そのため、根源的な苦しみは生きづらい人が生きるあたっては、動機と充実の源として頼れるものになります。ただ、直接に向かうことが難しく、充実を感じたという結果を手がかりに探っていくしかないというものではあります。


「殻」という問題
 個人に根源的な動機があるのなら、最初からそれに向かえばいいではないかと思われるかと思うのですが、人のあり方をみるとなかなかそうはいかないようです。なぜなのか。根源的な苦しみへのアクセスを持ちうる人は生きづらさに直面した人であるようです。別の言葉でいえば、自分の本当の気持ちをおいて、必要な役割を演じて上手くその場に「適応」できるならば人は自分の本当の気持ちや動機に気づく前に埋めてしまい、偽りの自分、欺瞞的な自分を演じることを続けてしまうようだからです。これはつまり適応への不安、明日に向けて生きていく不安が人間にはものすごく強いので、自動的にそうなってしまうというところがあるようです。また本当はこうだったらいいな、こうしたいなと思っていても、「我慢」しているとだんだんと自分の気持ちや感じていることが感じられなくなります。生きていくことに対して強い不安があるので、それを補おうとして偽りの自分、欺瞞的な自分が前面にでてくるのです。殻は本当の気持ちや感じていることを意識から追いやるので、殻のほうが本当の自分の気持ちや願いよりも相対的に強くなってしまい、殻が自分自身だと思うようになります。今、自分が自分だと思っているもの(=自意識)は殻なのに、殻が本当の自分だと錯覚します。そして、そもそも適応への不安から生まれた殻は、自動的な自己保存の衝動を持っていて、自分に変化をおこすような環境やそこに繋がるような行動にはそれをやめさせるための抵抗をもたらし、自分を守ろうとします。

 

殻が止める自分の「時間」
 しかし、殻によって本当の気持ちに応答できない個人は、自分を生きている感じがせず、その人の「時間」は止まっているように感じられます。殻によって一時的に押しやられた不安は消えず、ふとした時にまた戻ってきます。自分が生き生きと生きる感じはだんだんとなくなって、自分が死んだように生きるようになります。それを補うために娯楽やその他依存など、強い刺激を自分にあたえ、偽りの生きた感じを自分にもたらそうとしますが、強い刺激がないと日々を送っていくことが困難になります。また殻を厚くすることのもう一つの弊害として、何か自分が素晴らしいのはこういう条件(仕事をしているとか、能力があるなど)を達成しているからだというように、条件つきの自分に強く依存してしまいます。すると、その条件から外れる不安に支配されるようになり、同時にその条件を満たさない人を人間以下のような、価値がない存在としてみなし、そのような抑圧的態度をとっていく人間になってしまいます。

 

殻の強固さとその破綻の契機
 そのような弊害がありつつも、殻は強く自分を支配するのですが、そのひずみによって自分が病気になったり、あるいは急な事故のようなアクシデントがおこったりすると、殻がそれまで欺瞞的に、無理矢理に作り出していた安心や安定が成り立たなくなります。殻の第一の存在意義がなくなり、殻に大きな穴が空いてしまいます。すると、精神的には大変不安定で危機的な状況になりますが、同時に殻に抑圧されていた本当の気持ちや求めとつながりやすくなります。というより、むしろ、いびつな安定を提供していた殻が壊れてしまったので、本当の気持ちや求めに応答しながら新しい、更新された自分が生まれないと今後生きていくことが難しくなります。危機はまさにチャンスでもあり、そこで自分の根源的な求めに応答していくと、殻は別のかたちでふたたび形成されるにせよ、人は以前よりも自然と他者や世界と響きあい、応答しあう存在として再生します。殻の厚さによって人は自分だけでなく、他者や世界との応答性を減衰させてしまいますが、自分の本当の気持ちや求めに応答する割合が高くなれば、その分に深い納得や充実が生まれ、自分の時間が流れやすくなります。応答性の回復がおこるのです。社会が人間の殻の部分に支配され、パワーゲームをしていても、それに拮抗するような充実や安らぎを自分自身にもたらしていく応答性を持つことができれば、人はパワーゲームの社会の主流があったとしても、そことはズレた、人間的なあり方での生を生きることができるようになると思います。ただ、心理的な救いと社会的な成功や承認は別々のものであり、一致しません。社会は全てを成功物語で語ろうとしがちですが、無名なまま、一般的にみれば不遇な生にみえても、人は救われうるし、(早く死ぬかもしれませんが、とりあえず死ぬまでは)深い納得と充実を生きられると思います。マザーテレサが世界的に有名になって承認されているのをみて、そういうあり方がいいようなイメージを持つかもしれませんが、無名のままで死ぬマザーテレサ、「変わった人」という周りの認識が変わらないまま死ぬマザーテレサをイメージしてもらったほうが実際に近いかと思います。パワーゲームの社会においては人の「殻」の方が優勢なので、社会は欺瞞的であり、都合の悪いものは見ないようにして、自分の都合のよいものを承認しようとします。自分、他者、世界との応答性を回復すると、そのような社会の承認に自分をゆだねる割合が少なくてすむようになります。

 

応答を生きることができる
 社会はパワーゲームで動いており、人間の「殻」の部分の理屈で動いています。そこはサバイバルの世界であり、弱いものは強いものの肥やしにされ、弱いもの、無力なものが下に見られる社会です。精神が言葉を獲得したことによって、精神は言葉という過剰なものの影響に耐えられず、それを打ち消すための殻を形成するのではと思います。言葉の獲得によって得られたものの代償として、何にも規定されなかった存在であった自分というものを今の社会における価値基準で順位づけされ、規定されてしまう矮小化や不本意なレッテルばりの屈辱を受け、(成功を求めるように)その屈辱を回復する強迫にかられ、メリーゴーランドに乗り続けているかのような変わらない風景の日々を生き、明日のために生きなければならないという強迫に駆られるので、生体としてはその強迫から自分を守るために、無感覚になるための殻を作り出すしかないのではと思います。しかし、殻は自分、他者、世界との応答性を奪うという代償をともない、その人を偽りの自分として生きさせ、その人自身の時間を止めてしまうものでもあります。言葉を持つかぎり、殻からも逃げられませんし、殻の動機に支配された社会の傾向を取り除くことも難しいようです。しかし、自分、他者、世界との応答性という人の本来のあり方に近づくことができれば、殻による生きることの疎外に干渉し、殻の支配を弱めることができるようです。

 

ちいさな人間的環境を作る
 強固な殻があったとしても、それを弱め、あるいはそれ以上厚くなることをなるべく抑え、応答性を回復していくことはどのように成り立つのでしょうか。応答性を回復することによって殻はそれ以上厚くならなくてもすむようになります。たとえ抵抗感が残っていたとしても応答性がある環境が良いものだと踏まえることはできるようになるかと思います。殻は環境に反応するものなので、侵食されず、応答的であるような、ちいさな人間的環境をつくることができれば、それ以上に厚くなることは抑えられ、逆に殻である自分が揺れ動いたときに、その環境に助けられることによって、殻に頼る傾向は弱まり、より応答的な環境を求めるようになります。自分のなかで、あるいは困難を抱えた人のなかで、動こうとしている「時間」とはどのようなものだろうかと想像し、それを試行錯誤しながら確かめていくことによって、「時間」という変化のプロセスが動いていきます。閉じて自己保存しようとする殻の強固さに拮抗するのは、その人の根源的な苦しみです。もしそこと繋がることができるなら、世界との応答性を回復していく強い力が生まれます。

 

 またちいさな集まりのような人間的環境(もちろんそこで誰の「時間」も動いていかないのなら、「時間」が動いていくような別のあり方を探す必要があります。)に加え、日々の暮らしにおいて、直接世界と触れ、そこからの応答を実感する環境をつくることも大きな助けになるだろうと思います。資本主義社会においては、お金を媒介として物事がすすむので、自分が直接自分の必要なものを世界とのやりとりから受け取るという営みが疎外されます。その疎外によって、人は応答の実感が奪われるので、自信を失い、他人に依存し、強いものに従うという傾向が加速されます。この社会がありながらも、そのなかに自分たちが直接に世界に触れ、その応答の実感をえる環境をつくることができたならば、自分たちで自分たちの生を引き受け、自治を行う環境をこの社会のなかにもう一つ作れたならば、応答性の回復はすすみやすいと思われます。

 

どこにもいかない なんでもない 「意味」という虚構 「さしあたり」でいい
 殻による疎外と応答性の回復のあり方を述べましたが、そもそも精神が言葉という異物を取り入れなければ(そういうわけにはいかなかったのですが。)言葉の疎外もなく、強固な殻による社会の抑圧もなかったわけだと思うのです。そして自分が価値ある存在であることを認識する必要も、証明する必要もありませんでした。自分が意味ある生を送れただろうか、今やっていることは意味があるだろうかという悩みも言葉を通してしか存在しない虚構であり、フィクションなのです。よって、もっと応答性を回復して「本当の」生を送りたいなあというような求めも、言葉を通してみえるフィクションです。やがて太陽もなくなり、宇宙もなくなるようなのですから、生きることにおいて、達成する必要のあることなどなく、「発展」しても消えるのだから、意味はないのです。意味とは到来するであろう未来に対して何の役にたつかという仮定なのですから、意味もまたフィクションなのです。

 

 もちろん、言葉を獲得した私たちは言葉の世界に閉じ込められ、それが現実であると認識します。そこは既知の記憶が堆積された、時間の止まった世界です。そして言葉の世界がしばらく続くと予想されるので、時間の止まった世界の時間を動かし、世界との応答性を回復していこうとするでしょう。しかし、応答性の回復ということを認識するのもまた言葉を通してしか無理なので、結局はそれも仮定の世界の話しであり、やはりフィクションです。

 

 どのような途中でも、惨めに生きても、あるいは幸せと思って生きても、どちらも等しく「意味」はないのです。本当の自分が価値づけられることはありません。お前の生は何点だったとされることもありません。それらは全て言葉による虚構のものであり、フィクションなのです。どこにもいきませんし、なんでもないのです。何を「達成」しなくても、何を「獲得」しなくても、すでに救われているといえるのです。ですが、言葉を獲得してしまったので、さしあたりは(死ぬまでは)閉じ込められたところで、言葉を通して実感するところで、自分の時間を動かすということができれば、生きる辛さはマシにしていくことができます。つまるところ、生きることは、「さしあたり」でいいのであり、「さしあたり」しかないのだと思います。

2回目のプリズン・サークル 機械と震え

京都シネマでの最終日。

prison-circle.com

 

平日の4時開始だったけれど、受付近くではこのために半休をとって来たというような話しをしている声も聞こえた。

 

2回目のプリズン・サークルは体感としてはあれよあれよと進んだ。あれ、もうこのシーン、このセリフが来たかという感じ。そこから比較すると、1回目は自分にとってジリジリとした時間だった。

 

性暴力の語りはもう一度聞くまですっかり記憶から抜け落ちていた。ただ、いじめによる堪え難い屈辱を与えられる話しをしていたとだけ覚えていた。キツい話しだったからだろうか。小学校6年だったかのいじめで性器を咥えさせられた、殺してやると思ったという部分。

 

自分はそこまでではないけれどいじめを受けていて、強いと見なされている人の取り巻きの「三下」みたいなのまでが調子にのってきて僕のものをとって逃げ回ったりした。そのことをそうとらえる僕の視点が差別的であるけれど、「三下」にまで馬鹿にされた屈辱は自分を失うほど強かった。後になって思い返されるたびに、傷害になろうが自分が前科者になろうが、相手に一生の苦しみを残すぐらいのことをしてやればよかった、なぜそれがあの時できなかったのかと思った。

 

今でも思い返すと震えがくる。つまり自分はまだそこにおいて止まった時間を抱えているということだ。30年経ってもまだ残っている。

 

整体の稽古で、身体において一度できた反応の回路は放っておけばいつまでも同じままでいることを知り、そういうことかと思った。体は部分部分において、一度決まった反応を何年たっても繰り返す。たとえその反応の仕方が不自然なものであっても。稽古ではその決まった反応を更新するために、意思的な動かし方を型によって一度殺し、自律的な動きをもって動かし、その感覚を感じることで、その部分の反応のあり方を更新する。

 

身体のあり方と同じように、心の反応も30年前にできあがった反応と20年前にできあがった反応などがごちゃ混ぜに組み合わされ残っており、特定のトリガーに対して同じ想起や感情をひきおこすのだろうと推測する。

 

仮に心にたとえて、心臓をレゴブロックで作ったとイメージしてみる。それぞれのブロックは、それぞれの止まった時間によって別々の反応をする。それは統合的ではなく分裂的な、無秩序な反応だ。

 

それらの止まった時間を動かし、反応のあり方を更新するためには、それぞれ時間が止まったその時のリアリティを喚起させ、そのうえで動きだしたプロセスを止めないように経過させる。プロセスが進むのに必要なことが語りであれば語りをし、踊りであれば踊りをする。自分の感覚へ応答する際、どのような方法をとったらいいかはその感覚自体と対話し、応答として編み出すしかない。

 

回復共同体(TC)という集団のなかでは被害者と加害者が自然と両方とも存在している。陰惨ないじめの被害者がおり、別の場所と時間においてであるが、そのようないじめを行った加害者もいる。それぞれ個別の案件に関しては、受刑者たちは被害者か加害者かのどちらかなのであるけれど、回復共同体のなかではその両方の心情が語られる。

 

そのことによって、おそらく受刑者たちはモノや単なる概念としてとらえていた相手の存在を震える存在である人間としてとらえ直す体験ができるのだと思う。被害者にまるで共感ができなかった加害者が被害者の苦しみを受け取り、被害者は単なる暴力や悪でしかなかった加害者像に揺れ動く感情や弱さを読みとる。その人の震えをみる。そのことによって加害者像は動かせない絶対的リアリティから降りてくる。

 

ブーバー的な捉え方をするならば、回復共同体におけるその多様性は、相手を利用対象やモノとしてとらえていた「われーそれ」関係から、凝り固まった非人間(機械)となっていく自分を人間として再生させる「われーなんじ」関係にみちびく。

 

生き延びるために辛さを感じることが抑圧されれば、喜びを感じる感覚も同時に薄れる。また辛すぎる自分の体験を、感情や感覚を乖離させることによって感じなくした場合、相手の痛みに対する感覚も失われる。そして躊躇なく相手を苦しめることができる。

 

過酷な環境におかれた場合、その人の意思以前に、自動的に感情の乖離はすすみ、またその人はそもそも思考の選択肢さえない状態におかれるようだ。人に助けを求めるというようなことが選択肢としてそもそも思い浮かびもしない。自動的に、そのような過酷な状況が続いても生き延びるための機械になる。機械は人と扱われたこともなく、同様に人を人として、震える存在として扱うことも知らない。

 

そのように抑圧された感情が取り戻されるとき、人として自分の代わりに傷ついてくれる人の姿を見ること、人として自分の代わりにその役割を引き受けてくれた人の姿を見ることが必要であると思う。

 

負の感情を自分の心のうちに引き受けられない状態にある人は、そもそも葛藤することもできなくなっている。そのとき、自分の心のうちに引き受けられないものを代わりに引き受けてくれる存在がいると、その人は相手の苦しむ姿から自分自身を見いだす。そしてそのことによって回復し、以前より自他の痛みを受け取れるようになるようだ。

 

回復者は決して一人で回復しない。自分の代わりに傷つき苦しんだ人の姿のなかに自分を見いだすこと抜きに回復しない。回復したということ自体が、たとえ直接に相手に危害を加えたわけでなくとも、誰かの苦しみを糧にしたということなのだと思う。その認識において、回復者は回復を自らの手柄にすることなく、自分を達成者の側に置くことなく、より人間に戻っていく存在として、震えを持ちつづけることが可能になるのではと思う。

 

これでいい、こうすれば自分は正しくあれる、などという割り切りで日々を送れるようになったとき、その人は震える心を失っている。犯罪を犯していなくても、人はそのように日常においてごく自然に機械になっていく。自分のなかにあって取り扱うのが難しい痛みを感じなくしようとして、痛みを塗り込め、抑圧に無自覚になり、人間をモノとして扱うことに抵抗がなくなっていく。同時に自分も奥底の痛みから自分を解放することから遠ざかっていく。

 

人間は、震えから生まれると思う。震えが奪われるとき、人間も奪われる。震えを奪われたものは機械になる。機械は呪いをかけられたように既知の世界に閉じこめられ、止まった時間と倦んだ絶望の生を強いられる。震えは機械に生を与える。震えを与えられた機械は今まで知らなかった新しいものが自分に生まれてくるのを感じる。時間が動きだし、感じられる世界は更新されていく。

閉じた監獄を破綻させていくために

実際のところは知らないけれど、SNSなどで日系のホテル・ニューオータニではなく外資系のANAホテルが自律性を保てたという指摘が興味深かった。日系だと現秩序が全てになっているわけだけれど、圧力がかかったとしても外資系だと政権が沈むのに自分も付き合うわけにはいかないし、実際国内の圧力のはねのけができるということ。

 

閉じた場所というのは、監獄であり、そこでは権力が絶対化する。それが家であっても、学校であっても、地域であっても、国であっても。そして権力は時間を止める。今強いものがそのまま、あるいは今まで以上に幅を利かせる秩序で止めたままにしようとする。

 

そういう場所では人は自分自身を無力に感じ、その無力さに耐えきれず、無意識に強いものに同一化し、その無力さを補おうとする。人たちは内面化された権威に自動的に従うようになり、「成功者」のような強い人、社会で認められていると思う人のいうことを自分の考えとする。

 

政権の支持率は不安の現れであって、しがみつくものが現状強いものしかないのだと思う。そこまで内面がガタガタにされているのだ。個人は社会によって内面から、思考や感情、価値観から支配される(それでも自分の考えと思っているのだけれど。)のであり、まずそこから逸脱していく必要がある。

 

刑務所内での回復の場を描いた坂上香監督の「プリズン・サークル」。もちろん映画のなかではそんなことは言われないけれども、面白いのは、実はそのような場の存在は本質的に監獄自体の否定であるということだ。監獄のなかにあって監獄を否定し、それを乗り越えていく場がプリズン・サークルだ。

 

監獄の外も事実上監獄なのだということを認めることができるだろうか。そこで自分たちのプリズン・サークルを作っていく。内面に侵食し内面を支配する監獄を否定し、人間にもどっていくために。

プリズン・サークル 忘れられた楔(くさび)

友人たちと「プリズン・サークル」を観てきました。島根にある官民共同の刑務所で行われているTC(回復共同体)の取り組み。感情を乖離させ生き延びてきた受刑者が自分を、そして他者を、痛みを感じる人間として取り戻していく様子が描かれていました。

 

映画の冒頭で、世界ではTCの取り組みは1960年代に生まれていると紹介されました。それが60年たってようやく日本で一箇所だけ行われるようになったということです。この60年という時間は何なのか。そしていまだに一箇所だけしか行われていないという現実こそ、一番問われないといけないことではないかとまず思いました。

 

おきさやかさんが、日本で生活と一体となっている保守思考の強固さは、もはや(自身に更新作用はなく)外来のものを受け入れることによってしか変われないようになっているのではないか、そして自分たちがもっている思想を意識できないものは生活を通して他者の思想に支配されると指摘していたのを思い出しました。

 

人は、生きるなかで脅威をもたらすものを無化し、無化できないなら感じなくなることによって、生き延びようとします。無化するために、強いものに同一化して人を抑圧しいじめる側になったり、あるいは自分の感情と感覚を乖離させ、自分が体験していることを、感情として体験しなくなります。

 

感情と感覚を乖離させれば辛い気持ちを抑えることができます。しかし、それは自分が自分であるのをやめることを代償とし、それだけでなく人を人間として感じることができなくなります。偽りの自己が前面で固定化し、自分としての体験ができなくなるので、自分の時間は止まります。受刑者たちは、幼少期からそのような感情の乖離を強制されてきたので、そもそも偽りの自己以外のものを知らずにきています。

 

40人で行うTCのグループのなかでは、自分の感情を話すことが重要視されていました。抑圧していた感情を話すなかで、受刑者たちのなかで新しい感覚が生まれてきます。僕は野口整体の稽古をするなかで、感覚とはプロセスであるという認識を持ちました。ただの感覚というものはなく、何かの感覚は動こうとしている時間であり、止まっているものを動かそうとしているものなのです。

 

こうもいえるのではないかと思います。人間の回復へ向ける変化の作用は自律的であり、感覚は自分が知っている以上のことを自分に体験させようとノックしているのだと。

 

感覚は主観性とされ、権威ある人や本などのいう通りにせよ、と世間は言うかもしれませんが、それはひどい嘘だと思います。自分の感覚を通して、人はようやく世界と出会うのです。感覚が未分化でもそれを使っていくことによって、それは分化していきます。間違いが何度かあったとしても、つまるところは感覚とやりとりしてそこに応答していく以外に、自分が自分になっていくあり方はないのだと思います。

 

受刑者の、米を洗っていて釜から溢れてしまったのさっと洗って釜に戻そうとしたらそれを後ろから見ていた親に顔をシンクに何度も押しぶつけられ、前歯が折れたという話しや、妹を砂場に放っておいたために警察に連れて行かれたと責められ、たばこで手を焼かれたけれど、痛みより圧倒的な恐怖のほうが強かったというような話しは、彼らが周りの人達より圧倒的に過酷な状況に置かれていたことをまざまざと感じさせられました。

 

受刑者の「人間は平等だと言うけれどまるで平等じゃない」と言うセリフもその通りと言うしかありません。ここの社会ではどのようにその人が不平等で困難を抱えていたとしても、そんなことはチャラにして、みな平等だからみなと同じ水準で生きろとされます。

 

社会の欺瞞、それが弱い人に押しやられるのだと思います。金儲けに都合のいい世界観、人間観、人生観が幅をきかせて、みんなそれを信じてしまいます。(よく考えたら結局お金の有無が介在する)「幸せ」になるのが生きる目的だとか、自己実現するのがいいのだとか。

受刑者の言葉で僕が受け取ったのは、楔(くさび)という言葉でした。取り返しのつかないことを忘れるのではなく、自分を人間に戻すための楔は、全ての人に必要なのではないかと思います。

 

あまりピンとくる人はいないように思いますが、僕は自分がまっさらで何の罪もないととらえている時に人は人間になる契機を失っていると思います。そんな何かを気にして生きなければいけないなんて時代錯誤で馬鹿げていると思われるかもしれませんが。

 

少し前に僕は『赤毛のアン』を読みました。アンたちはとても自由に自分勝手がすぎるほどに色々と空想したり希望したりするのですが、その空想と同時に自分がそもそもとても罪深い存在であるのだという認識があり、何を考えようと、何を希望しようとも、そこに立ち戻って判断を下していました。それは僕にはとても新鮮に見えました。

 

アンの物語では、その自分が罪深い存在であるというのは宗教的なものでした。ですが、僕は宗教は信じなくても、その楔の部分、自分がそもそも欺瞞的で罪深い存在なのだという認識は、取り除いてはいけないものなのではないかと今は思うようになったのです。

 

保育園はうるさいから建設反対、薬物依存症者の回復施設も怖いから反対、子ども食堂に高い車で乗りつけて金持ち話しをして10円払って帰っていく人、そういう実際にいる人たちを見て、僕は人間の見本だなと思うのです。

 

楔がなければ、人間はもともとこうなる傾向を持っているのではないでしょうか。そして自分が罪深い存在だと思わずに、取り返しのつかない罪をおかした人をゆるしたりできるでしょうか。罪をおかした人が立ち直る仕組みの拡充をなどという前に、楔を失った自分がもう一度楔を見つけるために彼らという現実に向かいあうことが必要なのではないでしょうか。

直接性と感覚(主観)が奪われる社会から逸脱していくために

縁あって資本論のゆるい読書会へ。
境毅さんに難しいところなどはサポートしていただいてみんなで一段落ずつ声を出して読んで、わからないところを話していく。

 

自分なりにとても印象に残ったのは、資本家は自然と(搾取的だけど。)関わることができる(自然から自分の必要なものを取り出して持ってくることができる)のに、労働者は自然との応答関係から疎外されているので、自分で必要なものを自然からとってこれず、資本家に依存しなければならないという指摘。

 

「労働者」とは、自然との応答関係を持つことができなくなった、疎外された存在。一方資本家は自然と独占的に関わることができる。資本家は「労働者」になる前の人の自然との応答関係をまず奪ってその人を自分が与える賃金に生を依存させた「労働者」にし、自然を独占しているのだととらえると、グレタさんの強い糾弾も必要だし必然とも思える。

 

「労働者」とは自然との応答関係から疎外されたもののことなのだから、その疎外から回復していくときは、自分が間接的(お金を通して)ではなく、直接自然や世界と応答関係を取り戻していく存在になることが必要だろうと思う。

 

短絡的に自給自足がいいのだ、という話しではなく、自給においても重要なのは生活必需品を自足すること以上に、世界との応答関係を持つことなのだと思う。応答関係を持つと、自分の暮らしと全然関係なかった雨水が意外に利用できることに気づいたり、捨てるだけだった生ゴミが肥料になるなど、それまであたかも壁のなかで完結していたような認識に風穴があけられ、世界がひろがってくる。

 

世界と直接的な応答関係を持つことで、世界の見え方が変わり、そして世界との関わりは直接的な応答関係をもったその接点を起点としてさらにひろがっていく。その経験をした人は、それまでの生活をあたかも壁に閉ざされて自分で何も触れられず、得られなくなった、牢獄のようなものだったように感じるかもしれない。

 

資本主義社会とは、個々の人を「労働者」と「消費者」にして、世界との関わりを間接化させることによって、世界との直接的な応答関係を資本家以外の人から奪い、より資本家に依存させる仕組みの社会なのだろう。

 

そこで人々は自分の感覚を鈍麻させられ、不安になり、自分が何をしたいのかもわからなくなる。世界と応答する感覚が鈍らされると、権威をもった誰かや何かがいうことに頼るしかなくなる。

 

感覚は「主観」とされいい加減な間違ったものとされる。しかし、自分の見聞や体験として確かめてきた範囲では、今、自分がもっている感覚をより育てていくことによって、ある時代が「これが正しい」としている間違ったこと、ズレたことを自分で相対的に見ることができるようになる。

 

感覚と世界を一致させることをやめさせると、人はどんどんとダメになると思う。例えばリテラシーというものであっても動的なものであって、感覚を使った試行錯誤であって、感覚なくガイドラインの羅列を記憶して完了するようなものではない。しかし、今の社会は人々から自分が世界と応答関係をもっていくために、必要な身体性を奪っているのが実態だと思う。

 

疎外から逸脱していくにあたっては、世界との直接的関わりと感覚の育成(リハビリ)を自分の手に取り戻していくのが指針になるかなと思う。直接性を回復し、主観(に過ぎない)として排除されている感覚を育成し、権威あるものに無感覚に従えという社会の沼に埋没した状態から頭を一つ出してみる。そこに見える風景は精神にとって何よりの贈りものになるのではないかと思う。

2/2 南区DIY読書会 プレ発表:生きることの当事者研究 原稿

 

◇なぜ「生きることの当事者研究」か?

「苦労の社会化」が環境を新生させる
 当事者研究は、べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、それを周りにシェアするものです。そこでは個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わり、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な存在であり、わたしの世界の外にいた存在だったところから、わたしの世界の一員、わたしの隣人になっていきます。当事者研究では、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な新しい関係性が派生していきます。当事者研究は当初は精神障害者が中心だったところから、時がたつにつれ、福祉の支援者の当事者研究が生まれたり、子どもの当事者研究なども行われたりもしています。

個人が適応することが求められる「社会」の側ははたして本当に健全なのか
 さて、当事者研究がだんだんと様々な分野において行われるようになったことは素晴らしいことだと思うのですが、僕個人としては、個々の当事者研究が各々の分野に限定されるだけでは足りないのではないかという問題意識があります。既存の精神医療から個々の人たちが奪われた主体性を取り戻していった結果、回復がおこったとしても、次は金銭収入を得るための仕事の話しなり、より「社会適応」していくなりが求められてきます。しかし、その社会自体がいびつであったならば、「社会適応」とはなんなのでしょうか。社会のほとんどの場所で(たとえば国連などであっても。)、強いものが自分の権益を維持したり拡大するためのパワーゲームに明け暮れており、そのパワーゲームが社会を動かしています。一方、市井の人々は良心的かというと、地域では保育園や薬物依存症者の回復施設に反対運動がおこるほど、市民の矜持のようなものは最近にちかづくにつれ、より融解していっています。

一分野のなかに収まる「当事者研究」では足りない
 このような状況において、単に「社会適応」が難しい「自分の苦労」だけを問うだけでは足りないのではないかと思うのです。そうでないと、精神医療の支配の枠組みから個人が主体性を取り戻したとしても、それよりややマシなだけの、別の支配の枠組みに入れられて生を送るだけなのではないでしょうか。なぜ社会がこのようになっているのか、そもそも生きることとはどういうことなのかの理解を、それが得意な「専門家」にまかせていた結果が、現在の社会を構成し、人々をより非応答的存在にしていったのではないでしょうか。

当事者研究として、生きることにかかわる全て(世界)と自分との切れたつながりをもどす
 しかし、その問題意識があっても、僕は大学の研究者として、膨大な資料を扱えるほど能力も体力もありません。しかも大学の研究者は、まともな人なら自分の一分野だけで定年までかかりっきりにならなければならないほどのようなので、自分の必要にはあいません。100年後の社会を変えていくためではなく、自分の今の生を変えていくため、既存の社会制度に生きることを支配されている状況から逸脱し、自分の生を取り戻していく探究が自分には必要なのです。アカデミズムではないあり方で、世界や社会、人間、回復とは何かを探っていくことを、生きることの当事者研究と呼べないかと思います。生きることの当事者研究を通して、人は社会によって内面化された古い秩序を更新し、この社会という沼の下から頭一つ抜けだして世界の風景を自分でみることができるのではないでしょうか。

必要な逸脱を成し遂げていくものとしての「野生の思考」  
 生きることの当事者研究の目的は、別に万人が一斉に勉強する(それ自体がいびつですが、)教科書を作ることでも、普遍的真実を理解するためでもありません。生きることの当事者研究の意義は、自分のわかる範囲で自分がそうだと思っている世界の認識を更新していくことです。宇宙のことなど自分にはわからない、外国のことなど、資本主義のことなど自分にはわからない、専門家に教えを乞わなければならないとあらかじめ排除するのではなく、まずは自分の知っていることで世界とはこういうものではないかと再認識したうえで探究をはじめ、より実際に即した世界観に更新していくために、宇宙だろうが経済だろうが、触れれるもの取り入れられるものは何でも使っていくのです。夭折したSF作家伊藤計劃のように、何の専門家でなくても、メディアの発達によって世界の様々な情報や事例を得られるようになった現在においては、個人は既存の社会から押しつけられたものではない思想を練り上げていくことができるように思います。それは文化人類学レヴィ=ストロースなら「野生の思考」とよぶものかと思います。人々は、「教育水準」の高い国々の人から教えてもらったり、本を寄付してもらわなくても、自分たちの周りのあり合わせの情報や体験、思想を自分なりに組み合わせ、コラージュしていくことで、自分自身の認識の枠組みを更新し、生きていく必要に応じて、時代をこえた思考をすることができるのだと思います。


◇生きることの当事者研究 発表
今がどんな社会なのか。そのなかで何がおこっているのか。
 資本主義経済が世界各地でやったことは自給経済の破壊でした。それぞれの場で成り立っていた暮らしを成り立たなくさせ、お金に依存させます。そして自分たちで生きていく力を奪って、搾取的な仕事に従事させるのです。それぞれの自給経済においては、人々はエネルギー、食物、水、周りの自然環境など、それぞれの人が関わりをもち、調整をする存在でした。それはいわば、人々は自分の生きる世界のすべてに対して応答する存在だったのです。お金を一手に集中させ、富と権力を得ようとする人たちにとっては、そのように人々が自分の生きること全体に関わり、調整し、応答する(そのことによって人々は意識的でなくても、結果的に自分の主体性と世界との応答性を保っていたのです。)社会は不都合でした。彼らにとって社会は、様々な場所から自分という一箇所にお金が集まってくるように、再構成され、画一化されるべきものだったのです。

内面化した抑圧という問題
 それならば人々が集まってそのような体制を打開すればいいではないかと思われるかもしれませんがなかなかそのようにはいかないのです。パウロフレイレは、抑圧者(人々を支配し搾取する権力者)と被抑圧者についての分析を行なっていますが、抑圧されている人は単に肉体的に抑圧されているだけでなく、抑圧者の価値観を自分自身に内面化しており、そのままでは自分が権力者に成りかわろうとするだけだったり、権力者が持っているものを自分個人が欲しがるだけなのです。フレイレは、自分が埋没している世界を一旦距離をとって再認識し、自分自身の抑圧状況を認め、そこから解放されることが必要であると指摘してます。内面化した抑圧から解放されることが必要なのです。それは一斉教育で教えこめるようなことではなく、一人一人が自分の解放を行なっていくことが必要です。

得られた知見や実践が蓄積されず消えていく
 フレイレは独自の識字教育や人々が自らが暮らす世界をフィールドワークすることなどを通して、人々に内面化された抑圧を解放する取り組みを行い、多くの知見を残しましたが、僕はフレイレの分析をここ3、4年ぐらいで知り、大変驚きました。何に驚いたかというと、抑圧の内面化などの50年前のフレイレの知見の蓄積は自分の周りでは全く共有されていないし、ネットなどSNS上においてもまるで踏まえられていないのです。三途の川に賽の河原というのがありますが、そこでは石を積んでも積んでも石が崩れてしまうのです。あたかも賽の河原のように、せっかく分析された知見がまるでなかったようになっており、それでまた一から昔に議論されたことを議論しはじめたりしているのです。

 まるで馬鹿げた状況です。僕はそれまでこう思っていました。昔に発見されたことは国とか大学とかには踏まえられ、その上に積み上げられてくるものだと。しかし、実際は、抑圧の内面化が問題であり、それをどう解放していくかなどという視点を持った人、実践をしている人が僕には見当たらないのです。社会では、発見されたことなどなかったことにされているのです。それはフレイレだけでなく、林竹二など教育の実践者などにおいても同様でした。資料としては残っていても、実践としては蓄積はほぼ皆無であり、むしろ当時より後退しているような現状なのです。自分が今の状況から逸脱していこうと思うなら、どこかで教わるのではなく、自分がどこかに探しにいき、調べて見つけていくしかないのでしょう。

 ネット用語ではフィルターバブルという言葉があります。検索エンジンで検索すれば世界の様々な情報が集まるように思えて、実際は複数検索されたものや個人情報などから、アルゴリズムが勝手に僕が見たい情報を選んで表示しているので、いわば自分の外側の観点のものに触れられず、泡の中に閉じ込められるように自分は孤立し、自分の外にあるものに触れる機会をあらかじめ奪われているのです。ネットでもそうですが、蓄積された知見がなかったことにされる賽の河原現象がおこる理由は、オフラインの社会でもそのようなことがおこっているのかと推測するしかありませんでした。

パワーゲームとしての実態を持っている社会
 なぜ発見された知見は無視されたり、なかったもののようにされているのか。たとえば北欧では薬物依存症者を罰しないことで回復がはやまるのでそのような実践がされていますが、日本ではそれは全然されていません。知識人は知っていても、社会には反映されないのです。正しいことだからやったらいい、では社会は変わらないようです。その理由が個々人が既得権益のパワーゲームをやっているのがこの社会だからというところにあるように思えます。どんな正しいことでも、自分のパワーゲームに不利ならば、強いものは受け入れないのです。ドラえもんジャイアンのような存在がいれば、人の声を打ち消す声の大きい人がいれば、環境は昔と変わらないばかりか、もっと後退的にもなるのです。人権という概念が昔からあるからといって、ブラック企業がなくなるわけでも、この先生まれないわけでもないのです。世界経済フォーラムの調査では、日本の男女格差は2017年の調査では良いほうから114位であり、その結果はその前の調査の103位よりなお落ちています。

 この調査に偏りがあったり、この調査一つだけでは何も言えない(だから批判するな、お前のような素人が意見するな、というなら、事実上みんなが考えることを誰かにまかせ、現状を追認し、あと回しにするだけですよね。)のかもしれませんが、実感レベル、自分の周りを見たり聞いたりしただけでもう十分だと思うのです。専門家でないと意見を言ってはいけないというのは、今ある抑圧に申し立てする人を黙らせるのに良く使われる抑圧です。人は自分で考え、確かめ、そして認識や感覚を更新していかなければどんどんと無思考無批判になり、不満だけためて非応答的存在になっていくのですから、個人が考えることに意味がないというふうな働きかけは環境全体を腐敗させるものです。また、「専門家のモラル」や「確かな情報しか伝えない」として、自分は専門外のことには意見しないというのも、自分が現在のポジションで高をくくれるから社会の抑圧状況を無視できるからやっているわけで、あたかも知らないことは言わないと責任ある態度のように表明されますが、保身に汲々としているだけなのに、と思ってしまいます。

パワーゲームにのらないものは相手にされない
 専門家が社会を支配する制度の批判については、イヴァン・イリイチが詳細に行なっています。しかし、イリイチがこういっているとか、ネット上でもまるで議論になったりしていません。イリイチフレイレも、テストに出るような、何をやったかどんなことを言ったかは触れられていても、議論されるべきようなものとして取り上げられることはなく、放っておかれています。実際のところどうなっているかはわかりませんが、現実の体制を抜本的に更新するような提案や意見、議論などは無視され、現状の抑圧やいびつさは前提の上で、手軽に取り入れられる改善策、うまくやる方法などもてはやされます。推測するに、これもまたパワーゲームの結果なのだと思います。国であれ大学機関であれ、そこで行われているのはパワーゲームなのであり、良心的な、人間的なものがイレギュラーとしてあるけれど、それはあくまで傍流であり、減衰していくものであり、強いものから分け前をどれだけ得るかが問題なのであり、パワーゲームと関係ないこと(つまりそれに関わるだけで事実上のマイナス)に意識をむける気はよっぽどの変人か被抑圧者でない限りしないのではないかと思います。

◇言葉をもった人間とはどういうものか
 以下も、全くの当事者研究です。
精神
 まず身体に血管がはりめぐらされ、そこで新陳代謝(更新)が行われているように、精神もまたチューブのようなものであり、そこに気が流れていると考えてみます。気はスピリチュアルなものというよりは、日常語で「気詰まり」「気まずさ」「気持ちよさ」「気のせい」などといわれるもので、ざっくりとらえて心理的な感覚をともなうものとします。「気詰まり」という言葉においては、詰まったりするのですから、流れていることが前提されています。身体に置いて血行がよい状態がいいように、精神においても気の流れる通路のなかにその流れを阻害する異物がないほうがいいわけです。そして人間は精神においてその異物が最小化される状態=気の流れが最大化する状態を求めていると思われます。そして、異物の最たるものが「言葉」であるのだと思われます。

精神と言葉
 通っている整体で「精神は忘却の過程である」という言葉に出会いました。そこにおいて身体化したものは忘却されるようです。精神は忘却を求めていると言い換えられるかと思います。僕の解釈ですが、精神にとって重要なのは気の流れの最適性化であり、そこには言葉さえ不要であると思います。プロメテウスの神話において、火(意識=言葉という鏡に写ったものをとらえるもの)の獲得の結果、プロメテウスの岩山にはりつけられ、毎日内臓をワシに食べられます。内臓は毎日復活するので、プロメテウスは助けられるまでは永劫の苦しみをうるわけです。これが言葉をもつことの代償であると考えます。古代の中国語を研究している安田登さんは心とは過去と未来を持つことだと言います。それまで過去と未来を持たなかった人は、毎年王朝に人の生贄を捧げなければいけないのに、逃げてしまったりしなかったそうです。言葉は、それまで精神にとって存在しなかった「明日」を作りだしました。言葉の獲得によって、人間は明日(ずっと先の未来)の準備ができるようになったと同時に、「明日」におこりうるかもしれない仮定としての苦しみに永遠に強迫される存在になってしまったのです。言葉とは記憶であり、過去です。言葉によって映される仮定の世界、実際は記憶に閉ざされた世界を本物の世界だと人間には感じられます。人間はまだ来ていない明日を苦しむ存在です(読書会でもやったプナンの人たちの文化はその言葉の作用を意図的に打ち消す文化を持っているととらえています)。

 精神にとって、言葉はもう一つの業苦(ワシに毎日内臓を啄ばまれる)をもたらすことは、この広大な世界における卑小な自分の意味を規定されてしまうことであるのではないかと思います。自分を規定されることは、何にも規定されずとらわれていなかった精神にとって屈辱以外のなんでもないのではないかと考えます。そのため、人間が自分をより高い意味、価値あるものに高めようとするのはやりたくてやっているように思えて、実態は低められた価値を回復しようとする反動であり、磊落した自己を代替的に元に戻そうとする行為であるのかと思います。

 言葉とは、時間の止まった過去の世界に自分を投げ込むものであり、どうしようもない明日への強迫、精神が自己規定されるという屈辱をもたらすものであり、人間は生涯をかけてその不本意な状況を改善しようとするようです。自分が何かを達成したり、認められた存在になろうとするのは言葉の世界に閉じ込められた状態にいながら自分のステイタスをマシにしようとする試行なのだと思います。

鶴見俊輔の親問題 根源的な苦しみと逆境を自分として生きる力
 なお、物心がついた自意識にとっての最も大きな傷や脆弱性ととらえられたものは、根源的な苦しみとなって意識下に沈み、生涯にわたって自意識に影響を与え続けるようです。鶴見俊輔は親問題という言葉をつかって、人が生きるとは何かとか、自分の意味とは何かなど、根源的な問題に向き合い、その結果として世界に新しいものを生み出す人とと、環境に埋没し抑圧的な秩序に加担する人の違いを、親問題に向き合っているのか、場当たり的な適応である子問題に邁進しているのかという違いを提示しています。

 根源的な苦しみは、ネガティブな印象とは逆に、自意識の実感としては充実をもたらす源泉として機能します。ライフワークとして成り立つようなこと、あるいは苦しい環境の中でも自分として生きる力はこの根源的な苦しみに対する生体の自動的な反発によって生まれているのではないかと考えています。

 人間がなぜ親問題に向き合わず、子問題(場当たりの適応)に邁進するのかということは、殻という概念を想定して考えています。時間がなくなり、続きは2/9の発表で・・・・。

やりとりの一部から 応答について

最近は、人間は良くも悪くも応答的存在でしかありえないなと感じています。

 

フランクルは、人生に意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに答えなければならないというようなことをいったそうですが、降りていくブログは生きるなかで僕と同じ問いにさらされている人に対して書いていたなあと思います。

 

それを自分と同じような、「人のために」というとそれは違って、やはりあくまで自分のために書いていましたが、(生から自分と同じ問いを向けられている)相手を想定しない限り、書くことや思いついたり考えたりする動機は生まれなかっただろうと思います。

 

それはつまり応答としてしか書けなかったということだと思います。同時にそれは応答するとき、自分が自分にない力に動かされ、また新しい力を得て変わっていくということでもあったと思います。

 

常々思っていたのは、本当に苦しんでいる人は妥協のない問いを発していると思いますが、もし僕のたどり着いた認識がその人にとって有用であると認識されるなら自分の確かめてきたことはあながち間違いではないということでした。

 

僕は自分の中に確かめるのではなく、何かに苦しむ当事者の人の問いに、自分の認識を確かめさせてもらい、それで階段を一段ずつのぼるように認識をつくっていきました。今でもそうです。応答として人に関わり、応答によって自分が更新されていくのだと思います。僕が生きることは応答に依存しているともいえるのではないかと思います。

 

特にここ1年はブログを読んでくれていた人との出会いがいくつかありました。考えてたどり着いたことをその人なりにとらえ、深く受け止めてもらえることによって、たとえそれが5、6年に1回とかであっても、自分が育てられていくように思います。

 

応答とは、自分の動くところと他人の動くところがひびくということでもあり、自己完結の応答はありません。自分だけが我慢したり、相手だけを我慢させるのも応答ではありません。

 

人は応答を生きることができる。そして同時に応答を生きることしかできないのだと思います。自分だけで背負うことは、本来、応答的存在である自分を殺すことですし、応答を返す人の可能性(応答することによってその人が変わっていくこと)もまた殺しているのです。

 

もし応答ということに、より感覚が開かれていけば、何をどれくらいやるのか、ということにも頃合いがつかみやすくなるのかなと思います。それもまた応答を繰り返すことによってリハビリされていきます。でも今の自分が応答していないかというと、応答の分しか生きていませんので、既に応答しているのです。