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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

マッドマックス 怒りのデス・ロードを観に行った 仮の設定

→マッドマックス(荒野の週末)

核戦争後の汚染された大地で残された物資を暴力で奪い合う狂気の世界。

マンガ「北斗の拳」の世界設定はこれを取り入れたものとされている。

 

マッドマックスの世界や世界観については、以前のエントリーでも触れた。 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

今回観に行って、僕が最も印象に残ったのは子どもを産ませるための女性の奴隷の姿だった。

 

女奴隷たちは脱走するのだが、敵であっても人を人として扱おうとしていたのにまず驚いた。奴隷たちは無力な被害者ではなかった。生命を脅かされるリスクを負っても人の尊厳を守ろうとしていた。

 

仲間が戦いの途中で容赦なく死んでいく。途中で合流した仲間の老婆は、植物の種子を大事にもっていた。汚染された大地では、今まで何度撒いても芽は出なかったという。その老婆もまた無残に殺された。

 

そもそも映画に対して作品としてどうこうというようにみる視点はあまりなくて、自分のなかに一コマでも何かが残ればいいと思っているのだけれど、物語の大筋よりも途中で死んでいった人たちにとって、生とは何だったのだろうかという問いが頭に残った。

 

主人公たちが生き残ったとしても、死んでいったものたちがそれを知ることはできない。ただ自分たちの意志をつなげるために共に闘い、後を託した。終わりまでたどり着くものは一部だ。多くのものは、途中で降りていく。

 

ゴールとは何なのか。ゴールにたどり着けなかった彼女らは不遇だった、と解釈されるのだろうか。

 

マッドマックスの世界に関心があるのは、極限の世界だからだ。狂気はその世界になって初めて生まれたのではない。あからさまにならずともずっと存在したもの。極限の世界において、人とは何であるのかがあらわれる。失えば失うほど、元々のものがあらわれでる。

 

僕は失われていない状態をニュートラルと見ない。老いて認知症になり記憶の統合性を失った状態や、統合失調症になり現実検討力を失った状態とは、元に戻った状態だと考える。それが人間のもとだと思っている。

 

僕はまた人間を他の動物と違うものと思っていない。人間が他の生きものから逸脱しているとかも思わない。むしろ典型的な生きもののエッセンスがあらわれるから人間がこのようになると思っている。

 

生きものは、自然の一部であるけれど、自然に従順に従おうなどとしていない。水が高きから低きに流れるのに対して、生きものは下から上に向かう。水の中で生まれたのに陸へ、空へと向かう。魚はどんなに小さくとも川の流れに真っ向から逆らい。流れに頭をむけて泳ぐ。

 

生は、均一化の圧力に身をまかせない。寒さを感じて放っておく、痛みを感じて放っておく。それが向かうのは死だ。

 

そうはさせない。それが生だ。自然は全てを均一化していこうとする。その均一化の圧力に対する反逆が生なのだと思う。

 

以前、看護師の西川勝さんが鷲田清一さんの話しを聞いていたときに深く感銘を受けた言葉があったとおっしゃっていた。

 

「強いものに従うのは必然である。ならば、弱いものに従うところに自由があるとは言えまいか。」

 

やさしさとは、強きが弱きを踏み台にしていきるこの世界、この荒野のありように対する反逆なのだ。「いいこと」をしているのに、邪魔され抑圧されるのはなぜか。それは今そこに敷かれている誰かの秩序に対する反逆だからだ。

 

抑圧は必然として存在するもの。だから人はそれをひっくり返す。やさしさのほうが当たり前だということにする。その演劇を当たり前のものとして生きる。そこにしか人はいない。

 

大学三年生であるSEALDsの芝田万奈さんのスピーチがFBにあがっていた。

 

 安倍さん、私のこの不安を拭えますか? 子どもを持つ親御さんたちに、安心して子育てができる社会だと言えますか? 福島の子どもたちに、安全で健康な未来を約束することが出来ますか? 沖縄のおじいやおばあに、基地のない島を返すことはできますか?

 自分の子どもが生まれた時に、真の平和を求め、世界に広める、そんな日本であってほしいから、私は今ここに立って、こうして声を上げています。未来を想うこと、命を大事にすること、先人の歩みから学ぶこと、そんな当たり前のことを、当たり前に大事にする社会に私はしたいんです。

 

iwj.co.jp

 

この世界のもとの有り様をひっくり返す。それが人の反逆なのだ。最後に報われるのが保証されているから満足するのではない。生を取引することはできない。たどり着くところとは、そこに至るまでの過程、道中をつくりだすためにある。その道中こそが生の実質なのだ。

 

生の終わりは、どのように周到な用意をしたとしても、究極的なところで人の思うようにはできない。それを避けるためにあらゆる労力を払った挙句に、最も不本意な死を遂げる可能性を人はゼロにできない。取引は約束されていない。

 

ならばこの今を生きるしかない。世界は意味をつくりだすまで無意味だ。だから意味をつくりだす。その過程をつくりだす。ゴールはそのための仮の設定にすぎない。