降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

人が回復していくところ

人の変化、回復とは何か。それはどのような契機で、どのような環境において進んでいくのか。自分なりに確かめてきた。


人は生涯を通して回復していくことができる。回復というものを今言葉にするならば、それは生きていくなかで内在化され、生を疎外するようになったものが取り除かれていくということだと思う。そのとき自立とは、よい状態を世界との関わりのなかで維持していくことかと思う。


回復しなければ生に「意味」がないのではない。回復していくことそれ自体が実感として喜びであり、解放であるから回復に向かう。ただそれだけだと思う。若くして亡くなったからその人の生が十分でなかったということはない。


繰り返す苦しみの要因を取り除くこと。それができれば十分だ。自覚される苦しみの下にある、自覚されていない苦しみに気づき、それをまた取り除くということの繰り返し。そのなかで人は自由に、楽になっていく。


回復への契機は疲弊ではないかと思う。カンフル剤を打って出てくる成果に高揚することで、生きることを充実させようとするとき、それは次第に無理をきたしてくる。


成果を出さなければ高揚が得られない。成果を出すための条件は、いつも用意できるものではない。すると心のエネルギーを循環させていくことが成り立たなくなり、そのあり方が破綻する。


レオ・レオニの絵本に、大きな家を求め続けたかたつむりの話し「せかいいち おおきなおうち」がある。かたつむりは、自らの殻を立派に大きくしていくうちに身動きがとれなくなって自滅してしまう。大きなおうちは、それ維持するためのコストやエネルギーも大きい。自分が生きているのか、家の維持のために自分が使われているのか。本末転倒がおこる。しかしそれでも生きていこうとするのが生きものだ。死にきれない。ゆだねることに危機を感じ、恐怖を感じる間は旧態依然とした無理なあり方にしがみつく。


幸福感や気持ちよさは、エネルギーの循環がいいときに派生してくる。その状態にあるときは、柔軟性や吸収力も活性化している。重要なのは循環であり、自意識の肥大(=おおきなおうち=コストが高い)はそのスムーズな流れを阻害する。というか、循環が滞っているためにむしろ仕方なく自意識は肥大しなければいけなかったというのが実際のところだろう。


疲弊がおき、今までの自分が成り立たなくなる。それが回復への契機になる。元気なときは無理がきくし、無理が無理であることにも気づかない。その自分に自信をもっていたのに、それが失われるのは悲しく寂しい。それはある種の死でもある。しかし、その死が新しい生を展開させる。


生きるために何かの態度や反応の仕方を身につけた。そのことにはその当時意味があった。しかしそれが時を経て今は自分の生を圧迫するものになった。それに別れを告げるためには、そこに尊厳がそえられる必要がある。尊厳が与えられてこそ、死にきれぬものは次のものにバトンを渡すことができる。生きるために死にきれなかったのだから。


安心、安全、信頼、尊厳が保証されるところで、人は徐々にそれまで身につけていたものを手放していく。それは、人が人として扱われるところ、大切にされるところと言い換えることもできるだろう。


アズワン・コミュニティにある「人を大切にするため」の会社、「おふくろさん弁当」の岸浪龍さんにお話しをきいた。


ここでは組織のための人、という多くのところで当たり前になっているパターンが逆転していて、人のための組織という軸がぶれない。人が温かく和やかにいられる環境。罰則や叱責など、恐怖と危機感によって人が無理やり動かされるのではなく(考えてみればそれは奴隷を働かせる構造と変わらない)、失敗しても関係なく大切にされることによって、自分も人を大切にしたいという気持ちが派生してくる。親しい人を大切に、幸せにしたいという自発的な気持ちの延長線上に組織があるだけなので、「組織」自体を大事にしたいという人はいない。


人を大切にできないのならば、無理がくるのであれば、店を閉めればいい。それで店がもし立ち行かなくなるのであればやめる。しかしやめても多分大抵の人は、「で、次に何をやろうか?」という感じじゃないかと岸浪さんはいう。


社長「係」とよばれる自分が経営しているという感覚はなくて、みんなでやっている。社員のほうから、来月の支払いは大丈夫?と気遣って言ってきてくれる。多くの経営者にあるような、1人で全ての責任を抱え、孤独と重圧にあえぐようなことはないという。


あるとき、一週間ほどの出張から帰ってきたとき、若手たちが自分がしていた仕事を分担してこなしてくれていた。そのときに自覚なく自分が背負っていたことに気づく。今まで上の年代と1人若手の自分がやってきたように思っていたけれど、実は自分と同年代の人たちが育ってくれていた。一緒にやりたいと思っていると告げると、自分たちも同じ気持ちだと応えてくれた。むしろみんなのほうが、自分が気づくのを待っていてくれたのではないか。


人がその人として大切にされるにはどうしたらいいか。それを真ん中におき、揺るがさない環境を守っていくとき、人が予想をこえて育っていく。お互いを大切にしたい、幸せにしたいという気持ちが育っていく。早く育て、変われと思ったり働きかけたりするのではなく、その人がその人のペースで大切にされることを大事にする。直接働きかけるのではなく、そのまま大切にされる環境をどこまでも守る。そのことは結果的に誰も予想していない豊かさを生み出し、展開させていく。


お互いがお互いに親しみを感じ、大切にすることを喜びに感じるとき、人を縛るルールはどんどん必要なくなっていく。従業員65人ほどのうち、30人ほどは自発的に「無限給料制」を選んでいるという。定額の給料はなく、自発的に必要な額を言ってそれだけもらう。幾らでも申請できるから多くとってやろうという人はいない。このような方式が尾道のあるゲストハウスで行われているという記事を僕も読んだことがあるが「おふくろさん弁当」ではそれが30人規模で実施されていた。


「おふくろさん弁当」では、休みたいときに休める。しかしそれは「権利」ではない。権利とは、支配者と利害が対立する被支配者を守るために設定されるもの。ところが関係性が成熟した人と人の間には、支配者と被支配者がいない。お互いの融通、ただそれだけなのだ。言うことを無理やり強制されることもなければ、「権利」を逆手にとってとれるだけとってやろうという人がいない。


もちろんこのようなことは、お互いの関係性の成熟、上下のなさ、共に大切にしあいたい気持ちが育ってから移行することで、関係性の育ちもなく移行したりはしない。アズワン・コミュニティの人は現実を知らない夢想家ではなく、現実感覚はしっかりしている。現実の追究が今のかたちになっているのだから。「おふくろさん弁当」は、競争の激しい外食産業において利益率も高い水準を維持している。


自由になるにつれ、人の心の不思議が生きて現れ出てくる。シフトが大体決まっているなら出勤簿を会社で自動作成してしまうことにし、自分で記入しなくてよくなると、それまで時間外には決してこなかったような人が、夕方に片付け終わってないかとか、様子を気遣ってみにきてくれるようになった。


ちょっとした仕組みの変化で、仕事と自分のことを分け隔ているものがとれる。義務感を生み出していたものは何だったのか。人の心の繊細さに気づき、それを現実に反映させる。自然な流れ、自然な気持ちが生きることを軸に環境をカスタマイズしていく。


しかし、人を大切にするといっても、ただ大切にしようと意気込むだけで大切にできるだろうかということがある。そこにアズワン・コミュニティが研究し、確立してきた技法が生かされる。


観察と吟味によって、自分の認識の仕方に気づき、自動反応に左右されず、自分の感じたこと思ったことと、実際は違うことを「知って」いく。コミュニティの人は、何かがおこったり、人が何かを言ったりしても、衝動的に反応せず、おこったことを自分はどう受け取ったかな、相手はそう言ったけど、実際はどんな気持ちなんだろうなと一拍をおいてのぞむ態度をもっている。


事実はあるだろうけれども、自分の認識は事実そのものではない。弁当のご飯にかけるゴマが自分は多くと思い、別の人は少ないと思う。ゴマが多いか少ないかはあまり問題にするところではない。ただお互いの認識がぶつかるだけだ。そのぶつかる認識のできかたのほうを吟味する。


なぜ自分はこのゴマの量が多いと思ったのかとふりかえると過去にゴマを多くかけてクレームを受けた経験があったようだ、ならば相手にもゴマが少ないと感じる理由があるのだろう、そう思うと相手のなかでおこっていることに興味が湧いてくる。実際はどうだろう。そんな心持ちになっていく。それが膠着を展開させ、互いの気持ちが通じる契機になる。


コミュニティの人は、人の言葉の上っ面だけをとらえて、「あの人はああ言ってたけど、あなたそれどう思う!?」とか批判めいて人を決めつけたりすることはないようだ。言葉と裏腹な気持ちもある。相手は実際はどう思っているのだろうか、本当は何を望んでいるのだろうか、表面的な言葉よりもそちらのほうに関心が向く。


ある人は朝、出社すると1人1人の顔をみて、さりげなくその人の今の状態や雰囲気を感じたいという。そんなそれぞれの押しつけないやさしさがある。

それぞれ言いたいことは言う。ときにぴりっと緊張するときがあってもそれが後に引かない。自由に言いたいことが言えるということは、お互いの精神的自立が必要だ。相手が何と言ったとしても受け取り方は自分の認識。同時に相手は相手の認識のうえで感じたことを表現している。喧嘩で店の業務がストップしてしまったことはない。


無理に仲良くなろう、やさしくなろう、いい人になろうとする必要はない。そうなるのを阻害している要因のほうを一つ一つ取り除いていけば、自然と人が親しくなっていく。結果的に信頼関係が育ってくる。


そのような場所で回復はその人のタイミングで自然におこってくる。会社がはじまって5年以上たって、今までできなかった相談を人にできるようになったという人もあった。


自分で自分を変えなければ、という気負いもまた本当は必要ではないのではないか。自分がよくなければならないという背負いこみがその分停滞をおこす。余計な重みを加える。適切な環境があれば遅かれ早かれ、それぞれの必然で人は回復していく。それでいいのではないかとおふくろさん弁当でおこっている現実を聞かせてもらうなかで思うようになった。