降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

当事者研究 人との関わり

当事者研究、人との関わりについてちょっとまとめておこうと思う。

集団とか人間関係がもともと得意とかいうことはない。得意になったらいいなという憧ればあるが、無理やりそのためにエネルギーを注ぐほどの動機はない。話す場は昨年に比べたら明らかに充実した。だがそれ以外の場が貧困だと思う。

人とは基本的に距離を持って関わる。その距離感が自分にとってやりやすいと思っている。あまり近づきすぎると緊張で固まり居心地が悪い。

またお互いいい距離で、と思っている。相手のことに干渉する気も自分におこしたくないし、何よりまず相手から価値観の押し付けとか干渉されるのが嫌だ。今の感覚では結構多数な人はあまり距離が近くなると偏見とか差別意識がもろだしになる感じがするのであらかじめそうならないようにしているところもある。

誰かと仲良くなるということ自体には今現在の認識ではそれほどそうなりたいとは思っていない感じだ。それよりも話したい話しがしたい。松本大洋の「zero」の主人公と相手のボクサーのような、突っ込んだところをお互いでどんどん深めて行けるような話しがしたい。まるで足りない。いつも不完全燃焼であるような感じがする。

だが、そういうことがそうそうおこることではないのは分かっている。ここに関してはある程度そういうこととも出会いうるような活動をして、直接得ようとするのはエネルギーの無駄遣いが多いからしないということにしている。

そこはいいとして、人とある程度近い距離にいないと情報が来ないというのがある。FBなどで催しの情報はくるが、もう少し人からの情報が欲しい。これ面白いけどどう的な話しがやってきて欲しいのだが、そういうのは来ない。他人行儀の付き合いしかしないせいか、そういう生きたものが流れ込んでくる通路がない。それはつまらないなと実感を持つようになった。話しの場がない日は相変わらず退屈だ。

先の投稿にあげたように、新しい人と出会う場で人と交流して面白い人と出会う以前にその場にいづらさを感じ退却してしまうところがある。どんな場でもうまく振る舞うことは難しいとして、知人が多かったり、あまり自分を気にしないでいい、自分にも程よい新しい場をまず見つけること、そして退却モードになる構造を当事者研究でやっていこうかと思う。

ちょっと最近はそういう目で日々を見ているのだが、自分の狭量さがはっきり目についてくる。相手は相手、自分は自分で干渉しないのは結構なのだが、かなり早く相手に見切りをつけるところがある。偏見とかマイノリティへの差別的言動とか、一つあれば、ああもうこの人はダメだと更に距離をおく。話せる人かそうでないかが重要で、話せないとなるともう興味を失う。話せる人が欲しくてそうでない人はいらない、みたいな。

自分が話したいことを話すという全くもって自分の都合で人と関わろうとしているのだから、その時点でそんな人と誰が関わりを持ちたいだろうと。実利的、損得で人間関係を欲しいといっているのだから。聡明で頭がいい人がいたら自分の話しは通じるのだろうか、この人はあまり通じそうでないとか、ろくでもない認識の仕方だ。そういう自分のろくでもなさをより理解していくというのは一つやっていけることだろう。


あと退却については傷つきやすさや惨めさ、その反動の高いプライドとか、そこらへんを受け入れていくというところか。どうやってそのリハビリは進めて行けるのか、またそこを研究していこうかと思う。