降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

一つの人格という神話 ネットワークとメッシュワーク

以前、あるダンサーの人が別のグループのダンスの練習風景をみた後に、「どんな意識状態でやっているのかをみていた」と言っていたのが当時は全然意味がわからず、なんでみただけで意識状態がわかるのだろうと思っていました。

 

そういうのは、意図的に自分がそうしようと思っているわけではないのですが、問いとしてとっておかれ、そういう無意識の問いが重なりあった状態として日常のものごとが体験されます。

 

僕にとって、世界がどうなっているかを理解しようとすることは、人の感性がとらえたものをパズルのピースのように合わせてそこに現れる絵柄をみることです。

 

ある人が自分の知らない何かについて話していて、そしてそのリアリティは自分をどこかに導くものがあると感じるとき、その人たちの感性がとらえたものを一つのピースとし、そのピースが集まっていきます。

 

今、自分がどんなピースを持っているのかは自覚していませんが、ピースに合わさるものを自動的に探していて、日常で出会うことから、絵柄を作っていこうとしています。

 

意識状態の話しは、身体教育研究所の稽古に通うようになって、そこでいう集注の状態がどういうものかを聞いていくうちに、イメージがわいてきました。整体では特定の場所の集注がおこっているときは、人格も変わっていると考えられているようです。

 

なので、集注状態によって、人にはいくつもの人格があるわけです。「自閉症だったわたしへ」のドナ・ウィリアムズは自分が現実に対応するために幾つかのの人格を持っていたことをその著書で書いています。

 

またインプロの今井純さんがマスクを使ってシーンをやると、食べ物の好き嫌いが変わるほど、人格が変わると言われていたのを記憶しています。

 

ここでパーソナリティみたいなものは、自分の中に一つの人格のもとがあって、OSのようにひとまとまりのプログラムの展開としてだけ現れているのではなく、加えて何に集注している状態なのかということも重って現れているものであるのかなと思えます。

 

そうするとたとえば怒っている時の状態、喜んでいる時の状態などは一つの人格のいくつかの面なのではなく、別々の人格であるかもしれないとも思えます。予想ですが、多分そういうふうにとらえる方が実際の現象を精緻にとらえられるのではないかとも思います。

 

一つの人格というのが、そもそも神話的だなと思えてきます。「統合」というものが機械がドッキングして一体化するみたいなものではなくて、それぞれ独立した自律性を持っているものの協働として浮かび上がっている状態なのではないかと。

 

自分たちのやっているDIY読書会で、メッシュワークという言葉がでたのですが、メッシュワークは自律的なものの対等な関係性の網の目だということで、中心=自意識=主体、的な人間観、世界観がだんだんと移行はしているのかなと思います。

 

下記のメッシュワークのデメリットの説明は、発達障害の話しと受け取ってみても面白そうな感じだなと思いました。

 

※メッシュネットワークとは、通信ネットワークの構成の一つで、複数の中継機器が互いに対等な関係で網の目(mesh)状の伝送経路を形成し、データをバケツリレー式に転送する方式。

メッシュネットワークに参加する個々の機器は隣接する機器とだけ通信できればいいので、短いケーブルや弱い無線出力の機器だけで広い範囲をカバーすることができる。また、ノードが破損したり離脱しても代替経路を確保しやすく、中心部が不通になるとネットワーク全体が停止してしまうスター型等より障害に強い。

ただし、メッシュネットワークは中心が存在しない構造のため、通信経路の探索や伝送制御(無限ループの防止など)を適切に行うために高度なルーティング技術が必要とされる。また、集中的に制御されたネットワークよりは伝送速度や遅延、回線効率などでは劣る場合が多い。

 

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