降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

疎外に設置する石敢当

自意識でやらねばならないとなっていればなっているほど、追い詰められ、結果現実的な動きが出来なくなっていく。ちいさなことに目を向けそこを整えようとするかわりに、一気に状況を変えられるようなことに目を奪われ一攫千金の博打に出て元手のエネルギーまで失うかマイナスになる。

 

奥田知志さんの考えに触れてはっきりしたのは、人は自分の疎外を自分では止められないというシンプルなことだった。誰もが1人では自分を駄目にすることを止められない。そこに他者、自分の閉じた王国を破綻させる自分以外のものが介在していない限り。

 

自分の幸せを求めたところで、ある程度のごまかしのきく安定がきたところで、これが奪われないように閉じて自然に疎外の道を歩き出す。

 

楽になった。自分が自分を管理するのではないと知って。自分の管理で何とか自分をまともにしなければとなっていたということだ。そんなことはあるわけがなかった。

 

自意識が自分に見せる世界。そこは結論が決まった世界で自分はその自覚がないのにも関わらず、もう決まっている結論に向けて、遅刻を焦るウサギのように全力で走りつづけさせられている。

 

その自覚のない結論、無自覚な結論へ向かう暴走から抜け出ていくことは回復とよべるだろう。獲得ではなく、既にある結論から抜け出ていくこと。

 

閉じていく自分をそうはさせず、程よく破綻させるものと関わる通路。それを設置する。

 

まっすぐにしか進めない魔物のために行き止まりには石敢當を置く。魔物は石敢當に当たると砕け散るとのこと。そんなイメージで必要なものを設置をすると、あとは一から十まで自意識の管理をしなくてもよくなる。