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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

孤を終わらせる動機 人間と演劇研究所「からだとことばのレッスン」に行ってきた

→大村はま →林竹二(教育哲学者) 🔳教育

人間と演劇研究所の「からだとことばのレッスン」に参加。
リードする瀬戸嶋充さんは、野口三千三、竹内敏晴、林竹二に師事されたということでお話しをきいてみたかった。

 

林竹二は僕も立命館大の長橋為介さんに教えてもらわなければ知らなかった。卒業研究みたいに関心ある一点について文献を追っていくということをしなければ、価値ある情報も出会わないままなのだろうかと思った。そう思ってもやらないけど。周りに出てきた情報を少しだけ追ってみるだけになってしまう。

 

大村はまさんもそうだけど、吟味され、既に到達してくれている知見があるのにそれが後世の常識になってないのはどういうことだろう? むしろ常識は後退しているのではと感じる。世間も僕のようなものだからか。

 

教育に関する林竹二、言うことの次元が違う。引用する。(今はリンク切れで元ブログアクセスできず。)
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「林氏は授業の核心は発言ではなく、その吟味であると言う。
 吟味とは、「何かを教えることではない。問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業」であると言う。「学問というのは、カタルシスだといっているのです。吟味がその方法です」林氏は子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時であると言う。「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」」
http://www.chiba-fjb.ac.jp/masao_n/jikiden/shugyou(10)/bunseki2.html
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「真の否定が行われる」という言葉、その視点はなかなか聞けない気がする。僕は自分のなかでは棄却という言葉を使っていた。もう二度とその考えでぐるぐるすることをなくならせること。理解とは既にもっているもの、曖昧だからこそかたちをもち残っているものを完全に終わらせることのほうに近いのではと思う。

 

竹内敏晴は、大学の学部の時のテキスト『人間関係トレーニング』で知った。関心は持ったけれど関西付近でワークショップなり体験できるところが見当たらなかったまま、そのままになった。ある時橋本久仁彦さんと野村香子さんのワークショップを受けて、ダンサーの人の感性すごいなと思ったのがきっかけで、コンタクトインプロの定期レッスンに行ったり、ダンスのワークショップに行ったりしだすと、アイスブレイク、ウォームアップ的なところで竹内敏晴や野口三千三のワークがそれと銘打たずによくされているようだなと思った。名前は出てこないけれど、その断片が日常のものとしてそれぞれに受容され浸透している感じがした。そして林竹二と対談している本『からだ=魂のドラマ』に出会って、二人が共に活動していたんだということを初めて知った。

 

今回の参加にあたって、ここでは「ことば」という言葉の使い方が独特だなと思った。身体に重きがおかれるところで、ことばといえば「言葉=思考=動きやプロセスをとめるもの」「考えるな感じろ」的な距離感がありそうなところなのに「ことば」と使うのはなぜなんだろう。使われている言葉から考えてみる。

 

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長年の実践を経て「からだとことば」そして「いのち」への眼差しが、私の中で開かれてきました。両氏(→野口三千三と竹内敏晴)の語っていた「からだ」とは「いのち」のことであり、「ことば」は「いのち」の現れそのものであったことに気づき、同時に「からだ」=「いのち」が私にも諒解されてきました。

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ものごとをありのままに見るはたらきを妨げる「からだ」と「こころ」のこわばりをときほぐすのが「野口体操」のレッスンです。
深く広い集中によって、ありのままの自分を生き、他者とのつながりの中に「ことば」への信頼と「ことば」の豊かさを取り戻していくのが「竹内からだとことばのレッスンです。」

「からだとことばのレッスン」ワークショップパンフレット
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「からだとことばのレッスン」で、私が求めていることは、自分の「からだ」を「ことば」に明け渡してしまうことです。「ことば」に明け渡すということは、物語の戯曲のセリフなど、「ことば」に内在する、感情やイメージに自分の「からだ」を明け渡すことです。

この場合、障碍になるのが、自分(自意識)です。・・(略)・・
自己の表現に対して、常に自意識の監視がつきまといます。

「ことば」に「からだ」を明け渡すとは、自分の表現を作り出すことに、責任を持ちません。表現の主体(本体)は自分では無くなります。「ことば」に触発されて身内から生まれる感情やイメージが表現される主体となって、自己を衝き動かす。意識はそれを妨げない。そのためには表現を受け取る側(相手役や観客・対象)へと、途切れることなく向かい続ける、開けっ放しの集中が求められます。

いまこの場に生まれ自ら衝き動かしている表現に、自意識が善悪好悪の評価を加えようとする瞬間、注意(集中)は自らの「からだ」と「こころ」に囚われ、外部に向けて開け放たれていた集中は蓋をされ、「ことば」(イメージや感情)の表現の道筋は閉ざされてしまいます。

この場合の表現において、責任を持つとすれば、それは自分の「からだ」を開き続ける努力(深い集中)に対してです。その時々に、自分の内側から表現されてくる結果に対し、自ら評価を下してはならないのです。

「ことば」自体が目的を達成します。自分の目的を持ち込んで達成感を目指せば、物語や戯曲自体の持つ「ことば」の「いのち」は葬りさられることになります。

人間と演劇研究所ブログ
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-235.html
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「からだ」とは「いのち」の現れそのものであるとある。その「からだ」を「ことば」に明け渡す。「いのち」の現れそのものを「ことば」に明け渡す。

 

間違いを承知で自分なりの言い換えを探してみると、明け渡すというときの「からだ」は、自意識の支配下にある「からだ」という感じがする。「いのち」の現れとは、生体に不断に働いている動的なプロセス、更新作用そのものだとしたら、自意識はそのプロセスが動き出すことを阻害する。「ことば」とはプロセスが自律的に提示する道筋ともいえるのかと思う。自意識は自分の崩壊の危険を避けることを明け渡し、兆しとして現れてくる、保証の無い浮き石に運命をゆだねて渡っていく。


「からだ」そのものであり、物語や戯曲の「ことば」がもつ「いのち」とは。「からだ」が個人に属すものと受け取られるのに対して、「いのち」は物語や戯曲にもその範囲を広げている。

 

ここにきて、「からだ」「ことば」「いのち」はひとつのものを指すのではないかという気がしてくる。それは、全てが一体となった関係性のなかに存在する自律的で動的な更新プロセスではないだろうか。

 

「からだ」と「ことば」の自律的が自意識によって阻害される。個というものも恣意的な区切りに過ぎないが、その区切りの範囲内だけで限定するなら自律的プロセスは阻害を越えることが出来ない場合がある。

 

そこに物理的存在としての他者(他人)があると、むろんこの場合も自意識の阻害の影響を受けるのだが、自律的な動的プロセスは自分と目の前にいる人とを「融合」させ、この二人をして全体・総体として自らを展開させていく力を得る。

 

「いのち」と表現される自律性の強い響きは、大きな力を持つ。人の深い部分を揺り動かす強度をもった物語や戯曲は、その自律性の質の強度は、自意識の強力な保守性に干渉し、揺り動かし、塗り替える力がある。

 

自律的で動的なプロセスは個として区切られたあらゆるところに存在し、同時に全体としても存在している。

 

それは、自らによって自らの目的を達成する。限界ある人間としてできることは、そのプロセスがプロセスとして進むための環境を整え、プロセスをつないでいくことではないだろうか。

 

そしてこのプロセスをすすめるための条件や動機は何かと考える。自意識の強力な保守性、自身への固執を越えるものは何なのか。もちろん、自律性自体がその力を持つものであるのだが、僕はそこに個体としての動機を重ねることが有効なのではないかと思う。

 

それは弔いだと思う。自意識は死に切れない業を持つがゆえに存在としての苦しみを持つ。作用に反作用があるように、死に切れない苦しさを持つがゆえに、そこから解放される強い願いを不可避的にかかえている。

 

弔いは、死に切れないものを死に切らせるための祝祭の空間で遂行される。その空間は自意識が死なないために同一化している価値が無になるところ。自意識はその空間の支えによって、同一化している価値から離れることができる。

 

そしてその弔いの動機とは贖われることのない孤独であると思う。個として持った存在の根源の苦しみ。個は孤。個(孤)として区切られたゆえに否応なくもたされる世界からの絶対的な隔絶、孤立、遺棄。深く孤に突きつけられたものがその苦しみを動機として、死に切れない生の業に拮抗することができる。

もはやごまかしきれない生の業に直面しそのなかにいるものが、抗い、個を終わらせる動機をもつと思う。施設に入れられた子どもが、成人後同じ立場にある子どものための施設をつくるドキュメンタリーを観たことがあった。苦しみへの向き合いは、弔いのかたちをとるようにみえる。終わらせるためにもう一度そこに苦しみの本質を現前させる。そこに自ら対峙することは、根源的な苦しみに対する防衛反応として死なないことを引き受けていた自意識の役割を解き、消滅させていく。