降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

フランケンシュタインとハカイダー

読む!倶楽部の話題提供で「ヨコハマ買い出し紀行」を題材にする。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

それまでと違った角度であらためて読み直し、まとめる機会は貴重で話しをもらってよかった。何かの発表とかはそういう位置づけをしたらいいと思う。

 

あらためて物語におけるロボットについて見渡す。ロボットという造語はチェコの劇作家カレル・チャペックの戯曲「R.U.R」によるものだ。

 

 

R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))

R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))

 

 

 

だが有名なアシモフのロボット工学三原則は人間に反逆をおこすものとしてのロボットへの危惧、フランケンシュタイン・コンプレックスに対応するものであるように、チャペックに100年先立つフランケンシュタインが一般に認知されたロボットの始まりなのだろうと思う。

 

第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版、『われはロボット』より。   wikipedia ロボット工学三原則

 

 

 

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 

 

ロボットというと、機械を想像するがチャペックのロボットは痛みを感じず、感情がないアンドロイドであって、金属でできていないし、機械でもない。フランケンシュタインも同様だ。

 

興味深く思うのは、フランケンシュタインが世にも醜い者として生まれてきたということだ。

 

国分孝一郎さんと熊谷真一郎さんの対談で、アイデンティティとは傷であるというふうな指摘がある。自意識を持ったロボットは、外見が美しくても、人間ではないこと、生きものの流れをくむものではないことに深い劣等性や疎外を感じている。

 

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ロボットは、永野護の『ファイブ・スター物語』にでてくるファティマたちのように人間以上に美しく、人間を虜にするようなロボットも描かれるが、そのようなロボットでも、存在として、用途や外見を含めたスペック以外の点では誰からも迎えられておらず、自然から拒否されているものとしての醜さに心をさいなまれているとも考えられるだろう。

 

 

 

映画ブレードランナーのレイチェルやロイなどからは、人をこえた自然としての美しさを表現している。反自然であると思われたロボットが人間以上の「人間性」をもつ。ターミネーター2のように敵を倒した後自ら溶鉱炉に身を沈めるロボットなど、保身すら超越した善意や愛をもつロボットが描かれる。

 

 

 

 

いいや、でも人間はロボットと違って!と息巻いてみても、人間が持ちうるものは、失いうるものばかりだ。失ったとき、あるいは世間が認めるようなものをはじめから持っていないとき、その人は人間ではないのだろうか。

 

伊藤計劃の『屍者の帝国』を読もうと思っている。アニメでは、屍者は出るけれども、扱っていたテーマは、死に切れぬものとしての生ではなく、モノに魂はあるか(注入できるか)というロボットのテーマだった。主人公と一緒に闘う人造人間ハダリーは、屍者たちを口笛か超音波みたいなものでコントロールできる。(自意識によって)コントロールされるものとコントロールできないもの。コントロールもロボットものの主要なテーマだ。

 

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)

 

 

 

 

別に専門家でもないし、ロボットものを調べつくすつもりもないけれど、ついひろがっていく。人造人間キカイダーに登場した悪役のハカイダーは、アンチヒーローとして、スピンオフ作品が出るほど人気で、Wikipediaによるとダークヒーローの頂点とまで言われているそうだ。

 

 

 

キカイダーは変身ものなのだが、主人公が変身して機械化した時には良心回路という装置が完全に働いていて、悪魔の笛という笛によって操ろうとする敵の精神攻撃は効かない。一方、人間である時は良心回路の働きは不完全であり、敵にコントロールされてしまう時すらある。しかし主人公は完全に機械化することは拒否しているため、その不完全な状態をよしとする。

 

ハカイダーには自律した精神性があって、全て上の言うことに服従するわけではない。キカイダーを破壊するいう一念を何が何でも達成しようとする結果、上に逆らう結果となり、またキカイダーを別のアンドロイドに壊され、ゲシュタルト崩壊をおこし、自身の創造主を殺そうとする。フランケンシュタインを倣う末路だ。

 

善と悪の葛藤を続ける主人公に対して、ハカイダーは一念として振り切れた力として描かれる。情念の純粋なかたち。悪というのは、秩序の維持ではなく、純粋なとむらいを求めている。その姿は光を当てられなかったものに対する強い共感となるのだろう。

 

ロボットは純粋さの表現媒体として人間より訴えかける強さや深さがある。疎外を蓄積し反逆するあり方は、世界が外部だけではなく内面まで誰かにとっての有用性に支配され、システム化されていくことよる軋みを表現するには、現代では亡霊などよりもロボットが適しているのかもしれない。

 

しかしただの現代社会へのアンチみたいなのではなく、ロボットというテーマはもっと掘り下げられるのではないかと思っている。存在として(醜く)作り出されること。自意識を(強制的に)与えられること。そのあたりのことをもう少し見ていきたいと思う。

6/13 星の王子さま読書会

第10回星の王子様読書会。

 

星の王子さま (平凡社ライブラリー (562))

星の王子さま (平凡社ライブラリー (562))

 

 

 

 

花との別れの場面。王子は花に「さようなら」という。一度目に返事はなく、もう一度繰り返したとき、花はこれまでも自分が都合が悪くなったらしていた嘘の咳をまたしたが、その後「わたしっておばかさんだったわね」、「ごめんなさいね。しあわせにおなりなさいな。」という。王子は花がそのようにやさしいことを言うのに驚く。

 

なぜ花が変わったのか。僕は王子が星を捨てることによって、花の「殻」が壊れたからだととらえた。自分の奥にある気持ちや願いよりも殻は強く、それは生きていくなかで知らず知らずに厚くなって自分を疎外していく。殻のほうが自分を支配する。

 

だが生きているなかで、その殻は時々修復ができない亀裂をいれられることがある。それは生存レベルの危機をもたらすかもしれないが、そのことによって人は殻が規定する延長でしか振る舞えないあり方から、別のあり方をひらかれると思う。

 

僕は、人は自然と厚くなっていく殻により自分を疎外していくことを自分だけでは避けられないと思っている。固くなった殻は出来事などを含む第三者から、自意識のコントロールの外から壊される。それは多くの場合、悲劇的なことだろう。しかし、その時人は殻によって今まで支配されていた状態、明日のために今を犠牲にするような欺瞞性からも放たれる。深い回復のためには、そのような傷つきが必要なのだと思っている。

 

四国遍路に衛門三郎譚というのがある。豪農衛門三郎のもとに弘法大師が托鉢に訪れるが乞食とみた衛門三郎は弘法大師を八度追い払う。八度目に衛門三郎は竹ほうきで托鉢を叩き落とす。手から落ちた托鉢の鉢は八つに割れた。その後衛門三郎の子ども8人は1年ごとに次々と死んでいった。8年目、全ての子どもを失った衛門三郎は悲しみ打ちひしがれ、巡礼の旅に出る。

 

欲深く、鬼のような男でも悲しみに打ちひしがれ、生きることを虚しく思うような状態になるのかと思う。よくある話しかもしれないが、それまで持っていた大事なものを失った人の姿には心が強く動く。

 

映画「チョコレート」において主人公はマッチョで人種差別主義者だった。彼の息子は、目の前で彼の父親としてのあり方を強く批判したあと「愛している」と言葉を残して拳銃自殺した。強固な殻をもち、変わることなどありえなそうに見えた主人公ももはや同じようには生きられず、今までとは違う歩みをはじめることになった。

 

チョコレート(字幕版)
 

 

 

衛門三郎やチョコレートの主人公が遭遇したのは、殻が壊れる事態だと思う。

 

花の殻には、修復不可能な亀裂がいれられた。今まであったものを失い、押し寄せる痛み。だがその時に自分の奥にあった気持ちに応答するという選択もまた可能になるのだと思う。それまで抱え込んでいた大事なものを失ったとき、もう何もためらう必要もないし、隠す必要もない。そんなことをしても割りに合わない。社会の抑圧や傷つきがあっても、自分に率直に応答しながら生きる人は多分、この割りの合わなさを知っているのだと思う。今を生きること以外、本当に割りに合うことはない。

 

花は意識的な行為としては、それまでずっと王子から奪っていたと思う。だが、最後に花がしたことは、王子に与えることだったと思う。王子は、星を去るとき、花を捨て、花を深く傷つけた。だが花は最後に王子に与えた。

 

王子はその後様々な役割に従事する大人がいる星々を巡る。大人たちは皆その役割に同一化するあまり、大事な何かが見えなくなっていたり、生きものとしての自然な生理を奪われたりしている。王子はその奇妙な姿に対して問いかけ、そして去っていく。純粋な王子に彼らは傷つけられたように思う。

 

地球にいたって、王子は花に対する自分のあり方の間違いに気づき、後悔する。なぜ王子が気づいたのか。僕は、それは王子がその無自覚さゆえに、花を傷つけ、星々で出会った人たちを傷つけてきたことによるのではないかと思った。傷つけることは、相手が王子の何かを確かに受け止めたということであっただろうし、そしてその彼らの心の痛みが王子に伝わることにより、王子は疎外された人間の痛みを感じる心を得たのではないかと思う。傷つけられることは、与えることでもあるのだろう。

 

読書会は21時には終わったけれど、残って2時まで話しをしていた。自分の財産というのは失って痛みを感じないものなのではないかという話しとか。所有している間は、生きた関係にはなれないという矛盾があるのかと思う。

 

釜ヶ崎の本田神父の話し。「釜ヶ崎と福音」という彼の著書を紹介してもらった。読もうと思う。

 

 

 

畑と鹿

岩倉の畑にまた鹿が入ったと日曜日の夜に連絡がくる。

今日は9時に畑に集合して16時半まで柵を補強する作業をする。

 

今まではネットだけでカバーしようとしてきた。しかし、年々鹿のやることはエスカレートしてきて、前年はやらなかったことをやってくる。今回はとうとう金属製のメッシュの1m×2mの柵を購入し、畑の周りに張り巡らせ、その上にさらにネットをするかたちにした。

 

途中、畑の近所の方が話しかけてこられた。何でも猟友会の方で、引っかかって死んだ鹿をネットから切り離して処分してくれたという。鹿が倒れている写真も見せてくれた。

 

9日土曜の夜10時に鹿の暴れる声、死ぬ声が聞こえたという。鹿はネットに首を突っ込んだ状態で抜けなくなり、暴れ、3回転して首にネットが強く締まり、死んだそうだ。その方はまだあまり人のいない朝4時に鹿を持っていってくれたそうだ。

 

この辺りには10頭の鹿がいるとその方が言っていた。さすが猟友会の人は把握しているのだなと思った。銃はこの地域では使えないが、罠などは仕掛けているそうだ。

 


鹿には何度も何度も入られている。ひどくやられると惨めな気持ちになるものだ。やられるときは本当に容赦がない。鹿が死んで、可哀想だと思う気持ちもそんなにはない。

 

雨も2度ぐらい降ってくるなか、鹿が入らなければしなくていい作業をずっとしていた。この作業がなければ、午後から行きたいところもあったけれど、こっちの作業をやらないわけにはいかなかった。だが損したという気持ちもない。3、4人でずっと作業して、その時間はその時間でいい時間だったように思った。鹿に愛着もないが、別に怒りも湧かないなと思った。

 

金属メッシュの網とネットはきれいに張れた。ちょっと表面の葉の何枚が腐りかけていたキャベツを収穫し、腐った部分を取り除いた。思った以上に順調に育ったダイコンを1本もらい、勝手にいっぱい生えているツユクサを収穫した。ツユクサは味噌汁にも入れられるし、お浸しにして胡麻油をかけても美味しい。

 

今、やっぱり死ということが自分に影響していたと思う。鹿の死によって、自分の状態がまた移行している。唐突な死。人間ならネットを外せただろうが、首が入った鹿にはもうそういうことは無理なのだろう。生きものは遺伝子の前提にないものには一方的にやられる。

 

生の軽さ、脆さ。

 

柵づくりは死んだ鹿の弔いのようなものだったなと思う。

 

やっている時は別にそう思ってなかったが、ネットなんかにもう絡む鹿が出ないようにやっていたのだった。

 

 

 

 

稽古 丸めた新聞紙の筒を使って

身体教育研究所の稽古へ。

今回は新聞紙を丸めて作った棒を使った稽古。何でも週末の親子教室の際に使おうと考えられているものとか。

 

中が空洞のものか、詰まっているものかで大分違う。書道の筆なども竹で作られていたという話し。

 

中心までびっちり詰まっていると重心の位置がピタッと決まる。わかりやすいが、それは多分腕を固めることにもなるのだろう。新聞紙とか、竹とか中が空だと中心が決まらない。中心を常に微細に探る状態になる。その時、腕と胴体の関係が生きた状態になるのかと思う。

意識は実体に置かず、指と指の間とか、脇の下の空間とかに向ける。そこにある空気を感じるように。気功の体操とかでも講師がよくそういうイメージを用いていたけれど、意識は基本動きを止めるものだから、動かすべきところに意識を置いているとパフォーマンスが落ちるのだ。

 

意識はずらさなければいけない。たとえば脇の下に空気のボールがふくらむように、というようなイメージをもつと、半分間接的に、自動的に腕を動かすことができる。稽古は基本的にこのような半自動の状態の導き方の工夫かと思っている。直接力を入れてやろうとすると、部分的な表面の筋緊張のみでやってしまう。すると体の全体からは断絶した状態になってしまい、安定しないし、疲れる。

新聞紙の筒をゆるやかに握り、力を抜いていって落とし、先端が床につく直前の瞬間にまたつかんで落とさないようにする稽古をする。この場合も握っている指と指の間の空気、両脇の下の空気などに意識を置いておく。また再び握る時は、腰を押し出すようにして自動的な締まりを導くようにするという。

 

そうやってみているつもりでもまるでうまくいかない。新聞がねちゃつくように指から離れない。だんだんに緩めていくということができない。床につく直前に腰をいれて、握らずに手の幅を締めるというのもまるでできなかった。

 

あとやったのは、手をまっすぐに伸ばして手が耳につくように体の側面を前後にまわすというもの。回す手が途中で止まる時は、人差し指から小指までを点検して、どこに意識を向けると余計な力が抜けるかを確認し、人差し指がそうだと思ったら、人差し指自体を右か左に旋回させるつもりで動かすとさらに回りやすくなる。


稽古のなかで面白いなと思うのは、「時間」という言葉の使い方だった。このように腕を動かすという時も、腕は空間を移動するのではなく、時間的な移動をしているととらえる。身体には流れがあり、その流れを止めているものをケアすれば、身体は時間を取り戻して動いていくのだと。身体には自律的な動きの流れがある。

 

止まっているとはその流れを止めているということ。動かすのではなく、時間を取り戻し、流れを復活させる。流れが復活した状態を導いて動かす。

 

周りくどいやり方だが、自意識の統制によって身体は自動的に戒厳令が敷かれたような硬直状態にある。それは時間が止まった状態であり、本来の潜在能力は生かされない。自意識はこの統制状態によって身体の支配を確立しているが、同時にこの統制状態によってガチガチに制限もされている。

 

 

 

読む!倶楽部 2018年7月例会 芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』

7月29日(日)に高槻で芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』の発表をする。


ヨコハマは一度自分なりに整理してまとめてみたかったところ、ちょうど5月の例会に行った際に発表を提案され、お引き受けさせてもらった次第。

 

大学院時代、この作品をコミックスでちゃんとまとめて読んだとき、もう既に自分の考えてきた方向性は表現されていると思った。世界の主人公だった人間が、自然に敗北し、主役という意識を降りた黄昏の時代。

それは自意識が自分をコントロールして何かを成し遂げることに破れ、なりもできぬ支配者という自己認識から、自分の内からくるシグナルに謙虚に誠実に応答していく調整者という認識へ変わることでもある。自意識の強制コントロールは結局自然を超えられず、むしろ自分を疎外していく。

ロボットはカレル・チャペックの造語だが、それより100年前にメアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」のなかで人造人間を書いている。フランケンシュタインにおける人造人間の反逆は、アシモフロボット三原則を導くことになった。

人間は自分にはない力をロボットを作ることによって発揮する。ロボットは人間を超えた力を持っている。しかし人間は知性や感情、心、生命(自然)といったもので自らのアイデンティティの優位を保とうとする。ロボットが人間を超えたものとは認められない。

 

また人間はロボットに対して疑いをもつ。人間を圧倒する力を持っているから、いつか自分に反逆すると。物語においてロボットとか巨大コンピュータは大抵局所的な合理性によって人間や環境を抑圧しはじめる。僕はこれはつまり自意識が自分の身体や自然を抑圧しはじめているということに対する体からの表象なのだと考えている。

自意識こそ人間みたいな人間中心主義は、結局は疲弊を招く。知性だとか、「人間性」だとか、正義だとか、どれも人間の価値としたところで、全ての人がそこに辿り着けるわけではない。人間は結局自分があげた価値に自分がたどり着けないことによって苦しむだろう。「転落するために設定する王座」のような本末転倒だ。

僕は自分がロボットのように人に対して共感性がなく、欠落した人間だと感じている。だからロボットに関心が向いたのだろう。鉄腕アトムで、自分に心がないこと、両親がいないこと(生命としての流れを持たないこと)、などを気にするシーンがある。ロボットとは「人間」になり切れない人間のことだ。

 

僕は幾つもの物語をみて、物語が何を語るかをみていった。カレル・チャペック、メアリー・シェリーの時代から、物語は繰り返し表象していた。モノには心がある、と。心とはつまりは自律性だ。モノはそれ自体が自律的な運動性をもつ。「生命」になって初めて自律性を獲得したのではなく、もともと自律的な運動性を持っていたのだ。ゼロのものは何をかけてもゼロなのだから、「非生命」から「生命」が生まれるわけはないだろう。逆にいえば、「非生命」とか「生命」という分け方がそもそも未分化すぎるのだ。

 

自意識は自分は自然であり生命であると思っている。だが自意識はオペレーションシステムであって、機械だ。人間が劣位のものとみなしている機械なのだ。そしてその機械によるものに価値があるのではない。獲得した知識、技術、それらは機械として優れている。だが、機械は世界との対話によって更新されなければ過去の閉じた世界にとどまり、その死の世界を外にも敷延していこうとする。機械である自意識の時間は止まっており、古いOSがアップデートされないまま、自分と世界とのズレによる苦しみを過去に戻ることによって取り戻そうとする。それは全くの転倒であり倒錯だ。

 

そして僕に見えてきた世界は、この自意識の統制状態は、環境の設定などにより一時的に打ち消すことによって、自分と世界とに対話的やりとりがおこり、変化や更新がおこるというものだ。

 

自意識でいかに自分をコントロールするかという世界から、自意識の統制状態をいかに打ち消すか、という逆の世界にいる。「開け」はこちらにあるだろう。自意識の得意は実のところ強制停止機能なのであり、うまく動かすことは得意ではない。そうではなく、中動態的な、自律的な状態や流れを発見し、それに繋がったり委ねたりすることによって、新しい状況が開いてくる。

 

 

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別の世界 

強いものがその分だけ周りを抑圧し、幅を利かせる社会。それが野生状態だろう。強いものもより強いものに抑圧され、永遠に闘争を続ける社会。

 

僕は文化とはそういうあり方を辞めようという反逆の試みであると思う。強いものが勝つのは当たり前だが、勝つ合理性のみ追究されていく永遠の闘争の世界など生きるに値しない。そう決別し、やがて負けるとわかっているのに、自分たちの周りに本来あるべきであった別の世界、「じゃなかしゃば」を一時的につくろうとすること。

 

人は水なり食料なりエネルギーなりの自分が生きるために必要な全体のことを自分で考えなくさせられるにつれ依存的になり傲慢になり駄目になる。そうすると社会は小さいほうが人をダメにしない。小国は大胆で根本的な改革ができるが規模が大きくなるとそれは難しい。なのになぜ何千万、何億という「全体」をつくるのか。

 

強いものがより強くなるためだろう。より強さを得て、自分たちが幅を利かせるためだ。そのとき人は部分的な存在になり、本来発達させられた総合的な力や考える力を奪われる。与えられた便利さは他者とのコミュニケーションの必然を奪い、人を孤立化させ、使い捨てだけを意味する「消費者」にされて、疎外に導かれる。「消費者」なんてよく考えたら蔑称といえるのになぜ受け入れられるのだろう。

 

なぜ「人類」などという言葉を使うのだろう。個々で勝手に生きていたのに、一つにまとめ上げられなければいけないのか。まとめあげた時に、自分の力が最大化できるからだ。エネルギーと豊かさの流れを自分の方に集中させる。その共犯者になれば割りにあう分け前が与えられる。矛盾を直視しないだけで、運さえ悪くなければ、「順調」に生きていける。

 

強いものがより強くなろうとする。野生状態の関係性、野生状態の世界に戻ろうとする。おそらくそれは止められない。文化は負ける。だから反逆なのだ。勝ち、圧倒できるなら反逆と言わない。勝って体制をつくるものはやがて抑圧をはじめるだろう。

 

生きることは、つまるところは勝つことだ。だが勝ちだけに覆われていく世界は単なる地獄に過ぎないだろう。それも馬鹿げているのだ。勝つことの宿命に抵抗し、逸脱しようとするところに、やさしさがあり、人はそこで別の世界を感じることができるのではないか。

時間を戻そうとする力

京都も御多分に洩れず学校で人の下着の色決めたり、外の人には合理性を説明できないのにランドセルを強制したりしているのか。

 

教育者たちはこういう腐敗については何十年も前から黙っているのかな。腐敗をそのままにする権力はどうなっていて、こういつまでも維持できるのだろうか。

 

権力が腐敗するのは、周りとの対話的関係性を断てるからなのだろう。そうでなければ周りの影響を常に受け、否応なく変わっていくはずだろう。

 

対話的関係を遮断する権力を持つ人は、時代にあわせず、時間をある一点に止めたままにする。それはそこに自分が変わらなくていい秩序があるからなのだろう。

 

いや、時間を止めるだけじゃなくて、むしろ更に時間を昔に戻そうとする。強いものがもっと幅をきかせた過去、強さが正しさになっている、懐かしい文化以前の時代へ。強いものが正しいと自分でいうほど強いなら、弱い人からは一切のお金をいただかずに密林にでも原野にでも行って強く自分で生きてくれればいいのにと思う。

 

興味深いのは、そんな力を持っているのに、まだ自分が時代から抑圧されているように感じていて、自分を被害者であり、抑圧されて自由に振る舞えないと思っているようなのだ。自分の孤立を恨んでいる。そして復讐するかのように、時間をすすめようとする弱いものを抑圧し自分の強さを確認しようとする。