降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

次回ジャンル難民MT イメージしている「正しさ」を外して 

ジャンル難民学会(仮)は、それぞれの人にとっての核心的な探究を活性化する媒体にできればと思っています。

 

次回は1月11日(金)19時と、1月20日(日)14時に、探究のすすめ方について当事者研究的に事例を発表しながら考えたいと思います。(この日はたまたま来れないという方は13日(日)も空いてますので打診ください。)

 

次回に参加してくれる方にメールでも書いたのですが、少なくない人が、何かこの辺りのことに関心があるけれども、それをぴったりとフィットする言葉ではつかめておらずもどかしく思っていたり、それゆえ動きようもない、だから動かないという状況にもあるのかなとも思います。

 

明確な指針が見つかれば動けると考えているのかなと思うのですが、イメージする「明確な指針」は多分いらなくて、とにかくちょっとでも感覚に近いほうににじりよって確かめていくことができればと思うのです。とにかくちょっとでも時間(プロセス)が動くと感じられることをして、時間を動していくということです。

 

イメージしている「正しいアプローチ」や「とるべきあり方」ができないから、もやもやがあるのにそこでストップしてしまっていることも多いのではないか思うのですが、どのような突飛なあり方でも、他人からみたら効率悪すぎるようなことでも、自分の時間(プロセス)がちょっとでも動いていく自分のやり方でいいんだ、という心の自由さから探究がはじまるような気もします。

Book and cafe cocoaruへ

居場所型就労支援、カフェをされているcocoaruさんに行ってきました。野江駅周辺に行くのははじめてでした。場所は駅からすぐでわかりやすかったです。

 

cocoaru.npo-assort.com

 

ちょっと前に使い切れないぐらい沢山毛糸をもらっていたのですが、cocoaruが毛糸も募集しているとのことで、持っていきました。お返しにとcocoaruでパッキングしている8gのコーヒー2パックいただきました。

 

 

今日はちょうどcocoaruの活動紹介の催しで、ちょうどいいタイミングでした。店内はかなり綺麗でいい雰囲気でした。改修には500万ぐらいかかったとのこと。立ち上げのメンバー3人が皆本好きだったそうで、寄付してもらった本をamazonで売るスタイルも自然な流れだったそうです。

 

 

パンフレットにある「居場所型就労支援」という言葉は、自分たちで作った言葉だったとのこと。スタッフも利用者も無理ないかたちを目指し、週に1時間だけ利用する方もいるそうです。

 

 

フェイスブックで本の寄付の募集をした投稿が300シェアぐらいいったそうで、新規で20組ぐらいから連絡があったとか。

 

 

あと印象的だったのは、自分がいうことが相手にそのまま伝わっていると思うなんて相手に失礼だと思う、というセリフ。詳しく訊き返さなかったですが、どういうことなのか考えてみようと思って時々思い返しています。

 

 

30歳の代表はスタッフがミスしても爆笑するらしく、年上のスタッフを含め、スタッフは安心した環境で働かれているようです。

 

 

高校生の居場所カフェなどもされていて、発達障害などの人が学校卒業して自分から自発的に支援につながるのはハードルがとても高いけれど、居場所カフェとして、高校に自分たちが行くなら受動的に受けられるので、高校は支援につながる最後の砦だ、というような言葉も。

 

 

居場所カフェで気持ちがほぐれて、ぽろっとしゃべることでスクールソーシャルワーカーにつなげることができたりということで、支援というのは、豊かなグラデーションを持つ必要があるのだなと思いました。学校にソーシャルワーカーがいたとしても、問題が表現されなければそのままになってしまうので。

 

 

ここに行けば、こういう支援が受けられるということだけではまだ不十分で、自分がいる場所からそこに行くまでの間の空間に豊かなグラデーションがあるのが文化的な空間だということだなと思いました。生活している普段の空間に、様々な人の状態を受け止める肌理の細かさをもたせていくことが重要なことなのだと思います。

 

 

そうそう、あと印象的だった言葉は、何かを達成するとかではなく、疲れなく時間を過ごせればいいと思うというもの。こうなりたいとか、ああなりたいとか、みんなが思っているけれど、夢を実現する人はごく少数なのだから、と。疲れないということを大事にしていたらそれで力がたまっていって意図せず「達成」する時もあるというようなお話し。

 

 

僕も、無理がないとは、力がたまっていくことと考えたらいいと思っています。自分として自分の時間(プロセス)に寄り添い、動かしていくなら、力は自然にたまっていくはずだからです。自分がやりたいことをやるなかで、程よさもわかっていくと思います。

 

増えると減るが拮抗しているときは、何が減らしているのか、拮抗させているのかを探ってケアしてあげればいいと思います。エネルギーは自然な状態では増えていくという認識が重要だと思います。何かしなくては、と思うのはエネルギーを減らします。ホースに空いている穴さえ塞いでいければ自然とたまると考えたらいいんじゃないかなと思っています。

 

そういう感じのツイートがあったので紹介します。

 

 

小倉ヒラクさんが、鳥類の進化は、当時は酸素濃度が低く、それを補うために肺が大きくなり、すると体が軽くなって飛べるようになったという話しをしていましたが、相転移というのもまあそういう感じかなと思います。

 

参加者が古本(特に専門書)の整理が困るというふうにいっていたので、野江あたりには3冊で1冊に交換している古本交換サービスとかはないんだなあと思いました。うちの近くのスーパーの鞍楽の前とかではよくやっています。近所の枡形商店街には店舗としてあります。特に移動していく古本交換サービスの方はいつも人が集まっています。

 

カフェはいつもあけておくことが大変なのですが、cocoaruの代表は、何かあればすぐ「(店を今日は)閉めれば?」という緩さなので、スタッフは強迫的にならず、むしろいや、閉めずにやろうという感じになるとか。

 

緩さと明確な意思のメリハリがはっきりしていて印象的でした。

 

(↑投稿はアバウトな記憶に基づいているので、数字とか言いまわしとか違うかもしれないので大体でとらえてください。)

「預金型教育」の理解 谷口洋幸さんの講座「多様な性のあり方と人権」へ

昨日は講座「多様な性のあり方と人権」へ。

 

講師は谷口洋幸(金沢大学国際基幹教育院准教授)さん。全く存じ上げなかった方でしたが、講義は、伝えたい内容、たどり着こうとする高さ(目標)に対して、バラツキも無駄もなく、理解するのに無理もないよう計算された段差をつけた階段のような完成度で、基本的な事柄から本質的な焦点まで、90分でよくここまでいけるなと思いました。

 

 

彼の講義はグループワークでもアクティブ・ラーニングでもないのですが、フレイレの批判する「預金型教育」というようなものでもなさそうだと思いました。いわゆる「預金型教育」批判は、教える人(支配者)、教えられる人(被支配者)の関係性が固定化されたまま長期にわたって人の矯正(支配に対する諦め・主体としての自信の喪失・ロボット化)が行われる制度に対してのものかと思いました。

 

 

単に一時的に誰かがその場で話しの主体となることをもって「預金型教育」とはいわないのではないかと思います。重要なことは、ある人がその人のなかにあるものを刷新して、作られた体制を前提として、人より上手く「適応」して手に入れられるものを多くすることではなく、自分の根源的な問いを軸にして、世界との応答性を回復していく主体になっていくことなのだと思います。

 

 

教育哲学者林竹二は、吟味することなしに「ただ活発な意見のやりとりがおこる」ことに意味があるとみなしていませんでした。林の授業は、ちょっとした事例をだしてすぐに「みんな、どう思う?」と聞いて思うことをわいわいいったら「色んな意見が出てよかったね」というようなものではなかったようです。

 

 

林の授業を聞く子どもがそれまであぐらをかいて座っていられた自分の場所が取り去られ、それを手近な考えで間に合わすこともできず、問いを突きつけられます。といって、林は生徒一人一人を直接問い詰めたりもしません。

 

 

林は今までの自分が成り立たないような「状況」を詳細に提示するのです。それはまず映画をみるようなことかもしれないと思いました。

 

 

僕は塚本晋也監督の「野火」をみて、今の自分の生きるということの理解では、もはやこの目の前に突きつけられたことを受け入れることができなくなりました。

 

 

しかしそれは、僕にとって不幸な体験ではなかったです。むしろ僕はそのように、今自分がいる場所が安定しているかのような欺瞞から追い出されることを求めていました。

 

 

林の授業によって最も大きく変化した生徒たちは被差別部落定時制の子どもたちでした。人は自分が信じてしまった、内面化した世界に疎外されてしまいますが、それによる苦しみの強さはそこから出ようとする力の強さでもあると思います。

 

 

話しを戻して、林もまた生徒をある状況に投げ込むために、最初の何時間かは、林だけが話している時間として設定していました。肝心なことは、無自覚に欺瞞的にあぐらをかいているところに、非暴力的な働きかけをしてそこに居られなくするということだと思います。またそれが非暴力になるためには、内面に作られた欺瞞のなかから出たいという求めが先にあることが必要だと思います。

 

 

谷口さんのお話しの核は、人権の二つの要点を提示することだったのではと思います。一つは、人権は全ての人が等しくもつものであるという多くの人に共有されているものですが、もう一つは人権とは国家(公権力)に課された義務であるというものです。後者の概念はほぼ世間的には抜け落ちている概念だと思います。

 

 

正確に同じ段差の階段をつくって、聞いている人をそこに連れていった谷口さんの講義は、人権とは国家の義務であり、それを国家が怠っているのなら、それは市民によって正される必要のあるものだという捉え方に対して、聞いている人が逃げを打つことができないものにしていたように思います。それは権力関係を身体化させる「預金型教育」ではなく、主体を解放する対話であったといえるのではないかと思います。

 

 

Twitterに次のようなツイートがありました。

 

 

 

 

奴隷であることをどうやめていくのか。それがこの社会の課題であるのだと思います。

12/12 星の王子さま読書会

毎月第二水曜日の星の王子さま読書会。
今回は6番目の星の地理学者の場面。

 

地理学者は、王子の質問に対して、大洋がどこにあるか、山がどこにあるかを知っているのが地理学者だといいますが、王子が彼の星に何があるかをたずねると「わからない」といいます。

 

地理学者は自分の場所の外に出ず、探検家から話しを聞き、その探検家の評判を他の人に確かめ、さらに探検家に証拠となるものを持ってこさせてそれを本に記入するとのこと。そして探検家は足りないので、自分の星のことは知らないということでした。

 

進行役の西川さんは、この王子の星めぐりにおいて、大人たちの愚かさに王子が呆れるという通常の解釈ではなく、愚かなようにみえる大人たちであるけれど、実はそこには王子にとって重要なメッセージがあり、表面上のものにとらわれてその隠れたメッセージを受け取れない王子がだんだんに気づいていくという解釈をしています。

 

王子は地理学者とのやりとりのなかで、置き去りにした花が近いうちに消えてしまう、はかないもの、死するものだと知って、自分の責任に気づきます。

 

王子の責任と所有の概念はよくあるものと違っています。王子にとっては、自分のものとは、ケアを提供するものであって、自分を利するものではありません。自分が関わるものに対してはその責任を果たすことが人として重要なのであるという考え方のようです。

 

しかし王子には、自分を愛したもの、分かち難く思ってくれるものに対しても責任をとるという意識は全くありませんでした。王子は孤独でした。しかし、王子には孤独ということがどういうことなのか、そして自分が孤独であることも知らなかったのです。

 

今までめぐってきた6つの星の人たちは全て自己完結的で、同じことを延々と繰り返すようにプログラムされたロボットのようでした。彼らにはそれぞれの求めがあり、その求めを達することで何かを得ようとしていますが、その求めは到達されることのないようなもので、しかもそこへ向かおうとする彼らのあり方は、ずれていました。

 

王子は自分のちいさな星で、一度に日の入りを44回見たことがあります。夕陽が沈むたびに座っている椅子を地平線の方にずらして、もう一度日の入りを見たのです。

 

なぜそんなに何回も日の入りを見なければいけなかったのでしょうか。その行動は終わりを求めている反映であると思いました。その終わりは今の自分が終わり、新しい自分に変わるということだと思います。

 

それぞれの星に住んでいる自己完結的な変わらない人たち、決まった形式にただ従う人たちはみな一人でした。一人である、孤独であるということは、自分が変われないということであるのだと思います。そしてそのような大人たちが変だと思っていても、王子もまた彼らと本質的に同じだったのです。

 

星の王子さまは、戦争中のヨーロッパに残してきたサン・テグジュペリの親友、レオンヴェルトに書かれたものだとされています。レオンヴェルトに対して、サン・テグジュペリがおくろうとしたのは、置き去りにしたことへの謝罪であり、あなたが私を放り出されたこの孤独、意味を失った放浪から救い、心を持った人間としてこの世に再生させてくれた、そして遠く離れていてもかすかなしるしからあなたを感じられる、生死をこえ、共にいることができるというメッセージだったのではないかと思います。

 

西川さんは、この読書会の大部分の時間を自分が喋っていて、まるで一方的な「学校教育」ではないだろうかと懸念されていましたが、関心をもって聞くひとがいるこの読書会のなかで新しいことに気づいていくというふうにも言われていました。

 

フレイレは預金型教育においては、教える側は教えられる側に対峙している時、もう変容のプロセスをおこしていないと指摘し、そのことがお互いの疎外をすすめるとしています。対話とは自分が変わりながら相手と関わることです。西川さんの変容のプロセス、時間が動いているとき、また参加者の時間も動いていると僕は思います。

 

誰かの時間が動きだすとき、それはその周りの人たちの時間にも連動していくようです。自分が生きることとは、時間を動かしていくことです。動いている時間のなかにあることです。そして時間を動かすことは、お互いに与えあうことができ、それは減ることのないことだと思います。

時間のありよう 誰かの時間が動けば周りの時間も動く

www.nicovideo.jp

 

何度か取り上げていますが、仲が良かったおじいちゃんと死別した孫はその喪失を受け止めることができずにいます。おじいちゃんはルー大柴にそっくりで、孫はテレビでルー大柴を見るたびにおじいちゃんを思い出して悲しくなってしまいます。

 

お母さんからの依頼を受けて桂小枝と一緒にやってきたルー大柴は最初はいつもの調子でその子どもにも説教したりするものの、小枝にたしなめられるとおじいちゃんの役割を引き受けます。

 

時間が動き出すのは、その時間が止まった時のリアリティを提供するときです。まるっきり本物でなくても、「あたかも〜のようだ」という感覚で必要は満たされるようです。止まっていた時間を動かし、必要な経験を自分に与えることで、止まっていた時間は流れていきます。

 

先に紹介したヘルパーセラピー原則(癒すものが癒される)が成り立つのも、相手にかつての自分、必要な体験が与えられなかった自分のリアリティが喚起されているからだと思います。

 

興味深いのは、ある人に時間が動くことで、その人だけでなく、周りの人の時間も動くことです。

 

孫のお母さん、つまりおじいちゃんの娘ですが、お母さんはおじいちゃんには認められない結婚をしたりしていて、お母さんにとっても、気持ちの和解はされぬまま、おじいちゃんは亡くなっていました。

 

ルー大柴がお馬さんになって子どもを背中に乗せる場面をみるお母さんには、おじいさんが自分の娘を回復させてくれているという感覚に加え、小さかった頃の自分が喚起され、お父さんが小さかった頃の自分とお馬さんになって遊んでくれている感覚がもたらされたのではないかと思います。ルー大柴のその姿はお母さんにとっての赦しでもあったのだと思います。

 

子どものために呼んだ探偵でしたが、子どもはある種、お母さんのために、お母さんのかわりにおじいさんの喪失を引き受けていたかのようでもあります。

 

亡くなった人、別れた人、その喪失で止まったままになっている時間はその人本人がいなくても動かすことができるようです。そしてその体験の仕方は二種類あると思います。

 

子どもにとってのおじいちゃんのように、そのままにリアリティを喚起する人と関わること、そしてもう一つは、お母さんが子どもに提供したように、自分のような誰かに必要な経験を提供することです。

 

一家と別れた後のルー大柴の大泣きの顔は、彼の時間もまた動いたということなのだと思います。ある人の動きだした時間はそこに関わる人の時間も動かすようです。

追記:時間を動かすこと

<追記:時間を動かすこと>


時間については、少し前までは「自律的なプロセス」などと表現していましたが、身体教育研究所の稽古で時間的移動と空間的移動という捉え方をもらい、あと境毅さんの著書『モモと考えるお金と時間』で時間とはいのちなのですと書かれていたところなどからもらいました。

kurahate22.hatenablog.com

 

最初はそれまで「自律的なプロセス」と呼んでいたものを「時間」という言葉にするのは、かなり思い切った、割り切ったメタファー化だなあと感じましたが、呼び方をそう転換してみると、むしろ「時間」という言葉が見え方を広げてくれたり奥行きをくれたりするのがわかりました。

 

誰かに何かしたいことがあって、それをやりはじめることを「誰々の時間が動きだした」というふうによくいわれますし、そういう日常語としての用法もないことはないので、むしろ慣れれば直観的に把握しやすい、使える言葉になると思っています。ただ使い勝手がいいというだけでなく、世界の見え方が変わってくる言葉です。

 

(ジャンル難民たちは「雑食」で、自分が使える素材を領域問わずとってきて、それをコラージュして思考をする傾向があると思います。探究には使える素材(言葉・考え方など)と使えない素材があり、ジャンル難民たちは、世間で流通する一般的なものだけでなく、自分の探究に適した素材を組み合わせて思考します。いわば「野生の思考」です。そういう人を挙げるならば、自分は「古武術研究家」というよりも「創作武術家」であるという甲野善紀さんや『ハーモニー』の伊藤計劃がその例だと思います。)

  

甲野善紀さん

私は自分のやっている事を「古武術」という名前で名乗ったことはありません。ただ、私が研究している事は、剣道や柔道といった現代武道ではなく、古田の武術の世界ですから、古武術研究者と言われても当たっていない事はありませんが、あまり落ち着きません。
 なぜ「古武術」と自らは名乗らないのかというと、「古武術」とは本来、昔から代々伝わっている特定の流派に対する名称だからです。したがって、私の立場を正確にいえば、古の武術を研究して、それを手がかりに自分自身で新たな動きを開発している「創作武術家」という事になるでしょうか。


私は二十二歳の春頃、「何か武道をやりたい」と思い、まず合気道を始めたのですが、いざ始めてみると、合気道の開祖植芝盛平翁という人には、まさに昔の名人達人を思わせる凄まじいエピソードがあったのですが、合気道はその後、武術として「出来る」という方向よりも、多くの人が親しめる武道の方向に向かっていきたいと思っていた私は、「本当に『出来る』武術の技は、このまま合気道の稽古を続けるだけでは身につけられない。これは自分で探究するしかない」と考え、前述したように松聲館道場を設立、独自の道を歩み始めたのです。
甲野善紀『驚くほど日常生活を楽にする武術&身体術』

 

伊藤計劃

wired.jp

ハラリは、SFの中でも特権的作品としてオルダス・ハクスレーの『すばらしい新世界(Brave New World)』に注目する。そこで描かれるのは出生時から管理された楽園であり、ユートピアディストピアが鏡映しになっているような世界だ。そしてITとバイオテックの融合による身体侵襲が当たり前になる現実の近未来の延長線上に、そのような世界が待っていると見立てている(ちなみに『すばらしい新世界』の刊行は1932年であり、同時代的には、優生学を含めて「身体」や「健康」にことのほか関心を寄せていたナチスドイツの台頭期であったことには留意しておいてもよいだろう)。

もっともこの点では伊藤計劃の『ハーモニー』のほうが、世界保健機関(WHO)を頂点とした〈生府〉によって徹底される個体ごとの人間の生の管理体制という点でも、それら管理体制に対する(個々人の個別具体的な)身体からの反発という点でも、よりハラリの想定する近未来に近いと思われるのだが、どうだろうか。

 

→メタファーについて

 

時間を動かすとはどういうことか ジャンル難民学会ミーティングの二つ目の質問

先の金曜日にジャンル難民学会(仮)発足ミーティングを行いました。15名ほどが来てくれました。要請があれば別の場所でも行いますのでお声がけください。

 

ミーティングでは、2つの質問をしました。それぞれの人がどのような探究をしているのか。そしてその探究が進むために必要なものは何か、です。

 

 

このプロジェクトは、実は探究を趣旨としています。ジャンル難民とは、探究のための環境に出会えない、環境難民なのだと考えています。

 

 

しかし、誰もがみんな探究などをしているわけではないと思うかもしれません。ですが、まずは、そこからもう一度確認してもらいたいです。自分が生きてきたなかで、なぜか関心があること、やりたいと思っていること、もし知れるなら知りたいと思っていること、体が勝手に動くことがあると思います。

 

 

自分が探究と思っていなくても気になること、引き寄せられることは、確認して応答していくと、やがて一つのテーマのようになっていきます。鶴見俊輔ならそれを「親問題(現実の親の話しではなく、自分にとっての根源的な問い)」というのではないかと思います。

 

 

探究することでお金が入ってきたり、人間関係が有利になったりはあまりしないのですが、探究はこの自分が生きていることの意味、人から与えられるものではない深い納得を引き寄せてきます。

 

 

精神に溜まったガスが抜けていくような実感があり、そして古いものがなくなった後には新しいものがやってきます。別に研究の発表みたいなかたちでなくても、何かを探究しながら活動して、自分の既知の知見を塗りかえるものを発見するのでもそういう感じになります。

 

 

そうなるためにはどうしたらいいのでしょうか。どこかに行こうとしているのに、ぐるぐると同じところをまわっているだけのような閉塞を終わらせるには、何をどのように工夫すればいいのでしょうか。

 

 

次のように考えればいいと思います。
自分のなかに「止まっている時間」があるという目で自分をみてみます。そして、その「止まっている時間」が動いていくには何が必要だろう、どんな環境設定が必要だろうと考えて、時間が動くことをやるのです。

 

 

自分を焚き火のようにとらえてみます。焚き火は、薪をくべても放っておくと真ん中だけが燃えて、周りの消し炭が残ってしまいますよね。止まった時間とは消し炭です。動いている時間とは真ん中の火です。精神は、消し炭が燃焼され、灰になっていくことを求めています。

 

 

消し炭はいっぱいあります。そしてそれを燃やした分だけの新しさが精神に感じられます。どの消し炭からでもいいので、消し炭を火に近づけ、あるいはかき混ぜて空気をいれて燃やしていきます。

 

 

ごく身近な例では、子どもが、あるいは大人同士でも、仲の良い人と自分の身の回りでおこったことをたくさん話す場面があります。あれを「時間を動かしている」と捉えます。しゃべる前の経験はまだ自分のなかで消し炭として残っています。それは、受け止めてくれる人を前にして話すこと(それはある体験を別の文脈で経験することとなるでしょう。)によって、燃えかすは消えていきます。

 

 

そのように喋ることで、ただちに燃焼され、時間が動いていくこともありますが、もっと時間が動きにくいこともあります。ライフワークとしてされるようなこともあります。そこまでしないと燃えない消し炭も自分のなかにあるのです。

 

 

ヘルパーセラピー原則(原理)というのをご存知でしょうか。助ける者が癒されるという現象を発見したリースマン(F. Riessman)が提唱している考え方ですが、「援助をする人が援助される人より多くのことを得る」といったものです。

 

 

自助グループでも、自分がある程度の回復を得た後は、仲間を助ける側にまわることで回復がさらに進むという経験はよく言われていることだと思います。助ける人は何をしているのでしょうか。それも自分のなかの止まった時間を動かそうとしているのだと思います。

 

 

回復する前の人に、かつての自分のようなリアリティが呼び起こされます。その相手に昔の自分が必要だったものを提供する。そしてそのことによって相手が回復していくのをみるとき、自分に必要だった体験が提供され、自分が回復するのです。ですので、自分の為、相手のためというのは、不可分なことであって、どちらかだけということはありません。

 

 

英国の小児科医ウィニコットは、体験とは「繰り返し到達すること」であると指摘しています。自分が回復するだけでは足りず、他人が回復することによってもう一度そのことが体験される。この繰り返し、再体験によって、体験が体験になる。すなわち、時間が動き、燃えかすが燃焼して、灰になっていきます。ずっと自分のなかにあったことが終わり、済んでいきます。

 

 

ウィニコット書簡集 (ウィニコット著作集)

ウィニコット書簡集 (ウィニコット著作集)

 

 

 

僕がジャンル難民学会(仮)発足ミーティングにきた方たちにした二つ目の質問は、「どのような条件が満たされたら、自分の探究がすすむと思いますか?」でした。わりに少なくない人が自分と同じぐらいの問題意識や関心を持っている人と話せる場があれば、というようなことをこたえられました。別のようにこたえた人たちも、それぞれに何が満たされたら探究がすすむかということを、感覚的に感じているようでした。

 

 

「回復せねば」、「探究せねば」、というような考えは、自分が今いる場所から別の場所にいく必要があるととらえていると思います。「できない自分」という位置から「できる自分」という位置へ移動したい。「空間的」にとらえ、移動しようとしています。その時、そこには大きな距離が感じられます。焦りがあり、高いハードルに対する圧倒があり、望みも圧倒され、動けなくなってしまいます。

 

 

「空間的」に考えることから、「時間的」に考えるように転換することが、状況を変えていく工夫です。時間を動かすことには、それほど高いハードルは必要ないからです。「回復せねば」、「探究するものを見つけねば」と空間的な移動を考えると圧倒され、疲れ、諦めてしまいます

 

 

ところが、時間的に考えるとハードルは下がります。「同じぐらいの問題意識や関心がある人と話せる場があればいい」は、だいぶ現実的に可能な水準になっています。そこに行けば時間が動く。その場所を設定すれば時間が動く。達成後を考える必要はないのです。今の止まっている時間を少しでも動かすことをただしていけばいいのです。

 

 

ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる掃除人ベッポ爺さんは、どんなにたくさんの仕事があっても、その仕事の終わりとまだ終わっていない今との距離を測るのではなくて、いつも今を一番楽しく、充実するように、それが成り立つ目の前に集中してやっていると、いつの間にか仕事が終わっていると言います。

 

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

空間的な考えにとらわれると圧倒され、時間を動かすことを忘れてしまいがちになります。考え方は逆です。遠い未来の「達成」ではなく、今の自分の時間を動かすためにはどのようにすればいいだろうと考えるのです。すると、たくさんある消し炭のどれかは燃焼させ、時間を動かしていけることに気づきます。そして少しでも消し炭が灰になれば、その分の勢いが増し、燃焼が自動的にすすむ新しい空気に触れることができます。

 

 

ミーティングでした二つ目の質問で、ほとんど全ての人が自分の時間がどうしたら動くのかを直感していました。高いジャンプをしなければいけない空間的移動ではなく、止まっている時間を動かすということに対しては思いつきがしやすいのです。

 

 

人と話せる場に行けば時間が動くだろうと思っても、人と話せる場がないとしましょう。「ああ、時間が動く場所に行けさえすればいいけれどそれができない」、「やっぱりダメだ」と考えてしまいますが、それも「空間的」に考えているから絶望していることに気づいてください。話す場がないという現状があっても自分のできるやり方で少し探したりすることはできると思います。ちょっとでも時間を動かせば、その分の気分は晴れます。

 

 

「時間」は、自分が絶望していても、諦めていても自律的に動こうとしています。種は、土や水など、必要な条件がやってくるまで時間を止めたままですが、いつも虎視眈々と状況を待っています。

 

 

自分がやるのではなくて、自分のなかに動こうとしている「時間」があって、その時間の求めに応じるのです。「自分で自分の人生のデザインをしなければ」などと背負う必要はなく、自分で動こうとしている「時間」に対して応答していくことが結果として、生きることを拓き、自分が考えている以上のものがやってきます。自分がやるのではなく、「時間」がやるのだと踏まえるとき、無理して「時間」の存在を感じなくなってもなんの意味もないことがわかるでしょう。

 

 

動こうとしている時間に応答していくことで、自分の状態は今予想しているようなものとは別のものとなっていきます。時間に応答することで、知らない自分に出会っていきます。それは狙って自分を変えるようなこと(そんなことができれば、ですが。)よりとても面白いです。

 

 

自助グループの参加者だった人が支援側にまわる。これも時間を動かしていった結果のことです。時間を流すこと、時間を動かすことをしていると次の展開がやってきます。探究は何が自分の時間を動かすのか、そしてどのように時間を動かす状況を自分に引き寄せるのかを知っていく営みです。