降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

回復のイメージ 安藤美紀夫『ひをふくやまとあおいぬま』

今月の12日(金)19時から「オレベステン!」という催しをやります。

 

「オレベステン!」は、ジャンルを自分で勝手に選んで、そのベストテンを発表するもの。まわしよみ新聞の陸奥賢さんが考案した自分語りの一種。僕は物語を選んだ。

 

■6/12(金)19時より「ちいさな学校 鞍馬口」(京都)にて「オレベステン!米田量さん~自分に大きな影響を与えた物語ベストテン~」開催!参加者募集中! | Facebook

 

その準備をしていて、子どものころに読んだ記憶にあるのに名前がずっとわからなかった絵本を見つけた。タイトルは「ひをふくやまとあおいぬま」。

 

火山があって、湖があって、ピンネシルという名前があった。それだけの記憶。宮沢賢治もピンネシリという名前の火山の物語を書いたようだ。検索を続けていくと出てきた。湖ではなく、沼だった。

 

 

北の国に、ごうごうとうなり声をあげ火をふくあらあらしい山ピンネシルがあった。

そのふもとにある青く澄みきった小さな沼ピルカトー。優しさにあふれる歌声の持ち主ピルカトーのまわりは、けものや小鳥たちの憩いの場所だった。ピンネシルはそれを快く思わず大声でどなると臭い煙を吹きつけてきた。

横暴なピンネシルの突然の求婚にとまどうピルカトーが、断りの返事をするやいなや怒りに荒れ狂う山はあたりを焼き尽くした…生き物の姿はもうどこにも見当たらない。         めだかの学校・日本の絵本

 


火山の爆発によって、ほとんど全ての生きものは死に絶えた。あおいぬまもほとんどが汚されてしまったが、一点だけ清浄な水をとどめた部分があり、そこに魚が一匹生きていた。

 

長い年月が経ち、その清浄な部分はだんだんとひろがっていった。そのころには火山もまた静かになっていた。

 

こどものときに好むようなタイプの絵本ではなかった。静かで、面白さというのはなかった。記憶に残っていたのは、物語が不可解だったからかもしれない。

 

当時不可解だったのは、火山に対して復讐が何も行われないことだった。火山は何かに懲らしめられることもない。ただどうしようもない大きな暴力と破壊があり、そして回復があった。

 

あおいぬまはただただ受け身だった。これは物語なのか?ひねりも何もない話しだと思っていた。

 

しかし、そのイメージが今も残っている。残された清浄さのなかに生きものがいた。その回復のイメージ。あおいぬまが回復するのではなく、清浄さそれ自体が自律的に回復をひろげていっていた。

 

このイメージが意識の外側にいつもあったのだと思う。はっきりとわからなくても、ずっとそのありようを指し示していた。

 

「私」が回復するのではなくて、回復とともに「私」がある。わずかであっても残された綺麗な水のなかには生きものがいる。生きものが生きものを生んでいく。綺麗な水の自浄作用が周りの水を綺麗にしていく。

 

自律的なものがただ自律的に展開をおこしていく。「私」が入るところはどこにもない。「私」とはただ自律的なものが自律的に展開していくことが感じられる場所なのだと思う。

 

 

追記

※ブログでの募集は初めてですが、「オレベステン!」まだ定員まで若干の空きがあります。ご関心持たれた方はどうぞご連絡ください。