降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【感想】熾(おき)をかこむ会  「責任」や「個」の終わり

「責任」や「個」という概念が現実のプロセスとは乖離したものであることがより実感されてくる。それらは今の社会を回すための基礎的な概念であるけれども、社会が複雑化してきて、現実というものは今まで済ませてきたようなこれらの素朴な割り切りでは扱えないことがわかってきた。

 

たとえば、環境問題というのは、誰がその責任をもつ主体であるのかがわからない問題に対応するために作られた分野でもあるとも聞いた。

 

公害を撒き散らした企業であるとかは、明らかではないかと思うかもしれないけれども、社長より株主などの方が上だったり、公害に関わった人というなら社員全体なのか、というように、現実をより実態に即してみるならば責任の主体がだれなのかはより曖昧になってくる。

 

水俣病においても、加害企業であるチッソに対して裁判で勝てたのは、内部検証において有機水銀水俣病の原因であることが判明していたのに隠蔽していたことが内部告発によって明らかになったからその点において大きな非が認定できたところも大きいのではというようなことも聞いた。

 

「責任」や「責任を持つ主体」という古い考えかたがもはや成り立たなくなっているのだと思う。話題になったグレタさんの告発は主に国や企業のような大きな権力に向けてされたものであったかもしれないけれど、責任を持つべきなのは製造者であって、使っている消費側は関係ないし、などということは、良識のある人であればもう言えない。

 

それぞれの個人には厳しく「責任」を持つ範囲があり、その外では「責任」を持たなくていいという素朴な考え方で社会は動いている。だがその責任という考え方は、実際には責任の「外」をつくる機能を果たしてきたといえるのではないかと思う。つまり、ある範囲に厳しい責任を持つかわりに、それ以外の範囲に関しては全くの無配慮でよく、放縦であっていいという暗黙の許可のために、「責任」という言葉は生まれていたと思うのだ。

 

思いをもち、自分たちが割を食っても社会環境を変えようとしている市民の活動団体が行政の無責任さや放縦さを嘆くのをよく聞く。限られた範囲の「自分の責任」や表面上の辻褄合わせさえ果たせばいいということが横行している。知っていて高が括られている。これが「責任」「責任をもつ主体」という概念の限界なのだと思う。この考え方のままでは社会システムの機能不全は改善しない。

 

さて、かといって今の社会はその成り立ちの基礎部分からこれらの概念を前提にしているのであり、そうそうすぐには変わらない。一人の人が生きているうちに変わるかどうかはわからない。

 

切迫するニーズをもった一人一人の人は、自分が死んだ後に社会システムが変わって必要だったものが多くの人に提供されるようになっても仕方ないのであり、社会が変わるのを待っていられない。必要なものは誰にまかせるでもなく、自分たちの間で生み出すことが必要になる。

 

そしてこのことこそが、行政が枠組みを決めて一方的に提供する死んだ公共性、排除の組み合わせで作った公共性(「公園」で金銭をやりとりするてづくり市が認められないみたいに。)とは質的に違う生きた公共性とその意識を育むだろう。

 

正味のところ、一人一人の人は、主体意識を減少させられること、主体意識が育まれる体験から離されることで人間として疎外(本来持っている可能性を埋められ、ダメになっていくこと)されるのだから、一方的に決められ、提供される公共などは公共でもなんでもなく、むしろ逆のものだ。

 

(ついでにいえば主体意識といってもそれは周りとの人間的なやりとりによって生まれ育まれるのであり、一人のなかで育まれるものではない。自分だけに帰属するようなものは、健康的でも創造的なものでもないだろう。自分という捉え方自体が世界から自分を区切ることであり、閉じることであるのだから。)

 

「未来の社会」があるとして、そこからみれば今はそういうことが理解されない文化以前の社会、古代社会なのであるだろう。一人の人として生きるとき、大事なことは現社会で流通している理屈を真に受けない、信じこまないということなのではないかと思う。

 

前置きが長くなった。話しの場では、「責任」とか「個」という概念を真に受けていると人にも場にも変容のプロセスがおきない。そういうものへの意識や強迫が打ち消されているとき、自律的なものが動きだす。

 

熾(おき)をかこむ会では、自分のなかで動きだそうとしているものをたき火のなかに残っていて空気にあたって燃焼するのをまっている熾とたとえる。

 

身体教育研究所の野口裕之さんは精神は忘却の過程であるという。僕が思うに、精神とはたとえば煙突のようなものであり、その煙突には物心がつく前からススがたまっている。

 

僕はある人が生きることを通じてしたいこととは、つまるところ、その煙突についたススをとることなのだと思う。そのススは、自分なりのやり方でしかとることができない。

 

精神は獲得を求めていないと思う。あたかも獲得を求めているように見えても、その獲得がすでに持っていた不安や痛みを打ち消すから求めている。抱えている不安や痛み自体を取り除きたいという動機で動いていることが、見かけ上は獲得しようとしているように見えるし、つい自分でもそう錯覚してしまう。

 

その精神という通路に残っている「スス」をたき火に残っている熾(おき)とたとえているのだけれど、それはたとえば深い川の水面下の層にたとえることもできるだろう。表面のほうで水がはやく動く層があり、その下にゆっくり動く層があり、さらに深くなれば、ほとんど動きがみえないような層がある。

 

下の層のことはなかなか意識には上がらない。しかしその層に影響されていることは生きているなかでなんとなく把握されていく。会のなかで「風景」という言葉がでた。言葉や具体的エピソードにはならないのだけれど、「風景」として記憶されているものがある、と。

 

その風景が自分の底にあり、なぜだかわからないけれど、その風景にもう一度出会いたいという気持ちがある。そのような動機もまた、止まった時間として精神にとどまっているものを動かし、消していこうとする求めであるのではないかと思っている。

 

既にあるものを完全に守ろうとして、「責任」で自分や人を雁字搦めにするとき、人は自分に必要な体験もできなくなってしまう。「責任」は意思(による世界の完全なコントロール)とセットであるのだけれど、台風のように、どちらかというとコントロールできないものによって世界は成り立っている。

 

意思によるコントロールをどこまでもすすめることは、結局は人間から生きることを奪ってしまうだろう。だから「責任」ではなく、「救い」を生きるというあり方に移行してもいいと僕は思う。

 

浅い、ごまかしの救いを生きるときは、人は自分に閉じ、他の人から奪うようなことに熱心になるけれど、自分の深い「救い」に生きることは、そのイメージとは裏腹に周囲に影響を与え、公共的なものさえ生み出す。深い救いを生きようとするとき、世界に関わること抜きに生きることはできない。

 

深い救いを生きる人は、周りには「責任ある人」「私を捨てて生きる人」のような印象さえ与える。

 

自由放縦であること、できる限りの享楽と安定を自分の周りにかき集め、所有を維持することが幸せであると思える人は、逆にそこへのこだわりが絶対化しており、強迫的に生きている。

 

自分のなかにずっとあった強迫性から解放されたときの気持ち。それを感じたとき、人は自分はこれを求めていたのだと思うのだけれど、それはあくまで結果的なことであって、多くの場合は自分の強迫性に従い、その強迫がなくなるまで獲得することが幸せだと思っている。

 

社会や他の人の有用性のために生きなくていい。自分の深い救いを生きていい。世間は「意思」や「責任」を絶対化するけれども、それらで世界はまわらない。むしろそれで支配しようとすると世界は閉じ、いびつになり、こじれていく。

 

自分の「意思」や「責任」の限界を認めるところで、別の質感をもった新しい世界がひらけてくる。社会制度が何も変わらなくても、自分の感じる世界は変わっており、そのことによって、自分は以前の自分とは違う質的な変容を経ている。

 

その変容自体が、自分の周りの強迫を解きほぐし、環境を変えていくだろう。人は一人だけでは回復しない。周りとともに回復していく。「個」は便宜的な区切りであり、見方であって、実際の影響を見るならば、一人は一人でなく、世界と一体として存在している。

 

そこでは範囲を限定し、強制される「責任」ではなく、世界と自分をともに活性化させる「応答」が生きることの基礎になる。応答には義務がなく、罰もない。しかし、どこかに責任をもって、どこかに無責任になるようなことは、確実に自分に影響を与えることは当たり前のように理解されるだろう。

リードインの試み 初回

心に残った他者のことばに自分の言葉を添えるリードイン、とりあえずやってみてどういう感じにできるか考えよう、と上高野(左京区)での初めての試み。

 

紹介されたことばは、熊谷晋一郎、茨城のり子、小沢健二、緒形正人、澤田徳子『きらめきのサフィール』の闇の王の娘のセリフ。

 

今回はスマホを使ってもその場でことばを探すのが難しかったので、次回からは気になった他者のことばを二つ、事前にみつけて持ってくることにします。

 

まだどんな感じになるのがいいのかは手探りですが、現段階ではなるべくなら味わいを中心にして、なるべく議論っぽくならないほうがいいかなと個人的には思っています。

 

自分の選んだことばをふりかえると、どちらもバランスについての言葉でした。資本主義社会的な価値観だと「幸福」や「自己実現」というもの自体に疑問が投げかけられることはありません。しかし、本当にそうなのか、と思います。自明視され、疑うこともない前提にされていることこそ、強い抑圧性を持っているのではないかと思うのです。

 

「幸せ」や「自己実現」の獲得に何のためらいもなくていいのでしょうか。それらは本当に純粋なものでしょうか。それらが自明視されているために、一層生きることに苦しみを受ける人がたくさん生まれていないでしょうか。

 

光ある限りまた闇もある。どこかに強い光が集まるとき、その分、他の場所の闇が深くなっていないでしょうか。

 

ルグウィンのゲド戦記において、主人公ゲドの魔法の師匠、沈黙のオジオンは、ほとんど魔法を使わずに生きようとします。なぜなら魔法はもし使わなければあるはずだったものをないものにして、何かをおこしているからです。どこかに魔法で雨を降らすことは、世界の別の場所に降るはずだった雨を奪うからです。

 

「幸せ」や「自己実現」というものが無前提にいいものであるときこそ、全ての人がその獲得競争の亡者になり、その強迫性はより苦しむ人をつくるのではないでしょうか。

 

緒方さんは全ての人が少なからず泥棒であるという視点を提示します。また『きらめきのサフィール』において主人公と恋に落ちる闇の娘は、喜びと悲しみがどちらかだけで成り立たないことを指摘します。

 

「どうして知らずにおられるのかしら? 光があれば影がある。幸せの影には不幸があるし、喜ぶ人のうしろに涙を流す人がいるわ。自分たちの光の影には、悲しみの世界があることに、もっと早く気づくべきだったのよ。」澤田徳子『きらめきのサフィール

 

「狂って以来、俺、自分のことを泥棒と思ってるんです。イヲ(注・イヲ=魚)をとる泥棒。以前はれっきとした「漁業」と思っていたばってんが。社会という枠の内では漁業でいいんだけど、その外に出ると泥棒。いっぺんこの枠自体を疑ってみる必要がある。枠をとっぱらったところでは、みんな多かれ少なかれ泥棒じゃないですか。スーパーで買えばそれで合法、と言ってすむ問題じゃない。スーパーなんていうなれば、泥棒たちの分配センターで、銭はそこの通行証みたいなものでしょ。我々はそこから持ちきれないくらい、冷蔵庫に入りきらず腐らすくらい、いっぱいものをさげてきて、涼しい顔で金は払いました、と言ってる。」緒方正人 『常世の舟を漕ぎて』

 

欲望形成と学び

 

 

 

無自覚なものを自覚化していく個人、の陥穽は、殻が厚くなることではないかなと思う。そこで想定されているのは、意識的な主体としての「変わらない私」。その私に経験や知識やらが蓄積されていく。

 

その変わらない主体を想定すると、結果として変化しにくくなるだろうと思う。この私という殻が厚くなることによって柔軟さと別様であり得た様々な可能性は奪われていく。他に色んな条件があるだろうに、自分の意識的なコントロールによって「成功」したと思い込むと、その経験は殻を厚くし、執着が強くなるし、しばしその体験を絶対化してしまう。

 

すると同じことを繰り返そうとするので、もう将来的な停滞が約束されているようなもの。

 

インプロ指導者のキース・ジョンストンが何千枚も似顔絵を書いていて、自分がスランプになるときのパターンを発見したという。スランプになる直前には毎回、自分でとてもよくできたと思う絵を描いていたそうだ。そういうつもりがなくても成功体験は無自覚・無分別に繰り返してしまう。それは状況や今の状態を見ないということにつながっている。

 

柔軟さ、自分や状況への応答性は、殻にすぎない私と距離をとることと強く関わっている。殻でしかない自分に蓄積していくイメージは、停滞を必然的に招くだろう。うまくやっている人が自分の手柄にせず「謙虚」だというのもここと関係があると思う。自我肥大はパフォーマンスの低下につながる。

 

学びとは、更新であると思う。更新された時、そこにいるわたしはそれまでの自分とは別のものになっている。だから「変わらない私」に蓄積はされていない。「私」という殻が変わり、それまでのものが消えるのが学びであるのだから。

 

蓄積や達成が重視される社会だけれども、更新がおこれば世界の見え方は一新され、活力が流れこんでくる。結果としての蓄積を主とせず、その場その場の応答によって、更新をおこしていけば、生きることは新鮮なものになるだろう。

 

学ぶのに年齢は関係ないと言われる。蓄積や成果が学びのゴールなのであれば、学びは虚しい営みになるだろう。学びはより今を生きるためにある。蓄積や達成を絶対化すると、プロセスが犠牲になる。プロセスさえ動いていれば、周りも自分も変化していく。

 

面白いことに、更新も単に変わるというだけでなく、より自分や世界に対して応答的になる。より人間になっていくという方向性がある。

 

言葉をもった人は、言葉によって自分のなかに世界を取り入れる。しかしその世界は過去であり、記憶であり、既に決定されている。自分が世界をどのように理解するのか、人を理解するのか、生きることをどのように理解するのかは、この取り込んだ世界に決定されている。

 

そこは行き場のないメリーゴーランドだ。精神は世界を「所有」したかわりに、その世界の見え方の変わらなさに倦んでいき、更新がなければそれに絶望する。更新がなければ、自分がもっていた否定的結論が再確認されるだけだからだ。その変わらない見え方を更新していくことによって、精神は解放されていく。

 

体において血行がよい状態が常に更新されていれば、全身の活力が増すけれど、精神もまた似たところがあって、精神は気(持ち)の循環がもっともいい状態を常に求めている。気(持ち)の循環の最大化を求めている。

 

そして多分、その気の循環をもっとも停滞させる要因が言葉による世界の取り込みであって、記憶と過去にすぎない古い世界がいつまでも世界の見え方を規定し、精神に影響を与えていることだと思う。

 

欲望形成支援において生まれたものは、変わらない私に蓄積されるようなものではなく、今の自分を更新し、古い自分を逸脱していくような動きを持つだろうと思う。古くなった構造(つまり自分という殻)の規定から逸脱していく。それが学びであり、更新であるだろうと思う。

 

自分という古い構造によって圧迫されているものがある。それはひずみを生んでおり、それは同時に変わるためのエネルギーがためられているということでもある。主体は、私という殻ではなく、気の循環の最大化を求める自律的な運きであるのだろうと思う。

 

だから自分という既知のものしか知らないものでは発想することも、生み出すこともできないものが、更新に向けた動きからは生まれてくる。

【11月の催しもの】 DIY読書会・「リードイン」実験会・水曜ゼロ円飯(吉田寮炊き出し)ほか

【11月の催しもの】

 

→9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になっています。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。

 

11月5日(火)19時半 DIY読書会 

11月6日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

11月10日(日)13時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会

11月12日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 

11月13日(水)18時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会

11月17日(日)10時 大地の再生と玉ねぎ植えワークショップ

11月20日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

11月22日(金)19時 私の探究・研究相談室 

 

【11/5(火)DIY読書会】

時間:19時半〜22時半ごろ

場所:ちいさな学校鞍馬口

内容:本を読んできて発表したい人が発表し、発表から触発されたことなど、自由に話す場です。今回は、酒井隆史『暴力の哲学』の続き、ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』の続き、リードイン(鶴見俊輔氏がやっていたことばを味わう会)なども実験的に少しやってみます。

 

 

【11月6日(水)・月20日(水)ともに19時 吉田寮炊き出し 水曜ゼロ円飯】

場所:京都大学吉田寮食堂

内容:

吉田寮生はゼロ円で、寮外の人は300円のカンパでご飯が食べられます。吉田寮食堂に入ったことがない方はこの機会にいらしてみませんか。カンパは吉田寮支援にまわされます。吉田寮はこちら→Google マップ

 

【11月10日(日)・18日(水)ことばを味わう会 「リードイン」実験会】

時間:11月10(日)18時半〜21時、12日(水)13時半〜16時ごろ

場所:ちいさな学校鞍馬口

内容:リードインは哲学者の故鶴見俊輔氏がやっていたとされる集まりです。参加者各人が自分が気になったり、印象に残った他人のことば(文章)を持ち寄って、その言葉を紹介するとともに、そのことばがなぜ気になったかとか、思うことや考えたこと、触発されたことなど、そこに自分のことばをそえるものです。一人一人が他人のことばと自分のことばを場にシェアし、みんなで味わいます。今回は、実験的にやってみます。お申し込みはyoneda422@gmail.comへ。

 

【11/12(火)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

焚き火の灰のなかに眠る熾(おき)に空気をあてるような話しの場という趣旨の熾(おき)をかこむ会は、9月より第二火曜日の14時から17時に日程が変わりました。

僕は、成長や回復という言葉を積極的には使いません。人間の生というものが、積み重なっていくこと、「発展」していくことを本質にしているようには思えないからです。

体全身に血管が張り巡らされ血が流れているように、僕は精神を通路のように想像しています。そしてそこに気が流れているようだと思っています。その通路の一部分が狭くなっていて「気詰まり」があったりします。色々抱え込んでいると、通路はその分狭まっていきます。

生きていくなかで、色々なものを抱え込み、気が流れるその通路がだんだんと狭くなっていくときがあります。また、ものごころついたときからすでに、何かすっきりとしないもの、自分の精神を詰まらせるものもあるようです。

燃え残りである熾(おき)に空気をあてるように、自分のなかに眠っていたくすぶりを少し話しの場に出すと、それはとむらいが済んだように灰になって終わっていくことがあると思います。

精神の通路のなかにある詰まりを取り除いていくとき、血行がよくなるように、生きている感覚もめぐりのいいものになると思います。何かを付け加えるのではなく、すでにあるものを取り除いていく。精神にとって、何を獲得しなくても、気の通りがよくなればそれだけでいいのではないかとも思うのです。

初めての方もどうぞ気兼ねなくお越しください。

 

【11月17日(日)大地の再生と玉ねぎ植えワークショップ】

時間:10時〜17時

場所:京都精華大学近くの畑(お申し込みの方には地図URLをお送りします。)

内容:

今回は、様々な場所の環境改善で実績をもち、土の下の空気や水の流れの重要性という、これまでの土木にほとんどなかった考えを取り入れて活動を展開されている大地の再生講座からさがひろかさんを招いて、土地の見立てと改善の具体的なやり方を学びます。あわせて保存がきき、災害時には貴重な食料となる玉ねぎの苗の定植のやり方をおぼえます。お申し込みはyoneda422@gmail.comへ。

詳細はこちらへ↓

【催しもの】11月17日(日)大地の再生と自給農法玉ねぎ定植のワークショップ - 降りていくブログ

 

【11/22(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

 毎月第四金曜日の夜19時から本町エスコーラで探究の相談お話し会を行なっています。今月は22日(金)です。学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

「適応」ではなく主体化へ

小沢牧子さんは『「心の専門家」はいらない』において、臨床心理学、心理カウンセリングが問題を個人の心のなかのこととして矮小化してしまうこと、閉じ込めてしまうことに無自覚なことに警鐘を鳴らしている。

 

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これがどういうことなのかわかるだろうか。これは電通の高橋まつりさん過労死事件のように、異常な社会や環境のほうが根本的な問題であっても、不適応や何がしかの症状を呈することは、本人の心の問題(その状況でも症状を呈さない人はいる。)であって、つまるところその心が状況適応できるようになればいいという見えない前提への批判だ。

 

問題は個人の心のなかにあり、それが解決されればその人は治療され、適応ができるという考え方のおかしさは、たとえば『はだしのゲン』のなかでみることができる。

戦時下においては、むしろ理性を保っている人のほうが生きづらく、抑圧され、国家と一体化し、どんどんと一体化していない人を見つけだし、通報するような抑圧を「普通の人」がしはじめる。

 

問題を個人の心のなかのこととすることのおかしさは、今ある社会や環境を前提視して、そこへ順応することに無批判であることだ。戦時下で国家と一体化して適応し、心理的に「健康」な人ならば心理カウンセリングの必要はないのだから。

 

問題が自分の心のなかにあると思わされた人は社会や環境の本来的にあるべき姿を自分なりに想像してみることも、変化させようと働きかけることもなくなり、「心の専門家」やその知見が自分の問題を解決してくれると思うようになり、より生きやすくなるために「自己肯定感をあげるワークショップ」みたいなものに行けばいいのだとなるだろう。

 

僕は心理カウンセリングに行くなと言っているのではない。切実な苦しみを抱える人はその緩和のためにありとあらゆることを試行し探せばいいのであり、心理カウセリングを選択肢から除外する必要はないだろう。

 

しかし、こうしたら苦しみが緩和しますよという提示をする前に、まず言われなければいけないことがあると思う。

 

一人一人には、自分に必要な体験が何かを自分で確かめていくプロセスが生きている間ずっと必要であること。その確かめがすすむための環境を自分で調整する存在になること。そして自分に必要な体験を感じはじめれば、また環境に働きかけ、その体験を自分に与えること。

 

この試行錯誤の繰り返しによって、はじめてその人がその人になっていくこと。この終わりないプロセスにあることが個人を主体化させること。そのプロセスにはいることができなかったり、自分から拒否するならば、主体化から疎外されること。移行状態にあるとき、その人は主体であるといえるだろう。

 

主体化が疎外されたとき、その人は何かしがみつけるものに依存し、環境から自分に内在化された価値観を変えることができず、不満足に生きなければならなくなる。

 

必要な体験を自分に与える主体になっていくことが生きることに充実感や希望をもたらすこと。それが世界への信頼となっていくこと。

 

この終わりのないプロセスに入っていくことは、自分自身に応答することであり、そのことによって内在化した価値観が変容していく。精神はより寛容でより自由になっていく。

 

このことは、生きづらさを感じ、自分がどう生きていけばいいのかという問いに切実に直面している人に伝えたいと思う。

 

心のなかだけをなんとかしようとしても、どこにも行かない。今の自分の価値観や感受性が更新されるとき、また新しいものが見えてくる。今正しいと思うこと、今見えるゴール(それが自分を苦しめているのが多いと思うけれど。)は、自分が変わったとき別のものになっている。

 

自分の感受性から遠く離れていても、少しずつ近づいていくことでそれはより感じやすくなっていく。諦めず、少しでも自分が底から思っていること、感じていることに試行錯誤の応答をしていく。応答できたかどうかは、如実に自分の充実感や変化に反映される。応答していくことで、自分に内在化された縛りや抑圧、価値観が更新され精神は解放されていく。

このことを踏まえて社会を見てみよう。資本主義社会においては、自分で試行錯誤して自分で発見したり、自分で何かができるようになることは特に必要がない。どの分野にも専門家やプロがいて、お金さえあれば、その人たちにお任せできる。しかし、そのせいで、一人一人が世界と直接やりとりしながら自分の思考や感受性を更新していく主体化のプロセスが奪われている。

社会もまた一人一人に無力な消費者になってもらったほうが自分たちの権益を増すにあたって都合がいい。『ナリワイをつくる』の著者の伊藤洋志さんは、家の床を自分たちではり直しできるようになるワークショップをされているけれど、床はりにおいて、多くの人にとって床をはる経験がなくなるほど、目(リテラシー)がなくなってしまい、業者は自分たちの儲け優先で適当な床はりを横行させるということだった。

社会はお金儲けが優先なので、個々人にはより弱く無力になってもらい、より多くのニーズを出してもらい、お金を出してもらう構造が固定化されればいい。そうすると弱くなった個々人は、より自分たちの言うことを聞かざるを得ない。

資本主義社会においては、多くの人がその人たる充実や生に向かっていかないように、より強いものに従属を強める傾向を加速させるように社会が構造化されていく。この社会の歪みの傾向を自覚している専門家もいれば、無自覚な専門家もいる。

いずれにせよ、自分の経済、自分たちの経済圏の維持拡大がどこの集団にとっても重要なのだから、こと心の問題を扱っている人たちだけが公正中立なことはないだろう。個々人においては、自覚的で良心的でも、システムとしては経済圏やシェアの維持拡大が求められるのだから、全体としては、個々人の無力化、主体化の疎外に加担せざるを得ない。

世界への信頼は、自分の底で感じていること、体験したいと思っていることを、自分に提供することで回復していく。人が言っていること、評価されることではなく、自分とともにある感覚、プロセスに応答していく。

応答は大抵の場合、今まで自分が知っていることや安全確実(しかし退屈で苦痛)な領域に退避することではない、世界への直接の接触や踏み出しを求めている。しかし必ずしもいきなり大きなことをする必要はなく、ちいさな応答も確実にそれに応じたちいさな変化をもたらす。

学部の臨床心理学科に所属していたころから20年弱たった今はこう見える。問題とは、古い社会や環境が更新されるべく現れるものなのだと。社会や環境は、それが成り立たなくなるような亀裂や停滞がおこされなければ、誰かに過度の負担をかけながらもずっとそのままの体制でとどまろうとする傾向がある。

そしてその体制の偏りは、誰かに集中する。その誰かは環境全体の歪さを一身に、自分ごととして引き受ける存在になる。その人のそれまでの生は、もはや同じようには続かず、新しい生きかたを手繰り寄せなければいけなくなる。その人(あるいはその人を生かそうとする人)は生きていこうとして、周りの環境に働きかけていく。その時、周りにも応答の態度があれば、その環境は更新されていく。

問題を個人の内にとどめてしまうと、環境は更新の機会を失ってしまう。環境は更新されずまた別の人が犠牲になり、同じことが繰り返されるだろう。

環境の体制を自然に更新されるものとみるのは楽観的に過ぎる。それは非常に変わりにくい。誰かの既得権益と直結しているからだ。変えようとすると、大きな抵抗や抑圧が返ってくるだろう。だから多くの人はそこを手がけることを躊躇する。しかし、もはやそこがそのままではやっていけなくなった人は向き合うしかない。自分の生がそこにかかっており、もはや後に下がることはできなくなっているから。

問題を一身に引き受けた人は、その人がそういうつもりでなくても、環境の体制がいびつさを自分ごととしない他の人の代わりに、自分ごととして引き受けている。「迷惑」をかけているのではなく、自分が犠牲になって、体制のいびつさの「罪」を代わりに引き受けている。

今の自分が生きていくためには、環境は更新されなければならない。自分が生きていくためには、否応のない「仕事」が課せられる。受難以外の何者でもないが、もしその人が生きていくためにその「仕事」を続けるのならば、その人は人として深く回復していく。そしてその人の回復は環境の回復とも連動する。回復は個人内で完結することではないし、個人内に閉じさせることは環境の自殺行為でもある。

個人と環境は一体のものとして存在している。それをどちらかだけの問題に帰することは、真の問題の放置であり、状況をさらに深刻化させる。受難した人は、その人がそのつもりでなくても、環境が変わるために犠牲となって問題を顕在化させているのであり、公共的存在といえる。

受難した人は、目先の幸せではなく、自分が深く救われることを求めざるを得ない。目先の幸せを求めても、この競争社会で受難した自分に残されているものはないからだ。目先のものをより多く自分のものにしようとするなら、人を蹴落とすこと抜きにはできない。しかし、人が本当に救われるとはどういうことかを考え、自分ごととして求めている人は自分と周りを共に救っていくことをはじめる。

受難にあった人、生きづらい人は、強制的に公共的な存在になる。自分を救っていくためには、すでに用意されたような道ではなく、それまでなかった道をわずかであっても自分で開拓していくしかなくなる。その試練には、誰もが応答し切れるわけでもない。しかし、応答していくことで自分を乖離させた生ではないあり方に近づいていくことはできる。

 

生きづらいスタート地点で何もわからなくても、何を得ていなくても、応答することで、自分のエネルギーは増えていく。血行がよくなるように、精神の循環がよくなればエネルギーは増える。

 

そしてその状態で考えること、できることがある。変化した自分がまた変化を招いていく。今の自分の状態や価値観で未来のことを決定しようとしたり、それができると考えること自体が馬鹿馬鹿しくなる。

 

絶望は世界自体の変わらなさによってもたらされるようで、実のところは自分の既知の世界(それは全てが決まってしまった世界だ。)に閉じ込められ、そこから抜けていくことができないと完全に信じ込んでしまった時にはおとずれる。

 

応答は既知の世界を更新する。希望の感覚はその更新によって生まれる。

抑圧の相互解放のために

ある属性のマイノリティが別の属性のマイノリティへの抑圧にはまるで無自覚でしたい放題だったり、自覚していても平気だったりすることがある。またマジョリティに対してであれば、抑圧仕返すような結果になろうが、今までマジョリティがやってきたことを踏まえるならば、問題ないだろう、仕返しぐらいしても当然と高を括るような場合もある。

 

筋からいえば、抑圧からの相互の解放が目指されるところなのであって、自分(たち)だけ安全地帯に入ればそれでよし、他の人を抑圧して気晴らししてもよしというのであれば、それまでのその人の抑圧の批判には別に何の正当性もなかったということになるだろう。

 

そんな心性なら、抑圧されていた時代からその人は自分より弱い周りを抑圧していたのだろうなと思われ、その人は今も昔も一貫して抑圧者だったのだろうと思える。

 

フレイレは被抑圧者がもし自身のうちに内面化された抑圧を解放しなければ、被抑圧者は単に自分が抑圧者そのものになることを求めると指摘する。

 

フレイレはさらに、ある被抑圧者の社会的ポジションが実際に高くなり、抑圧者側にたてるようになれば、もともと抑圧者の立場にいた人より苛烈な抑圧を行うようになるとも述べている。自分が「価値」ある人間であることを証明するためには、その「価値」のない人と自分とを継続的に、はっきりと差別化しないと安心できないのだ。世間を見渡せば確かにその実例を見るに事欠かない。

 

世間の建前はともかく、自分にとって何が価値であるのか。働いていることか、「自立」していることか、能力が高いことか、人に「迷惑」をかけないことなのか。

 

抑圧の内面化とはつまるところは、こうすべき、こうあるべきという価値観ということになる。この条件を満たせば、自分には価値がある、自分は「一人前」の立派な人間であるという条件つきの「人間」認定だ。

 

ほとんど全ての人は、「自分は〜ができている」、「自分は〜であれている」という条件つきの肯定をかき集めて自分を保っているわけであるので、表面化させていなくても、潜在的な抑圧者であるといえるだろうと思う。

 

残念ながら言葉というのは、逆のもの、そうでないものに存在してもらっていないと成り立たない。言葉を介して自分が「幸せ」である、「価値」があると認識するのは比較を通してであり、「幸せ」でない人、「価値」がない人や存在をこの世界のどこかに設定しなければ、実感することができない。

 

ただ、自分がそういうふうな設定をしていることには無自覚でいられるので、天真爛漫に同じ基準を共有できない人を否定していることが多い。しかしその無自覚な人の否定は、言われた側の時間を止めてしまう。その人は、その人として自由闊達にその人の時間を展開していくはずだったのに、その否定を刻み込まれることによって、その場所にいつまでも引き戻され、留まってしまう。

 

さらには、もしその価値観自体からの解放の契機がなければ、その無自覚な人の否定は、相手の人のなかに、その条件つきの価値観を内面化させてしまう。そしてそれがまた負の連鎖を生んでいく。

 

つまるところ抑圧は、ある人がどのような条件つきの「人間認定」の価値観を自身に内在化しているかということになると思う。

 

人は素晴らしい、最高の価値があるという言葉で納得し、それで成り立つ人もいるかもしれないけれど、それを空虚なごまかしだと感じる人もいる。世間では実際に素晴らしい、価値があると大仰にいう人ほど、そういいながら実際には自分に都合のいい範囲の条件つきでしか認めていない場合も多い。

 

僕は人間がどのように変化しうるかということに関心をもち、そのありようを探ってきた。そして、人が変容していく場では(価値観自体が変わる、解放されるともいえるかもしれない。)、人は普段からこうでなければいけないとか、あるべき姿への強迫が打ち消される環境設定がされていることに気づいた。

 

価値とか意味とか、世間では肯定的に思われているようなもの自体が実はその人に必要な変化をとめている。先に述べたように、価値があるとは、価値がない存在を必要とする。気づいていなくても、そこには比較があり、競争がある。無意識であっても、精神はそれに束縛されている。

 

あなたは〜だから価値があるといわれるとき、真に受ければ、その条件を維持できるかどうかという不安がおとずれる。その条件を維持できるのはずっとではないかもしれない。すると、条件が達成されない時の自分はどうなるのか。

 

『〜だから価値がある」という「認定」は強迫と不安をもたらすし、そもそも条件を達成しないと認めないというメッセージも含まれるため、脅しでもある。細かいことを言うようだけれども、意識的にはそんな意味合いに無自覚であっても、精神は自動的に束縛され、かたまってしまう。

 

「無条件で素晴らしい」、「無条件で価値がある」というのは、代替的な言い方であってベストではないと思う。素晴らしくないといけないのか、価値がないといけないのか、という強迫がまだくるだろう。

 

素晴らしくなくてもいいし、価値がなくてもいい。その時に精神は安心する。価値や意味、そしてそういうものを生み出すそもそもの基準の持ち込みを許さず、意味や価値を判断する基準そのものが打ち消されるところで、精神は安心する。

 

そしてその時、価値観の変容のプロセスが動きだす。その人の時間が動きだす。人が内在させていた価値観(抑圧)から解放されていく。

 

抑圧されている側から抑圧する側になって、気散じや憂さ晴らしはできても、それだけでは精神の解放はできない。同じ苦しみを抱えているからすぐにまた憂さ晴らしが必要になる。それに加え、自分が余計に苛烈な抑圧者になってしまう。

 

目指すところは、内在化された価値観(抑圧)からの解放だ。そして、人が内在化された価値観から解放されていく場所は、「あなたは〜だから価値がある、素晴らしい」というような「意味」や「価値」が充満したところではなく、そのような評価づけを生み出す基準そのものが打ち消された場所だ。

 

積極的な価値づけとか、価値を高めることではなく、価値や意味を派生させる基準自体が打ち消されることが人の変容のプロセスの時間を動かしていく。

 

人のなかの、内在化した価値観の解放をめざすのであれば、ある人に対する働きかけは、その人のもっている価値観の強迫が打ち消されるような働きかけであることが求められると思う。

 

よっぽど自信を失っている人にカンフル剤的に働きかけなければいけないのでなければ、褒めて条件づけしたり、その人の一部のいいところだけを評価することは肯定的な面もあるかもしれない一方で、その人の強迫を高めもする。

 

それよりも、その人が抱えている強迫が生み出される基準自体を打ち消すようなことができるなら、そのほうがその人は自然にその人の時間を動かしていきやすくなるだろうと思う。

 

冒頭に戻り、あるマイノリティが自分たちだけがパスできる条件をもって、他の人を自覚的、あるいは無自覚に否定し、抑圧するということはよくある。潜在的に全ての人は抑圧者なのであり、そもそも「〜だから自分には価値がある」というところに自分の安定を依っているものだから。

 

抑圧とは『〜だから価値がある」という価値観そのものを基礎している。よって、もしお互いを内在化した価値観から解放しようと思うのであれば、なんであれ、人がいるところで「あなたは(あるいは誰かは)〜だから価値がある(あるいは、ない)」という評価づけ、そしてその評価づけを生むようなそもそもの基準自体が浮かび上がるようなことをしない、やりとりに持ち出さないということが非常に大切なこととして踏まえられる必要があると思う。

 

このことに非常に近いのが「人権」であると思っている。正直なところ、自分自身も学生の頃などは、人権という言葉を空虚なスローガンとしてしか受けとってなかったけれど、人権を守るという時に実際にされていることは、何かの条件によってその人に対する態度が左右されないこと、人の(商品)価値を決める基準のようなものをその人にあてはめないことであると思う。

 

人は人として対応されなければ人になっていけない。そして、人を人として対応することを通してでなければ、自分も人になっていけない。舶来の言葉でなくても「人が人になる」というときは、お互いが条件をつけた上で人を人と認めるということをやめていくということであり、蓄積された価値観(抑圧)を一つずつ取り除いて、条件つきの自分や相手の価値から解放されていくということだと思う。

 

抽象的にすぎると思われるかもしれないけれど、僕はこうしたらいけない、こういう振る舞いはNGと各マイノリティごとに知識的に積み上げていくやり方もある一方で、そもそも、人が人として扱われるとはどういうことか(僕としてはそれは人権とは何かという問いだと思うのだけれど。)を共に問うていく場が必要だと思う。

 

そこを抜きにしてしまうと、お互いを解放していくという根本的な態度やそこに向ける問いが忘れられ、抑圧されていた人が抑圧するということが繰り返されることになるのではないかと思う。

【催しもの】11月17日(日)大地の再生と自給農法玉ねぎ定植のワークショップ

叡山電鉄京都精華大前から歩いて7分の畑で大地の再生と自給農法のワークショップをやります。

 

昨年はこの畑を畑として使っていくために、シカとイノシシ除けの柵づくりとイグサとセイタカアワダチソウだらけになっているところに初めて畝を立てて、玉ねぎを植えました。

 

去年の玉ねぎはどうなったか? また現地で見ていただきます。

 

この畑の取り組みのテーマは、防災を媒介にした出会いと学びです。防災というと、準備や用意することが沢山あって面倒くさい、考えたくないと思われるかもしれませんが、去年、今年の台風や地震の被害を踏まえると、防災は全ての人にとって今や取り組むことを避けられないものになっています。

 

しかし、全ての人が関わる必然があるということは、防災をきっかけに普段はやりとりのない様々な人が出会い、交流も派生する機会でもあります。

 

むしろ、後者の側面を積極的に逆手にとって、防災を出会いと交流の場とし、被災時以外の日常生活もより豊かになりうる学びの場とすることもできるかと思います。

 

台風の避難時にできた台風カフェ、集合住宅で非常食の定期更新イベント化した取り組みなどもその好例です。

 

防災をやるならたとえ災害が来なくても日常が豊かになるような、とりこぼしなしの防災をやっていきましょう。

 

今回は、様々な場所の環境改善で実績をもち、土の下の空気や水の流れの重要性という、これまでの土木にほとんどなかった考えを取り入れて活動を展開されている大地の再生講座からさがひろかさんを招いて、土地の見立てと改善の具体的なやり方を学びます。

 

大地の再生は、たとえ重機がない場合でも、スコップ1本からでも環境は改善していけるという考え方をしています。素人には無理だ、まるでわからないとあきらめていたところから、環境の見立てと改善が等身大の自分でもやっていけると実感したときの、世界の感じ方の変化を体験してください。

 

今回は単に畑としての豊かさだけを追求するのではなく、それぞれ個性を持った場所を生かすというコンセプトで取り組みます。

 

通常、水の通りをよく、とにかく排水をよくと考えがちなのですが、湿地的な場所は湿地的な良さを生かすこともありかと考え、畑だけでなく、ちょっと池のような場所をつくったりと、生産性追求だけでなく、隙間や遊びの部分を含めた場所とのつきあいを考えてみます。

 

畑の場所は山のそばにあり、カエルや亀、様々な虫など小さな生きものも沢山います。畑よりそちらのほうが面白い子どもたちも多く、畑だけでない楽しみも重ねられたらと思っています。

 

ただ、しっかりとるものはとる、ということで、たくさん収穫でき、常温で長期保存が可能な玉ねぎの育てかたを紹介します。農というとハードルが高そうですが、色々な資材がなくても、すごい苦労をしなくても食べられるものが作れる自給農法の考え方で玉ねぎの育てかたを自分のものにしましょう。

 

自然に対して、自分にできることが増えると、世界の感じ方は変わってきます。今まで価値のなかったことが、急に価値を持ってきたりして、日常は多層的になり、興味は自然とひろくなっていきます。

 

皆さんのお越しをお待ちしております。

 

日時:11月17日(日)10時〜16時
場所:叡山電鉄京都精華大前駅から歩いて7分の畑(地球研の東南方向)
参加費:2000円
申し込み:yoneda422@gmail.com

持ち物:汚れてもいい服(長袖長ズボン)と靴、手ぶくろ、帽子、水分、昼ごはん(コンビニは歩いて10分ほどの距離です)。

 

※集合は現地集合ですが、場所がわからないかたは、9時半に叡山電鉄京都精華大前駅に集合ください。
※雨天の場合は23日(日)の同じ時間帯に延期します。

 

 

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