降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

文化 打ち消しのアート やさしさを作りだす反逆として

暴力は何もしなくても現れ出てくる。幼児が無邪気に虫を殺すように自然に存在していて、そして放っておくだけで増幅し、蔓延するだろう。そうでなかったならば、本来の意味での積極的平和という言葉がつくられる必要もない。

 


強いものは意図をしなくても、意識すらしなくても暴力をふるえる。むしろ全ての人がもともとは暴力的存在なのではないかと思う。暴力のない状態とは自然な状態ではなく、非常に特別な状態だと思う。

 

積極的な加害を加えなくても、どのようなことであれ、自分のありようや行うことの影響に対して意識をはらわず、高を括り、想像を巡らさず「当然だ」と押しつけるなら、既にそれ自体が暴力ではないだろうか。

 

暴力の少ない状態、暴力のない状態というのは、意識され、工夫されてはじめて生まれ存在するもの。そして意識をやめればそこで終わるものだ。人が本来的にもつ暴力から逃れ、自分は関係ないよと言うことは永遠にできない。

 

完璧な三角形が実世界には存在しないように、暴力のない状態も厳密には存在しないだろう。それはあくまで相殺のアート、打ち消しのアートとしてもともとないところから工夫され作り出されるものなのだと思う。

 

強いものが弱いものを踏み台にしてより多くをとる。それが放っておいたときの人の常態だろう。打ち消しのアートは、その常態に対する反逆として作り出される。

 

生きることは、従うことと反逆することとどちらに近いか。水が高きから低きに流れ、物が外から働きかけられるままに従うのに対し、生きものは海から陸へ、下から上にいく。川の魚は流れに頭を向け、暑ければ涼しいところにいき、寒ければ暖かいところに行く。

 

生きものは、外界の圧力や影響に対して、そのまま身を委ねることなどしない。必要なものだけを取り入れ、それ以外の影響をはねのける。強大で圧倒的な自然に対して、生きものがやっていることはそのままにさせないということであり、好きにさせないということ。生きものであることは、外界の均一化の圧力に対して反逆することだろう。

 

人が暴力を打ち消すアートを工夫しようとすることもまた反逆だと思う。そしてそのアートの別名は文化だといえると思う。だからどのように高度な技術を使おうが、正当化がなされようが、それが暴力であるならば、それは常に打ち消される対象であり、文化などではない。

 


暴力の打ち消しのアートとしての文化は、この世界にやさしさを作り出す反逆だ。そこには勝つ保証も、もともとの優位性も何もない。しかし人が人として生きられる場所がつくられる。