降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

気を流す通路 自給と吟味することを育てていくこと

収穫だけしようと思って、作業着にも着替えずに畑に行ったけれど、ちょっとだけ草とりとか、人参洗ったりとか、つい何かしてしまってまあまあ泥はねやらがついてしまう。人参洗ったり、葉物の枯れた部分をとるとかは畑でやってしまったほうが後が楽で、家でやるとしんどい。

 

ちゃんと作業着で来ないとなと思ったけれど、つい作業してしまうのは気の流れがよかったからだとも思い、気負っているとこれは阻害されてしまうかもと思う。気の流れのほうは結構なことので、むしろ普通の服の時の気の持ちようで来れるように、何がしかの工夫したほうがいいのだとも思う。あれやるぞ、これやるぞと沢山思っているほど、出発の時間がのびのびになる。

 

一方で、自宅の夏の庭とかは蚊がいるので、やることがあっても全く出なくなる。こちらはむしろ、完全装備で作業着を着たほうがいいのだと思う。庭だから手軽にできると見なす距離感が間違いで、適当にできるはずという甘い期待と現実のギャップで苦痛を増やす。蚊取り線香2つぐらい用意して、「山に行くつもり」が正しい距離感ではないかと思う。

 

気負いも自分の現実を吟味しない甘い距離感だろうか。
何か一つのことをやる、やらねばとするよりは、全体のなかでそのことも一つの通路だと考えて、その通路が流れるようになるにはどうしたらいいのか、全体を巡らせるためにはどういう工夫が必要かを考えたらいいのかもしれない。

 

自給の畑のオリエンテーションで、自給とはつなげることではないかと思うと言ったけれど、ちゃんと言葉にできた気がしなくてそのことを続けて考えている。暮らしの全体の気の通りがよくなるように、いいめぐりがおこるように、通路を直したり、別の通路に接続したりする。それが自給だと思っている。

 

つまるところで、誰もがやろうとしているのは、現在の気の流れの滞りをマシにすることなのだと思う。血がめぐるように、いいめぐりがあれば元気が出るし、アイデアも生きる力も湧く。生きている間は、気のめぐりをケアし、必要なら通路をつくっていくということを続けるだけではないかと思う。

 

気負って目標設定することが、気の流れに対して詰まりをつくるなら意味がない。滞りの経験が長い目でみていい通路をつくることにつながるかもしれないけれど、それは結果的、アクシデント的なことであって、選べるものとして捉えるのは疑問だし、単なる吟味不足は同じ停滞を繰り返させる。

 

何かの達成よりも、現実の、今このときの気の流れをマシにする吟味の力をつけていくことが実質の育ちだろう。そこを意識すると、達成や失敗に過度に影響されずにすすめていけると思うのだけれど。