降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ずら研 常野雄次郎さんについての話し

大阪で月に1回行われている当事者研究会、ずら研に参加させてもらった。

 

 

いつもは割とフリートークが多いとのことだったが、今回は3月30日に亡くなった常野雄次郎さんのインタビューを読みながら常野さんの思想や各自がそこから受けた感想、インタビューのなかからいくつかのテーマをピックアップして話し合った。

 

前の記事にも書いたが、常野雄次郎さんという人の存在を知ったのが、山下耕平さんのツイートだったはずなので、3月22日以降。で、亡くなったのを知ったのが4月の頭だったので知った途端に亡くなられたのだった。自分より2歳若いのもまたインパクトを強くしたと思う。


僕は中2ごろから不登校で、その後も全日制に1年行っては合わず、通信制の高校に行って、結局大学入学資格検定をとって、また1年浪人して、という具合だったが、不登校という括りのコミュニティや場には関わったことがなかった。

 

話しが合う人は求めていたが、どうやったら人間というものは回復していくのかということが興味であり、不登校の人だったらその話しが通じそうというふうには全く思っていなかった。不登校経験がある人たちと話しが合わないだろうと予想していたのではなく、そもそもそういう対象として思いも浮かんでなかった。出会いたかったのは自分と同じように探究している人、あるいは必要なヒントや知見をくれそうな人だった。

大学時代はそうだったので、改めて、不登校というテーマがあるところに話しに行ってもいいかもしれないと思った。始まると、場は話し手の言ってる言葉がわからなければその場で実際にどんどん訊いている感じだった。

 

自分は自由に訊いていいと言われていても、周りの人が実際にどのように振舞っているのかをみてその場の許容度とか自由度の具合を様子見しているなと思った。ベラベラ喋るところは喋るが、と思えば変に言い出せないままでいるみたいな状態が混在している。

常野さんは、本や論文を書くなり、業績を積み上げていく力があるのに、それをしないのは何故だというネットなどの評判もあった。

 

インタビューをあらためて読んでみたりして思うのは、彼が自分の苦しみを言葉にしようとすると、シューレの枠組みでは表現できないというくだりがある。

 

私が有名大学を出たということは否定できませんが、自分の苦しみを語ろうとする際、シューレの語りの枠組みではフィットしなかったんです。その言葉では、自分の苦しみを表現しようとしてもできない。本を書いた時点でも生きづらさを語っていますが、いまから思うと、あのころはまだマシで、いまの状態のほうがずっと悪いです。

 

僕は、彼は苦しみを表現すること、苦しみをぶつけるものを欲していたのではないかなと思った。彼が東浩紀さんの番組に乗り込んだり、ヘイトスピーチのカウンターとしてその身を投げ出したこと、不登校を醜いものとして受け入れさせるとというような、世間と厳しく対峙するスタンスをとること、展開していった思想は、彼にとって必要な、極度に強い身体的・精神的実感をもたらすためにあったのではないか。

 

常野さんは強烈に対象と激しくぶつかり、闘うために生きていたのではないかと思った。思想自体を探究し実践しようとしたのではなく、思想はいわば常野さんが強烈に闘う必然を提供するものとしてあればそれでよかったのではないか。そういうふうに感じた。

 

また彼は大学に進学することを出身コミュニティへの裏切りだと考えていたという。

「あれ、自分は高校も卒業しないと言っていたのに、この学歴社会にこのまま入ってしまっていいんだろうか」と悩んで、ノートに「大学に行きたい。でも、大学に行くことは自分の出身コミュニティへの裏切り行為だし、学歴社会で特権層にまわることだからまずいのではないか」といったことを、いろいろ書いてました。

 

仲間意識、帰属意識の強さがある。彼がキャリアを積むような営みをせず、現在の社会をマシにするような地味で積み上げていく活動をしなかったのは、そこで助けられる人がいても、それと同時に必ず取りこぼされる人がいて、その取りこぼされた人に常野さんは自分自身を重ねていたからではないかと思った。激しく世界とぶつかること、そしてこの世界に存在する自分自身と同じような人たちと共にあること。それが彼の生きた姿だったのではないかなと思った。