降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『屍鬼』読み終わる 生の呪いと更新作用の相克

文庫版、残りの4巻と5巻が図書館にきた。

 
最近友人と話したとき、僕は人間は生命を生まなくて、生命が生命を生むと考えると言った。生むというのもおかしいかもしれないが、生命は、働きであって、生きたり死んだりするものではないだろうと思っていて、それを操作したり、働きを媒介したりしたからといって、人間が生命をどうこうしたとかいう言い方するのは、とんだ話しだなと個人的には思う。

 


私という自意識が生命だというのは、たとえ多くの人が疑問なくそう考えていたとしても、実態なのだろうか。自意識とは、生命の主人公などではなく、生命の花火に派生した煙のようなものではないだろうか。実のところ、川の流れのなかに派生した渦のような、見かけ上の実体ではないだろうか。だがそれを実体と考え、そこへの同一化や信仰を維持することに血道を上げざるを得ない仕組みになっている。

 

生命が働きであるならば、死を求めるのもまた生命だ。古くなった殻、古くなったシステムを更新しようとする。ところが古いものは抵抗する。平衡が崩れ、危機に面すること、死すことを恐れ、維持にしがみつく。舟に空いた穴を直視せず、穴を否定するような本末転倒に陥る。

 

「私は自然とは保守性であると思う」という大分昔に読んだ畑正憲の本の一節を覚えている。どちらかというと「常識」を覆すほうのことを好んだ彼がこの認識であるというのは印象に残った。

 

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

 

 

 

生きるものは敢えてリスクを冒さない。危険を冒すのは基本的には、既に危機にあり、そのままではいられないことが体感されているときぐらいだ。生きることは、どちらかというと、安定したものにしがみつくことのほうに重点が置かれている。

 

ところが、この生きものとしてのしがみつきが往々にして盲目的であることが自己矛盾をおこす。しがみつかないほうが長い目でみると生きていくことにとって有利であろうと思われるときもしがみつく。自己破滅的なしがみつきをする。

 

生きていくということは、変化をすることよりも、環境や状況によって状態が変えられることを拒むことに反応の軸がおかれている。生体としてそのようになっていると思うので、大きな変化、質的な変化をしなければ生きていけないという状況が、生きものにとっては基本苦手なのだと思う。

 

生きていくということが、あまりにも、何をおいても優先される身体であることが、逆に生きることを行き詰まらせる働きをする時がある。これが生きもののもつ自己矛盾だ。この行き詰まりは長い時間生きるというときに顕著に現れてくると思う。そして特に自意識は、生命の更新作用に対して強く抵抗する。

 

物語における不死は、この生きものがもつ呪いのような、生きるための保守性、同じあり方への盲目的しがみつきが(生きもの以前にあるものとしての)生命の働きがもつ更新作用と相容れない苦しみをテーマにしていると僕はとらえている。齟齬をきたしはじめているのに、なお同じままであって生を維持しようとする閉じた繰り返しは、周りの生命活動や環境との関係性に破綻をもたらせていく。

 

吸血鬼は不死の苦しみをもっている。自ら死にきれないが、死を求めている。苦しみの終わりを求めている。だから吸血鬼でさえ、死ぬ瞬間には往々にして感謝の表現をする。死んでいるのに、死にきれない苦しみが終わることを喜ぶ。

 

自ら死ぬことができないのは、苦しいからだ。痛み、恐怖によって行動は決められている。死にきれないことは、死の呪いではなく、生きものがもともともっている呪いなのだと僕はとらえる。この保守性、この死にきれなさこそが、生きものが不可避的に抱えた苦しみなのだと思う。

 

生の素晴らしさを強迫的に賛美することへの動機には、むしろ無視や抑圧がある。見ないため、感じないために高揚が必要なのだ。それは飢餓を一時的に満たすための血液だ。しかし、その根本的な不足の原因は、死んでいるもの、成り立たないものが無理やり生きようとしているところにある。麻痺するために必要なものはより多くなる。どのような場合でもいずれ足りなくなる。

 

だがここで興味深いのは、どのように保守性を維持しようとしても、その一方で切実に更新を、死を求めていることだ。それは素直にいかない場合、破滅を求めるというかたちになる。この苦しみを一点に凝縮し、ぶつけたい。そのことによって生が報われるような感覚を持ち出す。その欲求に駆られるようになる。それは現実の行動や思考の一貫性を犠牲にしても自律的に動き出す。

 

屍鬼』においては、人狼がそのような状態を表現していた。
人狼について説明すると、屍鬼(←大体において西洋の吸血鬼と同じ特徴をもつ。)は夜しか活動できないが、屍鬼によって襲われた人のごく一部は人狼という存在になって、昼も活動できるし、血液以外の食物も食べることができる。屍鬼は朝になると強制的に眠ってしまうが、人狼にはそういうこともない。

 

人狼は肉体的にはあらゆる面で屍鬼をこえていて、その気になれば昼に活動を停止している屍鬼を殺すことさえできる。だが物語の人狼は自らの意思に従って屍鬼の首領につかえていた。

 

ただ生き続けるという終わりのない虚無のなかにいた人狼は、屍鬼の首領がある村を乗っ取って屍鬼の村とするという破綻を内在した計画に惹かれた。それは彼にとっては彼の生の苦しみを凝縮して世界にぶつけるものだった。そのようにして終わらせたい。今までの抑圧された生に対する弔いの欲求をもつようになる。

 

生き続けるということに対しては、合理的ではない欲求が高まり、その欲求に行動や判断が引きずられるようになる。物語における不死者はこれをとどめることができない。それは結局、生命の働きによる更新作用なのだ。自意識でしがみこうとしているのに、欲求は死を、終わりを強く求めだす。

 

人間に絶望し、屍鬼にならず屍鬼に隷属した桐敷正志郎や村の信仰の要として、形骸として生きなければならなかった寺の住職である主人公室井静信。彼らは、人間が生きるために自らつくりだしたシステムの犠牲者だ。彼らにとっては、社会や村のシステムこそが死であり、その死に抑圧された生を送っていた。精神的な死者として生きていたのだ。

 

抑圧された生に対しては、更新作用が高まる。恨み、怒り、反逆への欲求。それらは無自覚にしかし確実に心を支配していく。宮崎アニメの、死んだ城塞都市が大きな木に乗っ取られて、木の方がむしろ本体になるかのように変わっていく。それが最終的にどのようにいびつで、破綻的な結果を生むことになっても、その高まる欲求自体はとめることができない。それが生命の根源的な更新の働きだからだ。逃れることはできない。

 

生は、古いシステムへのしがみつきとして死にきれない傾向をもつ。同時に、そのシステムを破綻させようとする生命の働きにも勝つことができない。

 

そして自意識というものは、どちらかというならば、生命の方のものではなく、システムの方のものなのだ。それは死物であり、潜在的に常に更新を求められている。同時に決して死のうとしないという、生きていくために与えられた呪いを持っているけれど。

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

 

 

凝縮されたリアリティ

東山区の本町エスコーラで実験的な対話の場を重ねさせてもらっている。

 

 

今回は、ドーナッツ・ラボという名前で対話の場を作られていた赤阪さん夫妻にも声をかけさせてもらった。

 

対話とはいったい何なのか。そこで何がおこるのか。それを体験してきたお二人に話しをきかせてもらいたかった。

 

僕自身を振り返ると、大学時代からずっと「話し」がしたいと思っていた。その「話し」というのは何だったのか。自分の内面のことを話すということも入っていたし、自分がずっと確かめ探っていることの話しもしたかった。

 

だが、「話し」は全然足りなかった。酸素が足りない。そう思っていた。自分の興味ほど、周りの人は興味がないから「話し」ができないと思っていた。別にその人が右でも左でもどちらでもいい話しなどしたくなかった。

 

妥協のないもの。

たとえばその人が本当に好きなことの話しをするとき、そういうものが出るというのはわかってきた。心理学の話しとかで妥協のないものを話すというのは諦めた。いつも足りないから、場を作ったり、どこかへ行ったり、人類学へ転科したりした。

 


妥協のないことは、ある人が今の自分ではおさめきれない苦しみを抱えているときにもおこっていた。そういう人に実際に会える機会はあまり作れなかったが、大きな苦しみを引き受けている人たちの言葉やあり方をみた。大きな苦しみは、小手先のごまかしややり過ごしではなく、根本的な乗り越えを人に求める。苦しみのために人は向き合わざるを得ない。

 

妥協のなさが生み出しているものは、自分が進むための動力であったり、必要な方向性を見定めるためのヒントだった。そうしている自分は洞窟で上から落ちてくる水滴で渇きをしのぐみたいな感じだなとも思った。自分に化学反応をおこすのに必要なものは潤沢にはない。

 

最近になってようやくそれは更新を求めていたのだとわかった。この自分の今の状態、自分の今の構造の更新。世界をまた新しく体験していくための営為。自分が「話し」に求めていたことはそこだったと思う。

 

妥協のなさを重要視しているつもりだった。しかし、その理解はとても表層的だったなと思う。今回は自分の捉え方が場によって変えられた。何がより重要だったのかわかっていなかった。

 

対話がなぜできないのかという問いがある。それに対して、自分のなかの思い込みやその意味はこうだという無意識の決めつけが存在するため、自動的な感情の反応がおこると考えている。その反応が存在と存在の「触れ」をなくしている。よって、その無自覚な頭の中の設定を観察によって気づき、破綻させていくということが、根本的なところだと思っていた。

 

確かにそういう面はある。それの重要性は全く変わらないが、それはメンテナンスとしてある。では何をメンテナンスするのだろうか? それは存在と存在の間にある通路をメンテナンスするのだと思う。存在が存在を変える。動的なリアリティ、自律性があり、それが相手に流れ込み、別のものにしていく。

 

メンテナンスだけがあっても、その動的なリアリティ、自律的なものがなければ何もおこらない。

 

自律性はメンテナンスの結果として現れてくるため、重要なのはメンテナンスなのだと考えていた。だからメンテナンスができるようになることが大事なのであり、メンテナンスができるかできないか、できているかできていないか、が場でおこることを決定するととらえていた。

 

しかし、その理解は半分をみたに過ぎなかった。
メンテナンスが全てではない。動的なリアリティ自体が場を設定し、つくりだす。それが今回得た理解だった。

 

今回の場を経験した友人が終わったあとに、あの場にいると、自分の言葉をどれだけそぎ落とせるのかということに意識がいったと言うのを聞いた。

 

場にシェアされた妥協のないリアリティに対して、自分の言葉がどれだけ嘘を含んでいるのかが照らし出される。友人の言葉を受けて僕も自分自身のこととして、確かにそうだったと思った。自分の言葉のなかでリアリティが薄いものは、言葉として発せられながら本当にうすら寒く、白々しく感じられる。失礼だとすら感じられる。これは非言語的なリアリティが場を設定しているといえるだろう。

 

その人の底から出されたリアリティは場を震わし、作り変える。場にあった空虚な規範や見栄えのよさを繕う軽薄な余裕を地に叩きつける。それは閉じ、いびつに固まった内的なシステムに修復できない亀裂をいれる。

 

底にあるリアリティをどこまで凝縮したかたちにできるのか。そのことの重要性を知った。言葉の多寡、上手い下手も関係なく、その凝縮されたリアリティが場をつくり、人のあり方を変える。

 

リアリティを凝縮することは、「出会い」の契機をもたらす。化学反応としての「出会い」は固まったシステム、制度疲労をおこし生命を減衰させはじめた自意識を壊して塗り替える。古い制度を完全に破綻させて終わらせる。死に切れなかったものに、贈りものとしての死を贈る。そのとき生は更新される。自分もまたそのリアリティを凝縮させてきた。それは「出会い」をおこすためだった。

 

凝縮されたリアリティが場をつくり、その場でおこることをつくる。その時、メンテナンス行き届いた人なのか、そうでないのかということを超えたことがおこりうるだろう。幼稚であろうが、どのような不足があろうが、その自分のリアリティを凝縮させることはできる。そしてその凝縮されたリアリティは、おそらくどのような状態にいる人に対しても贈りものとなるだろう。それはもう既に過去の繰り返しではいられなくする贈与だ。

 

今回を受けて振り返るならば、結局今まで自分のなかは、準備できた人と準備できていない人、できるようになった人とできない人がいて、できる人になっていかないと何もおこらないとなっていた。そうではない。今の有り様のままで、何も潤沢ではなく、不十分な自分のままでリアリティは凝縮できる。むしろ不足があるからこそ、より凝縮の動機と契機を得るというほうが妥当だろう。

からだとことばのレッスン2回目

竹内レッスンと野口体操があわさった「からだとことばのレッスン」2回目の参加。首の後ろとか、後頭部とか、頭頂とか、それぞれの部位を共鳴させて声を出してみる。声を出すのはとても力がいってしんどい、という感覚を持っていたけれど、共鳴を使うと力はいらない。短い時間で学べるところが多かった。

 


不思議だったのは、一緒にいた人たちも声を出したあと元気になったところ。連日の移動とかで疲れていた人も元気になっていた。

 

なぜなのかわからないが、和太鼓の響きを連想していて、いい響き、健康な音というのはそれ自体で不健康だったり、滞留しているものをとばすのかなと思ったり。

 

気功とかやっていないけれど、気(持ち)の通りということが気になる。割りと何をやっても気が「通った」感じがしないので気持ち悪い。いい意味で抜けていくというか、発散していくというか。気持ちいい発散とかあまりない。どこかでやっぱり詰まっているというか、自分に戻ってくるというか、出ていかない。

 

声のワークのとき、色んな感じで共鳴させて声を出したのだけれど、気の通りがよくなった感じがした。吐いた息が戻ってくる感じじゃなくて、出て抜けていくような感じ。こもった熱が発散されていくような感じ。

 

抜けていけばそれだけで気の通りがよくなって元気になる。というか、その状態がむしろ本来なのだろうか? ともあれ、周りの人の元気も、カンフル剤打つような元気ではなくて、滞りがとれて、通りがよくなった状態の元気のような感じがした。
出す声で意識状態が変わる。いい音が出る状態でしばらく声を共鳴させるとそのいい状態に意識もセッティングされるかのようだ。

 

障害があったりして、よく奇声を出す人もいるけれど、奇声も響かせるところをちょっと変わったところにして、気を通らせているんじゃないかと思ったりした。体の調整弁的な働き。たまったものが出る時にそういう突発的な感じになるとか。もし意識的に歌ったり、音出したりしていけば、奇声にならなくても気が通るようになるんじゃないかとか。

 

前回はこちら。

kurahate22.hatenablog.com

 

死にきれないもの

この前参加した竹内レッスンの講師の瀬戸嶋充さんから紹介された『屍鬼』をかりようと図書館に予約。5巻あるうちの3巻だけが先に届いた。もう少し待つ。『屍鬼』は吸血鬼が出てくる話しなので死にきれなさについてどんな表現がされているのか興味がある。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

 

 


ファンタジーから心のリアリティがどのようにおこり、それはどのような構造をしているのかを考えてみるようになった。作品や作者の違いをこえてどのようなパターンが繰り返し現れるのか。パターンとはテーマ性ともいえると思うが、このテーマ性をみていく。繰り返されるには理屈がある。その理屈を探る。


吸血鬼やゾンビとか幽霊とかも含めて英語はアンデッドといわれる。「死んでいないもの」ではなく、「死にきれないもの」というのが正しいと書かれているものを子どもの時読んで、変に心に残ったことを覚えている。


物語において、このようなアンデッドたちは何を語っているのか。大昔から現代になってもなおアンデッドは繰り返し物語として生まれ表現されている。

 

先日出版された『STAGE』への投稿ではシルヴァスタインの『ぼくを探しに』を題材に「とむらい」という関わり方が生を動かす動機であり、同時に閉じた生、滞った生を展開させるものともなると考えていることを書いた。

 

 

新装 ぼくを探しに

新装 ぼくを探しに

 

 

再読してみると、「とむらい」という言葉は使ったが、「死にきれなさ」という言葉は使ってなかった。同じ意味のようなことはいっていたけれど。

 

「死にきれなさ」はネガティブ極まりなさそうに受け取られるかもしれないが、生きているということは「死にきれない」ということだという見方をしたときに、自分や世界でおこっていることの理解に筋が通ってくると思う。

 

「私が生きる」という言い方は、普通であってとくにどこにも間違いがないようで、深刻な本末転倒がある。

 

エネルギーが少ないとき、この「私」が「生きる」ということに負担を感じる。「私」がこのうえ何かをさらに「やって」生き「なければ」いけないのか。

 

このときは、生の主体があたかも「私」であるかのようだ。だが、生の主体は動かざるを得ないエネルギーであり、「私」はそこに否応なく動かされているに過ぎない。そのエネルギーの求めに妥当なかたちで応答しないと生の循環が行き詰まっていく。

 

実際のところ、主体は「死にきれなさ」だ。だから「私」がコントロールできなくて困っているのだ。その対応として「私」をさらに巨大にして、あるいは性能をよくして停滞する状況をこえようと考えるのだがうまくいかない。

 

状況や症状がなぜ停滞しているのか。その理由は「死にきれなさ」以外の何ものでもない。「私が生きる」と生きることを既知のものしか知らない「私」の背中にのせようとするのではなく、「死にきれなさ」がどのように働いているのかをみる。

 

その停滞状況自体が、「死にきれなさ」が何が何でも生きようとしている状態なのだ。この「死にきれなさ」は何をしようとしているのか、何にしがみついているのか。その圧倒的な力が状況を固定している。この「死にきれなさ」という主体の動機を探っていく。これは自意識の降伏ともいえるだろう。

 

すると、「死にきれなさ」の求めや願いが実は自分の求めや願いであることがわかってくる。問題だったのは、意識的ではないにせよ、「死にきれなさ」を主体として受け入れることに抵抗していたことにある。「死にきれなさ」が私なのだとなったときに、自意識としての「私」が「生きる」は終わる。主体は自意識とは関係なく存在し、むしろ自意識が抵抗すればするほど意固地に強固に力をかけてくる。自意識が主体だという幻想を終わらせにかかってくる。

 

「生きようとしている」はずなのに、症状として「死にきれなさ」が力を発動すれば生きられる可能性がむしろ減る。「死にきれなさ」の特徴は盲目性だ。

 

複合的現実とそぐう目的をあらかじめ持たない自律的で盲目的なエネルギーの流れ。それは他者であるだろう。よって他者が「私」の主体であるということになる。自意識としての「私」がどのようなものであれ、合理的世界がどのようなものであれ、そこから独立している主体がある。矮小な自意識で生きることを背負うのは本末転倒だ。「死にきれなさ」というエネルギーとの関わり方で生の展開がおこってくる。

STAGEを読む

STAGEを読む。

特別寄稿をふくめると11人の人が文章を書いている。

 

こうしたい、というイメージがあり、一人ひとりにかけあい、関わりのなかで現実化された濃さみたいなものを感じる。

 

出版後のSTAGEに関わる話しを聞いていても、本の存在は薄まっていく感じがなくて、むしろ同じ濃さのものを呼び、つなげる力があるような感じがする。

 

手づくりのものというのは、こういうもののことかと思う。

僕がSTAGEを渡させてもらった人の反応も、頭で読んだ反応というよりは、心がほぐれたような、そんな感じで感想を伝えてくれた人が何人もいた。

 

「何かほっとした」とか。

「みんな生きづらさを抱えているみたい」という感想もあった。

 

https://www.instagram.com/p/BKf99XohqUz/

 

自分の文章を再読するときは、ちょっと抵抗が強い。なかなか読めなかったが、つい先ほど最後に読んだ。自分が意識して書きながら、同時に霊媒みたいに感じ取られるものをなぞって言葉にしているので、他人が言っているような、そんな新鮮な感じもする。

 

別の本の序章に「寄り合い」について書かれた文章があった。一般的に理解されているのと違って、寺社などで非日常の空間で行われる寄り合いは日常のしがらみや上下をたちきる場であったという。

 

「寄り合い」というと、それはとりもなおさず地縁や血縁にもとづく人々の結合の形式であると、われわれはかんたんに考えてしまうのだけれども、どうも、そういうことではないらしい。「寄り合い」は日常的な関係性を引き写した集会ではなく、むしろ、それを超える関係性をつくり出すための集会であったようだ。人々は家格や血縁の如何にかかわらず、対等な個人として発言した。誰はばかることなく、その所存を開陳した。そのためにも集会は、寺社という非日常的な、いわばこの世の結縁をたちきった空間でおこなわれることが必要であったのだ。「寄り合い」は、その言葉がこんにちよびおこすところの通念とは逆に、むしろ因習的な共同体の絆をたちきる行為であったのだ。 里見実『ラテンアメリカの新しい伝統』

 

 

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

 

 

寄り合いは、様々なしがらみや規範を無化した空間で行われた。自由を得るためにはそのための空間を作らなければならない。空間の構造がその中にあるものの運動のあり方を決定する。そこで人がどういう状態になり、どういったことを思いつき話すのか。それらは空間の構造に依存している。

 

ある空間は、人をある状態に縛るともいえるし、解放するともいえるだろう。運動が空間に依存するとはそういうことだと思う。

STAGEという舞台を提供された人たちが、その新しい空間での振る舞い方に戸惑いつつ、動き出せる空間を待っていた自律性、プロセスをそこにゆだね、反応をおこしていく。ここで、何かを終わらせていく。


9/28出版 「幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!」

9月28日に三重県鈴鹿市の「おふくろさん弁当」の本『幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!』が出版されます。

 

僕も一部考察を書かせてもらっています。amazonとかで買える本に自分の書いたものが載るのは初めてです。

 

幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!

幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当:本当にあった! こんな会社~規則も命令も上司も責任もない!

 

 

 

大学を出たあと、在野で人の変化や回復がどのような場所でおこるのか探り、自分なりに様々な場所や取り組みをみてきました。

 

人が回復するところは、フラットな人間関係があるところで、世間一般的な常識、あるいは意味や有用性の強迫や強制から離れられるところです。

 

自意識とはそれ自体が一種の防衛反応である側面があり、どんな肯定的なことであっても「自分が〜しなきゃいけない」「自分が〜するべきだ」とつよく強迫されていればその分変化のプロセスや行動のパフォーマンスは滞ります。

 

おふくろさん弁当のインタビューではっきり確認できたことは「自分が自分によって変わらなければいけない」とすることも手放していいのだということでした。これは投げやりになるということではなく、場を共につくり、場に委ねるということによって、「自分がやる」とか「自分が自分を変える」というような肩の力が入るような意気込みがもたらすマイナス要素を取り除くということです。

 

では委ねられる人間関係になるにはどうしたらいいのか。話し合いができなかったところから話し合いができるようになった鍵は、それぞれの人が自分で自分の心におこることを観察するということができるようになったことにあるだろうと思います。

 

話し合いができるようになった人たちの間ではどのようなことがおこるのか。働くということは、どのように成りうるのか。楽しく、同時に示唆深い事例が多く紹介されています。

おふくろさん弁当関連の過去記事

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

ピアの可能性

FB、1年前の記事がお知らせでくる。”回復のための演劇がつくりたい”と題してヴァイオラ・スポーリンや坂上香さんの「トークバック〜沈黙を破る女たち」から人の変化とそこに使えるものとして演劇という媒体について考えた。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 



今、タイトルを見ると、わざわざ「回復」とかつけると意識するから邪魔になるだろうと思ったけど、読んだら文中でもそれは言及していた。1年前の記事とかは既に他人が書いたのと同じような感覚になっていて、こんなこと書いてたんかと思う。


”公演で生計をたてる役者になるのだったら、どれだけ自由になれるか、どれだけ演じられるかが重要になるのだろうけれど、みんなが役者にならなくていいのであって、個人が自分の防衛からより自由になればいいし、人と人がお互いにより深い信頼関係をもち、人が変化しようとする時に支持的になれるようになればいい。これだけで十分革命的なことがおこるだろう。

演技がうまくなるためではなく、治療のためでもなく、成長のためでもなく、ただ個人のなかにあって動こうとしているものが動きやすいような環境をつくれればそれがベストだと思う。ある特定の価値観を至上のものとすると、それもプロセスの邪魔をする。


「回復のための演劇をします。」と言わずに実質的にそうするには、どういう設定が必要だろうか。たぶん、別の建前をつくり、主にそれに向かっているような錯覚をもつことによって、自由になると思う。四国遍路で88カ所の寺をめぐるという目的をたてながら、そのことによって「道中」をつくるように。四国遍路においては、遍路は道中にあり、と言われる。お寺ではなく。”

 


昨日、仲間内でちょっとしたロールプレイをやった。そういう働きかけをやってみたのは自分では初めてだったのだけど、意識に残るその時の状況で自分に何がおこっていたのか、そこから何が固められてしまったのかを見るのに有効だと感じた。

 

仲間内と書いたが、今、あらためて実感を強くしているのはピアの可能性だ。学校や講座、ワークショップで「できる講師・ファシリ」と「教えてもらう人」というかたちではなく、ピアの一人ひとりが学びと協働の主体であり、求める技能や状態を高めていく。このかたちで可能になるのは、主体性以外のところでは、時間・場所の融通性がまずあげられる。

 

個人が贅沢に焦点を当てたいことに時間とその場を使える。多人数一斉型ではここが犠牲になる。自分のなかで何かのトリガーがひかれ、プロセスがはじまる契機を逃さず、すぐにピアと共にやってみるということができる。

 

1回限りのワークショップ型では、その場の体験は残念ながら使い捨てになりがちだ。得たことも別の場では再確認とかエクササイズしにくい。演劇的ワークショップなどでは、ワークショップ後に調子を崩されたときに対応ができないので、必要だと思っても踏み込みができない。それは一回限りの関係性だからだ。だが、時間も場所も融通がきくピアなら、その問題をこえていける。やるだけやって後はケアできないということが回避できる。