降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自分の在り方に終わりを告げるとき

実家の引っ越しのために少し帰省した。


同居の叔父叔母との問題で、父母は祖父が買った家に建て増しした自分の家から借家へと移動した。

 

友人がいたり、一見変わらない暮らしのように見えても、日々のなかで様々な関係性のグラデーションをもつ人たちと接点を持つことがなければ、個々人は自分の人間としての必要を満たせず、疎外を免れないんじゃないかと思う。

 

家族や個人が孤立せず、それぞれの場所でそれぞれの在り方で世界や人とつながることができる環境の多様性が必要であると思う。そうでなければ人や社会は変わっていったりしないだろう。

 

父は時々尿漏れがでるようになったけれど、尿漏れしてもそれを否定する。しかし、運転免許はとうとう返したそうだ。今は、時々一人で止まった車の運転席に乗る。一人で少し散歩出たりする。自分が自分でいられる場所、自分に戻る場所が必要なのだ。善意とはいえ、ああだこうだ言われる環境じゃないところに。

 

 

やがて受容することがどれだけ大きなことかと思う。そしてこちらもゆり動かされる。人がそれまでの自分の在り方に終わりを告げるときは。

 

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「サンディフック小学校乱射事件(死者26人)が起きたあと私は妻に言いました。一人の子どもの命が守られることになるのであれば私は喜んでこの銃を手放すと。そう言って5年もの月日が経っていました。それ以来200を超える銃乱射事件があり400人を超える子どもたちの命が奪われました。」


「私のこの行いが馬鹿げていると蔑む人々へ。私は願い、祈ります。これらの銃の一つがあなたの子どもの頭に向けられることがなくてもあなたの考えが変わることを」