降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

唐芋通信第9号

「書きたいことは、野口さんのことだけだ。」とは、ぼくの声。さいきん、声にすることも躊躇わなくなった。だって、そうなのだ。野口さんのこと以外は、というか、野口さんの以外がないのだ。どうしたって、野口さんなのだ。

 

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西陣古書店カライモブックスさんが出している唐芋通信第九号。

 

出る前にお店に行ったとき、校正をしている野口さんが今回の投稿に戸惑っていた。

 

今回は対話という感じだった。

 

僕は正直言って文学的なものにあまり反応できないけれど、唐芋通信を読んで、こどものみっちんのことばと順平さんのことばをみて、ものごとを遠くへ突き放すなあと思う。

 

日常では、周りのものを安全なものにしようとして何が何だかわからなくなっていく。働きかけで変えるということに血道をあげる。力で、生きることの大きさをねじふせようとする。

 

揺れ動かないものというのは、死なんだと思う。揺り動かされないようにするということは、世界をある種の死で満たしていくということだ。生は死の上にあって、死を肥やしにして、死に守られているのは本当だ。大きくなり、獲得していくこと自体が一面で死と同一化していくことなんだと思う。

 

世界との距離と変わらなさに戻る。弱さという震えは、安全にするために作ったものを揺りうごかして、戻りたくないところに戻してしまうような怖さをもつ。

 

怖さに耐えきれず、強くなっていこうとする。だけれどそれは実際には強くなってなくて、感じないように自分の持ちものを増やしていっているだけなのかもしれない。
持っていたものを奪われたときの、立ちすくみながらそこにある人は、遠くにいても存在への共感をくれる。同じ、ということだ。