一つ前の投稿は、殻という捉え方で書いてみた。
生まれてから取り入れ、蓄積していく情報や技術。そして言葉。言葉によって構成される自意識。今まで自意識という言葉を使っていたが、自分の殻が厚くなるという一般的な言葉があるのだから、殻という言葉で書いてもいいかなと思った。
書き出してみると結構整理し切れず、難航した。
描きたかったのは、生きることの最優先がまずあるということだ。生きものの体は幸せを求めている設定なのではなくて、生きることが優先なので歪んでも生きようとする。調和を目指しているわけでもない。そうして殻として身につけられていくことは、固定的で機械的なものだ。殻は生きていく際の鎧であり武器である。人間はその殻をどんどん厚くしようとしてしまう。そしてその自動機械のなかに埋もれてしまうのだ。
生きものは人間性を求めているのではなく、ただやり過ごし、生存すればいい。そういう志向をもち、そう生きようとするものだ。生きものは必要に迫られて変化するが変化したいわけではない。よく言われるのとは逆で、生きものは進化したり発展を求めているのではなく、それが可能ならそのままでいたいものだと思われる。
生きものは優しくなりたいわけでも、人間的になりたいわけでもない。ただその場その場を生き延びられればいいのであり、それを優先する。
レヴィ=ストロースは、未開社会のような変化のない社会を冷たい社会、歴史的に「発展」する社会を熱い社会と表現している。
- 作者: クロード・レヴィ=ストロース,大橋保夫
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で、一般的な人間観では、発展する熱い社会が「いい」わけで、人間は発展したいものだし、そのことによって幸福を得たいものだとされている。そしてそのなかで、人間的にも「成長」するのがいい、と。だが全然そういうふうにはならない。
体のほうはその場しのぎで生き延びればいいという設定なのだから、冷たい社会において、ローコストに手に入れられる殻を身につけさしあたりの一生を生き切るほうが生きものとしての求めには適合しているのだと思う。
熱い社会においても、結局人は手近な殻を身につけ、その殻を変えようとはしていない。だが一方で、言葉の獲得によって、時間の概念が獲得され未来に対しての不安をもち、また言葉によって自身が裁断されたものになり、否応なく相対的な値付けのもとに矮小規定される屈辱を担わされるので、その不安に対して、殻をどこまでも厚くしようとする。
ミノムシは周りにある手近なもので身を包んで生きる。往々にして葉っぱや小枝の切れ端とかになるが、人為的に周りを毛糸だけにすると毛糸でミノを作る。ミノは手近で身を守る用を足せば何でもいいのだ。
人間が生まれてから習得し、蓄積していくもの、つまり殻も同様で、それで最低限その場その場をやり過ごせればいいものなのだと思う。ところがその殻は世界を言葉によって認識するという仮想現実を中の人に見せる。明日も生きねばという終わりのない不安を感じる。また言葉の分節によって世界から切り離された自己ができる。それは元の状態からすれば、終わりなく値踏みにさらされる不自由で屈辱的なものとして感じられる。しかし言葉を通して認識される自己はその断片的で卑小でいびつなイメージでしかないのだ。
だからそれを補おうとする。ミノムシが自分の体の周りだけでは足らず、巨大なミノを作り続ける。それは更新されない古いOSのままマッチョになっていくようなことでもある。それは環境に対して破壊的なものになり、人に対して抑圧的なものになる。結果、殻によって、人間は自分たち自身を疎外し、破綻に向かわせる。
それは更新されない古いOSのままマッチョになっていくようなことでもある。それは環境に対して破壊的なものになり、人に対して抑圧的なものになる。結果、殻によって、人間は自分たち自身を疎外し、破綻に向かわせる。
他者や運命によって、殻が壊されたとき、前とは異質の体勢が生まれてくる。人間性の回復というように見えるものだ。だがそれは一般的なものではなくて、例外的な現象だ。だがこの例外的な現象を「人間の本来」のように考えるから理想の人間像と大多数の殻を厚くしていくだけの人間の現状の乖離に深い葛藤を抱えてしまう。
「人間」になろうとすることは、生きものであることに対して、反逆するようなことだ。もともと無理くりなことをやろうとしているわけだ。生きもの自体の性質は優生主義だ。だが固い殻に包まれた結果、目に見える風景の退屈さと変わらなさに倦んでいく。その殻が別の殻へと更新されることによって、その倦みの苦痛を取り除くことができる。そして更新をするためには、優生主義的な価値の強迫を全て打ち消した場が必要なのだ。