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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

「勝つ」こと負けること 

加藤わこさんと一緒にやっている小さな話しの場「たそがれトークバック」、今年の初めは2月の後半ぐらいを考えています。

 


この催しのそもそものきっかけは、僕がわこさんのマガジン「わたしはわたし」創刊号の ”特集「負け組」の主張 1.いま、シャッター商店街店主から学ぶこととは”を読んだことで、そこから僕が一緒に話しの場をしたいと持ちかけて始まりました。

 

sandgasa.exblog.jp



社会学者古市さんの「劣化」発言がありましたが、僕は「負け組」もまたあまりに偏りの大きすぎる言葉だと思っていました。ただ「わたしはわたし」におけるこの言葉の使われ方は、「負け組」と言われるほうからあえてその言葉ごと社会に投げ返すものでした。今はシャッター街となっている商店に生まれた自分自身のお話し。性的マイノリティの人たちが差別的に使われた「クィア」という言葉を逆手にとって社会を揺り動かすものとして利用したように、あえてこの<嫌な>言葉が使われています。

 

この特集の質にびっくりしました。世間は最終的には「勝つ」ストーリーが好きなんだと思います。障害があるけれどこの人にはまたこんなすごい価値があるんだからとか、ある意味世間が憧れる人のあり方を体現しているとか、自分たちにあわせた価値に回収して良しとするところから離れられないものがとても多い。

 

「だけどこんな価値がある」とそこに脚光を当てれば当てるほど、そうなれない、ならない当事者をさらに暗いところに追いやる。意図的であれ、無意識的であれ、自分たちに都合のいい幻想を塗り固める、さらなる価値の搾取。なりもふりも構わず何が何でも自分たちが勝とうとしている。ものの見方をいじくって「勝ち」をつくる。

 

世間のその明らかな欺瞞の中にありながら、そのような欺瞞ではない「やさしさ」はないのか。人が回復していけるところはないのか。それを確かめる手がかりが「たそがれ」という視点でした。日が沈む前、光が薄れ暗くなっていくとき,真昼の光に照らされ、はっきりとしていた序列が曖昧になっていく。あれはだれか、性、老若、地位,貧富、健康か病か、そして人か獣かさえも、暗くなっていく場所では曖昧になっていく。区別から、意味から解放されていくところにあるやさしさがないか。明日なきところにやさしさはないか。

 

人が回復するということがどのような場所でおこるのか。自分なりに確かめてきて、それは埋め込まれていた「意味の強迫」から離れたときではないかと思うようになりました。「あるべき姿」「向かうべき姿」が自分の内部に厳然としてあり、そこから自分が否定されるということによって,停滞はおこる。生きる力が奪われる。どのような人であれ、尊厳をもって応対するということは、そうでなければ人は変わらないということの裏返しでもあるのです。貧しいものがお金にあわせた対応されるなら、その人はそこから次のところに歩をすすめていくことが難しくなる。

 

意味という、未来からみた今の有用性に人が支配されること。「劣化」という言葉は、ここにいる人として固有のわたしとあなたは、わたしやあなたにもともと価値はない、誰かの都合にあわせた利用対象として足りうる間だけ価値があるのだという否定の宣告です。有用性のなかにしか人に価値はないとすることによって、宣告する人はいい気になるかわりに、周りの人は自分で生きる力を奪われ、周りの環境をよくするために使えたエネルギーも鬱積したまま負の方向に流れる。しかし古市さんほど露骨でなくても、底ではそういう価値が強い世間。

 

そこに小さくとも反逆する。自分たちの心からは押し返す。それがたそがれトークバックの趣旨でした。

 

今振り返り、「負け」という言葉をあえてわこさんが使ってくれたことは本質を掴んでいたとあらためて思います。意味の世界とは、つまるところ勝つか負けるかの世界なのだと思います。意味の強迫を使い、そして同時に支配される世界です。だから意味を利用しながら,しかし奪われきらずそこから心だけは外し自由にしていく方法が必要になってくるのだと思います。

 

人が勝ちに対して強迫的になるのは、勝ちということのその本質が勝ち逃げだと知っているからだと思います。負けないうちに去ろうとしているからこそあのように強迫的なのです。勝ち続けなければいけないと考えるのもそれが理由。そこにい続ければいずれ負けることを知っています。「勝って」いるならさらに人を否定しないでいいはずなのに、一層厳しく人を否定したりしています。「勝つ」ためには死、終わり、区別という恣意的な限定や排除を常に作り出し維持することが必要です。

 

しかし,そんな維持が最後までできる人はいません。本当には「勝つ」人はいないのです。いつもその作り上げた壁を侵食してぼろぼろにしていくものがいる。しかしそれでも勝ちがつくれるなら無理やりにでも勝ちにしがみつき,勝ちをつくってしまう。

 

負けは結局事故のように遭遇するものなのかもしれません。避けようのないものとして現れて、それまで構造化されていたものを破綻させる。意味があったものを意味なくさせる災厄であり、同時にそれまでの構造から離れた新しい再生となる可能性ももたらしつつ。負けには人の考えや行動を質的に変える力がある。負けを使って生きていくことができるということでしょうか。

 

負けこそが勝ち!となると単に表と裏が逆転しただけなので、抑圧の仕組みは何も変わっていません。意味の強迫から外れていくということは、おそらくニュートラルになっていくということなのかと思います。負けという破綻性に遭遇したとき、その契機を使いニュートラルになっていくことができる。ニュートラルとはアクセルが連動しないような状態。おそらくそのように自動反応を切っていくということが、心の自由さと解放をもたらすのかなと思います。

 

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