ケア塾茶山、西川さんの星の王子さま読書会に。
飛行士の質問に答えない王子さまの場面から、フィールドで折に触れた話しは聞くが訊いてまわることをしない人類学者や、傾聴の暴力性の話しなどがされる。
人と関わることが援助や相手の喜びにつながることであっても、それは同時に何かをそこねながら遂行されることだと思う。関わることはそこねることであると捉えるとようやくバランスが取れるように思えた。関わらずにはいられない。つまりそこねずにはいられない。そこねるなかで何かをする。全て間違いのなかでどの間違いを自分は選択するのかという問題。
人と関わることがお互いをどこかでそこねること、そこねあうことだと受け入れず、抜きにした人間関係ほうが表面的なそこねよりもう一つ下の層のたちの悪いそこねを引き起こすような気がする。表面的な繕いのあとで、その歪みを別のどこかにぶつけるような。
そこねることがないという考え、それを前提化した制度は肥大化してより鈍感になった自意識と正義の押し売りであって、裏にその歪みは蓄積していくのだろう。
お互いをそこねながら生きていくことを受け入れる方が、おそらく配慮は繊細になり、社会は寛容になるだろうなと思う。考え方だけでなく、実態もそうであるし。生かしあうということは「迷惑」を過剰に忖度し、一方で自分に勝手に課した「迷惑」をかけないという義務を人が破っている姿に腹を立て、恨み責める人同士でできることだろうか。
そういえばその日の昼に受けた身体教育研究所の稽古のなかで、生きることは体を歪ませることだという言葉を聞いたのだけど、多分それがそこねるという言葉を思いおこさせたのかなと思った。
17日と23日の終活を通した学びの場、終活では、後半を「迷惑を毛かける」とはどういうことなのか、哲学カフェとしてやる予定です。
ばしょ:ちいさな学校鞍馬口
じかん:17日13時〜16時 23日13時〜16時
要申し込み