降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人間のいるところ

あるコミュニティにおける人と人との関係性は、どんなときにいい感じになるのか、と思っていたけれど、一つは移民同士の関係性のようだ。岡壇『生き心地良い街ーこの自殺率の低さには理由がある』の徳島県海陽町の事例や、大阪の釜ヶ崎の労働者同士の関係などをきいてもそう思う。


#335 固定化された夢よりも今このときの心地よさを感じてみる - 岡 檀さん(和歌山県立医科大学講師) | mammo.tv

 

 

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

 

 

 

全く出自が違う人がお互いにうまくやっていくためには、より普遍的な尊厳の確保の方法、共に環境を調整するあり方の確立が必要だ。

言ってしまえば身も蓋もないけれど、地縁、血縁など同質者のルールが押し通る場所は、違いがあるもの、不都合なものを抑圧しがちな傾向がある。同一性を前提とするか、違いを前提とするかのどちらが個人に対して優しいかというと後者だろう。

また、人と人との関係性における優しさ、共感というのは、崇高な理念の共有によって達成されるのかというと、そうでないような気がする。崇高な理念にたったとしても、それは人間の都合が基盤としてあるもの。そうであれば、都合の悪い考えやそれをもつ人たちを排除したり、抑圧する空気が必然的に備わるのではないかと思う。人間の都合のために、恣意的に環境をコントロールして、同一性をずっと保とうとする理想郷は、そもそも矛盾を内包しているのだと思う。恒常的な安定は生きものの悲願であっても、それは一時的でしかあり得ず、守ろうとすると別のひずみが出てくる。それに、皆が優しく賢く間違わないように生きているところを想像するとどこか息苦しい。

 

正しい人間にはなれない。それは開き直りの押しつけではなく、むしろスタート地点だ。正しい人間を認めるのは簡単だ。なぜならそれはギブアンドテイクだから。自分に利する。しかし、人はギブアンドテイクの関係性のなかでは救われない。間違い、もはや取り返しがつかないところまでいき、それでも生きるものだ。そのお互いのどうしようもなさへの共感こそが人を回復させる優しさなのではないだろうか。人の生にこめられたものを静かに、どこか受け取りあうような、そんな人と人との関係でいいんじゃないか。

 

人間のなかで生きたい。

 

荒野の週末(Wasteland Weekend)というイベントがある。

カリフォルニアの砂漠、核戦争後の世界を再現したような荒れ地に、くず鉄や革の鎧に身を包んだ人々が集まり、プラスティックと段ボールでできたあばら屋が立ち並ぶ。

北斗の拳の世界設定の元ネタとなったといわれる映画マッドマックス。その世界を再現する人たちがやってくる。

 

なぜこの祭りに人が集まってくるのか。楽園やユートピアのイメージとは真逆の最悪の世界に。彼らは、この表面だけが取り繕われたこの世界の実相を突きつけているのではないかと思う。これがこの世界だ。あなたと私はまさにこのような場所を生きているではないか、と。  見える世界の薄皮を剥げば、弱いものを強いものがどこまでも虐げ搾取する荒野がひろがっている。

 

このリアルを目に見えるかたちとして表現するにふさわしいのが、マッドマックスの世界だ。この最悪の世界のなかで、しかし、だからこそ彼らはこの祭りのなかで一つの救いが創造されている。世界のこの狂気のなかでそれにもかかわらず生きていること。彼らは自分たちとこの世界で生きている全ての人々に対して弔いをしている。僕はここに人間がいると思う。

 

ーーー 「われわれが知っている文明の最後を祝う集まりに参加しようとして、人々はここにやってきている。文明から離れて、一緒に塹壕に入ることになる人たちとの共同作業をしながら。この世界でいちばんクールな連中さ」と、イベント・スタッフのアダム・チルゾンは語る。「人間にはまだいくらか希望があるかもしれない、と思えてくるんだ」ーーー


『マッドマックス』の世界を生きるイベント Page2 « WIRED.jp

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