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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

「回復のための演劇」がつくりたい

「回復のための演劇」が構成できないかと考えている。
坂上香さんのドキュメンタリー映画「トークバック 沈黙を破る女たち」では、HIVに感染した女性たちが自らの尊厳を回復するために自らの物語を演劇化している。この映画をみたある自助グループでは、それまで受け身でプログラムをこなしていたのから一転して、自分たちで詩の朗読会をやりたいという人たちが出てきたという。

 


表現と回復~トークバック 沈黙を破る女たち - YouTube

 

人間が、今自分がそうなっている状態に苦痛を感じ、その苦しみを終わらせたいとする。人が変化するためには、状況設定が必要だ。かつての伝統的な通過儀礼などがそれにあたる。現代の安全な成人式と違い、命をかけるようなものもあり、高い緊張を引き起こすことがそのうちに含まれている。必然的に揺り動かされる。変化がおこるには揺り動かしがまず必要だ。揺り動かしは、分離をうながす。

 

そしてそれまでの状態から分離し、過渡的な状態(境界)に入り、新しい状態に移行する(再統合)。揺り動かされるとき、もちろん人は緊張し、ある種の危機を感じる。だが、そこに支持的な環境、関係性が用意され、安心できるとき、今まで自分自身を限定していた枠を破綻させる行動がおこってくる。いつも安全なところに退避しようとしてしまうが、同時にそのことに払う代償が大きすぎるのでやめたい圧力が強まっているときだ。大きくなったやどかりが、今の殻に不快を感じるように。

 

洗脳のようなことも、途中まで同じプロセスをとらされるのだろう。弱い状態にされて前の属性を否定され、無理やり次の型に入れられるような。というか、むき出しの心が外界にさらされる幼児期の体験など、洗脳と同じような構図だろう。

 

とりあえず、生き残った。しかし、幼児期などの激流の時代に形成された現実への態度、理解が、生の質に制限をかけてくる。基本的に防衛というのは、自動的で分裂的なのだと思う。精神科医、神田橋條治さんは、健康な状態というのは、生まれてから今までの記憶、学習が即興的に自由に使える状態だと言っていたと思う。

 

防衛は、ドラクエ1のゴーレムのようだ。最初は怪物から街の入り口を守るためにつくられたものだったが、狂わされ、人をふくめた全てに攻撃するようになった。融通がきかない。自動的だ。その自動性は、自意識で直接コントロールできないものになっている。

 

だが、防衛にはものすごく大きなエネルギーがいる。加えて、防衛によって外界からエネルギーを取り入れることが難しくなる。結果として、総合的には、生きていく勢いが減っている。不必要に常時、緊急事態にいるようなものだ。

 

しかし、防衛が防衛として残っているのは、それがまだ意味があるからなのだ。その役割を他のものが補えるなら、防衛は役割をわたし、やがて消えていく。その補うものを提供する。

 

 

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提供するために必要なのは、体験だ。ただの受動的な体験ではなく、スポーリンが言うような強い関与、主体性、自発性、直観とともにあるときに体験ができるのだろう。それは、構成され、準備された環境であるが、日常の規範とは質が違うものとなる。
日常の規範では、不特定多数に対する防衛の優先がある。弱みをみせてはいけない、隙をみせてはいけない。本音を言ってはいけない。あわせなければいけない等々。

 

安全で支持的な環境において、その日常性の規範を脱する。自分の設定していた枠をこえ、踏み出す。そして踏み出した結果を享受する。そのことによって、使えるエネルギー、感じられる感覚は増え、世界のより多くのものと関係性をもてるようになる。生きる勢いが増す。

 

トークバックは映画なのでエンターテイメント性ももちろん必要で、そういうところもあって劇的で、強い手法をとっている団体を選んでいるとのことだったとけれど、坂上さんはアフタートークで、もっとマイルドなかたちのワークをしているグループの話しもされていた。アプローチには、グラデーションがあって、それぞれの状態や必然性にあわせればいい。演劇でなくても、詩の朗読会でもいいわけだ。

 

スポーリンは、1日や2日だけ関わるような関係性ではなく、ある程度長期的に関わるグループを主に想定しているとのことだったと思う。信頼関係、育てあう関係が次第に醸成されていく。僕としては、この信頼関係、育て合う関係のほうが先にあれば、自然に様々な物事がいい方向に展開していくだろうと思う。

 

公演で生計をたてる役者になるのだったら、どれだけ自由になれるか、どれだけ演じられるかが重要になるのだろうけれど、みんなが役者にならなくていいのであって、個人が自分の防衛からより自由になればいいし、人と人がお互いにより深い信頼関係をもち、人が変化しようとする時に支持的に支えられるようになればいい。これだけで十分革命的なことがおこるだろう。

 

演技がうまくなるためではなく、治療のためでもなく、成長のためでもなく、ただ個人のなかにあって動こうとしているものが動きやすいような環境をつくれればそれがベストだと思う。ある特定の価値観を至上のものとすると、それもプロセスの邪魔をする。

 

「回復のための演劇をします。」と言わずに実質的にそうするには、どういう設定が必要だろうか。たぶん、別の建前をつくり、主にそれに向かっているような錯覚をもつことによって、自由になると思う。四国遍路で88カ所の寺をめぐるという目的をたてながら、そのことによって「道中」をつくるように。四国遍路においては、遍路は道中にあり、と言われる。お寺ではなく。

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