降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

生きることと殻

人間をどういうものだと捉えたらいいのかといつも思っている。

 

環境は破壊して、人間同士では弱いものを踏み台にして強いものがのさばり、弱いものはさらに弱いものを虐げて鬱憤をはらす。人間全体として自滅的で破綻的な動きを止めることができない。

 

多くの人がより「本来の人間性」に近づくならば、社会は変わるのだろうか。


サン・テグジュペリの『星の王子様』で子どものときに一番印象的だったのは、王子になぜ酒を飲むのかと訊かれて「酒を飲むことが恥ずかしいんだよ!」というアルコール依存症の人の言葉だった。自分が抱えている痛みや否定性は生々しく強烈で耐えきれない。それを何かをすることや得ることでごまかし、埋め、無感覚になろうとする。

事故や逃れ得ない障害や病気、数奇な運命などの受難を経て自分の殻が壊され、そこから深く回復した人たちは、社会や環境を質的に変えるような存在になっているようだ。だが人間以外も含めた他者によって殻を壊されないと基本的には同じ殻でそのままにとどまろうとする強い保守性があると思う。

 

自分の存在と深く関わる痛みや傷を、何かを獲得することによって塗りこめるようなことが、一般には「幸せになる」ことだといわれているように思える。自分がもつ深い傷を圧倒する刺激で、無感覚になろうとする。ある意味、精神的な自殺をするように生きているようにも思える。

 

今、人間全体としては破綻に向かっているのを全然止められないのに、ある個人が「順調」に生きているということがありうるだろうか。その「順調」は周りの世界の何かを見なかったり、含めないことによってしか成り立たないのではないかと思う。

 

世間でいわれる「幸せ」や「順調」は、殻を強化するものだと思う。殻は、誰しもがもっている逃れることのできない生々しい痛み、否定性を感じさせなくすることができる。殻はまた自分を自動的に動かし、おこることを解釈する機械的なプログラムであり、OSのようなもの。自意識とは殻のことだ。放っておけば、殻は自分でも気づかないまま痛みを隠し、刺激と無感覚で生きることを覆いつくそうとする。そして自分が変わらないでいいように自然に周りを抑圧する。

生まれ、生きていくなかで身につけていく殻。殻は生きていく際の鎧であり、武器でもある。殻は機械的なものであるが、擬似的に生きているような存在だ。殻は自身を厚くしようとする。その動きは自律的であり、自動的だ。自分さえ気づかないまま進む。

 

より多くの人が「本来の人間性」に近づければ、社会は変わっていくのだろうか。しかしその「本来の人間性」に近づくことは、本来なのにも関わらず、一体何にどれほど阻害されていて、発揮されないのだろうか。



生きものにとっては、自分がいびつにならないことよりも、その場その場を生き延びることが最優先だ。どのようにいびつになっても、生きようとする。そしてなるべく自分にとって不都合な何事もおきないことを望む。殻は自分を揺るがされないために作り出されたものだ。生きものは身につけた殻によって生きようとする。

 

生きるということにおいては、殻のほうが優先される。「本来の人間性」はサバイバルの世界であるこの世の理屈ではなく、あの世の理屈であって、今の殻を放棄することとつながる。今の殻によって生きている多くの人間の殻を壊すというのは無理があると思う。

 

他者によって、たまたま殻が壊れた人が、自分自身と周囲の社会を回復させる動きをはじめる。殻が壊れた人たちはそのように回復した人たちをみて、救われ、力を与えられる。人間全体がこうなるのではなく、部分的にこういうことがおこる。人間の行動や思考と本来性は全く別個にある。人間が愚かなことをして自滅しようが、そのことと本来性は関係がない。だが一部であっても、回復していく人間の姿を見ることは、換喩として本来性を直観するものに成りうるだろうと思う。