日曜日はからだとことばのレッスンへ。
一ヶ月あいて久しぶりに行くと二ヶ月前にお会いした人の雰囲気が結構変わっている。
座った状態で息の入りをお腹まで通す。この時は自分でやるのではなくて、講師の瀬戸嶋さんが手で直接顎を押したり、背骨と胸を押したりして調整する。自分ではまっすぐ座っているつもりなのだが、息が通るようにはなっていなくて、またそれを全然自覚もできないので。
腹に空気が入るのを感じるのは重要とのこと。確かにそれを意識すると力を入れたりとか、何かへの反応で腰がすぐ反ってかたまるのをまた少し緩められる。
息の重要性をまだ実感していないけれど、息とはそれ自体がめぐりであり、他のものをめぐらせるものであるなあと思った。
この前、熊倉聡敬さんがエスコーラで、エネルギーが生体に実際にどうやって生まれ、どのように流れるのか、という最近読まれた生物学の本の話しを紹介してくれたけれど、生命の主体を、物質的な身体ではなくエネルギーの流れとして捉えるならば、人間イメージはだいぶ変わるだろうなと思う。
体のバランスは、割と固定化されていて、野口晴哉さんなどの考えでは、風邪のような、あえてバランスを崩すものを体に引き入れ、経過させるぐらいのことをして、ようやく再構成される。『無意識の発見』の著者エレンベルガーは、歴史上の人がクリエイティブな活動をする前段階で、長い神経症的状態を患っていることを指摘し、それを「創造の病」とよんだ。
心というものも、聞こえは自由そうだけれど、実は割と堅い、物理的構造に固定されているように思える。その不自由な、固定化された状態を持って、自意識や物理的身体を主体であると考えるより、風邪をひき入れ、自身を再更新するような、他者を含めたまるごとの環境をもって一つの主体と考えたらどうだろう。
他者とのやりとりができなければ、自身の再更新ができないのなら、他者や環境を含めて、一つの主体なのではないだろうか。小児科医ウィニコットが「ひとりの赤ん坊などというものはいない。いるのは一組の母子だけである。」と言ったみたいに、人は単独で自己更新する能力がないのだし、自己更新を可能とする環境まるごとふくめて一つという見方が実態に即しているのではないかと思う。
- 作者: D.W.ウィニコット,F.ロバートロッドマン,D.W. Winnicott,F.Robert Rodman,北山修,妙木浩之
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既にある物理的構造ではなくて、そこに流れ込み、更新させるもの、巡ってきて、変化を派生させ、通り過ぎていくもの。そちらの方が生命、という感じがする。
そういうものが主体であるとき、自分の能力の多寡とか、限界とか、自分の変わらなさとか、足りなさとか、そういうものはあまり重すぎるものではなくなって、ただエネルギーや生命の通路としての身体や心があって、それを更新していくものへの不思議さや感嘆があるのではないだろうか。
その時、物質的な身体や心は仮のものであり、更新をおこす自律的なエネルギーのめぐり自体が本来的な自分であるというアイデンティティの移行があるのではないだろうか。
エネルギーのめぐり、気(持ち)のめぐり自体を軸に置くほうが、人の回復や変化は速い。問題解決自体よりも、問題によって停滞させられている状況の気のめぐりを改善していけば、問題は派生的に解きほぐされていく。
だから息というめぐりにより近づいていくならば、そのめぐりによって、身体なり、心なりという後のものが変わっていくのだろうと思う。
畑も空気のめぐり、水のめぐりというめぐりの環境の整備があって、健康になる。めぐりの構造が健全であれば、作物は自然に健康に育つ。
既に自律的な気のめぐりがある。生きるという刻々の変化のなかで、どうすればそのめぐりを健康に維持できるのか、あるいは詰まりや停滞をとっていけるのか。元の勢いに戻すことができるのか。それが問うべきことなのだと思う。
人は別に特別な自分にならなくても、めぐりの勢いを本来の状態に戻せば、十分満たされご機嫌になると思う。