降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

そろそろ「自己肯定感」を卒業しよう

 

 

信田さよ子 on Twitter: "気になったのが自己肯定感という言葉。大阪に続き仙台でも質問された。何度も言うが自己肯定感や自尊心が高い低いって自滅に続く道だ。他者やアートや読書など時には自然界からつまり自分の外部から備給されるものだから。親から愛されなかったんだから自分で自分を好きにならなきゃダメとか→"

 

信田さよ子 on Twitter: "自己肯定感を高めるワークに出たけどちっとも自己肯定感高まらない自分ってダメなんじゃないか?という人が居て「犠牲者」じゃないかと思った。新自由主義に貫かれた最後は自分に戻ってくる残酷なブーメランはビジネス書に溢れ時にはアディクションの世界にもはびこっている。臨床心理士の中にも→"

 

信田さよ子 on Twitter: "や専門家、時には教師たちが虐待の影響は自己肯定感を低めることだと言う。その度に蕁麻疹が出そうになるが、最後の1人になっても自己肯定感という言葉だけは使わない決意を固めた。→"

 

世間では、本当に存在するものみたいにまかり通っている「自己肯定感」。弊害の大きさは今まで何度か言及したけれど、多分、自己肯定感というようなものは存在しない。

 

自分に「自信」がないから何かがやれないのではなく、何かをやろうとするときに出てくる不安や自分の思う「安全」に退却しようとする恐怖が「加わっている」んであって、自己肯定感とかいうものがあったらやれるとか、「自信」がないからやれないのではない。

 

自然の動物は自己肯定感に溢れているだろうか? 自然のものの躍動性は自分がどうだとか、振り返らないところからきていると思う。切り立った断崖を登るヤギは恐怖を超える「勇気」に満ちているだろうか?

 

自分は大丈夫だからやれるとかいうように、振り返って高めるような肯定感は、恐怖を存在させたまま、無理やり自分を感じなくして乗り切ろうとするようなこと。

 

自己肯定感を高めて恐怖や不安に打ち勝つとか、やりたいことをやるとか、そういう感じで何かができるようになったと錯覚した人は、マッチョになって、人にもああすべきとか、お前は甘えているとか、厳しいことを言い出す。本来的な解きほぐしをせず、目をつむってこなしているだけだから、実のところは問題は何も解決していない。

 

自分に対する信頼ではなく、世界に対する信頼を回復させていくことで、感じ方は変わってくる。自分のなかにおこるプロセスに応答し、間接的ではなく、直接的に世界とやりとりすることが、世界への信頼を回復させていく。

 

世界との直接のやりとりの接点をどこに設定するかは、それぞれの人によって違う。しかし、その接点を得ないと、自分はイメージのなかにとどまり、感じ方は変わっていかない。

 

強迫的な状態がしばし退くようなひとときに、自分のプロセスは感じられる。そこに応答する。応答とは、管理でも指示でもなく、自分とそこにあるものをともに生かす踏み出し。