降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

からだとことばのレッスン2回目

竹内レッスンと野口体操があわさった「からだとことばのレッスン」2回目の参加。首の後ろとか、後頭部とか、頭頂とか、それぞれの部位を共鳴させて声を出してみる。声を出すのはとても力がいってしんどい、という感覚を持っていたけれど、共鳴を使うと力はいらない。短い時間で学べるところが多かった。

 


不思議だったのは、一緒にいた人たちも声を出したあと元気になったところ。連日の移動とかで疲れていた人も元気になっていた。

 

なぜなのかわからないが、和太鼓の響きを連想していて、いい響き、健康な音というのはそれ自体で不健康だったり、滞留しているものをとばすのかなと思ったり。

 

気功とかやっていないけれど、気(持ち)の通りということが気になる。割りと何をやっても気が「通った」感じがしないので気持ち悪い。いい意味で抜けていくというか、発散していくというか。気持ちいい発散とかあまりない。どこかでやっぱり詰まっているというか、自分に戻ってくるというか、出ていかない。

 

声のワークのとき、色んな感じで共鳴させて声を出したのだけれど、気の通りがよくなった感じがした。吐いた息が戻ってくる感じじゃなくて、出て抜けていくような感じ。こもった熱が発散されていくような感じ。

 

抜けていけばそれだけで気の通りがよくなって元気になる。というか、その状態がむしろ本来なのだろうか? ともあれ、周りの人の元気も、カンフル剤打つような元気ではなくて、滞りがとれて、通りがよくなった状態の元気のような感じがした。
出す声で意識状態が変わる。いい音が出る状態でしばらく声を共鳴させるとそのいい状態に意識もセッティングされるかのようだ。

 

障害があったりして、よく奇声を出す人もいるけれど、奇声も響かせるところをちょっと変わったところにして、気を通らせているんじゃないかと思ったりした。体の調整弁的な働き。たまったものが出る時にそういう突発的な感じになるとか。もし意識的に歌ったり、音出したりしていけば、奇声にならなくても気が通るようになるんじゃないかとか。

 

前回はこちら。

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死にきれないもの

この前参加した竹内レッスンの講師の瀬戸嶋充さんから紹介された『屍鬼』をかりようと図書館に予約。5巻あるうちの3巻だけが先に届いた。もう少し待つ。『屍鬼』は吸血鬼が出てくる話しなので死にきれなさについてどんな表現がされているのか興味がある。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

 

 


ファンタジーから心のリアリティがどのようにおこり、それはどのような構造をしているのかを考えてみるようになった。作品や作者の違いをこえてどのようなパターンが繰り返し現れるのか。パターンとはテーマ性ともいえると思うが、このテーマ性をみていく。繰り返されるには理屈がある。その理屈を探る。


吸血鬼やゾンビとか幽霊とかも含めて英語はアンデッドといわれる。「死んでいないもの」ではなく、「死にきれないもの」というのが正しいと書かれているものを子どもの時読んで、変に心に残ったことを覚えている。


物語において、このようなアンデッドたちは何を語っているのか。大昔から現代になってもなおアンデッドは繰り返し物語として生まれ表現されている。

 

先日出版された『STAGE』への投稿ではシルヴァスタインの『ぼくを探しに』を題材に「とむらい」という関わり方が生を動かす動機であり、同時に閉じた生、滞った生を展開させるものともなると考えていることを書いた。

 

 

新装 ぼくを探しに

新装 ぼくを探しに

 

 

再読してみると、「とむらい」という言葉は使ったが、「死にきれなさ」という言葉は使ってなかった。同じ意味のようなことはいっていたけれど。

 

「死にきれなさ」はネガティブ極まりなさそうに受け取られるかもしれないが、生きているということは「死にきれない」ということだという見方をしたときに、自分や世界でおこっていることの理解に筋が通ってくると思う。

 

「私が生きる」という言い方は、普通であってとくにどこにも間違いがないようで、深刻な本末転倒がある。

 

エネルギーが少ないとき、この「私」が「生きる」ということに負担を感じる。「私」がこのうえ何かをさらに「やって」生き「なければ」いけないのか。

 

このときは、生の主体があたかも「私」であるかのようだ。だが、生の主体は動かざるを得ないエネルギーであり、「私」はそこに否応なく動かされているに過ぎない。そのエネルギーの求めに妥当なかたちで応答しないと生の循環が行き詰まっていく。

 

実際のところ、主体は「死にきれなさ」だ。だから「私」がコントロールできなくて困っているのだ。その対応として「私」をさらに巨大にして、あるいは性能をよくして停滞する状況をこえようと考えるのだがうまくいかない。

 

状況や症状がなぜ停滞しているのか。その理由は「死にきれなさ」以外の何ものでもない。「私が生きる」と生きることを既知のものしか知らない「私」の背中にのせようとするのではなく、「死にきれなさ」がどのように働いているのかをみる。

 

その停滞状況自体が、「死にきれなさ」が何が何でも生きようとしている状態なのだ。この「死にきれなさ」は何をしようとしているのか、何にしがみついているのか。その圧倒的な力が状況を固定している。この「死にきれなさ」という主体の動機を探っていく。これは自意識の降伏ともいえるだろう。

 

すると、「死にきれなさ」の求めや願いが実は自分の求めや願いであることがわかってくる。問題だったのは、意識的ではないにせよ、「死にきれなさ」を主体として受け入れることに抵抗していたことにある。「死にきれなさ」が私なのだとなったときに、自意識としての「私」が「生きる」は終わる。主体は自意識とは関係なく存在し、むしろ自意識が抵抗すればするほど意固地に強固に力をかけてくる。自意識が主体だという幻想を終わらせにかかってくる。

 

「生きようとしている」はずなのに、症状として「死にきれなさ」が力を発動すれば生きられる可能性がむしろ減る。「死にきれなさ」の特徴は盲目性だ。

 

複合的現実とそぐう目的をあらかじめ持たない自律的で盲目的なエネルギーの流れ。それは他者であるだろう。よって他者が「私」の主体であるということになる。自意識としての「私」がどのようなものであれ、合理的世界がどのようなものであれ、そこから独立している主体がある。矮小な自意識で生きることを背負うのは本末転倒だ。「死にきれなさ」というエネルギーとの関わり方で生の展開がおこってくる。

STAGEを読む

STAGEを読む。

特別寄稿をふくめると11人の人が文章を書いている。

 

こうしたい、というイメージがあり、一人ひとりにかけあい、関わりのなかで現実化された濃さみたいなものを感じる。

 

出版後のSTAGEに関わる話しを聞いていても、本の存在は薄まっていく感じがなくて、むしろ同じ濃さのものを呼び、つなげる力があるような感じがする。

 

手づくりのものというのは、こういうもののことかと思う。

僕がSTAGEを渡させてもらった人の反応も、頭で読んだ反応というよりは、心がほぐれたような、そんな感じで感想を伝えてくれた人が何人もいた。

 

「何かほっとした」とか。

「みんな生きづらさを抱えているみたい」という感想もあった。

 

https://www.instagram.com/p/BKf99XohqUz/

 

自分の文章を再読するときは、ちょっと抵抗が強い。なかなか読めなかったが、つい先ほど最後に読んだ。自分が意識して書きながら、同時に霊媒みたいに感じ取られるものをなぞって言葉にしているので、他人が言っているような、そんな新鮮な感じもする。

 

別の本の序章に「寄り合い」について書かれた文章があった。一般的に理解されているのと違って、寺社などで非日常の空間で行われる寄り合いは日常のしがらみや上下をたちきる場であったという。

 

「寄り合い」というと、それはとりもなおさず地縁や血縁にもとづく人々の結合の形式であると、われわれはかんたんに考えてしまうのだけれども、どうも、そういうことではないらしい。「寄り合い」は日常的な関係性を引き写した集会ではなく、むしろ、それを超える関係性をつくり出すための集会であったようだ。人々は家格や血縁の如何にかかわらず、対等な個人として発言した。誰はばかることなく、その所存を開陳した。そのためにも集会は、寺社という非日常的な、いわばこの世の結縁をたちきった空間でおこなわれることが必要であったのだ。「寄り合い」は、その言葉がこんにちよびおこすところの通念とは逆に、むしろ因習的な共同体の絆をたちきる行為であったのだ。 里見実『ラテンアメリカの新しい伝統』

 

 

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

 

 

寄り合いは、様々なしがらみや規範を無化した空間で行われた。自由を得るためにはそのための空間を作らなければならない。空間の構造がその中にあるものの運動のあり方を決定する。そこで人がどういう状態になり、どういったことを思いつき話すのか。それらは空間の構造に依存している。

 

ある空間は、人をある状態に縛るともいえるし、解放するともいえるだろう。運動が空間に依存するとはそういうことだと思う。

STAGEという舞台を提供された人たちが、その新しい空間での振る舞い方に戸惑いつつ、動き出せる空間を待っていた自律性、プロセスをそこにゆだね、反応をおこしていく。ここで、何かを終わらせていく。


9/28出版 「幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!」

9月28日に三重県鈴鹿市の「おふくろさん弁当」の本『幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!』が出版されます。

 

僕も一部考察を書かせてもらっています。amazonとかで買える本に自分の書いたものが載るのは初めてです。

 

幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!

幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!

 

 

 

大学を出たあと、在野で人の変化や回復がどのような場所でおこるのか探り、自分なりに様々な場所や取り組みをみてきました。

 

人が回復するところは、フラットな人間関係があるところで、世間一般的な常識、あるいは意味や有用性の強迫や強制から離れられるところです。

 

自意識とはそれ自体が一種の防衛反応である側面があり、どんな肯定的なことであっても「自分が〜しなきゃいけない」「自分が〜するべきだ」とつよく強迫されていればその分変化のプロセスや行動のパフォーマンスは滞ります。

 

おふくろさん弁当のインタビューではっきり確認できたことは「自分が自分によって変わらなければいけない」とすることも手放していいのだということでした。これは投げやりになるということではなく、場を共につくり、場に委ねるということによって、「自分がやる」とか「自分が自分を変える」というような肩の力が入るような意気込みがもたらすマイナス要素を取り除くということです。

 

では委ねられる人間関係になるにはどうしたらいいのか。話し合いができなかったところから話し合いができるようになった鍵は、それぞれの人が自分で自分の心におこることを観察するということができるようになったことにあるだろうと思います。

 

話し合いができるようになった人たちの間ではどのようなことがおこるのか。働くということは、どのように成りうるのか。楽しく、同時に示唆深い事例が多く紹介されています。

おふくろさん弁当関連の過去記事

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

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ピアの可能性

FB、1年前の記事がお知らせでくる。”回復のための演劇がつくりたい”と題してヴァイオラ・スポーリンや坂上香さんの「トークバック〜沈黙を破る女たち」から人の変化とそこに使えるものとして演劇という媒体について考えた。

 

 

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今、タイトルを見ると、わざわざ「回復」とかつけると意識するから邪魔になるだろうと思ったけど、読んだら文中でもそれは言及していた。1年前の記事とかは既に他人が書いたのと同じような感覚になっていて、こんなこと書いてたんかと思う。


”公演で生計をたてる役者になるのだったら、どれだけ自由になれるか、どれだけ演じられるかが重要になるのだろうけれど、みんなが役者にならなくていいのであって、個人が自分の防衛からより自由になればいいし、人と人がお互いにより深い信頼関係をもち、人が変化しようとする時に支持的になれるようになればいい。これだけで十分革命的なことがおこるだろう。

演技がうまくなるためではなく、治療のためでもなく、成長のためでもなく、ただ個人のなかにあって動こうとしているものが動きやすいような環境をつくれればそれがベストだと思う。ある特定の価値観を至上のものとすると、それもプロセスの邪魔をする。


「回復のための演劇をします。」と言わずに実質的にそうするには、どういう設定が必要だろうか。たぶん、別の建前をつくり、主にそれに向かっているような錯覚をもつことによって、自由になると思う。四国遍路で88カ所の寺をめぐるという目的をたてながら、そのことによって「道中」をつくるように。四国遍路においては、遍路は道中にあり、と言われる。お寺ではなく。”

 


昨日、仲間内でちょっとしたロールプレイをやった。そういう働きかけをやってみたのは自分では初めてだったのだけど、意識に残るその時の状況で自分に何がおこっていたのか、そこから何が固められてしまったのかを見るのに有効だと感じた。

 

仲間内と書いたが、今、あらためて実感を強くしているのはピアの可能性だ。学校や講座、ワークショップで「できる講師・ファシリ」と「教えてもらう人」というかたちではなく、ピアの一人ひとりが学びと協働の主体であり、求める技能や状態を高めていく。このかたちで可能になるのは、主体性以外のところでは、時間・場所の融通性がまずあげられる。

 

個人が贅沢に焦点を当てたいことに時間とその場を使える。多人数一斉型ではここが犠牲になる。自分のなかで何かのトリガーがひかれ、プロセスがはじまる契機を逃さず、すぐにピアと共にやってみるということができる。

 

1回限りのワークショップ型では、その場の体験は残念ながら使い捨てになりがちだ。得たことも別の場では再確認とかエクササイズしにくい。演劇的ワークショップなどでは、ワークショップ後に調子を崩されたときに対応ができないので、必要だと思っても踏み込みができない。それは一回限りの関係性だからだ。だが、時間も場所も融通がきくピアなら、その問題をこえていける。やるだけやって後はケアできないということが回避できる。

学びとは何か サバイバルとエンパワメントの視点から

学べることは無限にあるけれど、では何を学ぶことを選ぶのか。


学ぶことは余裕のある人や、能力に恵まれた人、学ぶことが好きな人だけに関わることなのか。

 

僕は今まで特に学ぶという言葉に対して意識してこなかった。自分にとって火急なことがあり、自分が生きていくために世界から情報やヒントを得て確かめ自分のものとしていく必要があるだけだった。

 

もともとの能力的な限界もあるけれど、学問の世界とか行かなかったのは、人に証明するために膨大な時間を使っていくことはできないと思ったから。自分が理解し、今いる場所から先に進む。それが重要であり、人に証明する必要も必然も自分にはなかった。

 

あまり色々と能力を持っていない。自分の体や頭が動くところでいくしかない。自分はサバイバルをやっている。しかし自分が既に知っているものでは足りない。サバイバルしながら、新しい何かを獲得していくことが必要だった。

 

そのなかで気づいたのは、自分の体や頭が動くところを自分に提供していくと次が開けてくるということだった。エネルギーがたまり、認識や感覚が変わり、そして人や環境への関わり方が変わってくる。それはらせん状に動き、エネルギーを得ていくループ。

 

このループと共にあることによって、生きることはエンパワーされる。繰り返されるループだが、それがらせん状であるなら同じところをぐるぐる回っているわけではない。常に自分が変わりながら、必要なものも同時に変わってくる。必要なものはその度に探られ、発見される必要がある。

 

教育哲学者林竹二が被差別地区の定時制の学校(湊川高校)で授業をしたとき、他の学校では「不良」以外の何者でもないような生徒たちの変貌ぶりは林を驚かせた。同じことをやった他のどの学校でもここまでの変化はなかった。一体何が人をここまで変化させるのか。その原動力は何なのか。

 

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

 

 

学びとは新しくなること。生命が不必要になった外殻を破り出てきて自身を更新すること。この学校の生徒たちは他の地域の誰よりも強い抑圧や不条理のもとに押し込められていた。学びは他の誰よりも彼らこそに必要であり、彼らの身体は生きものとして切実に学びを求めていた。

 

学ぶことは、生きものが自身を更新し生きようとする力に動機づけられている。その身体に動機づけられている学びによってこそ、人はエンパワメントされていく。ここが学びの基軸。

 

自分の身体の奥に動機づけられていない学びは、学びとは呼ぶべきでもないと思った。紛らわしく、余計に人を混乱させるからだ。学ぶことは、即サバイバルであり、エンパワメントである。やらなくてもいいようなことが「できる」のは自分を脇においているのか、失っているようなものだ。

 

エネルギーを得て、変化し、エンパワメントされていくループにあるとき、学んでいる。そしてそのループにあるときに自分がある。

 

ではそのループと共にあることを求めるとき、要請されるものは何か。それは環境に働きかけそれを自分に必要なものとする力、環境に対して裁量をもち、調整する力だ。自立性とも言えるだろう。

 

湊川高校は貧しい非差別地域にある。彼らには環境を主体的に調整する社会的な裁量権は少ない。強烈な動機があっても、貧しさや社会的ステータスによって、環境調整をする裁量は少なく、自分に最も必要なものを自分に提供することによって動きだすループは動き出しにくい。彼らとは違う人が自分たちのために作った規範と抑制のなかで、彼らに必要な出会いの機会は多くない。

 

必要なのは自前の自律的な空間をつくることだろう。エネルギーを得ていくループが動きだすことを可能にするために有効な手はそこにある。小さくてもいい。ループが動きだす最低限さえあればいい。何もかもがいるわけではない。

 

 

世界マヌケ反乱の手引書: ふざけた場所の作り方 (単行本)

世界マヌケ反乱の手引書: ふざけた場所の作り方 (単行本)

 

 

 

学びの自立があるときに、ようやく自らに由るということが可能になる。それまでは結局依存状態なのだ。エネルギーを獲得し、エンパワーされていくループを自分のものにし、維持する自立性をより確かにしていくとき、そこに必要とされていた自由が作り出されていく。

アズワン・コミュニティ 「自分を知るためのコース」に出る

鈴鹿で6泊7日の合宿。

「自分を知るためのコース」というのに出る。

コースは8種ぐらいあって、他は「人をきくためのコース」とか「内観コース」とか色々ある。

鈴鹿でおこっている人の変化のあり方に興味をもち、自分もとりあえず一通り入ってみるかと去年から時々入り始めた。前も書いたけど、コースは哲学カフェをずっとやっている感じ。「知る」とはどういうことかとか、「感覚とは何か」とか、テーマが出されてその場を囲む人で吟味していく。

 

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アズワン・コミュニティのあり方を垣間みた僕の最初の感想は「へー、哲学カフェをずっとやってたら実際の感じ方や認知という水準で認識が変わるんだ」というものだった。哲学カフェって本当に意味ある効果を持っているんだ、と哲学カフェの再認識みたいな感じだった。

名前のつけ方とか、言葉遣いはちょっとどうかなあと思いつつ(「人生を知るためのコース」とか、人生って言葉がそもそも恣意的な前提を含む言葉だよなとか、知るっていいすぎやんなとか。話しをきくと「ための」というところが強調点らしく、あくまで考える契機を提供する場ということだったけれど。)、とりあえず体験してみようと入った。やっていることは自分の現在の認識をさらに吟味していくということで、最後に答えが出るわけでもなく、押し付けられるわけでもなく、自分としてのびのびと考えられる場だった。

アズワン・コミュニティの特長は、話し合いや対話ができなかった状態をできる状態にしていったというところにあると思う。なぜ対話ができるようになったのか。それは自己観察によって、自分に瞬時に感情反応を引き起こす自動的認識を見直す仕組みを体系立てたことによる。相手が絶対おかしいと否定したくなる強い気持ち。相手の言動から引き起こされる怒り。そういうものはどういうからくりでつくりだされているのか。

観察によって、そのからくりを時間をかけ明らかにしていく。
自分の受け取ったことはあくまで頭のなかで判断されたことであり、実際とは違う。どこまでいっても受け取ったことは頭のなかのこと。観察を続けるなかで、そのことが理解されていく。

このことは自覚と呼ばれていて、この自覚がはっきりとしてくるにつれ、自動的な感情反応に左右されることはなくなっていく。話しによると、自分の頭のなかのことだということが明確にみえるとパーンと認識の仕方がかわるという人もいる。

 

その体験を霧が晴れるようだとか、認識と認識の間がひろがって、あるパターンの刺激に対して、条件反射的に直ちに感情に圧倒されてしまうような感じがなくなっていくというような感じとも表現されていたように思う。

 

「自分を知るためのコース」は、その自覚を得ていくための基本的なコースと位置づけられている。


アズワン・コミュニティでの体験をふくめて、自分の経験を振り返ると、感情の自動的

反応は決め付けによる意味の重なりでおこっていた。

 

たとえば

たたんでない毛布がやや見苦しい=A という認知があり
毛布が見苦しいのは自分がだらしないからだ=B という決め付けがあり
だらしないことは強くダメなことだ=C という決め付けがあるとする。

 

Bの毛布をたたまないことが自分がだらしないことに紐づいていることは無自覚。

 

Bが意識化されていない状態では、たたんでない毛布を見ただけで自動的に強い反応がおこる。

 

観察によってBの紐づけが発見されると反応が消える。


この場合、ABCのどれかが変化すれば毛布をみても反応は起きない。まず見苦しいと思わなければ起こらないし、「だらしない」のがだめだという認識がなければ反応はおこらない。

 

自分は、毛布以外の場合でもこのB(=無自覚な紐づき)を発見することにより反応をとろうと考えるのだが、そもそもAの段階で毛布が「見苦しい」のは自分の認識だという自覚ができれば、Bの紐づきなどあっても反応はおこらない。そもそもの初動の段階で反応から離れられる、らしい。

 

ふーん、そういうことがあるのか、みるということがちゃんとできればそういう状態にもなるのかなあと思いつつコースを受ける。

 

見ているものがまず自分が受け取ったものと認識しておらず、自分の受け取りと関係なくそこにあるものというリアリティのなかにいる。それが人であれば自分が受け取ったその人ではなく、そこにいる人から実際のものが感じられていると認識する。

 

リアリティは、現実っぽさという意味でのリアリティ。フィクションであってもリアリティがあれば条件反射的に感情反応がおこる。このリアリティは非言語なので、逐一の意識的把握が難しい。日常では言わばこのリアリティに翻弄されるわけだ。よく考えてもそんなことはないのに、圧倒的なリアリティが自分の前にたちはだかって圧倒され、行動ができないようなことは珍しくない。この受け取られる現実っぽさ、心的現実こそが現実だと感じてしまう。

 

漢の皇帝の話しがある。初代皇帝の仲間たちは荒くれ者で、身分が高くなっても言動が変わらず、皇帝に対しても礼儀がない。そこに礼節という仕組みが導入される。皇帝に対してはこういう言葉遣いで話さないといけないとか、ここではこういう行動をしなければいけないとか。それが徹底されたとき、荒くれ者たちが言った言葉は、「皇帝の偉さが初めてわかった」だったという。

 

ここには錯誤がある。荒くれ者たちが感じているリアリティは、彼らが守らなければいけない作法によって作り出されているのだが、彼らはそれを意識化できず、「皇帝が偉いから偉い」と感じてしまうのだ。

 


無自覚に「これはこうだ」となっている認識は、リアリティを派生させる。その認識はフィルターのように、認識の構造を投影したリアリティを派生させる。

自分が受け取ったものからリアリティが生まれ、この人はこういう人だというリアリティが迫ってくる。たちが悪いのは、言葉で迫ってくればまだわかりやすいし対応がしやすいと思うのだが、非言語でリアリティだけがせまってくる。把握しようとすると、そのリアリティを言葉にしなおさないといけない。意識化できないまま次々にくるリアリティに翻弄される。

 

ある人の見かけや言動、人一般に対してこれはこういうものという意味が投げかけられており、自分が投げかけているのに向こうの実際のリアリティだと受け取られる。

 

 

人にどのような意味を投げかけているだろうか。人から受けるリアリティは当然になっているがあえて言語化してみるとどんな感じだろうか。あらためて感じてみると、まず一人ひとりが存在感あるなあと思う。リアルに存在している。リアリティにちょっと圧倒され、押される感じがある。これは恐怖といえるだろうか? 恐怖という感じではないかもしれないがリアリティにちょっと、たじ、となる。

 

これが自分の人間観、人一般に投げかける意味によるものなのか、それともこれが自分の生物的なデフォルトの状態なのかわからないけれど。

 

しかしたとえばそれがパートナーとかになると、圧倒感はなくなる。これは意味付与によるものなのだろうか。でもここから想像すると意味付与によって他の人たちの圧倒感もなくなるかもしれない。またその圧倒感が「大きいもの」という意味から来るものであれば、逆に他人ではなく自分に対して「小さいもの」という意味付与をしている結果として他人がそう感じられるのかもしれない。


人一般ではなく、個人に対してはどうか。
ある人に対して頑迷そうだという印象をもったとする。頑迷であることは、対応が難しい、何かのはずみで何かのとばっちりを受けそうだとか、色んな紐づきを持っている。紐づきは無自覚なものも多く、自動的な反応、認識におびやかされる。その人の言動によって意味付与が更新されていくとせまってくるリアリティも変わってくるのだが、それはしばらくかかる。

 

もし初見の段階でこれは自分の投げかけたイメージでしかないと認識できるなら大分関わり方も変わってくるだろう。

 

さて、コースを受けながらああかな、こうかなと見方、意識の焦点の向け方を変えたりしてみたが、劇的な変化がおこったということはなく、まあ一足飛びを期待せず、事実化のメカニズムを日々の観察のなかで地道に気づいていくということかなと思った。

 

自分を知るためのコースは実は2回めなのだけど、1回めのときは、まだどう受けたらいいかがわかっていなくて、特に意味なくぼーっと時間を過ごしてしまうときが割と多かったが、最近はそういう時間は少なくなったかと思う。テーマも一年前とちょっと違うのもあったかな?と割と新鮮に受けられた。

 

と同時に、コースというのはある程度まんべんなく一通りをやるものだと思うのだけれど、特に自分に必要なところに焦点をしぼってやったらもっと進むということもありそうだなと思った。コース出たあとで何か自分で工夫してそういうことができないだろうかなと思った。