降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

稽古 丸めた新聞紙の筒を使って

身体教育研究所の稽古へ。

今回は新聞紙を丸めて作った棒を使った稽古。何でも週末の親子教室の際に使おうと考えられているものとか。

 

中が空洞のものか、詰まっているものかで大分違う。書道の筆なども竹で作られていたという話し。

 

中心までびっちり詰まっていると重心の位置がピタッと決まる。わかりやすいが、それは多分腕を固めることにもなるのだろう。新聞紙とか、竹とか中が空だと中心が決まらない。中心を常に微細に探る状態になる。その時、腕と胴体の関係が生きた状態になるのかと思う。

意識は実体に置かず、指と指の間とか、脇の下の空間とかに向ける。そこにある空気を感じるように。気功の体操とかでも講師がよくそういうイメージを用いていたけれど、意識は基本動きを止めるものだから、動かすべきところに意識を置いているとパフォーマンスが落ちるのだ。

 

意識はずらさなければいけない。たとえば脇の下に空気のボールがふくらむように、というようなイメージをもつと、半分間接的に、自動的に腕を動かすことができる。稽古は基本的にこのような半自動の状態の導き方の工夫かと思っている。直接力を入れてやろうとすると、部分的な表面の筋緊張のみでやってしまう。すると体の全体からは断絶した状態になってしまい、安定しないし、疲れる。

新聞紙の筒をゆるやかに握り、力を抜いていって落とし、先端が床につく直前の瞬間にまたつかんで落とさないようにする稽古をする。この場合も握っている指と指の間の空気、両脇の下の空気などに意識を置いておく。また再び握る時は、腰を押し出すようにして自動的な締まりを導くようにするという。

 

そうやってみているつもりでもまるでうまくいかない。新聞がねちゃつくように指から離れない。だんだんに緩めていくということができない。床につく直前に腰をいれて、握らずに手の幅を締めるというのもまるでできなかった。

 

あとやったのは、手をまっすぐに伸ばして手が耳につくように体の側面を前後にまわすというもの。回す手が途中で止まる時は、人差し指から小指までを点検して、どこに意識を向けると余計な力が抜けるかを確認し、人差し指がそうだと思ったら、人差し指自体を右か左に旋回させるつもりで動かすとさらに回りやすくなる。


稽古のなかで面白いなと思うのは、「時間」という言葉の使い方だった。このように腕を動かすという時も、腕は空間を移動するのではなく、時間的な移動をしているととらえる。身体には流れがあり、その流れを止めているものをケアすれば、身体は時間を取り戻して動いていくのだと。身体には自律的な動きの流れがある。

 

止まっているとはその流れを止めているということ。動かすのではなく、時間を取り戻し、流れを復活させる。流れが復活した状態を導いて動かす。

 

周りくどいやり方だが、自意識の統制によって身体は自動的に戒厳令が敷かれたような硬直状態にある。それは時間が止まった状態であり、本来の潜在能力は生かされない。自意識はこの統制状態によって身体の支配を確立しているが、同時にこの統制状態によってガチガチに制限もされている。