降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

心の攣(つ)りに対してできること

日常で出会うこと、連想したことなどがきっかけとなって、これまでもなんども繰り返さてきた苦しい感覚や責められる感じなどが再現され、一度その状態がくるとなかなか元に戻らないとき。

 

筋肉が攣(つ)って、しばらくどうしようもなく痛みを経験させられるように、関連する感じのきっかけがきたら、その状態がおこり、たえがたい「攣り」に苛まれるとき。

 

その時におこる嫌な思考や気持ちに対して、意思的に「肯定的」な考えや強引な気持ちの切り換えで対応しようとするけれど、あまり効果がないとき。

 

劇的な回復を期待しないで、ぼちぼちの対応をしていくと緩和するように思える。劇的な回復の期待は、追い詰められた思考の反動であり、それ自体がいわば「症状」なので、状態の経過には向かわない。

 

自意識が想像している劇的な回復は、ほとんどの場合、普通の自分ができないことをすることを仮定しているので非現実的であり、かつ達成できなかった時の失望でさらに状態が停滞する。追い詰められた思考にしたがってもいい変化はおきない。

 

整体の稽古で知ったことがあるのだけれど、体の各部分の動きというのは、何かのきっかけで一度決まった動きがたとえ間違っていても、延々と繰り返されるということ。だから、ある部分は20年前に決まった動きを延々と繰り返していて、他の部分は5年前に更新される機会があって、5年前に自動化した動きを繰り返している。

 

体にはこのような傾向があるとして、この考えを上記の「心の攣(つ)り」に応用してみる。心の攣りが身体の反応ぬきに純粋におこっていることはない。心の攣りがおこっているときに、攣りに関連して、体の部分で緊張したり、感覚が出ているところを探る。

 

「探る」状態のとき、精神はふだん自動的にしている遮断を解く。この遮断は、カクテルパーティ効果(非常にうるさいところでも興味のあることや聞きたいことは聞ける現象。)のように、聞きたいことを聞くために行っている(ほぼ無意識で自動的に設定されている)のであるけれど、同時に聞きたいこと以外のこともそこではおこっているのに、それを無視してしまう。

 

発達障害の事例などを聞くと、ある人たちは、この遮断が自動化しないので、必要でない情報をひろい、非常に混乱してしまう。

 

人は現実をそのまま認知しているのではなくて、あらかじめ自分も無自覚に選択的に遮断しており、その結果として、特定の状況に対して迷いなく判断し、「機能的」に動ける。

 

しかし、それは同時に多様な現実を否定して、選択的な現実を現実だとしているという代償も伴っている。すると、現実は多様であるのに、ある人は選択的に切り取られた「同じ現実」ばかり体験する。

 

おそらく人は「探る」という状態を自分にあえて持ち込まなければ、自動化して認識される「同じ現実」を見続けてしまう。探るという状態は、そのような自動化した反応をいったん落とす状態であると思われる。落としたことによって、別の現実が見えてくる。

 

自動化している過去の繰り返しを終わらせていくにあたっては、「探る」という状態を自分にもたらすことが必要であると思う。

 

さて、心の攣りがおこったときに、体を探る。すると、この心の攣りに対応する体の部分がなんとなくあることがわかる。耳の裏側のあたりぐらいかなとか、はっきりした感覚でなくてもいいので、この部分のこういう感じかと思ったら、次が見つかるまでは、とりあえずそこを観察し、探る。

 

あまり気づかないかもしれないが、探ること自体が「攣り」の状態を緩和している。探るのをやめると、自動化した刺激と反応の繰り返しにまた戻る。ここで、こう思おうとか、こうしようとか、思考を介在させても、それは実際には抑えこもうとしているのであって、かえって攣りを再固定化してしまう。

 

攣りは固まった過去であると思われるので、そこに必要なのは止まった時間が流れることであり、経過の過程がすすむことであると思われる。

 

攣りがおこったら、それ自体が耐え難い気持ちはあれど、そのときに無理やり違うことを考えようとするのではなく、まった嫌な気分を強化するのでもなく、体のどの部分にどんな緊張や感覚が生まれているのかを探る。あ、これだと思っても、それですぐやめずに、その感覚をより詳細に感じてみる。

 

ただちに嫌な感じを遮断したり、切り換えたりしようとせず、おこっていることを詳細に感じ、探る。意識としては探ることで結果的に緩和させるぐらいのつもりで臨む。

 

緊張している部分を認識しながら、同時にそこに呼吸をいれるようにする。呼吸をいれるとは、止まった状態にしないということなのだけど、自分が息をつめてしまうと、緊張は緊張のままで経過せずに固まってしまう。

 

実際に自分の息も詰めず、かつ感覚のある部分にも自分の呼吸と連動するようなイメージをもつと、思考でぱっと遮断したり切り替えたりてしまう癖を乗り越えて、その感覚を感じながら共にいることができる。

 

息をつめず、感じながら、その感覚と共にいることで、その部分の時間が動いていく。プロセスが動いていく。心の攣りに対して、そのようにつきあっていくと、心の攣りがありながら、同時にその部分の緊張なりを感じながら、過緊張しない状態が並存できるようになっていく。

 

これで半分ぐらい元々の攣りの状態よりマシになっているように思われる。大事なことは攣りを消そうとするのではなくて、探りながら、当たり前のものとして(つまり息を詰めず、呼吸しながら)共にあること(感じ続ける状態が保持されること)で、プロセスが経過していく。感じかたが変わっていく。

ブルーシートの服について(1):非礼拝的オーラを読んで

山口さんの文章を読んで、生きているものとは何かについて、もう一度整理したくなった。

 

note.com

 

僕は去年、ある読書会でピーター・シンガーの『動物の解放』を読んだ。僕が担当したところは、鶏や牛や豚が工場畜産の現場において、人間の経済性のためにどこまでおぞましく扱われているのかといった部分だった。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

記憶では、鶏の雄のヒナは不用のため、ベルトコンベアでどんどんと袋のなかに投げ込まれ、上から投げ込まれるヒナの重さによって圧迫死させられ、その後すり潰され、雌のヒナの餌にされる。

 

大きくなった鶏も単に外的にひどい環境に入れられるだけでなく、卵を増産するために、わざと夜も光を当て続けられ、羽が生え変わる時期を早められるなど、生理サイクルすら干渉され、撹乱された状態にされる。

 

食肉用子牛は、肉の見た目を良くするためにわざと餌から鉄分が抜かれ、慢性的な鉄分不足の状態で育てられる。

 

僕自身も酪農実習生を1年やっていたので、畜産が動物に対して非倫理的なやり方で行われているのは知っていた。

 

たとえば、牛はフンをするときに上に伸び上がるが、それだと牛床(牛が繋がれて寝食する場所)にフンがされ衛生状態がさらに悪化するので、牛の上にはカウショッカーという電気が流れたギザギザの歯が吊られる。牛が伸び上がるときにカウショッカーでバチッと衝撃を受け、牛は上ではなく、体を長くするように後方に伸びる。するとフンをする位置が牛床の外のフン処理用のベルトコンベアの上になるという仕組みだ。

 

その時は考えてみたらロクでもない虐待だなという程度の感情だった。自分も普通にその仕組みを受け入れていたといえる。

 

だが、『動物の解放』で、外的な環境だけでなく、生理サイクルまで常時干渉され、撹乱されているのを知ると耐えがたい感覚になった。初めて自分がそうされた状態のあり得なさを感じた。なるべく非虐待的な方法で殺されたものを買うようになった。

 

読書会の時に思ったことは、これを自分たち消費者のかわりに実行している人たちも、自分が何をしているかに無感覚にならざるを得ないだろうということ、そしてたとえ無感覚になっても確実に避けようのない影響を受けているだろうということだった。

 

そこでイリイチの近代における生命観の批判を知った。イリイチによると、近代以前においては生命とは世界と一体のものであり、相互に影響を与える存在だった。ところが近代になると生命とは一個の生物が所有する閉じたものとなった。一個体に一つの生命というわけだ。

 

近代以前の生命観とは違って、近代以降の生命は単体で完結している。すると、生命活動を維持することが至上の意味であり倫理なのであって、その生命が周りとどのように関係しているかは二の次のことになる。つまりある人がどのような不本意な状態にあっても生命活動の維持が優先される。

 

虫籠のカガステルという物語においては、主人公の母親は生物兵器を操るために意識を奪われたまま培養されている。母親はもはや培養システムなしには生きていけない状態になっている。主人公は最後に母親をその培養から「解放」する。

 

comic-ryu.jp

 

主人公は母親の「生命」を直接的に断つことになるわけだ。イリイチの批判する近代の生命観においては、何がどうであれ、他者のものである財産を奪うことは許されない。だが、「生命」を一つ二つと数えることがおかしいと考える時代にあれば、その行為はお互いを新たに生かすものであるだろう。近代の生命観を当たり前だと思っている自分たちにとっては許されないことであっても。

 

あるいは物語ではなく、こんな体験を思い出した。田んぼの周りで遊ぼうとする子どもを田んぼの持ち主が叱りつけるところを見た。田んぼの所有者はこう言った。

「お前に何かあるとお前じゃなくて俺のせいになるんだぞ!」

 

そのような場所では子どもの中に生きて躍り出ようとしていた可能性は、そのままずっと封印されるだろう。危険をゼロにして生命を守ることができると考える人間の疎外。稲刈り体験を鎌でなく安全なハサミにした活動もあった。鎌の扱いを教えるのではなく、自分が不安を感じないために他者を完全に管理するやり方。そして「何かあったらどうするんだ」という決まり文句。

 

行き場を失った3万人が自殺する社会で「何か」はすでにおこっている。むしろ個人の生の完全な管理が自分の以外の他者(当然「危険」もある)との関わりから生まれる生命力をあらかじめ奪っているのではないだろうかと思う。

 

一つに完結した個体に見えるものも、実際には自分以外の他者との関わりによって自身の可能性を発現させ、他者との関わりにおいて自身を更新している。自己完結した「生命」とはそのまま世界からの疎外であり、世界からの孤立以外の何ものでもないと思う。

 

生命を完全に管理することはできない。生命自体が他者なのだから。それは自意識の所有する「財産」ではない。エーリッヒ・フロムは生命を余すところなく管理するのはサディズムであると指摘する。フロムは次のように言う。

 

サディズムの目的は人間を物に、生けるものを死するものに変えることである。余すところなく管理し統制することによって、生命はその本質を、すなわち自由を失うからである。

 

完全な管理とは、他者に対する尊厳を捨てることであり、生きるものに対する虐待だろう。今、完全な管理は畜産にとどまらず、人間をその対象にしている。

 

山口さんの文章にあるオーラとは、僕はイリイチの指摘するところの近代以前の、生き物に限らない事物同士、他者同士、あるいはモノでもない関係性と関係性の協奏であるように思える。それをお互いを高め、お互いを別のものに更新しあう。

 

更新とはあるものが終わることであり、それは破壊とも関係がある。破壊するものが、同時に自分を更新するものであり、この両義性を受け入れないと、生命を至上の財産として、つまり死物にして余すところなく管理するサディズムを止めることができない。

 

(しかし近代以前の生命観や生のありようを表現しようとするとき、どうしても「響き」や「協奏」、「震え」のような音楽的な表現をするしかなくなってしまう。そういう表現の仕方は自分にもまだ馴染まないけれど、表現しようとするとそうなってしまう。)

 

現代においてより疎外されているのは、他者との関わりの豊かさではないだろうかと思う。ある人にとってはブルーシートは憎いものの象徴であって、別のある人にとってはブルーシートがもつその価値の無さこそ、価値そのものでありうる。

 

大島弓子の『ロストハウス』では、主人公は厳しく管理統制された自宅ではなく、あるときごちゃごちゃにモノが置かれた部屋を発見してそこで不思議な安心を得る。

 

www.hakusensha.co.jp

 

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」では、世界の陸地は温暖化(?)によって海に呑み込まれることが避けられず、人間が築いた文明はゆっくりと時間をかけて海に呑まれていき、その分だけ時計が巻き戻るように懐かしいような空気感をもつ暮らしに戻ってもいく。

 

grand-spring.com

 

自然の支配者であり、世界の管理者だった人間はその地位を追われたが、そのことによって成長や発展への強迫的で義務的な邁進からも解放されている。

 

かつての時代においては、非生命的なものの象徴であり、世界を席巻し、埋めつくしたコンクリートも今では時代の名残りでしかなくなり、夕陽がそれに残したあたたかみはささやかな、儚いめぐみとして感じられる。

 

オーラとはモノとモノが、あるいは関係性と関係性が響きあい、震えあう協奏であるのだと思う。そしてその協奏の多様性は画一化した場では減少してしまう。

 

それは例えば、オンラインを通したやりとりが人の体験としては一律に不十分だということではないと思う。新型の感染症が流行るこの状況で、劣ったものとして認識されていたオンラインの可能性に驚き、見え方が変わったという声もネット上では散見される。

 

分身ロボット「オリヒメ」を通した遠隔操作での体験が対面ではコミュニケーションが難しかった人たちの可能性をひらいてもいる。対面が最も豊かであり本質であるというような考えこそ画一的であるのだろう。

 

orihime.orylab.com

 

何が何に反応するかわからない。オーラとはある人には重要であり、ある人には全く無用であるような、特定の用途に設定するにはあまりに「無駄」な影響性という面があるのではないかと思う。

 

礼拝するもののオーラが特定の影響を何かに与えるだろうし、もしそればかり狙って環境を埋めつくしたならば、そのオーラでは協奏できないものが疎外されるだろう。だから世界には常に協奏の余地が残され、管理できない他者性が残されていることが必要なのだろうと思う。

 

今までを整理すると、近代の生命観においてはそれぞれの個が自己完結した存在であり生命は所有している財産とみなされる。

 

その生命観において生命は、その自己完結性ゆえに危険でもあり、生に新しい可能性をひらくものでもある他者の価値を不当に位置づけている。そのため、自身の生の可能性や更新を活性化できない疎外状況におかれている。

 

他者は破壊をもたらすものであり、同時に大きなめぐみをもたらすという両義性をもち、そもそも生は他者に圧倒的に依存している。

 

近代以前の生命の捉え方は、モノや生きもの、関係性が、お互いに隔絶されているのではなく、直接的にひびき合い、影響しあって、その響きあいを前提に存在しているというものだと思われる。

 

そこでは、動物を徹底的に虐待するかたちでの畜産などはありえないということになるだろう。なぜなら響きあいの結果として生命力は高まるのであり、他者との響きあいこそ生命の本質であり、自分の本質であるのだから。一方を虐待し、自分は影響を受けず高まるということはあり得ないとなる。

 

オーラとは、他者に向けられて発されている響きそのもの、影響性そのものであるのではないかと思われる。ただし、あるオーラの影響性は万物に響くわけではなく、つまるところオーラとは自分や誰かがあるものに対して反応があるかないかということによって、結果的に存在が判明し感じられるものではないかと思われる。

 

たとえばある人にとってはブルーシートに何も感じられず、ある人にはオーラが感じられるというように。常に影響性は発揮されているのだけれど、それに響きあうかどうかは相手によるし、響きあわなければオーラがあったと自覚することができない。その意味で、どんな相手に反応するかわからない「無駄」が多い影響性としてそれぞれのモノや関係性は存在しているのではないだろうか。

 

したがってなんであれ「これが正しい」として環境を画一的、一律にすることは、誰かと反応するかも知れなかった影響性が発現することを排除しているといえるだろう。

 

その上で最後に生きているものと死んだものについて。

 

生きているものとは、止まっておらず、固定されておらず、動いているものであり、既知におさまらず、変わりゆくプロセスそのものであるだろう。それは他者であり、つかまえられぬ儚さであり、震えであるだろう。芦奈野ひとしの世界では、コンクリートでさえ、生きており、めぐみでもある。

 

一方で、対象化され、止まったもの、固定化されたもの、既知であるものは、管理の対象となり、他者性を失っており、死んだものであるだろう。しかしここでコンクリートでさえ生きていることを鑑みるならば、実際には死こそが概念でしかなく、存在しない虚構であるといえるのかもしれない。

揺り動かしにいく 君島久子「ほしになったりゅうのきば」

中学以前は割とよく本を読んでいたけれど、その後読めなくなった。大学になっても日常的に読めるのは絵本ぐらいの文量で、それがしんどくない限度だった。

 

文化心理学という講義があって、絵本や民話の分析がレポート課題になった時があり、長谷川摂子作、片山健絵の『きつねにょうぼう』を読んだ。

 

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『きつねにょうぼう』は、つるの恩返しなどと同じ類型の物語で、きつねと知らず結婚した女房がある日きつねであることがわかって山に帰るというもの。

 

図書館でイメージ・シンボル事典とかをひらきながら物語の各部分を見ていくと非常に面白かった。たとえば、きつねにょうぼうがきつねであることがばれたのは、子どもが3歳のころで、山一面にさいた椿の花に見とれてしっぽを出してしまったためだったというところ。

 

調べると、3歳とは子どもが一通りの自立ができるようになる時期であり、椿はぼろりと急に花が落ちるため、突然の死の象徴であるとも書かれていた。

 

花として物語に現れてきたのが椿であることが、次の展開である突然の別れを暗示しているとも読めるわけだ。このように民話や物語のなかに凝縮された情報があることがわかった。時を経た民話だけでなく、現代の創作においても、繰り返し現れる物語のパターンには意味がある。

 

文化心理学のレポート以降、複数の物語において現れる共通のパターンは何かを自分なりに考えていくようになった。世界や心のありようを深く納得する手がかりとして絵本や物語を見るようになった。

 

世間で流通している捉え方では足りない、深い納得が自分に必要になったのは中学校以降だ。中学校で不登校になり、フラッシュバックに悩まされるようになってから、社会で流通している人間観はとても皮相で無責任なものだと痛感するようになった。

 

たとえば、つい先日も世間のよくあるセリフに腹が立ったという方がいた。自分がつらい経験をしたことを相手に語った時、相手が「つらい経験をした人は人にも優しくなれるよね」と返したそうだ。

 

一つの経験が傷となったまま回復していないことは多い。自分が経験したつらいことのために余計に不信を募らし、人に攻撃的になる人は多い。Twitter上などは、その嵐みたいなものだと思う。

 

思うに、腹を立たせたのは、相手がつらい経験をしたと語っているのを自分が受けとめるのが嫌で体良く逸らすために自分でも確認していないこと、本当に思ってるかどうかも怪しいことを言ったからだろう。

 

世間で流通している言説は、平気でこういうことを本当のことのように言っている。個人の思想の自立などそんなになくて、個々人は多くの人(つまり強い人)が言っているような価値を自分でも知らず取り入れ、内面化してしまう。

 

自分自身もそんな状態で、しかし取り込んだ価値観が自分をむしばんでいくので、生きるためには別の見え方に移行していく必要があった。絵本や物語はその意味で貴重な媒体となった。

 

民話を題材にした君島久子作の絵本「ほしになったりゅうのきば」では、主人公は行き詰まった場面において塔の上に住む存在に力を貸してもらうため、塔を揺らしたり頭突きをしたりする。

 

www.fukuinkan.co.jp

 

嫌がらせのようなことはするのはいけない的な皮相な道徳は人を見えなくする。個人も組織も、他者によって揺り動かされなければ、自己完結した同じ繰り返しにとどまる。それはその通りであり、批判は批判だから悪いというような、批判をひとからげに「ネガティブだ」とする世間でよくある態度は、無自覚であっても現状(そして私)を変えようとするなという抑えこみだろう。

 

主人公は揺り動かしに行く。変化とはどのようにおこるのか。サバイバルのこの世界において、相手が揺り動かされないようなことを正当に大人しく相手に伝えたとしても、それはそのまま放置される。現状は、現状を成り立たせなくすることによって変わる。

 

複数のマイノリティがSNS上でもつぶやいている。自分たちが今まで声をあげていたのにまるで変わらなかったことが、「健常者」が揺り動かされるとなると、途端に変わっていくことには複雑な思いを禁じえないと。

 

社会は他者によって揺り動かされ、壊され、ようやく新しい世界観に更新される機会を得るだろう。いいアイデアをたくさん出したから社会が変わるのではなく、それらは出ただけでは体良く無視される。

 

壊れるべきものが壊れ、成り立たなくなることが必要だ。積極的な意味で、古いものを揺り動かし、結果として成り立たせなくすること。それが環境を更新するだろう。

すでに巻き込まれている世界で

読書会で発表者からシェアされたことを振り返る。

 

フーコーによる自由主義新自由主義の違いが話されていたのだけど、自由主義の段階では、あくまでも国という枠組みの下に資本があったけれど、新自由主義においては国と資本の立場は逆転し、資本が主人となり国はその必要のための変化を求められる調整役となったようだった。

 

今の政権のコロナ対策をみると、それはぴったりと一致するようだ。政権が利権の配分屋でしかなく、政策とはどの利権を選ぶかでしかない。オリンピック招致への未練でだらだらと感染症への対応を遅らせ、満員の通勤電車については向き合えず、「要請」といって、外出抑制のため歓楽街で警察に警棒を手にさせながら威圧するが、経済保障はしない。

 

個人であれ社会であれ、質的な変化は破綻からおきると思っている。言い換えれば、今まで自分がのっかっていたものが破綻するまで人は根本的な変化には向かわない。なんのかんのと言いながらやらない。たとえばフレイレが50年前に預金型(銀行型)教育の間違いを詳細にしても、50年後も変わらず預金型教育が行われているように。

 

「迷惑をかけない」とは、お互いがお互いを管理しつくすということであり、時間を止め、更新をこばむということだ。実際には一方的に踏みつけられている弱者がいて、その改善のためには現秩序を変えなければいけないのだけれど、現秩序を変えるためには多くの人の巻き込みが必要になる。

 

「迷惑をかけない」は、お前のことに他の人を巻き込むな、つまり自分を巻き込むなということなのだけれど、これはそもそも人はすでに巻き込まれている存在であるという現実を拒絶し、弱いものをそのまま切り捨てにすることを正当化する欺瞞であるといえるだろう。

 

この「迷惑をかけない」は実際には道徳に見せかけた処世術であり、他者を切り捨てる保身の開き直りなのであるけれど、これもまた破綻の前に自分たちが気づいてあらためるなどということはできないのだろう。

 

破綻をもたらすものはお互いを管理しつくした内部からではなく、外部からやってくる。自分ではできない。人はこの情けなさと無力を受け入れる必要があるだろう。自分で自分をダメにする力に対しては、他者が自分の強固に閉じたサイクルを壊してくれる以外にない。

 

「休業補償は世界に例がなく、日本の支援は世界一手厚い」という虚言を首相にぬけぬけと言わせられるこの社会環境自体には自浄作用はなく、破綻という第三者が仕事をして環境に風穴をあけ、更新の機会を生んでいくのだろう。

 

日々の暮らしにとって重要なもの、公共的なものを守るのは「国」だった。しかし、実際はそれは建前であり、表面上の取り繕いであったようだ。医療資源をどんどんと削減していたように、国は近代の焼き畑農業のように、世界に本来あった再生産の能力を資本主義が食いつくしていく手伝いをしていた。

 

今、自分たちに必要な文化を一人一人が自分の持っているものをシェアしていくことで生き延びさせようとする動きがあらゆるところで出てきていると思う。一人一人が公共的意識を捨てたままで、国に放任しておけばそれらは滅びるしかない。その意味では本来的なあり方に戻っているのだと思う。

 

国のようなものは自分の権力を強めるために一人一人が自律して考え、自分たちの暮らしを利権が重要な国の決めたやり方ではなく、自分たちの考えたやり方でやっていくのを嫌がる。だがその国の嫌がることをやっていくことで、国はそのならずものの本質から遠ざけられ、マシになっていく。憲法で「国民の不断の努力」が必要と言われているのはそのことだろう。

 

人であっても組織であっても、自分の完結した世界をつくって、自分で自分をダメにしていく自動的な傾向がある。その傾向は自分ではなく、コントロールできない他者によってようやく破綻させられる。たとえばそれは、国にとっては、他者としての国民ということになるのだろう。他者によって破綻させられなければ、ただ自己中心性に邁進していくだけだ。今までいろんな不祥事を隠蔽し、開きなおってきた政権が反省せず、ただ酷さを加速しているように。

 

他者としてやってきた「迷惑」、他者としてやってきて現秩序を成り立たせなくするもの。そういうものに対して、いつもの自己責任論や拒絶回避ではなく、応答することが必要になってきた。なぜ自分がそんなことをしなければならないのか、という考えが通用しない状況になってきた。

 

全ての人はすでに巻き込まれていて、お互いがお互いに影響を与えているのだから、自分は関係ないと高を括ることはもうできない。その考えが欺瞞だということは明らかになった。自分の生のことを政治家に任せて、自分は経済活動と自己実現に邁進していればいいというのは、結局は資本主義が世界に対して行なっている焼き畑農業を加速させているだけだ。

 

どうしようもなく不本意なことがおこっていくだろう。それが他者による破綻だ。嫌なものを遠ざけ、いいものだけを選ぶことは結局できずに、そうしていると大きなツケが返ってくる。当たり前の話しであるけれど、その当たり前を社会は皆で見ないようにしてきた。

 

他者はそれを破綻させる。そして破綻によってようやく壊されるいびつなものがある。他者を拒絶することをやめ、今までの自分の世界に閉じこもった繰り返しに逃げ込むことをやめ、他者がもたらした状況に応答する必要がある。今までしなかったことをして、世界と新しい関係を結び直し、お互いが人間として存在する新しい環境をつくっていくことが求められている。

他者を受けいれるとはどういうことか

「階段の上の子供」という谷川俊太郎の詩がある。

 

階段の上の子供

谷川俊太郎

 

階段の上の子供に君は 
 話しかけることが出来ない

泣くことが出来るだけだ
 階段の上の子供が理由で


階段の上の子供に君は
 何も与えることが出来ない

死ぬことが出来るだけだ
 階段の上の子供のために


階段の上の子供はたったひとり
 それなのに名前がない

だから君は呼ぶことが出来ない
 君はただ呼ばれるだけだ

 

 

階段の上の子供に対して、私は呼びかけることはできず、ただ呼ばれるだけだ。私は子供に話しかけることができないが、私が泣くのは階段の上の子どもが理由だ。そして私は階段の上の子供に何も与えることができない、階段の上の子供のために死ぬことができるだけだ、という詩。

 

(死ぬことの意味は色々考えられ、実際に生命活動の完全な停止という意味で考えても深く考えられると思うけれど、僕はさしあたり今の自分が更新されること、ということで捉えた。)

 

僕はこの詩は他者、あるいは他者性のことなのだと思った。自分の意思でコントロールすることができないが、一方的に向こうの影響を受ける。そういうような関係性をもつ存在。昔の自然と人間のような。

 

近代では「自然」はコントロールされ克服される存在として認識されている。だがどんなにコントロールしようとしても、新しいウイルスが生まれるように、自然をコントロールすることはできない。コントロールできることが増えたとしても、常にコントロールの外の領域が存在する。そのように認識している外の領域、コントロールできる外の領域が僕のイメージする他者であり、他者性だ。

 

先日、ジョハリの4つの窓について書いたけれど、私だけが知る私、他者だけが知る私、他者と私が知る私、私も他者も知らない私、という4つの区分ある。他者も私も知らない私という4つ目の区分もまた他者であるといえるだろうと思う。4つ目の区分は常に無視され、考慮することもできない。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

認識の外にあり(あるいは認識から漏れたところにあり)、よってコントロールという選択肢さえ存在しない他者がいる。

 

といっても、この他者は具体的には存在しない。見えたり聞こえたりして感じているものは既に認識されているものであるので。たとえば、信頼していた部下に殺される皇帝にとっては、部下は存在するが、殺意は認識の外にあるので他者であり、存在しない。

 

(しかしこの場合、部下は自分の殺意を知っているので、実際はこれは他人は知らないが自分は知っているという区分。もし突発的に自分さえ知らない「殺意」によって動かされたらもうちょっと自分も他人も知らない第4の区分に近いのかもしれない。)

 

(「異邦人」では主人公は殺人を太陽が眩しかったからと理由づけしたが、その認識も後づけかもしれない。自我機能は自動的であり、自分を守るために自分さえも偽るものなので。)

 

他者性は具体的な現象として現れれば、確かに存在していたことがわかるが、現れるまではそれは存在していない。そして存在したとわかった時にも依然として認識に漏れる外の領域(=他者)があり、その領域は認識できないために一方的に現れる。そして私はそのような他者に一方的に影響される。だから他者はいつまでも他者のままだ。

 

この他者には二面性があり、自分を壊すもの、危機に陥れるものとしての一面と、その破壊性によって、予想もしていなかった肯定的な状況をひらくという矛盾する一面がある。四国遍路などにおいては、弘法大師はその二面性をもった自然の象徴であり、自分を追い払った有力者の子どもを全員病死させる一方で、水のない地に水を湧き出させるなど、圧倒的な恵みと再生、豊穣の象徴でもある。

 

肯定的な側面だけをもった他者は存在せず、他者は常に今あるものを壊して新しいものを展開させる。コロナは、様々なものを壊しているので、同時に必ず今までなかった肯定的な新しいものも派生させるだろう。

 

新しいものは、既存のものから圧迫を受ける。新しいものがどんどん生まれるところは、既存のものが幅を利かせていないところだ。(既存のもの(自分の利権構造など。)をがっちり守りながら、新しいものだけ生めというのは実際は矛盾なのだ。)

 

たとえば、インフラの話しで、明治の日本のインフラ整備が、欧米の発明のタイミングとぴったり一致していたため、その発明より前の段階のインフラが整備されていた欧米以上に、新しい発明を前提とした全体的な整備ができたという話しがある。現代でもインフラが整った「先進国」よりかつては発展途上国と呼ばれる国のほうが、既存のものがない状態で新しく全体を整備できるので、ネット環境などは後から整備された方が最新のものにセッティングできるときく。

 

(ここで「コロナ」といって、認識できるものを他者のように書いたけれど、他者は認識外のところからやってきて既存のものを破壊し、破綻させるものでありながら、認識できたものは既に他者ではないので、認識される「コロナ」自体は他者ではなく、認識できるコロナの、既存の認識から漏れでる影響性が他者であるといえると思う。しかし、認識に浮かび上がった「胡散臭いもの」、「コントロールできないもの」、「予想できない危険がありそうなもの」は対象として存在しているので他者ではないが、そのように認識されているものと、認識の外にある他者(という影響性)は密接に関係しているとはいえるかと思う。)

 

他者そのものは認識の外にあり、認識から漏れでるものなので、肯定も否定もできない。しかし、他者という、私も他の誰かも知らない第4の領域があるというふうには仮定できるし、その「つもり」で生きることはできる。

 

他者を受け入れるとは、実際には現状認識されている価値の低いもの、受け入れがたいものの背後(つまり見えないところ)に、今の時代や社会の閉塞性を更新する破壊性があり、その他者の存在に人は圧倒的に依存しており、「自分が整備したインフラ」(=自分)が邪魔になっていても自分ではそれをもう壊せないのが人間の宿痾なのだと理解することだろう。

 

そして具体的には、現状受け入れられていない存在に対して、単に排除することをやめ、ただ新しい関係性を結び直すことを続けていくということになると思う。相手を完全に支配制圧するという、他者を殺すあり方をやめ、お互いがあることは前提とし、リスクを受け入れて覚悟し、その上で世界と自分との関係、相手と自分との関係をそのたびに新しくつなぎなおしていくことをするということだと思う。

ことばを獲得していくこと

日本ではパウロフレイレはあまり浸透しなかったとされる。

 

そこで思い出されるのが、知り合いの年配の教員の方々が話されていたこと。彼らによると林竹二は、部落差別への向き合いではなく、(学校)教育の充実を選んだという。

 

林は、社会「運動」のようなものではなく、非政治的な(学校)教育のほうが重要であるとみなしたらしい。林の対談などの口ぶりをみると、教育とはすなわち学校教育であり、林のなかでは学校教育は前提だったと思う。

 

林は正しい学校教育の結果として、あるべき人間が生まれ、社会が生まれると考えていたのだと思う。林は学びの本質について深く追究していたけれど、学校制度とは何かということについてはそこに根本的な問いを投げかけず、素朴に信じていたと思う。その結果が部落差別問題ではなく、(学校)教育がより重要だという「切り捨て」だったのだと思う。

 

(僕は林竹二から学べることはとても多く、学びとは何かについてはいまだに林に立ち戻って考える必要があると思っている。林の学びとはカタルシスであるという言葉や、吟味されることにより真の否定が行われるというような言葉が、はたしてどれほど理解されているのだろうかと思う。)

 

隣で行われている差別と関係なく、純粋な教育というものがあるだろうか。運動ではなく、政治でもない純粋な教育。政治ではない純粋なアートとしてのアート。そういうものがあるだろうか。

 

「純粋化」されたものとは、すなわち誰かが恣意的に設定した領域内に自己完結するよう断片化されたものであり、それゆえにその時点でまがいもの化しているものなのではないだろうか。

 

脱政治化、脱宗教化されているはずの教育は、実は政治の現秩序に都合のいい人間を量産するものとして常に整備されなおされているし、「道徳」という名前で現秩序に都合のいい宗教が人に埋め込まれようとしている。

 

日本でのフレイレの受容の話しに戻ろう。日本でもフレイレの思想の影響で識字教育の実践がされていたようだけれど、日本では純粋な読み書きと文字による表現といったことにとどまり、現状の社会の不均衡を自覚し、それを変えていく主体にそれぞれの人がなっていくという文脈の実践ではなさそうだった。

 

それは個々人は今の制度や秩序に従うものでありながら、個人内でカタルシスをおこしていくことによって生の充実を得るといった文脈におさまるもののようだった。

 

しかし、もともとフレイレが行った識字教育は、単に読み書きができない人が読み書きができるようになって生の充実がおこったらいいとする趣旨ではなかった。

 

人は言葉(もちろん日常で使われる言葉はあるわけであるけれど。)を獲得するときに劇的に世界の見え方が変わり、社会環境を変革する主体となる。フレイレにとっては、個々人が一体化し埋没している社会環境から、それぞれが新たに獲得した言葉を用いて、距離をとり、世界を眺めなおすことが重要だった。

 

ここで、学校に行って識字教育がすんでいる人は、もはやこの決まりきったように見える世界の見え方を劇的に変える方法はないのかと思われるかもしれないが、実は言葉は「獲得」されていない。

 

マイノリティには言葉は十分に獲得されていない。そしてそれは(学校)教育の不足ではない。世間の言葉(考え方を含む。)はマジョリティに都合のいいように流通するものであり、これまでマジョリティに必要でなかった言葉(考え方)はゼロから生み出されなければいけない。

 

たとえば、脳性麻痺の障害をもった小児科医の熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんは、「自立とは依存先を増やすこと」、「希望とは絶望を分かち合うこと」という言葉をつくりだしている。

 

この言葉は障害を持たないマジョリティにさえも納得されるものとなっている。かつては、自立とは自分が強くなって獲得されるものであり、「依存」を減らすことは当然だった。しかし、マジョリティのなかにもグラデーションがあり、そのような自立観でやってきたものの、行き場を失い、生きづらさを感じている人たちは、この熊谷さんの言葉に出会ってようやく、吟味されないまま鵜呑みにしていた言葉と考え方を更新する。そして、熊谷さんのほうが現実や実態を精緻に捉えていることに気づく。

 

すると、社会の実態がこのようなものではないかとイメージされてくると思う。すなわち、社会で流通している言葉(考え方)とは、社会において強いものが(無自覚であれ)自分に都合のいい設定をより補強するために、自分より弱いものに言うことをきかすために流しているものが非常に多く、それらの言葉は実態ではなく、自分たちのポジションを強めるために言っているので、今「現実」や「規範」とされているものは実は歪められていそうだというように。

 

マイノリティにとっては、社会の価値観は内面化されてしまっているので、自身の内面の価値観を更新するところからはじめないと自分が救われない。熊谷さんにしてもきっと、自分は「自立」していないという地点から思考をはじめ、その価値観や否定性を実践のなかで言葉を紡いで更新していったのではないかと思う。

 

個人にとって、言葉や考え方の選択はまるで自由のように思われるかもしれないが、実際はまるでそんなことはなく、個人は小さい頃から現環境で幅をきかせている強いものの言説や価値観にさらされ、そしてそれになりきれない自分、対応しきれない自分に惨めさや弱さ、否定性を感じ続けるので、それを感じなくしようとする。

 

全ての人がマイノリティ性(現状の社会や世間の模範から「望ましくない」と見なされる特性、世間の「普通」とは違う「色」。)をもち、本人はそれを苦痛に感じ、マイノリティ性というその「弱さ」を感じなくするために、何かを「達成」したり、社会に流通している強い価値観に一体化し、自分も「マジョリティ」になろうとする。

 

だが、そのようにマジョリティになりきるのではなく、世界が本当にマジョリティの言うような構造になっているのか、今言われていることはおかしいのではないか、と気づき、向かう方向を変える人たちもいる。

 

流通している既製の言葉、既製の考え方の大雑把さや偏りを修正し、世界をよりフェアなものにするために、新しい言葉、世界の新しい捉え方が作り出されていく。そしてそれは自らのマイノリティ性に向かいあった人たちによってなされる。

 

これは「運動」のこと。これは「教育」のこと。これは「表現」のこと。これは「政治」のこと。いま、世界はそのように分断され、隔離されたものとして捉えられていると思う。分断され、孤立した個々人がデフォルトとして捉えられている現在、人はより人間らしくなるより、むしろ人間性、世界との応答性を劣化させているのではないだろうか。

 

世界は分野に区切られ、個々が孤立したキューブの組み合わせではない。自らのマイノリティ性から、世界と対話をはじめるとき、キューブの仕切りは消えていき、世界は生きたものとして、まるごとのものとして個人に取り戻されていくのではないかと思う。

第三者の取り戻し 意思でコントロールする対象としての「自然」ではなく

当事者研究的に人間について考えてきて、人間はそもそも欺瞞的なものであって、個人であっても組織であっても、自分ではその自己疎外性(自分で自分をダメにしてしまうこと)を乗り越えることができず、それを破壊する存在である他者が必要であるという認識になった。

 

コロナで社会構造が壊される。でもいびつなものも一緒に壊れていくことは間違いないと思っている。

 

(だからといって「いい社会」や「幸せ」が保証されるわけではない。人間と世界との関係は、そういうふうな都合のいい関係ではない。)

 

そのようにでしか、人間は疎外を免れることができないと思っている。

 

人間はできる、ちゃんとやったらできる、というのは多くの人がその考えにしがみつきたいところ。しかし、薬物やアルコールの依存症者がそこから抜け出ていくための鍵は、「自分の意思」で管理できるという自分のコントロールの無力さを知ることであるように、自分を壊してくれる他者の存在抜きに、自分でできる、間違っても戻れるというのは、神話なのだと思う。

 

管理できず、応答するしかない第三者を排除しないこと。それが多様性ということにもつながる。意思でコントロールできる、相手としての環境や自然ではなく、意思もできず、操作することもできない第三者としての自然や他者の存在を取り戻すことが、自己疎外的に作り上げられる不健康な社会を更新する力になるだろうと思う。