降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

生き延びる理屈とやさしさの理屈

生き延びる理屈と、やさしさの理屈は別々のもので、前者が飽くなき意味(有用性や勝利)の追求であるのに対して、後者は人間の評価に関して、その人が他の何かに対して有用性があるかないかという判断が侵入することを断固としてはねのけようとするものだと思う。尊厳の「厳」は、このありようと馴染む。「尊重」は単なる服従や自己放棄であるときもある。しかし、「尊厳」はあるべきものでないものを押し返す拒絶の意思が前提にあって、抵抗があろうが傾く状況をそのままにさせないという厳しさがそこに含まれていると思う。

 

生き延びる理屈を全ての生きものは無視することができない。やさしさの理屈も生き延びる理屈に対して勝つことはできない。やさしさの理屈は、負けることを覚悟しても、こと人間に関しては有用性の追求を寄せつけまいとする。

 

生き延びる理屈に従うというのは,強さの合理性に従うということだ。強いものが弱いものを踏み台にしてより多くを奪う。生きものの世界の常態。しかし強さのあり方は際限なく更新され、勝利は手に入れられた瞬間から来るべき敗北の恐怖を抱え込む。果てがない。どこまで強くなっても、どこまで勝ち続けても終わりがない。

  

やさしさの理屈は,その終わりのない苦闘をもうやめようという意思から生まれていると思う。やさしさの理屈は、生き延びるという、生きものにとっての至上課題を否定する反逆だ。ところが、心はこの反逆によって守られ、救われる。やさしさのなかで、人は恐怖から離れ、恐怖によって停止させれていた時間を、自分自身を取り戻し回復していく。

 

やさしさは決して勝つことができない。なぜならこのやさしさの本質は打ち消しであるからだ。有用性の侵入を打ち消し、ゼロにする。それ以上のことはできない。もしそれ以上のことができたり、勝てるのであれば、それはやさしさという形に見せかけた有用性なのだ。

 

命あっての物種、生きものにとっては生きることが全てであるとすれば、やさしさとは生きること、そしてそこに不可避的に内在する苦しみを超えようとする意思であるといえるだろう。生き延びるということへの絶対服従を、負けを引き受けた人たちが拒絶する。この世界に人が回復する場所を生みだし、そしてそこを守り続けるために。