降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死んでいること

からだとことばのレッスン、二泊三日の合宿に参加する。

 

10/8-9三浦海岸WS合宿 - ningen-engeki ページ!


竹内レッスンは、竹内敏晴本人も書籍等で言及しなかったけれど、野口体操をベースといっていいほど取り入れたうえで出来ているものだったらしい。色々あるようだ。
先日の本町エスコーラでの対話の場の経験後は、考えるとき焦点をあてるところが変わってきている。(適切な言葉が見つかればそちらを使うがとりあえず)リアルな感じという意味での「リアリティ」がどうかという点で物事を見だした。

 

畑に行く途中の長い坂で、少し自転車漕ぎに本気になる。余裕の範囲内から出たとき、自分は生きて揺れていると思った。変わる存在としてある。余裕の範囲内にいるときは、変わらないものとして死んでいるなと思った。

 

レッスンのなかで、銀河鉄道の夜を題材に、声が相手の心に届くか届かないかを一人ひとりが何度もやった。一言一言が自分の思いや内面のほうに閉じているのか、それとも相手に届き、相手の心を動かすものなのか。

 

自分のほうに閉じた声と相手に届く声の違い。後者でやるときは、そこに自分が賭けられていると思った。自分は大分前から、そこに自分を賭けるようなことは避けるようになっていた。それは、自分の働きかけに対して相手がどうでようと影響を受けないようにするための防衛。それは自分じゃないものを演じることでもあり、自分を実際の感覚から遠ざける。

 

物語中の「さあ、下りるんですよ。」という短いセリフを何度もやり直した。「さあ」というときに相手に届く声であっても意識が抜ければ「下りるんですよ」はもう届かない言葉になってしまう。

 

相手に関わらない声を出すは、自分にも関わらない。言わば、死んだ人としている。届く声を出したときは自分も生きている感じがする。生きるというのはこういう感じなのかと思った。生き続けるというときの生きるではなくて、それ自体が生命をもつもの、こちらからあちらに動いているもの、その一瞬の生、一瞬の震え。その場に現れた一回性のエネルギーが弾けて、その場で消えていくもの。

 

死んでいるのか、生きているのか。
安定を求め、世界や相手に影響されないように、死人として生きている。面白いのは、生き「続ける」ということは、どちらかというと死としてあることに近いということだ。生きるということは、そのような偽の連続性とは対極にあるようだ。

 

影響を受けないように死んでいても、残念ながら苦しい。揺るがされる激しい苦しみがないかわりに、重い、変わらなさと虚しさ。生きているのに死を偽装しているのだから、一方で何かが生を激しく求める。作用と反作用。死を強制する自分への鈍い憎しみ。

 

死という殻で、自意識は守られている。自意識は平穏を願っている。何もおこらないこと。安定した死の世界を守り、敷衍しようとし、安定のために生を抑圧さえする。と同時にそのあり方を自分が憎んでいる。本当の死をむかえたい。それが自意識の底にある願いだ。生き続けなければいけない自分に死を与えて欲しい。終わらせてほしい。

 

死をまとい、生き続ける。転機にある人は、ある意味まとっていた死が死としての機能を果たさなくなっている状態にある。内在する苦しみを終わらせる衝動が、そのままを維持して生き続ける衝動の強さをこえる。

 

生きものというのは、どうもどちらかというと滞りのほうなのだと思う。変わり続けるものの一休みとして生がある。生き続けること、維持すること、同じであることに強迫されている。ところがそれを成り立たせているエネルギーは死ではない。そう思うと、死も本当の死はなく、一休みであるだけなのかなと思う。

唐芋通信第9号

「書きたいことは、野口さんのことだけだ。」とは、ぼくの声。さいきん、声にすることも躊躇わなくなった。だって、そうなのだ。野口さんのこと以外は、というか、野口さんの以外がないのだ。どうしたって、野口さんなのだ。

 

https://www.instagram.com/p/BLbPPExBi5h/

 


西陣古書店カライモブックスさんが出している唐芋通信第九号。

 

出る前にお店に行ったとき、校正をしている野口さんが今回の投稿に戸惑っていた。

 

今回は対話という感じだった。

 

僕は正直言って文学的なものにあまり反応できないけれど、唐芋通信を読んで、こどものみっちんのことばと順平さんのことばをみて、ものごとを遠くへ突き放すなあと思う。

 

日常では、周りのものを安全なものにしようとして何が何だかわからなくなっていく。働きかけで変えるということに血道をあげる。力で、生きることの大きさをねじふせようとする。

 

揺れ動かないものというのは、死なんだと思う。揺り動かされないようにするということは、世界をある種の死で満たしていくということだ。生は死の上にあって、死を肥やしにして、死に守られているのは本当だ。大きくなり、獲得していくこと自体が一面で死と同一化していくことなんだと思う。

 

世界との距離と変わらなさに戻る。弱さという震えは、安全にするために作ったものを揺りうごかして、戻りたくないところに戻してしまうような怖さをもつ。

 

怖さに耐えきれず、強くなっていこうとする。だけれどそれは実際には強くなってなくて、感じないように自分の持ちものを増やしていっているだけなのかもしれない。
持っていたものを奪われたときの、立ちすくみながらそこにある人は、遠くにいても存在への共感をくれる。同じ、ということだ。

変化と自意識の関与 楽器が弾けるようになるということ

作曲家の野村誠さんや京都新聞岡本晃明さんたちが東日本震災を受けて避難してきた人の情報共有の意味も含めて京都ではじまったインフォーマルな食事会、続いている。昨日は野村さんの誕生日の前日ということもあり、サプライズの小さなお祝いも用意されていた。


年男ということで次の回り年や、12年前はどういうときだったかという話しに。僕はちょうど12年前ぐらいに野村さんの参加するワークショップフォーラムに参加した。ワークショップという括りにおいてビジネス系やらアート系やら様々な分野で活躍している人たちが10人ぐらい集まった催しだった。参加者は実際にワークショップを体験しながら学ぶというスタイル。


僕のワークショップ観(というか場への見方というか)は、このフォーラムでの野村さんのあり方をみたことに大きく影響を受けている。野村さんの組は自分のワークショップの時間は穴を掘っていた。僕は別の組に属していたので、ちらっとしか見なかったが、何か空気感というか、時間の流れの質が違う感じがした。たとえるならそこの空気には酵母が殺菌されず生きているような。その酵母は息をする人間の体にも入ってきて、場はある意味、酵母の求めに応えようとするような、そしてそれが人間にもいいような感じ。

 

ワークショップという「型」が先にありきの場だと、こういう酵母はさっさと殺菌されてしまう。狙いがあってそれを体験させて学「ばせる」ような、人間を動くハードディスクか何かのように扱って、望ましい行動様式をインストールしようとしているところでは。

 

フォーラムでは、ワークショップ後、各組に別れた組の参加者がその組のファシリテーターとは離れて、参加者だけの「ふりかえり」をするよう求められた。その時野村さんは、当時の僕には「のんびりした」感じの声で、うーん、それはどうかなあ、一緒にやった人が分かれてやるってどうなんだろう、ふりかえりって感じでもないし、そういうのは僕はしたくないなあという感じのことを司会者に言った。

 

野村さんはこの時だけでなく、時々、おかしいと思ったことは進行の途中でも、その場でファシリテーターに伝えるということをされていた。野村さんの話しを聞くと、それまでこれはこういうものかとさらっと流せていたようなことのなかに、自分も実は違和感があったなということを気づかされたり、その指摘が真っ当で鮮やかだった。

僕はプログラムされた企画内容より、その野村さんのあり方に学びを得たと思う。野村さんにとって、ワークショップの最中も会場に一同を集めて司会進行しているときも、そこでおこることの重要性、自分がどのようにあるかは全く変わらないのではないだろうかと思った。

 

個々別々の企画内容ではなく、このワークショップフォーラム全体が、言わば一つのワークショップの場であって、企画者すら知らない何かの自律的プロセスが展開していく場であり、そこでは進行のために黙っておくとか、自分の感じは脇においてとか、そういうことがむしろ会の趣旨を駄目にしてしまうのではないか。発酵に必要な熱をいったん提供して、次は別のことやりますからみたいな、生まれてきた熱をうっちゃってしまうようなことは本末転倒だと思う。

 

その後何年もたち、何でもない一参加者の自分が、野村さんとまたであって、しかも講師と参加者みたいなことでもなく、フラットな立場で話しができたりすると思わなかったし、当時の感覚から見ると何か現実感がない。何となく、なぜか、そうなっている。

 

昨日は、野村さんにどう思うか聞いてみた。たとえば、力をもたない少数者が多数者の社会を塗り替えてしまうということはもしかしたらできないんじゃないか、恒久的な平和であれ何であれ、強いものの理屈でできる社会を全体として変えることはできないんじゃないかと。

 

少数者が逆転して力を持つことはある。しかしそれはやはり別の強いものができたというだけで、全体としての社会が強いものが強いものであり続けるための仕組みになることは、変わりがないのではないか、とか。

 

野村さんは500人が楽器をもち、統制者をいれるということがどういうことか、そしてそれに対してあるいは個々がバラバラに演奏するとき、たとえば別の大きな音を出す楽器にウクレレは打ち消されてしまうだろう、しかし同時に、ウクレレの小さな音が、聞こえるようなことがあればそこに可能性はあるかもしれない、と言われたように記憶している。

 

打ち消されるウクレレが、しかしその騒音のなかで誰かに届くということは、どういうことだろうか。どうやったらそういうことがおこるだろうか。

 

そしてそこと直接関係するかはわからないけれどと前置きして、野村さんは楽器を弾けるようになるということについて、お知り合いの演奏者から聞いた話しをシェアしてくれた。

 

楽器というのは、明日の本番に対して今日練習したからといって効果が出るわけではない。今日の練習が効くのはは3年後とかそういう感じではないかと。できないことはなかなかできない。でも、練習を続けていると、思うように出来なくても、ちょっとそのマネのようなことはできるようになったり、少し今までできなかったことができるようにはなっていく。そしてあるとき、できるようになっている。

 

野村さんの話しを聞いている感じでは、なぜ、できるようになったのかははっきりと自覚を伴うようなものでもなさそうだった。練習を続けていくなかで、ふと、何となく、そういう状態になっている、みたいな感じだった。

 

「諦める」というときには、その背景に大きな期待があると思った。その期待を満たすことはできないだろうという理由で、続けることをやめるのだろう。将来との取り引きとして、続けることをやめるのだ。その一方で、楽器を演奏するそのこと自体への喜び、快楽の存在というところに話しの焦点があたった。それがあるから続けられる。ただやるだけでも快楽があることがベースで、それに加えて少しだけこうやってみたいとか、こうなってみたいとかがあるときに続けられる。

 

それは「成果」を求めているようで、求めてないような感じだなと思った。少なくとも自意識は直接「成果」をコントロールできないし、直接にコントロールできると考えるときには、期待による多大な心理的負担が生まれてくるのではないか。自意識的には「成果」を絶対確実に得ることを放棄していることが、持続すること、結果として「成果」を得ることに貢献している。「成果」がなくとも働きかけ続ける営為を成り立たせるためには、楽器を演奏することそれ自体に快楽があることが重要だということなのだろう。

 

直接に「成果」を得ようとするときには、未来との距離に生きている。だが、今の快楽に根ざして続けるときは、未来や成果は派生としてある。直接のコントロールではなく、変化を派生として位置づけるということは、教育や心理医療など他の分野にも通じることだろうと思う。

 

子どもが、良寛の住まいに来て名前を呼んで良寛が出たら隠れてしまういたずらを繰り返していたという話しを読んだ。良寛は何度やられてもそのたびに表に出るという。良寛は何も覚えないのか。あるいは、おこることに対して、過去を紐付けず、心と記憶の粘着を切るあり方、過去から未来へ一貫して存在する「私」という仮想現実を消失させた反映としてそのようなことはおこっているのかとふと思う。

 

「続ける」という言葉にはぎりぎりした締め付けるような縛りがある。来るか来ないかわからない未来を前提しているからだ。未来というものがたぶんくるだろうけれども、それは「虚」であるととらえてみる。

 

「虚」と「実」は互いに依存したり、反転しあって存在する。最近はこの捉え方が心をうまく説明するような気がする。「お金より大事なものはない」というとき、それは間違いだというよりも、それはある仮定における「実」を表現したものだと思う。と同時にその仮定が「虚」だ。お金より大事なものがなければ何とも交換できないし、インフレとかおこれば意味がなくなる。あくまでその力は、社会が明日も同じであるという「虚」の前提を持たなければ「実」は「実」たり得ない。

 

全てを捨てて生きるのが「実」だ、調和と自然のもとに生きるのが「実」だというのも、想像以上の気候変動とか宇宙から隕石ふってくるとか、究極的には何がどうなるかわからないこの世界において、生き方というものに正しさがあるのかという視点からみれば、こちらも自分が想定した同じ状態が繰り返す限り、という「虚」の前提が必要だ。

 

ともあれ、未来を仮定して生きる「虚」と今しかないという「実」(これ自体も「虚」の仮定だけれど)という視点からみれば、「虚」のために心は犠牲になる。心は今にしかないから。

 

一方で、現実的に生活を成り立たせるのが「実」で、その場限りものというのは責任放棄であり、「虚」なのだというのが、この社会の理屈だ。とてもリアリティをもって迫ってくるし、その仮定を前提するならば妥当なのだけれど、それが「虚」であるという自覚がないから、際限のない強迫が生まれてきて、それによって心が疎外される。生きていくことを豊かにしようとして、生きていることを苦しくしていく。

 

野村さんは相撲にも深い関心を持っていて、一ノ矢さんという元力士の話しを時々される。一ノ矢さんは、大学卒業後小さな体にも関わらず、相撲界に入り、47歳まで現役をつとめられた。最高位は東三段目ということで、世間的一般的には相撲で花ひらいたとは言い難いらしいけれど、その年令、現役最年長まで取り続けられたのは、それが世間に評価されるものではないかもしれないが、常人にはなかなかない何かを持っていたということなのだと思われる。そうでなければ、辛くてそうそうに辞められたことだろう。40歳をこえてもどう体を使うのか、使えるのかを追究していて、年をとるのが楽しみだとさえ言われていたそうだ。今、その追究は書籍となって出版されている。

 

向き合っていたものが、自分のなかの自律性であるとき、何かが学び続けられ、変わりつづけている。このとき、社会でいう「虚」を軸に自分は生きているのだろう。だがその「虚」が「実」だ。これをやったらこれを得られるというギブアンドテイクで生きると心は自律性を失い、疲弊していく。心の状態は社会でいう「虚」に生きていけるようにするけれど、同時にその「虚」は社会でいう「実」に依存している。相撲の世界がこの社会で成り立ってなければそもそも「虚」の追究もできなかった。だから結局は「実」だろうとそちらに走ると苦しくなる。「虚」は「実」に依存しているが、「実」は「虚」としての心を生かし、解放するためにある。

 

目覚ましい「成果」を期待せず、今にあり、世界が変わる前から、今のなかに充実をつくりだす。明日の世界はイメージしていても、今の世界の整えを淡々とやる。そのことが実際に何を生んでいくのかは自意識は知らない。結果は自意識がコントロールできることではない。それを体が理解する時、解放が訪れる。ただ心にとってほどよい整えの結果が変化と呼べる変化、500の騒音のなかでウクレレが届くようなことがおこるのかもしれない。

 

 

音楽の未来を作曲する

音楽の未来を作曲する

 

 

『屍鬼』読み終わる 生の呪いと更新作用の相克

文庫版、残りの4巻と5巻が図書館にきた。

 
最近友人と話したとき、僕は人間は生命を生まなくて、生命が生命を生むと考えると言った。生むというのもおかしいかもしれないが、生命は、働きであって、生きたり死んだりするものではないだろうと思っていて、それを操作したり、働きを媒介したりしたからといって、人間が生命をどうこうしたとかいう言い方するのは、とんだ話しだなと個人的には思う。

 


私という自意識が生命だというのは、たとえ多くの人が疑問なくそう考えていたとしても、実態なのだろうか。自意識とは、生命の主人公などではなく、生命の花火に派生した煙のようなものではないだろうか。実のところ、川の流れのなかに派生した渦のような、見かけ上の実体ではないだろうか。だがそれを実体と考え、そこへの同一化や信仰を維持することに血道を上げざるを得ない仕組みになっている。

 

生命が働きであるならば、死を求めるのもまた生命だ。古くなった殻、古くなったシステムを更新しようとする。ところが古いものは抵抗する。平衡が崩れ、危機に面すること、死すことを恐れ、維持にしがみつく。舟に空いた穴を直視せず、穴を否定するような本末転倒に陥る。

 

「私は自然とは保守性であると思う」という大分昔に読んだ畑正憲の本の一節を覚えている。どちらかというと「常識」を覆すほうのことを好んだ彼がこの認識であるというのは印象に残った。

 

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

 

 

 

生きるものは敢えてリスクを冒さない。危険を冒すのは基本的には、既に危機にあり、そのままではいられないことが体感されているときぐらいだ。生きることは、どちらかというと、安定したものにしがみつくことのほうに重点が置かれている。

 

ところが、この生きものとしてのしがみつきが往々にして盲目的であることが自己矛盾をおこす。しがみつかないほうが長い目でみると生きていくことにとって有利であろうと思われるときもしがみつく。自己破滅的なしがみつきをする。

 

生きていくということは、変化をすることよりも、環境や状況によって状態が変えられることを拒むことに反応の軸がおかれている。生体としてそのようになっていると思うので、大きな変化、質的な変化をしなければ生きていけないという状況が、生きものにとっては基本苦手なのだと思う。

 

生きていくということが、あまりにも、何をおいても優先される身体であることが、逆に生きることを行き詰まらせる働きをする時がある。これが生きもののもつ自己矛盾だ。この行き詰まりは長い時間生きるというときに顕著に現れてくると思う。そして特に自意識は、生命の更新作用に対して強く抵抗する。

 

物語における不死は、この生きものがもつ呪いのような、生きるための保守性、同じあり方への盲目的しがみつきが(生きもの以前にあるものとしての)生命の働きがもつ更新作用と相容れない苦しみをテーマにしていると僕はとらえている。齟齬をきたしはじめているのに、なお同じままであって生を維持しようとする閉じた繰り返しは、周りの生命活動や環境との関係性に破綻をもたらせていく。

 

吸血鬼は不死の苦しみをもっている。自ら死にきれないが、死を求めている。苦しみの終わりを求めている。だから吸血鬼でさえ、死ぬ瞬間には往々にして感謝の表現をする。死んでいるのに、死にきれない苦しみが終わることを喜ぶ。

 

自ら死ぬことができないのは、苦しいからだ。痛み、恐怖によって行動は決められている。死にきれないことは、死の呪いではなく、生きものがもともともっている呪いなのだと僕はとらえる。この保守性、この死にきれなさこそが、生きものが不可避的に抱えた苦しみなのだと思う。

 

生の素晴らしさを強迫的に賛美することへの動機には、むしろ無視や抑圧がある。見ないため、感じないために高揚が必要なのだ。それは飢餓を一時的に満たすための血液だ。しかし、その根本的な不足の原因は、死んでいるもの、成り立たないものが無理やり生きようとしているところにある。麻痺するために必要なものはより多くなる。どのような場合でもいずれ足りなくなる。

 

だがここで興味深いのは、どのように保守性を維持しようとしても、その一方で切実に更新を、死を求めていることだ。それは素直にいかない場合、破滅を求めるというかたちになる。この苦しみを一点に凝縮し、ぶつけたい。そのことによって生が報われるような感覚を持ち出す。その欲求に駆られるようになる。それは現実の行動や思考の一貫性を犠牲にしても自律的に動き出す。

 

屍鬼』においては、人狼がそのような状態を表現していた。
人狼について説明すると、屍鬼(←大体において西洋の吸血鬼と同じ特徴をもつ。)は夜しか活動できないが、屍鬼によって襲われた人のごく一部は人狼という存在になって、昼も活動できるし、血液以外の食物も食べることができる。屍鬼は朝になると強制的に眠ってしまうが、人狼にはそういうこともない。

 

人狼は肉体的にはあらゆる面で屍鬼をこえていて、その気になれば昼に活動を停止している屍鬼を殺すことさえできる。だが物語の人狼は自らの意思に従って屍鬼の首領につかえていた。

 

ただ生き続けるという終わりのない虚無のなかにいた人狼は、屍鬼の首領がある村を乗っ取って屍鬼の村とするという破綻を内在した計画に惹かれた。それは彼にとっては彼の生の苦しみを凝縮して世界にぶつけるものだった。そのようにして終わらせたい。今までの抑圧された生に対する弔いの欲求をもつようになる。

 

生き続けるということに対しては、合理的ではない欲求が高まり、その欲求に行動や判断が引きずられるようになる。物語における不死者はこれをとどめることができない。それは結局、生命の働きによる更新作用なのだ。自意識でしがみこうとしているのに、欲求は死を、終わりを強く求めだす。

 

人間に絶望し、屍鬼にならず屍鬼に隷属した桐敷正志郎や村の信仰の要として、形骸として生きなければならなかった寺の住職である主人公室井静信。彼らは、人間が生きるために自らつくりだしたシステムの犠牲者だ。彼らにとっては、社会や村のシステムこそが死であり、その死に抑圧された生を送っていた。精神的な死者として生きていたのだ。

 

抑圧された生に対しては、更新作用が高まる。恨み、怒り、反逆への欲求。それらは無自覚にしかし確実に心を支配していく。宮崎アニメの、死んだ城塞都市が大きな木に乗っ取られて、木の方がむしろ本体になるかのように変わっていく。それが最終的にどのようにいびつで、破綻的な結果を生むことになっても、その高まる欲求自体はとめることができない。それが生命の根源的な更新の働きだからだ。逃れることはできない。

 

生は、古いシステムへのしがみつきとして死にきれない傾向をもつ。同時に、そのシステムを破綻させようとする生命の働きにも勝つことができない。

 

そして自意識というものは、どちらかというならば、生命の方のものではなく、システムの方のものなのだ。それは死物であり、潜在的に常に更新を求められている。同時に決して死のうとしないという、生きていくために与えられた呪いを持っているけれど。

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

 

 

凝縮されたリアリティ

東山区の本町エスコーラで実験的な対話の場を重ねさせてもらっている。

 

 

今回は、ドーナッツ・ラボという名前で対話の場を作られていた赤阪さん夫妻にも声をかけさせてもらった。

 

対話とはいったい何なのか。そこで何がおこるのか。それを体験してきたお二人に話しをきかせてもらいたかった。

 

僕自身を振り返ると、大学時代からずっと「話し」がしたいと思っていた。その「話し」というのは何だったのか。自分の内面のことを話すということも入っていたし、自分がずっと確かめ探っていることの話しもしたかった。

 

だが、「話し」は全然足りなかった。酸素が足りない。そう思っていた。自分の興味ほど、周りの人は興味がないから「話し」ができないと思っていた。別にその人が右でも左でもどちらでもいい話しなどしたくなかった。

 

妥協のないもの。

たとえばその人が本当に好きなことの話しをするとき、そういうものが出るというのはわかってきた。心理学の話しとかで妥協のないものを話すというのは諦めた。いつも足りないから、場を作ったり、どこかへ行ったり、人類学へ転科したりした。

 


妥協のないことは、ある人が今の自分ではおさめきれない苦しみを抱えているときにもおこっていた。そういう人に実際に会える機会はあまり作れなかったが、大きな苦しみを引き受けている人たちの言葉やあり方をみた。大きな苦しみは、小手先のごまかしややり過ごしではなく、根本的な乗り越えを人に求める。苦しみのために人は向き合わざるを得ない。

 

妥協のなさが生み出しているものは、自分が進むための動力であったり、必要な方向性を見定めるためのヒントだった。そうしている自分は洞窟で上から落ちてくる水滴で渇きをしのぐみたいな感じだなとも思った。自分に化学反応をおこすのに必要なものは潤沢にはない。

 

最近になってようやくそれは更新を求めていたのだとわかった。この自分の今の状態、自分の今の構造の更新。世界をまた新しく体験していくための営為。自分が「話し」に求めていたことはそこだったと思う。

 

妥協のなさを重要視しているつもりだった。しかし、その理解はとても表層的だったなと思う。今回は自分の捉え方が場によって変えられた。何がより重要だったのかわかっていなかった。

 

対話がなぜできないのかという問いがある。それに対して、自分のなかの思い込みやその意味はこうだという無意識の決めつけが存在するため、自動的な感情の反応がおこると考えている。その反応が存在と存在の「触れ」をなくしている。よって、その無自覚な頭の中の設定を観察によって気づき、破綻させていくということが、根本的なところだと思っていた。

 

確かにそういう面はある。それの重要性は全く変わらないが、それはメンテナンスとしてある。では何をメンテナンスするのだろうか? それは存在と存在の間にある通路をメンテナンスするのだと思う。存在が存在を変える。動的なリアリティ、自律性があり、それが相手に流れ込み、別のものにしていく。

 

メンテナンスだけがあっても、その動的なリアリティ、自律的なものがなければ何もおこらない。

 

自律性はメンテナンスの結果として現れてくるため、重要なのはメンテナンスなのだと考えていた。だからメンテナンスができるようになることが大事なのであり、メンテナンスができるかできないか、できているかできていないか、が場でおこることを決定するととらえていた。

 

しかし、その理解は半分をみたに過ぎなかった。
メンテナンスが全てではない。動的なリアリティ自体が場を設定し、つくりだす。それが今回得た理解だった。

 

今回の場を経験した友人が終わったあとに、あの場にいると、自分の言葉をどれだけそぎ落とせるのかということに意識がいったと言うのを聞いた。

 

場にシェアされた妥協のないリアリティに対して、自分の言葉がどれだけ嘘を含んでいるのかが照らし出される。友人の言葉を受けて僕も自分自身のこととして、確かにそうだったと思った。自分の言葉のなかでリアリティが薄いものは、言葉として発せられながら本当にうすら寒く、白々しく感じられる。失礼だとすら感じられる。これは非言語的なリアリティが場を設定しているといえるだろう。

 

その人の底から出されたリアリティは場を震わし、作り変える。場にあった空虚な規範や見栄えのよさを繕う軽薄な余裕を地に叩きつける。それは閉じ、いびつに固まった内的なシステムに修復できない亀裂をいれる。

 

底にあるリアリティをどこまで凝縮したかたちにできるのか。そのことの重要性を知った。言葉の多寡、上手い下手も関係なく、その凝縮されたリアリティが場をつくり、人のあり方を変える。

 

リアリティを凝縮することは、「出会い」の契機をもたらす。化学反応としての「出会い」は固まったシステム、制度疲労をおこし生命を減衰させはじめた自意識を壊して塗り替える。古い制度を完全に破綻させて終わらせる。死に切れなかったものに、贈りものとしての死を贈る。そのとき生は更新される。自分もまたそのリアリティを凝縮させてきた。それは「出会い」をおこすためだった。

 

凝縮されたリアリティが場をつくり、その場でおこることをつくる。その時、メンテナンス行き届いた人なのか、そうでないのかということを超えたことがおこりうるだろう。幼稚であろうが、どのような不足があろうが、その自分のリアリティを凝縮させることはできる。そしてその凝縮されたリアリティは、おそらくどのような状態にいる人に対しても贈りものとなるだろう。それはもう既に過去の繰り返しではいられなくする贈与だ。

 

今回を受けて振り返るならば、結局今まで自分のなかは、準備できた人と準備できていない人、できるようになった人とできない人がいて、できる人になっていかないと何もおこらないとなっていた。そうではない。今の有り様のままで、何も潤沢ではなく、不十分な自分のままでリアリティは凝縮できる。むしろ不足があるからこそ、より凝縮の動機と契機を得るというほうが妥当だろう。

からだとことばのレッスン2回目

竹内レッスンと野口体操があわさった「からだとことばのレッスン」2回目の参加。首の後ろとか、後頭部とか、頭頂とか、それぞれの部位を共鳴させて声を出してみる。声を出すのはとても力がいってしんどい、という感覚を持っていたけれど、共鳴を使うと力はいらない。短い時間で学べるところが多かった。

 


不思議だったのは、一緒にいた人たちも声を出したあと元気になったところ。連日の移動とかで疲れていた人も元気になっていた。

 

なぜなのかわからないが、和太鼓の響きを連想していて、いい響き、健康な音というのはそれ自体で不健康だったり、滞留しているものをとばすのかなと思ったり。

 

気功とかやっていないけれど、気(持ち)の通りということが気になる。割りと何をやっても気が「通った」感じがしないので気持ち悪い。いい意味で抜けていくというか、発散していくというか。気持ちいい発散とかあまりない。どこかでやっぱり詰まっているというか、自分に戻ってくるというか、出ていかない。

 

声のワークのとき、色んな感じで共鳴させて声を出したのだけれど、気の通りがよくなった感じがした。吐いた息が戻ってくる感じじゃなくて、出て抜けていくような感じ。こもった熱が発散されていくような感じ。

 

抜けていけばそれだけで気の通りがよくなって元気になる。というか、その状態がむしろ本来なのだろうか? ともあれ、周りの人の元気も、カンフル剤打つような元気ではなくて、滞りがとれて、通りがよくなった状態の元気のような感じがした。
出す声で意識状態が変わる。いい音が出る状態でしばらく声を共鳴させるとそのいい状態に意識もセッティングされるかのようだ。

 

障害があったりして、よく奇声を出す人もいるけれど、奇声も響かせるところをちょっと変わったところにして、気を通らせているんじゃないかと思ったりした。体の調整弁的な働き。たまったものが出る時にそういう突発的な感じになるとか。もし意識的に歌ったり、音出したりしていけば、奇声にならなくても気が通るようになるんじゃないかとか。

 

前回はこちら。

kurahate22.hatenablog.com

 

死にきれないもの

この前参加した竹内レッスンの講師の瀬戸嶋充さんから紹介された『屍鬼』をかりようと図書館に予約。5巻あるうちの3巻だけが先に届いた。もう少し待つ。『屍鬼』は吸血鬼が出てくる話しなので死にきれなさについてどんな表現がされているのか興味がある。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

 

 


ファンタジーから心のリアリティがどのようにおこり、それはどのような構造をしているのかを考えてみるようになった。作品や作者の違いをこえてどのようなパターンが繰り返し現れるのか。パターンとはテーマ性ともいえると思うが、このテーマ性をみていく。繰り返されるには理屈がある。その理屈を探る。


吸血鬼やゾンビとか幽霊とかも含めて英語はアンデッドといわれる。「死んでいないもの」ではなく、「死にきれないもの」というのが正しいと書かれているものを子どもの時読んで、変に心に残ったことを覚えている。


物語において、このようなアンデッドたちは何を語っているのか。大昔から現代になってもなおアンデッドは繰り返し物語として生まれ表現されている。

 

先日出版された『STAGE』への投稿ではシルヴァスタインの『ぼくを探しに』を題材に「とむらい」という関わり方が生を動かす動機であり、同時に閉じた生、滞った生を展開させるものともなると考えていることを書いた。

 

 

新装 ぼくを探しに

新装 ぼくを探しに

 

 

再読してみると、「とむらい」という言葉は使ったが、「死にきれなさ」という言葉は使ってなかった。同じ意味のようなことはいっていたけれど。

 

「死にきれなさ」はネガティブ極まりなさそうに受け取られるかもしれないが、生きているということは「死にきれない」ということだという見方をしたときに、自分や世界でおこっていることの理解に筋が通ってくると思う。

 

「私が生きる」という言い方は、普通であってとくにどこにも間違いがないようで、深刻な本末転倒がある。

 

エネルギーが少ないとき、この「私」が「生きる」ということに負担を感じる。「私」がこのうえ何かをさらに「やって」生き「なければ」いけないのか。

 

このときは、生の主体があたかも「私」であるかのようだ。だが、生の主体は動かざるを得ないエネルギーであり、「私」はそこに否応なく動かされているに過ぎない。そのエネルギーの求めに妥当なかたちで応答しないと生の循環が行き詰まっていく。

 

実際のところ、主体は「死にきれなさ」だ。だから「私」がコントロールできなくて困っているのだ。その対応として「私」をさらに巨大にして、あるいは性能をよくして停滞する状況をこえようと考えるのだがうまくいかない。

 

状況や症状がなぜ停滞しているのか。その理由は「死にきれなさ」以外の何ものでもない。「私が生きる」と生きることを既知のものしか知らない「私」の背中にのせようとするのではなく、「死にきれなさ」がどのように働いているのかをみる。

 

その停滞状況自体が、「死にきれなさ」が何が何でも生きようとしている状態なのだ。この「死にきれなさ」は何をしようとしているのか、何にしがみついているのか。その圧倒的な力が状況を固定している。この「死にきれなさ」という主体の動機を探っていく。これは自意識の降伏ともいえるだろう。

 

すると、「死にきれなさ」の求めや願いが実は自分の求めや願いであることがわかってくる。問題だったのは、意識的ではないにせよ、「死にきれなさ」を主体として受け入れることに抵抗していたことにある。「死にきれなさ」が私なのだとなったときに、自意識としての「私」が「生きる」は終わる。主体は自意識とは関係なく存在し、むしろ自意識が抵抗すればするほど意固地に強固に力をかけてくる。自意識が主体だという幻想を終わらせにかかってくる。

 

「生きようとしている」はずなのに、症状として「死にきれなさ」が力を発動すれば生きられる可能性がむしろ減る。「死にきれなさ」の特徴は盲目性だ。

 

複合的現実とそぐう目的をあらかじめ持たない自律的で盲目的なエネルギーの流れ。それは他者であるだろう。よって他者が「私」の主体であるということになる。自意識としての「私」がどのようなものであれ、合理的世界がどのようなものであれ、そこから独立している主体がある。矮小な自意識で生きることを背負うのは本末転倒だ。「死にきれなさ」というエネルギーとの関わり方で生の展開がおこってくる。