世間では、本当に存在するものみたいにまかり通っている「自己肯定感」。弊害の大きさは今まで何度か言及したけれど、多分、自己肯定感というようなものは存在しない。
自分に「自信」がないから何かがやれないのではなく、何かをやろうとするときに出てくる不安や自分の思う「安全」に退却しようとする恐怖が「加わっている」んであって、自己肯定感とかいうものがあったらやれるとか、「自信」がないからやれないのではない。
自然の動物は自己肯定感に溢れているだろうか? 自然のものの躍動性は自分がどうだとか、振り返らないところからきていると思う。切り立った断崖を登るヤギは恐怖を超える「勇気」に満ちているだろうか?
自分は大丈夫だからやれるとかいうように、振り返って高めるような肯定感は、恐怖を存在させたまま、無理やり自分を感じなくして乗り切ろうとするようなこと。
自己肯定感を高めて恐怖や不安に打ち勝つとか、やりたいことをやるとか、そういう感じで何かができるようになったと錯覚した人は、マッチョになって、人にもああすべきとか、お前は甘えているとか、厳しいことを言い出す。本来的な解きほぐしをせず、目をつむってこなしているだけだから、実のところは問題は何も解決していない。
自分に対する信頼ではなく、世界に対する信頼を回復させていくことで、感じ方は変わってくる。自分のなかにおこるプロセスに応答し、間接的ではなく、直接的に世界とやりとりすることが、世界への信頼を回復させていく。
世界との直接のやりとりの接点をどこに設定するかは、それぞれの人によって違う。しかし、その接点を得ないと、自分はイメージのなかにとどまり、感じ方は変わっていかない。
強迫的な状態がしばし退くようなひとときに、自分のプロセスは感じられる。そこに応答する。応答とは、管理でも指示でもなく、自分とそこにあるものをともに生かす踏み出し。