降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自律的なものとのつきあい

アサダさんの「表現のたね・歌の景色 〜アサダワタル新著&新譜リリース記念ライブ&トーク〜」に参加。鈴鹿にいくために終わり切らないところで退出したけれど、歌の合間の音楽の話し、面白かった。滋養になっていく感じ。


多分、滋養になっていくと感じることになるべく多くの時間身を浸せばそれでいいのだろうと思う。浸みていく感じ。自律的なものが生まれる。ただあることが一度滋養になったからといってそのことを繰り返せばまた浸みてくるかというと必ずしもそうとは限らないけれど。


古い自意識が計画たててやるとよりは、滋養を得ていくことによる感じることによって感じ方の変質がおこる。それが次を導いてくるのだろう。浸る、ひたる、というのは大村はまさんの言葉でもあったなと思い出した。学びひたる。


学ぶということは、つなげることだと思う。元あるものから新しいところに水路をつなげる。これによって変化がおこる。単に新しいものを付け加えるだけは、学びでも何でもないと思う。なぜなら水は相変わらず元の水路しかめぐってないのだから。だからつなげる元が重要だ。元々水が出てきているところ。そこからしか始まらない。


つなげる元がつながる先を求めている。そのつながり方は、自意識の操作でくっつけるというよりは、触手と触手が相手の存在をおずおずと探り、結びついてような、自律的なそれ自身の働きであるように感じる。


自意識がやるべきことは、自律的なものがその働きを生かせるようになるための環境設定ということになるだろう。機を見ることを含めて。


大村はまさんは、国語の教科書を学年の初めに生徒が買っても授業が始まるまで決して読まないようにと言ったという。どのように体験させるかをどこまでも設定している。


元あるものをつなげないと意味がない。そして自律的なものの繊細さをどこまでも守りきらないとそれは働かない。


自律的なものを理解すれば、意味のない疲弊を避けていくことができる。自律的なものへの信頼を取り戻していくことが自己効力感とか、自信とかそういうものになると思う。自意識とは独立して自律的なのだから、他者効力感だし、他者信頼とでも呼ぶべきだと思うけれど。


犬の話しで、あるトレーナーは、犬は安心できるリーダーを求めているという。今のリーダーが頼りないと不安でたまらず、そのために自分がリーダーになろうとする、と。


自意識が前面に出るとき、多分それは危機的状態に陥ってしまったということなのだと思っている。しかし自律的なものにとっては、自意識が前面に出るときは戒厳令化にいるようなものだと思う。フリーズされ、動きがとれない。


どうやったら自意識が強権を発するような状況に陥らせず、自律的なものを育めるかという工夫がいつまでもあるのかと思う。