降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

当事者研究 振り返り

当事者研究を1年やってみた年だった。

 

◇話しをする場が足りなかったことについて

話しができる場と回数が増えた。やる前は話す場が少なすぎるという感じだった。ただまだ十分に話しができているかと振り返ると、自分の内面的な話しができる場はあるのだけれど、学びがどうたらとか、自分が考えていることを話すという場はもっと欲しいし、足りない感じがある。これは別の枠組みを考える必要があるだろう。

 

◇話すことの効果について

同じことで自動思考がぐるぐる回るのは、人の前で言語化すると沈静化し、先に進む。少し違った感覚に移行し、その後は全く同じぐるぐるにはならないように思う。またある状況に対してうまく行動できないというような場面で、話す前より「可動域」が広がるように少し気持ちに余裕ができて状況を観察したり、できることが増えたりする。


◇関係性の育ち
僕はファシリとしてやっているのではなく、当事者としてやっているつもり。当事者研究ではないが、畑で年間を通して自給を学び集まりをしていて、その参加者との関わりが育ち、本の寄稿をさせてもらったり、コラボみたいな企画をしたりということも出てきた。そのようにある枠組みでの人との関わりはその枠組みで完結するものとしてではなく、互いの関係性を熟成させて別の場でも自由なコラボができるようになることを重要視している。少人数での催しはそういう意味もある。当事者研究の方でもまだ1年だが、ぼちぼちその萌芽が出ているような感じもあり、参加者間でお互いの催しに行ったり、一緒に企画するようなことがおこってきているように思う。

当事者研究は「問題解決」なのか?
問題である、苦労であるという実感がなければそもそも当事者研究のようなことをはじめないだろう。しかし「問題解決」を目的化すると場が貧困になりどちらかというと閉じていく感じもある。「問題解決」は本来ある多様な文脈を見えなくして一つの文脈に収束させるようなところがある。また間違い探し、あら探しみたいな感覚になったり、細かいところばっかりみていくPDCAサイクルのような感じに陥ってやる気が失せる感じもある。当事者研究はあくまで、苦労とは何かを探究していく学びの場であるのがいいだろうと思う。それは「問題解決」ではなく、生きるとは何かを問うことであり、哲学的な問いとなるというのが僕の実感であり、理解だ。だから哲学カフェを当事者研究とセットにして考えている。

◇ショートスパンとロングスパン 「問題解決」とデザイン

当事者研究をやっていて、苦労を出すときにある状況における心理的な問題やしんどさがでる場合もあるが、どう生きるかということの方が自分の心を占めているということがある。自分の場合もそんな感じはある。ある状況においての苦労もあるのだけれど、心を占めているのがこれからどう自分の生をデザインしていくかのほうが多いかもしれないなと思う。

例えば、多分合わないだろう仕事における当面の状況の問題解決や状況改善はショートスパンでのことだが、ロングスパンではそもそも自分の価値観とは何なのかを問い、それが仕事を変えるということや生活のあり方を変えるということにもなってくるだろう。そのとき、それは問題解決というよりはデザインであるだろう。ショートスパンの苦労が提示された場合でも、自分のなかで捨て置けない価値やどう生きたいかが認識されるとそれはやがてロングスパンでのデザインの基礎になっていく。僕は当事者研究で問うべきはそこだと思う。当面に現れていることをきっかけに自分の求める価値に気づくことだ。偶然の状況も左右するのに、問題解決しましたのでokというのでは、せっかくのきっかけが台無しになっているとも考えられるだろう。

 

◇自分の当事者研究

人との関わりで、ちいさな場を重要視していた。それは今も変わらないが、それだけだと新しい人との出会いがなかったり、必要な広がりが不十分になりがちかもという実感をだんだんともってきた。こじんまりの場だけでなく、ある程度それより大きい場がいる。ここを開拓していく必要があるだろう。だが先にパーティの苦手さで書いたように、パーティなり懇親会なり、そういう場は得意でない。来年はそこを研究していこうかと思う。小さい場を第一の場、人と出会い、今の活動の展開や新しい活動につながる場を第二の場とよんでみて、第二の場との付き合いをよりよくやっていこうかと思う。

 

 

 

kurahate22.hatenablog.com