降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

自分の在り方に終わりを告げるとき

実家の引っ越しのために少し帰省した。


同居の叔父叔母との問題で、父母は祖父が買った家に建て増しした自分の家から借家へと移動した。

 

友人がいたり、一見変わらない暮らしのように見えても、日々のなかで様々な関係性のグラデーションをもつ人たちと接点を持つことがなければ、個々人は自分の人間としての必要を満たせず、疎外を免れないんじゃないかと思う。

 

家族や個人が孤立せず、それぞれの場所でそれぞれの在り方で世界や人とつながることができる環境の多様性が必要であると思う。そうでなければ人や社会は変わっていったりしないだろう。

 

父は時々尿漏れがでるようになったけれど、尿漏れしてもそれを否定する。しかし、運転免許はとうとう返したそうだ。今は、時々一人で止まった車の運転席に乗る。一人で少し散歩出たりする。自分が自分でいられる場所、自分に戻る場所が必要なのだ。善意とはいえ、ああだこうだ言われる環境じゃないところに。

 

 

やがて受容することがどれだけ大きなことかと思う。そしてこちらもゆり動かされる。人がそれまでの自分の在り方に終わりを告げるときは。

 

ーー

「サンディフック小学校乱射事件(死者26人)が起きたあと私は妻に言いました。一人の子どもの命が守られることになるのであれば私は喜んでこの銃を手放すと。そう言って5年もの月日が経っていました。それ以来200を超える銃乱射事件があり400人を超える子どもたちの命が奪われました。」


「私のこの行いが馬鹿げていると蔑む人々へ。私は願い、祈ります。これらの銃の一つがあなたの子どもの頭に向けられることがなくてもあなたの考えが変わることを」

 

 

 

教文館のナルニア国に

東京に講座受けに行った際に大学院時代の友人に会い、銀座の教文館ナルニア国という絵本フロアを教えてもらった。

 

贅沢な広さだった。テーマごとのそれぞれのコーナーには表紙が見えるように陳列された数冊の本があり、その数冊は選び抜かれている。

 

そこに置かれた以上はどれも相当のクオリティがあるのだ。並んでいるもののうち、知っているもののセレクションを見ていたらそれがわかる。

 

手にとって読み、また手にとってとしていると思った以上に長居してしまった。

 

たくさんのふしぎシリーズでは、「カワウ」がピックアップされていた。なぜカワウと思ったけれど、みたらかなり面白い。カワウがこんな面白い生態だったなんて知らなかった。カワウのあらゆる蘊蓄に精通した愛ある人が少ないページ数のなかで凝縮した内容をいれた感じ。購入した。ルグゥインの本もちょっと気になったけれど図書館にあるだろうからやめた。

 

 

絵本に関しては一時期沢山の絵本を一冊一冊チェックするみたいなことをしていた。でも今はしていない。

 

絵本にしても、普通の本にしても、マンガにしても横並びの情報として沢山あっても選べない。ある程度情報が整理され、編集されピックアップされて、情報は情報として受け取れる。だからもっぱら誰かの感性にひっかかったものを聞いてそこから選んでいる。

 

マンガでは「ヨコハマ買い出し紀行」や「無限の住人」、「進撃の巨人」、「東京喰種」、「不思議な少年」、「花男」などがそうだ。

 

絵本に関しては、教えてもらったものより自分で見つけて気に入っているものほうが多いが、「こんとあき」や「うさぎのしま」などは人に教えてもらったもの。

 

人はそれぞれ自分の好きなところにおいては情報を凝縮していると思う。それを自然に聞ける環境を整えられたら豊かだなと思う。

遊びとしての学び 移動としての遊び

学びについてもう少し。

先の投稿で学びとは外していくことだというところにきた。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

獲得にみえること、獲得と考えられることも、前の固定的状態から「外れた」「外した」とみなすことができるだろう。『学ぶ力』の工藤直子の話しているところから考えを得た。工藤直子は自分の状態を変えること、ある状態(4、5歳の自分の感覚や面白い、わくわくするというような感覚)を維持したり、そこに切り替えたりすることについて多く話していた。

学びには遊びということが含まれていて、遊ぶとはもともとある何かとの距離感を変えることだと思う。固定的な状態には遊びがない。変化もない。だが遊ぶとき、その固定的状態が変化する。

 

学びが外れることを趣旨とするものであるならば、まず遊ぶことによって通常の固定状態を外れる。そしてまた通常に戻るのだが、戻った時は以前の通常の状態ではなく、そこから外れている。外れる楽しさが遊びで、外れた先が学びである。

 

遊びの楽しさは移動の楽しさなのかもしれない。いつも留められているところから移動する。その楽しさ。

固定的状態を一旦わちゃくちゃにする。洪水がおこってそして水が引いた後には地形が変わっている。そういうのも遊びだろう。

移動(遊び)への欲求。移動はそれ自体で喜びでありうる。

 

回復というとどうしてもなんとなく生真面目で固定的な状態を導きやすいが、あらゆる移動を試してみることを制限する結果になることは非生産的だ。

 

最終的には自意識においてやることを自分の価値が密接に結びついているアイデンティティ(Doing identity)から、やること、意識的にそうあることと自分の価値が別段結びついていないアイデンティティ(Being identity)へ移行していくと、楽で生き生きとした状態にはなるだろう。回復というのは、このアイデンティティの移行のことだろう。

 

移動、つまり遊びが学びになる。固定状態に対してより有効な移動、有効な遊びを用いることが次の状態を導くだろう。移動(通常状態の移行)のための移動(遊び)がある。回復というのは、たとえば、気持ちのめぐる通路が掃除されてより詰まりがない状態にあることだろう。

しかし、用もないのにそこまで綺麗に掃除しなくてもいいかもしれない。めぐりが悪くなっていることによる負の影響が自覚されているならそのまま回復に向かえばいいが。通路が仮に綺麗になったところで、生は変わらずあるだろう。どこにもいかない。回復は目的ではなく、派生的、結果的に遂げられるのが一番いいだろう。

移動自体が喜びであるのであるから、移動を使って状態の移行をおこす。そのことによって終わりのないメリーゴーランドの周りの風景が変わる。学びはその風景を変えるための移動なのだ。

 

 

学びの場めぐり 続

学びの場をめぐり、対話する試みを始めました。

 

浦河べてるの家系の当事者研究ネットワークというサイトには、スキルバンクという仕組みがあって、様々な人によって発見された自分助けのスキルが登録されていきます。

 

スキルバンクという仕組みにならい、学びの場めぐりはめぐる人がそれぞれの問いを持ってそれを確かめるというかたちで、今自分のいるところから発見したことを蓄積していければと思っています。

 

初回は演劇ユニットこのしたやみの広田ゆうみさんがファシリテーターをされている「読書会」という名の朗読劇へ。この朗読劇は広田さんご自身は出演されず、俳優ではない人たちだけで演じられています。

 

素人が演劇をすることはどのような意味を持っているのか。どこかにもうまとめられているかもしれませんが、個人的に演劇や演劇的手法が素人にとってどのような応用可能性を持っているのか、日常的なものとして取り入れられないのかをもっと知りたいので今後もここのところは継続的に探っていきたいと思っています。

 

今回の発見、素人にとってというところでは、日常で高い緊張が続くような生活にならざるを得ないときは、自分の気持ちを置いてむしろ自分でない状態をいつも演じるようなことになっていて、演劇のなかでかえって自分の気持ちのありようを確かめられたりするということ(演じることを通した自己一致の働き)、一蓮托生のような、普段もがっちり絆を持ち合う人間関係と対比すると、普段は頻繁な付き合いはなくても、その場では信頼関係があり、育てあうような関係性の面白さというところなどがありました。

 

演劇以外の学びの場もそれぞれ考えたい問いをもって行きたいと思っていますが、ボランティアの市民講座、京都自由学校の企画枠でもやる予定です。企画から一緒に考えてくれる方も引き続き募集中です。

 

note.mu

『学ぶ力』河合隼雄 工藤直子 佐伯胖 森毅 工藤左千夫著 

工藤左千夫が気になって図書館の蔵書検索をしてあった一冊。

工藤直子とか佐伯さんとか、興味ある人が並んでいたので予約した。

 

 

学ぶ力

学ぶ力

 

 

 

面白かったところ。

 

河合隼雄養老孟司からおすすめされた『火星の人類学者』のなかで、40歳くらいで目が見えるようになった人の話しを紹介していた。光が見えるだけで全然見えないのだという。結局触ってこれはコップだとわかってから見るとコップが見えてくるそうだ。つまり先行する経験の蓄積があってこそ把握ができて見えるのであり、初めてコップを見たところで何もわからないらしい。犬と猫も触ったらどっちが犬でどっちが猫だかわかるのだが、目で見ても違いがわからないし、目で覚えられないそうだ。

 

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

佐伯胖は竹内敏晴から色々教わっていたというのも、へーという感じ。

工藤直子は二つの詩を挙げる。

それは、あの時の感覚、夢のなかで思い出すような感覚だ。僕は学びとは世界に対する新鮮さをまた取り戻すことだと考えていたけれど、こういうことなのかもしれない。

 

あいたくて

 

だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生まれてきた

そんな気がするのだけど それが だれなのか 何なのか

あえるのは いつなのか

おつかいの 途中で迷ってしまった子どもみたい とほうにくれている

 

それでも 手のなかに みえないことづけを 

にぎりしめているような気がするから  それを手わたさなくちゃ

だから

あいたくて

 

学ぶという出来事がおこったとき、この感覚を垣間見るのではないだろうか。

 

こどものころに みた空は

 

ひとはみな みえないポケットに 

こどものころに みた 空の ひとひら

ハンカチのように おりたたんで

入れているんじゃないだろうか

 

そして あおむいて あくびして

目がぱちくりしたときやなんかに はらりと ハンカチが ひろがり

そこから あの日の風や ひかりが こぼれてくるんじゃないだろうか

 

こどものじかん」というのは

「人間」のじかんを はるかに 超えて ひろがっているようにおもう

生まれるまえからあって 死んだあとまで つづいているようにおもう

 
「君の名は」でも同じような感覚が繰り返し表現されていたのではないかなと思う。
重要な相手、決して忘れたくない相手を忘れてしまう。それは必然なのだ。自意識というのは、相手を対象として見ることができるかわりに世界から分離されてしまう。分離されたものとして「あなた」に会うことはできない。逆に「あなた」=彼岸と一体であるとき、わたしはいない。

「死んだあとも続いている」というのはそういうことだと捉えている。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

学ぶことは、あの時に戻ることを目的にしているのだなと思った。それ以外に十分な学ぶ理由はないのかもしれない。

 

あとスキーマとは何かというところ。

 

スキーマというのは、知識づくりのための「枠組み」や「部品」のようなものだと考えてください。外界から情報が入ると、そのスキーマにうまく組み込まれ、既存の断片(「部品」)を付け加えたり加工したりして、はっきりした「意味」を構成するというわけです。既存のスキーマがまったく使えない情報はすぐに破棄されてしまいますが、何か既存のスキーマでうまく加工できそうな情報はしっかり保持され、新しい知識が作られるのです。また、既存のスキーマにはまりそうな情報を外界に積極的に求めることもありますし、今後、もっと新しい未知なる世界を意味づけられるような、新しいスキーマを用意するようになることもあるのです。

 

スキーマを想定することによって、人間が「一を聞いて十を知る」ようなことも説明できますが、同時に、「見れども見えず聞けども聞こえない」ことも説明できます。また、「勘違い」や「誤解」、「はやとちり」などなど、人間の判断や思考のゆがみや謝りも説明できます。

 

工藤左千夫の小論が一つあったけれど、ちょっと短いなかにおさめ過ぎて何か十分に言ってない感じがしたので、工藤左千夫については別の本を読んでみたいと思う。

この本を読んで、学ぶということは、既にあるものや既に決まってしまったことを外していくことだなと思った。

本の作成過程2 回復と学びの区別

使っている言葉をあらためて整理する。

学びと回復はどう違うのか、とか自分でもパッと分けれなかったので。

 

回復とは、一つには自身、他者、世界の受容の過程と考える。たくさんの条件を備えてようやく自身を受け入れられる状態からだんだんにその条件を必要としなくなっていく状態への移行だと思う。生の意味づけ、世界観が変わっていくことによって自分とは何かが変わってくるだろう。他者を否定しながら自身を肯定することはできない。自他への信頼は同じものであると考えている。

また世界観の変容が伴わないが、単純に弱った体力が回復して元気になるようなこともまた回復とよべるだろう。そのように弱ったものが元に戻るような、既にある器に水が満ちるような回復と今までの器自体が変容するような深い回復がある。

 

人が持つジレンマは、生きものであることのジレンマであるかもしれないが、一人では今の器自体を変容させるような深い回復に向かいづらく、一人だと安定の固定化が優先となり、刺激や別の埋め合わせをしてしまい、回復に必要な自身の痛みや揺らぎを感じなくしてしまう。この間に合わせの安定は欺瞞的なものであり、不安定を感じつつ押し殺すようなことで、歪みを蓄積していく。その自分自身による疎外を破綻させる役割が他者や世界であり、人は世界に傷つけられることによって危機状態に陥り、場合によっては生命さえ失うかもしれないが、より深い回復の過程にも開かれる。回復してはまた傷つけられ、生きるバランスを崩されることによって、回復は深まっていく。

 

回復はこのような構図のもとにあるようなので、往々にして深い回復を遂げていくのは受難のような出来事にあい、向かいあわざるを得なかった人や生れながら深い傷つきと深刻なプレッシャーを抱えている人のような、いわば既に突き落とされてしまった人となる場合が多いのではないかと感じられる。だから個々の人や家族が自分たちだけに閉じ、また孤立するような社会、「他人に迷惑をかけない社会」では、全体として人は自己疎外に邁進していくだろうと思う。

べてるの家向谷地生良さんは、本など読むと、学生時代にこのままでは自分は救われない、ダメになる(←大意。)と思い、あえてアルコール依存症の方に関わるタフな現場に自分を投げ入れたようだった。しかしそのケースにしても単に強い意思や明確な理性でそうしたというよりも、既に深い実存的な危機に陥っており、その重圧にあったと考えたほうがいいのではないかと思うけれど。

ダルク女性ハウスの上岡陽江さんは、「回復とは回復し続けること」というふうに言われている。被支援者が回復し、支援者にまわることはある意味、到達した欺瞞的安定を破綻させるという機能もあるだろう。傷ついた人に関わることで、自身の欺瞞を破綻させられ、痛みを取り戻しながら回復の契機をもらう。当事者性、自身の痛みの存在を感じなくさせた支援者は、自身の痛みの上にさらに厚塗りをして感じなくするために人に関わるので、搾取的になる。支援するということ、その底にある動機に目をつむり、後ろめたさを持たずに誰かに関わることは何かを与えること以上に奪うことになるのだろう。

 

ゆるゆるスローなべてるの家―ぬけます、おります、なまけます (ゆっくりノートブック)

ゆるゆるスローなべてるの家―ぬけます、おります、なまけます (ゆっくりノートブック)

 

 

 

一方、学びとは、パソコンのOS、オペレーティングシステムの更新のような出来事であり、世界の感じ方、実感のされ方が変わる事態だ。世界の奥行きが広がり、新鮮さが戻ってくる。学びのない生は、風景の変わらないメリーゴーランドに乗り続けているようなものだ。世界の見え方が変わることなど、回復とかぶるところは多い。回復と呼ぶ場合は、生への信頼の回復のことをさし、そこに直結しない世界の見え方の更新を学びとよぶことにする。

また学びは安心、安全、信頼、尊厳を提供される場でもっとも活性化する。よって学びの場はコミュニティを派生させる。派生したコミュニティはまた学びにとって整えられた環境となるので、また学びが活性化する。

 

しかしこの社会において、回復のためのコミュニティなどと銘打つとどうしても負の影響が出るような気がする。回復より学びのコミュニティとしたほうがその点はまだいい意味でドライになり、適切な距離感を持てるのではないかと思える。回復自体を目的化するよりも、最もいい学びの環境を追究することで、回復は派生してくると考えて設定するほうが健康的であるように思える。


学びがちょっと中途半端な感じがありつつ、今日はここまで。

心のなかの箱庭

箱庭療法で人形とか家とか色んなおもちゃを箱の砂の上に配置していくとき、置いていくそのおもちゃには自分の心の世界のなかのそれに対応するリアリティが喚起されている。

 

自分自身として箱の中におくおもちゃを選ぶ時も、人型のおもちゃを選ぶ人もあれば、アヒルを選んだり、木を自分として選ぶ人もいるかもしれない。重要なのは、自分にとってのリアリティを喚起するものだろう。

 

選んだものをどのように配置するか。別のおもちゃとどのように関係を持たせるか。自分で変化させることができる。

 

生まれてから記憶され、自分の心の中に作り出されてきた世界を、仮に箱庭のような世界だととらえてみる。その世界でそれぞれのおもちゃの配置は決まっていて、各自その場所でとどまっている。記憶のなかにおいて、世界はもう何もかも場所が決定されている。ものや人に対する感じ方は、自分のなかで決定されているところがある。

 

その配置が更新されるのは、ある対象がもつリアリティを喚起されながら、それが動いたり、変化したりするのを見て、体験することだ。リアリティが喚起されない状態では、心の中の配置は変わらない。

 

昔、探偵ナイトスクープルー大柴似の祖父を亡くした孫が祖父を恋しがって泣くのでお母さん(祖父の娘)が探偵に依頼し、ルー大柴を派遣するという回があった。孫はルー大柴と料理を一緒に作ったり、お馬さんごっこをしたりした。娘が本当に楽しそうな姿をみる母親と祖母。母親にとっては厳しくあまり仲がよくなかった父、祖母にとっては夫だった祖父。そこでは、三者それぞれにとっての心のなかの祖父の「配置」が更新されていただろう。それほどフォーカスがあたっていなかったが、中学の娘という媒介を通して父と和解する母親の物語もそこにあった。

 

自分も四国遍路において様々な人に出会ったが、それらの人は、あとで振り返ればまるで自分にとっての祖父と生前とは別の形で出会ったようだということがあった。旅は自分の心の中の世界をめぐり再体験しているようなことでもあるのだろう。

 

人は、特定のリアリティを喚起させるものを媒介にして心のなかの箱庭の世界を変化させようとしているように思える。子どものころの無力さや、酷く刻み込まれた体験。そのことで心のなかにできあがった世界の配置を更新することが、たとえば何か仕事が出来るようなることや「成功体験」だったりするのではないだろうかと思う。

 

もちろん箱庭のようなものでもリアリティは喚起されるのだが、それでどんな配置でも自在に更新できるかというとそうでもないようで、心のなかに強固に出来上がった世界の配置を更新するためには、それに相応した強いリアリティを喚起させながらそれを移動させていく体験が必要であるように思われる。

 

心のなかの世界の配置を変えることは、やり直すことであり、生き直すことのようになる。それはとむらいの用でもある。自分と同じような苦しい体験をした人を助けること、そういう人に本来自分が与えられるべきだった尊厳を提供することは、自分の内の世界の配置が作られた時のリアリティを喚起させながら配置を更新していくことであると思う。

 

薬害エイズ当事者の川田龍平さんのように、自ら議員となり、制度を変え、自分が生きている社会そのものを変えていく存在になるようなことは、より深い水準で自らの内の世界の配置を更新していったということであると思う。それは自分にとっての社会、世界の見え方、感じ方を変えていく必要があったほどそれは深い苦しみであったということでもあると思う。

 

ある行動や活動にやり甲斐を感じ、別の行動にはあまりやり甲斐を感じない。それはもしかしたら前者の行動には自分の心の中の箱庭の配置が変わる可能性があるもの、配置が動くリアリティを喚起するものであるのではないだろうか。世間的な損得勘定とは矛盾さえするような活動、しかしそこに向き合い、閉じ込められた既知の世界から踏み出すとき、ゆっくりと動き出し流れてくる力がある。

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