降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

止まった「時間」を動かすために 安田純平さんと捕虜体験者の方から

同じ施設に捕まっていたカナダ人ショーンは帰国後、自宅にあるトイレを自分専用にして家族には使わせないという。鍵をかけたくないし、自分以外の人が入れたり閉じたりできるのも嫌なのだと。いまでも、睡眠から覚めると両手を広げ、あの棺のような独房にいないことを確認して安心するそうだ。我々にしか理解し合えないだろう感覚的な共感があって、いっしょにいて妙な安心感があった。

 


止まった「時間」。精神に強烈に食い込む環境に遭遇すると、そこから解放された後もその感覚は精神に残ったままになるようです。

 

時間がたっても繰り返しみるあの夢。自分は今でもあの場所、あの空間にいる。

 

よく「あの日からわたしの「時間」が止まっている」と表現されるのは、そのせいなのではないかと思っています。

 

日々、様々な経験をするなかで、「時間」が止まったその時のリアリティに近い経験、弱い、象徴的な体験でも効果があるのではと思いますが、忘れていくことはそのように進んでいくのではないかと思います。

 

一方、積極的に止まった「時間」を動かそうとする人たちもいます。そのような人たちは、かつての自分のような存在に、提供されるべきだったものを提供するということを選んでいるようです。助けるものが癒されるという「ヘルパーセラピー原理」もそのことに関係しているのではと思っています。

 

同じ苦しみを経験した人は互いにとって回復を進める存在になります。ヴィクター・ターナーは、それをサファリング・コミュニティといっています。そのことも、お互いが同じ繊細さを持てるということと共に、「時間」が止まったリアリティが喚起され、止まった「時間」がほぐれ、動いていくということなのではないかと考えています。

 

たとえるなら血液が体をめぐるように、気が循環する精神があって、その気の通路では止まった「時間」が通路を部分的にいくつもふさいでいて、流れを停滞させているように思えます。そして気が巡るたびにそこにある止まった「時間」が何度でも体験されるのではないかと思います。

 

言葉をもって生きる人の充実は、止まった「時間」を動かし、溶かして、ふさいでいるものがなくなった感覚なのではないかと考えています。いわゆるトラウマ的な体験だけでなく、個々人には止まった「時間」があり、個人は意識せずにいても、その「時間」を動かすようなことに近づいてしまうようにみえます。

 

ダルク女性ハウスの上岡陽江さんが「その後の不自由」で紹介されていましたが、ダルクには、思い出づくりという言葉があるそうです。

 

私たちのハウスにいるのは、誕生日やひなまつりのお祝いとか、一緒に食事をつくって食べるということをやってもらったことのない人たちです。あるいはそういうたびに暴力にあっていたとか、ひどい思い出しかなかった人たちです。それをみんなで、安心であたたかい体験に差し替えていくわけですが、あるメンバーがそのことを「思い出づくり」と言いました。私はまさにその通りだと思います。そしてこの「思い出」の中身って何かなと考えると、「出会い」と「生き抜く知恵」ではないかと、私は自分のことを振り返ったときに思います。 上岡陽江『その後の不自由』

 

僕は上岡さんのいうこの「体験の差し替え」が「時間」を動かすことであるのではと思っています。実のところは、僕は精神があたたかい思い出で満ちあふれる必要はなく、多分、止まっていた「時間」がほぐれ消えていけばいいのだと思っています。それだけで十分に精神は活気に満ち明るさを取り戻すと思うのです。

 

 

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