降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ことばを獲得していくこと

日本ではパウロフレイレはあまり浸透しなかったとされる。

 

そこで思い出されるのが、知り合いの年配の教員の方々が話されていたこと。彼らによると林竹二は、部落差別への向き合いではなく、(学校)教育の充実を選んだという。

 

林は、社会「運動」のようなものではなく、非政治的な(学校)教育のほうが重要であるとみなしたらしい。林の対談などの口ぶりをみると、教育とはすなわち学校教育であり、林のなかでは学校教育は前提だったと思う。

 

林は正しい学校教育の結果として、あるべき人間が生まれ、社会が生まれると考えていたのだと思う。林は学びの本質について深く追究していたけれど、学校制度とは何かということについてはそこに根本的な問いを投げかけず、素朴に信じていたと思う。その結果が部落差別問題ではなく、(学校)教育がより重要だという「切り捨て」だったのだと思う。

 

(僕は林竹二から学べることはとても多く、学びとは何かについてはいまだに林に立ち戻って考える必要があると思っている。林の学びとはカタルシスであるという言葉や、吟味されることにより真の否定が行われるというような言葉が、はたしてどれほど理解されているのだろうかと思う。)

 

隣で行われている差別と関係なく、純粋な教育というものがあるだろうか。運動ではなく、政治でもない純粋な教育。政治ではない純粋なアートとしてのアート。そういうものがあるだろうか。

 

「純粋化」されたものとは、すなわち誰かが恣意的に設定した領域内に自己完結するよう断片化されたものであり、それゆえにその時点でまがいもの化しているものなのではないだろうか。

 

脱政治化、脱宗教化されているはずの教育は、実は政治の現秩序に都合のいい人間を量産するものとして常に整備されなおされているし、「道徳」という名前で現秩序に都合のいい宗教が人に埋め込まれようとしている。

 

日本でのフレイレの受容の話しに戻ろう。日本でもフレイレの思想の影響で識字教育の実践がされていたようだけれど、日本では純粋な読み書きと文字による表現といったことにとどまり、現状の社会の不均衡を自覚し、それを変えていく主体にそれぞれの人がなっていくという文脈の実践ではなさそうだった。

 

それは個々人は今の制度や秩序に従うものでありながら、個人内でカタルシスをおこしていくことによって生の充実を得るといった文脈におさまるもののようだった。

 

しかし、もともとフレイレが行った識字教育は、単に読み書きができない人が読み書きができるようになって生の充実がおこったらいいとする趣旨ではなかった。

 

人は言葉(もちろん日常で使われる言葉はあるわけであるけれど。)を獲得するときに劇的に世界の見え方が変わり、社会環境を変革する主体となる。フレイレにとっては、個々人が一体化し埋没している社会環境から、それぞれが新たに獲得した言葉を用いて、距離をとり、世界を眺めなおすことが重要だった。

 

ここで、学校に行って識字教育がすんでいる人は、もはやこの決まりきったように見える世界の見え方を劇的に変える方法はないのかと思われるかもしれないが、実は言葉は「獲得」されていない。

 

マイノリティには言葉は十分に獲得されていない。そしてそれは(学校)教育の不足ではない。世間の言葉(考え方を含む。)はマジョリティに都合のいいように流通するものであり、これまでマジョリティに必要でなかった言葉(考え方)はゼロから生み出されなければいけない。

 

たとえば、脳性麻痺の障害をもった小児科医の熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんは、「自立とは依存先を増やすこと」、「希望とは絶望を分かち合うこと」という言葉をつくりだしている。

 

この言葉は障害を持たないマジョリティにさえも納得されるものとなっている。かつては、自立とは自分が強くなって獲得されるものであり、「依存」を減らすことは当然だった。しかし、マジョリティのなかにもグラデーションがあり、そのような自立観でやってきたものの、行き場を失い、生きづらさを感じている人たちは、この熊谷さんの言葉に出会ってようやく、吟味されないまま鵜呑みにしていた言葉と考え方を更新する。そして、熊谷さんのほうが現実や実態を精緻に捉えていることに気づく。

 

すると、社会の実態がこのようなものではないかとイメージされてくると思う。すなわち、社会で流通している言葉(考え方)とは、社会において強いものが(無自覚であれ)自分に都合のいい設定をより補強するために、自分より弱いものに言うことをきかすために流しているものが非常に多く、それらの言葉は実態ではなく、自分たちのポジションを強めるために言っているので、今「現実」や「規範」とされているものは実は歪められていそうだというように。

 

マイノリティにとっては、社会の価値観は内面化されてしまっているので、自身の内面の価値観を更新するところからはじめないと自分が救われない。熊谷さんにしてもきっと、自分は「自立」していないという地点から思考をはじめ、その価値観や否定性を実践のなかで言葉を紡いで更新していったのではないかと思う。

 

個人にとって、言葉や考え方の選択はまるで自由のように思われるかもしれないが、実際はまるでそんなことはなく、個人は小さい頃から現環境で幅をきかせている強いものの言説や価値観にさらされ、そしてそれになりきれない自分、対応しきれない自分に惨めさや弱さ、否定性を感じ続けるので、それを感じなくしようとする。

 

全ての人がマイノリティ性(現状の社会や世間の模範から「望ましくない」と見なされる特性、世間の「普通」とは違う「色」。)をもち、本人はそれを苦痛に感じ、マイノリティ性というその「弱さ」を感じなくするために、何かを「達成」したり、社会に流通している強い価値観に一体化し、自分も「マジョリティ」になろうとする。

 

だが、そのようにマジョリティになりきるのではなく、世界が本当にマジョリティの言うような構造になっているのか、今言われていることはおかしいのではないか、と気づき、向かう方向を変える人たちもいる。

 

流通している既製の言葉、既製の考え方の大雑把さや偏りを修正し、世界をよりフェアなものにするために、新しい言葉、世界の新しい捉え方が作り出されていく。そしてそれは自らのマイノリティ性に向かいあった人たちによってなされる。

 

これは「運動」のこと。これは「教育」のこと。これは「表現」のこと。これは「政治」のこと。いま、世界はそのように分断され、隔離されたものとして捉えられていると思う。分断され、孤立した個々人がデフォルトとして捉えられている現在、人はより人間らしくなるより、むしろ人間性、世界との応答性を劣化させているのではないだろうか。

 

世界は分野に区切られ、個々が孤立したキューブの組み合わせではない。自らのマイノリティ性から、世界と対話をはじめるとき、キューブの仕切りは消えていき、世界は生きたものとして、まるごとのものとして個人に取り戻されていくのではないかと思う。

第三者の取り戻し 意思でコントロールする対象としての「自然」ではなく

当事者研究的に人間について考えてきて、人間はそもそも欺瞞的なものであって、個人であっても組織であっても、自分ではその自己疎外性(自分で自分をダメにしてしまうこと)を乗り越えることができず、それを破壊する存在である他者が必要であるという認識になった。

 

コロナで社会構造が壊される。でもいびつなものも一緒に壊れていくことは間違いないと思っている。

 

(だからといって「いい社会」や「幸せ」が保証されるわけではない。人間と世界との関係は、そういうふうな都合のいい関係ではない。)

 

そのようにでしか、人間は疎外を免れることができないと思っている。

 

人間はできる、ちゃんとやったらできる、というのは多くの人がその考えにしがみつきたいところ。しかし、薬物やアルコールの依存症者がそこから抜け出ていくための鍵は、「自分の意思」で管理できるという自分のコントロールの無力さを知ることであるように、自分を壊してくれる他者の存在抜きに、自分でできる、間違っても戻れるというのは、神話なのだと思う。

 

管理できず、応答するしかない第三者を排除しないこと。それが多様性ということにもつながる。意思でコントロールできる、相手としての環境や自然ではなく、意思もできず、操作することもできない第三者としての自然や他者の存在を取り戻すことが、自己疎外的に作り上げられる不健康な社会を更新する力になるだろうと思う。

hanare×Social Kitchen 田中美帆「おどりが方向を変える時」へ

最寄りのカフェ、ソーシャルキッチンにてDIY読書会にもきてもらっていた田中美帆さんの個展「おどりが方向を変える時」がはじまったので行ってきました。

 

hanareproject.net


「おどり」は田中さんが飼育されている文鳥の名前でもあるとのこと。タイトルからは、他者である自律的なものへの田中さんの応答の姿勢や信頼が感じられる気がしました。

 

会場では膨大な数の日常の記録が展示されていました。それらはそれぞれの「時間」であるのだと思いました。時間とは生きて動いているプロセス、自律的なプロセスであると思っています。

 

たとえ自分であってもそれぞれの他者である自律的なプロセスを自分という既知のものに回収することは越権的なことであるし、そこにあったものの声を無いものにすることなのではないかと思います。

 

自分が書いたものを10年以上たってから読むことがありました。その時はっきり思ったのは、もはや自分はこの時の自分ではないということでした。当時の気持ちや状態を今の自分が理解することはできないし、そうすることは間違いであると思いました。そこにいるのは他人であり、それは今の自分に回収することで歪められ、矮小化されてしまうと思いました。

 

展示におけるそれぞれの記録がそれぞれの時間をもち、他者としての声を持っていると思いました。そしてそれらの声は、今の自分がそれらを都合のいい解釈でまとめることに異議を唱えていると思いました。

 

記録とは何なのか。アーカイブという言葉も最近聞くけれど何なのだろうか。

 

先日、知人がロマの建築をアーカイブとしてみるという発表をしていたので行ってきました。ロマの人々(と言っても様々な人たちがいて一括りにはできないのですが。)は定住せず、移動を主としており、そのために深刻な迫害や差別を受けてきました。そのロマの人たちが家の全面だけ豪華な家を建てていたりとか、家としての持続を目的としていないような、奇妙な家を建てているということでした。

 

移動を主体とする狩猟採集民的な感性と定住を前提する農耕民的な感性が混ざり合った奇妙な表現。同じ家に色々な文化がごった混ぜだったりする豪華な家は、ステータスの顕示といった面があるそうです。そして彼らに共通する部分は、苛烈な人間性の侵害を受けた経験があることだったとか。

 

当時は強制労働はもとより、子どもに親を強姦させる強要をしたりするなど、聞くに堪えない非人間的暴虐を受けてきた彼らが、その反動として、持続的側面を前提としていない豪華な建築という「花火」をあげているのではないかと思いました。発表者のまとめとは違うかもしれませんが、僕はこれは彼らの弾圧のアーカイブなのだと思いました。

 

僕がアーカイブという言葉がよくわからなかったのは、都合の悪いことはなかったことにする国のような現秩序にとって、都合の悪い情報が排除された「正しい歴史」として歴史が一貫性を持って残されるよりはマシであっても、結局は力をもった「有識者」や「専門家」が主体となり、整理して保存や記録がされるのなら、人々はまた、フレイレのいう沈黙の文化の享受者として、正しい解釈を受動的に取り込むことになってしまうのではないかと思ったからです。人が学び、人間になっていくにあたって重要なことは、自分で考え、感じて、自分として世界に対し必要な応答をしていくことであるのに。

 

権力は単体において健全性を維持できないということで、国における三権分立がありますが、一つの組織や業界自体にはその権力の健全性を保つ力はないのだと思えます。いや、そうではないと多くの人が言うのかもしれませんが、みている限りではやっぱりなさそうにみえます。(そこにも近代の「自立した個人」という神話が働いているような気がしますが。)

 

ともあれ、その研究会の後、アーカイブについて周りの人と話したりして、腑に落ちたことがありました。僕が想定していた、専門家や有識者(とその業界の権益の維持拡張)によって歴史が整理され提示されるものではないアーカイブです。

 

これはもちろん自分のなかで勝手にそういう思考の過程があったということで、そういうことはもう常識として議論されて終わっているのかもしれませんが。

 

ロマの発表のなかで、発表者のフィールドワーク中のエピソードにとても深い示唆をくれるものがありました。

 

あるロマの人に先祖のことをたずねたとき、その人は地面に石を置いて先祖を思い出して語ってくれたそうです。系統図を逆からたどるように、自分の親がいて、その兄弟がいて、またその親がいてというふうに、一人一人の場所に石を置いていきます。そうすることによって、連鎖的に記憶がたどれるのですね。

 

一つの石を置くことによって、その石の周辺の記憶が戻ってきます。逆からみると、石を置く前の日常ではその記憶は想起されません。仏壇が日常にあって常に死者が想起される暮らしとは違う、「打算と記憶を拒絶する(グレーバー)」狩猟採集民的な心理世界がありそうです。日常では死者は想起されないのです。石によって想起の位相が変えられ、それでようやく記憶にアクセスできるのです。

 

(もちろんどちらがいいかという話しではないですが、農耕民が安定への強迫に苛まれる必然のもとに暮らしているのに比較すると、狩猟採集民は明日への強迫を無化することにたけた文化をもっているようです。)

 

僕は自分にとって腑に落ちるアーカイブとは一つ一つ置かれていくこの石のようなものだと思いました。一つ一つの石は、記憶を立ち上がらせる「場」でもあります。場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力がそれぞれの人にシェアされていることが、多くの人を誰かにとって都合のいい、ひとまとまりの「大衆」にされないことにつながると思うのです。

 

場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力を奪われた人はあたかも収容所に閉じ込められたように、自分を無力に感じ、周りの圧力に弱くなります。自分で考える力、状況を更新していく力を奪われ、強いものに頭も体も降伏してしまいます。

 

一方で、閉じた価値観に支配されている場、収容所のような環境におかれても、場の力を立ち上がらせる手がかりをもっているならば、その人は身も心も強いものの価値観に支配されてしまうことに抗うことができるのだと思います。

 

そして社会という外的な環境だけでなく、自分という内的な環境があります。内的な環境においても、外の社会と同じような力が働いています。自分の底にある深い痛みや苦しみを感じないように、自分を無感覚にしていこうとする力です。

 

自分とはこういうものだと割り切り、信じこんでしまえば、自分という感性の更新および自他への応答性と引き換えに、感じたくないことに対して無思考で無感覚になれる強い殻を身につけることができます。

 

誰しもが生きるために殻を強く厚くしていくのは仕方のないことでもあります。しかし、そんな「修羅」の世界においても、なお無感覚の殻に自分を包むことに反逆している人たちもいるように思います。

 

自分が自分であった場所に戻ってこれるように、その人たちはロマのように「石」をおいているのだと思います。その「石」はそれを置いた人たちだけではなく、(もしその人が戻ることを求めるならば)誰にとっても元に戻るための手がかりになるものです。お金をもらうわけでもなく、世界に「石」を置いている人たちがいます。

 

田中さんが書かれた文章に、「あらゆる資料を均質にアーカイブするのではなくて、自分が必要な時に必要な解像度・かたちで引き出せるようにアーカイブする」というくだりがありました。深く納得しました。まさにそのことが重要なのだと思いました。

 

自分だけでは何を考えようとも新しいものを見つけることはできないといつも実感します。自分以外の誰かがその人の感性でとらえ、表現したことを受け取って、ようやく終わらないメリーゴーランドのように閉じた風景しか見れない自分から出られる手がかりがもらえます。

 

展示されていたものは、田中さんが田中さんとして生き残るための数えきれない試行であり、それは同時に自分自身でその試行をすることが叶わなかった人たちの代わりに「償われたもの」ともいえるのではないかと思います。一つになっていこうとする「歴史」に対して、たわいもなく消えていくはずだったそれぞれの声はそれを簡単には許さない力をもっていました。それぞれの声が場を立ち上げたとき、そこには今まで現れなかった新しい流れが生まれてくるように思います。

4つ目の窓 植松被告の死刑判決によせて

植松被告の死刑判決。

 

ふとジョハリの窓が気になった。ジョハリの窓は格子に区切られた4つの自分を表したもので、自分も他人も知っている自分、自分は知っているが他人は知らない自分、自分は知らないが他人は知っている自分、自分も他人も知らない自分の4つがあるというもの。

 

ja.wikipedia.org

 

どういうものだったかと思ってネットを見ると、ジョセフ・ルフトとハリ・インガムの二人の名前を合わせてジョハリだとあった。

 

最後の、自分も他人も知らない自分という領域が気になったのだった。自分も他人も知らない部分、この4つ目の窓を、この格子の図を作った人たちはどう位置づけていたのかと、ちょっと確認したかった。残念ながらwikiではそこについてはほぼ言及はなかったけれど。

 

一般に、ある人がどんな人であるかにおいて、自分も他人も知らない4つ目の窓の存在が仮定されることはないと思う。他の3つの窓で認識されていて、それ以外があるとは思われていない。思うこともできない。

 

知らない部分は知った途端に知られた領域になるから、知られない部分があとどれぐらい狭いのか、あるいは広大なのかもわからない。しかし、この4つ目の領域の存在の仮定を、自分に対しても、他人に対してもどれだけ持ちうるかで、間違いを犯す存在である自分、そして同じく他人に対しての態度が変わってくるだろうと思う。

 

もしこの4つ目の窓を自分に対して仮定できるなら、その人はより自分を受け止めることができるようになるだろうと思う。また、他人に対しても、自分もその人も知らない4つ目の窓をその人が持っていると仮定できるならば、その人に対して人は謙虚になれるのではないかと思う。

 

4つ目の窓をどれだけ仮定できるかが、人が人として育っていくためにどれだけ必要なことだろうかと思う。3つの窓だけをもって、自分を、あるいはその人を知ったということは傲慢にすぎることだろうと思う。人間の価値を人間が決められるだろうか。たとえ国であれ、誰かの価値を決めることができるだろうか。

 

しかし、人が追い詰められるとき、人は3つの窓だけで生きるようになるのだろう。そしてそこには自分に対する絶望も含むまれるだろう。自分とは所詮知ることができた自分、他人が知っている自分に過ぎないのだと。

 

現代の「合理性」、「効率性」というものは、3つの窓のことだということをよく認識する必要があると思う。4つ目の窓をふくめてはじめて、そこには全体があらわれるはずだ。

 

4つ目の窓をふくめてはじめて、あることは「合理的だ」「効率的だ」と判断できるのであって、3つの窓から知った「合理性」や「効率性」は偏っており、もし厳密に判定するならば「間違い」であるはずだ。

 

現代は、人に4つ目の窓を仮定することを失った時代なのだろうか。知っているものを全てだと思い、その「合理性」をどこまでもおしひろげていこうとする社会は、人間的な社会であるだろうか。そんなところで、人間が人間になっていけるだろうか。

 

既知のものが全てであるかのように、ゆがんで思考し、認識してしまう人間には、その無自覚な認識の歪みと暴走性をふまえた人間観が必要なのだと思う。

 

人はごく自然に、自分に出来上がった認識を疑えなくなっていく傾向がある。強く意識して、ニュートラルな視点にとどまっていられるという認識がそもそもの間違いなのだけれど、それを認めることがなかなかできない。

 

自分が足を踏んだ他者や、抑圧されている他者から自分に向けられる声を、おかしなもの、ゆがんだものとして受け取ってしまう。別のことには見識がある人が、まるで聞かん坊になったように、あるいは相手を理性のない子ども扱いしたりする。

 

自分が正しいという歪んだ認識は、誰にも厳然として存在する。痛みをもって声をあげた人がモンスターに感じられ、自分は不当なことをされる被害者のように感じられる。理性には限界があることを知らなければならない。自分がもともと歪んだ認識をもってしまっていることが前提されなければ、現実的にはなれない。

 

僕は、人間は自分も他人も知らない自分、あるいは他人という4つ目をあらかじめ踏まえるものとして、あらかじめもった罪という考え方は機能的であると思う。

 

僕はキリスト者ではないけれど、知ることができない4つ目の窓を仮定するためには、誰もがあらかじめもっている罪という、自分を振り返り、暴走をさせないための認識の装置をもつことが非人間化していく社会において有効なのではないかと思う。

 

歪んだ認識をもった個人として、それにもかかわらず自分が人間になっていくためにも、あらかじめもっている罪という捉え方が有効なのではないかと思う。

プリズン・サークルとラップのワークショップ 心と表現の連動 乖離を埋めていくもの

プリズン・サークルの坂上香監督がラップのワークショップについて公開投稿されていました。

 

www.facebook.com

 

3/8、プリズン・サークル x ラップワークショップ@横浜黄金町から、感動醒めやらず。昨晩は、ラップで、しかも初対面の人ばかりでサンクチュアリを作れた感あり。ラップ聞いたことない人から、ラップ体験者まで、中学生〜72歳の老若男女、様々なアイデンティティや背景を持つ20人によるラップとその共有を通して。言葉とリズムでなんとかやり抜く、その姿勢が面白い。ブースから溢れ聴こえる参加者のラップに鼓舞され、心が激しく揺れ、涙が溢れる。えいやっとブースに入って自分の書いたラップを読み始めたら、自然にヒートアップ。ラッパーのFuniさん、褒め上手。ラッパー証書をもらって、皆一人前のラッパーに。証書にあるillは病気という意味だけど、逆手にとって、カッコいいの意味。第二弾やろうと参加者たちから声あがる。またどこかでYeah〜! PSそれにしても映画館の下の階にイベントスペース(ArtLabOva)があるって理想的。トークバック 時のTシャツワークショップに続いて第2段だったのだけれど、映画を見た後に直行できて、皆の顔が見えて、焼き立てのポンデケージョやソーセージも巡回販売されて(おいしかった!)、ちゃんと換気もされていて、最高の環境。

 

 

 

 

3年続いているDIY読書会では、それぞれの人が勝手に自分の発表したいことや本を持ち寄って発表しています。この会が続いていくなかで人にも伝えたいと思うことは、その人が一番面白いと思っていること、自分の状態がまさにその探究の過程にあることは、周りの人にとっても面白いということです。

 

僕は、知識や経験やステータスなど関係なく、その人が何よりも深く関心をもってそこに向かうとき、その人は「時代をこえた存在」になっていると思います。どこかの知識人やオピニオンリーダーが新しい考え方や「事実」を発見して紹介しないと一般の人の思考や認識は更新されないのではないと感じています。時代の古い捉え方をこえるものは、その人が自分でもわからない動機によって動かされるているときの、その「状態」から生まれてきているように思えます。

 

そのように思うようになって、ではなぜ新しいものが個々人から生まれているのに、世間の変化はまるで時間が止まったように遅々としているようなのかと考えます。個々で生まれたものが世間の認識にあまり影響しないまま泡のようにただ消えていくのはなぜなのか。そして、どのようなあり方がその状況を変えうるのかを考えています。

 

映画プリズン・サークルのなかでは、幼少期から言葉に尽くせぬ苦しい環境に置かれ、やがて大人になり罪を犯した受刑者たちの回復の過程が描かれています。

 

自分ではもはや抱えきれない苦しみを与えられた人は、自分の感じる心を乖離させることによって、そしてその乖離を維持することによって生き延びようとする状態になってしまいます。この乖離は自動的であり、本人の意図的操作によるものではありません。ですので、本人は自分がなぜ今の自分のような状態になっているのかはわからないのです。

 

心理的・身体的に安全な場を保証され、自分の感じていることを表現することをだんだんに繰り返すことで、自分の心と自分の思考の乖離は埋まっていきます。すると、その人のなかに、自分でも知らなかった新しい感情や状態が生まれてきます。その感情や状態にまた応答していくことによって、回復はすすんでいきます。

 

そして回復がすすんだとき、その人はなぜ自分がかつてのようだったのか、自分の状態がどのような状態であるのかが、ようやくに実感し、認識できるようになるのです。

 

ただこの過程は受刑者のみにあてはまることではないと思います。僕の認識では、この社会の一般の人はそのような心理的な安全と感じる場所をもっておらず、受刑者が自分の状態を知らないように、「自分以前」にされていることにも気づけないままに社会から放置されていると思います。

 

その人の時間を止め、その人を「その人以前」の状態にし、本来変わっていくものを「昔のまま」の状態にとどめるのは、乖離の結果によるようです。周りの環境が心理的に危険だと感じるならば、その人の自然な気持ちは自動的に抑圧され、乖離状態は維持されるか、あるいは進んでしまうことさえあると思います。

 

自分が安全だと感じられる場で、自分の気持ち、感じていることを周りの人に表現することは、自分の心に対して応答することです。そのことによって心は息吹を回復させます。その息吹、心の呼吸に必要なことをまた自分に与えること(それがつまり応答ということになります。)によって、心の呼吸は力強くなり、よって自律的になっていきます。これが乖離からの回復です。乖離からの回復とは生きたものとしての心の呼吸を回復させることです。

 

では、心の呼吸をより回復していくために重要なことは何でしょうか。それは心の動きのありようによりフィットした表現の媒体であると思います。

 

今日、自分のシェアハウスの大家さんと話していて、宮城県大崎市では「話しあい」というキーワードが市民の間から生まれており、そこでは条文なども書き言葉ではなく、話し言葉で書かれるようになったと聞きました。この書き言葉から話し言葉への変化は、まさに心と思考の乖離を埋めていくことの重要性を市民が理解していることを示すものだと思いました。

 

書き言葉には書き言葉の良さがありますが、心や気持ちがその言葉の上にのりにくいところがあります。別の言い方をすれば、書き言葉とは生きている自分の状態とより距離をとる言葉であるのだと思います。しかし、自分の心や状態と距離をとることは、同時にその書かれているもの自体との心理的距離をひろげます。自分ではないもの、自分と関わりのないようなものとして感じてしまうのです。

 

一方、自分の気持ちと表現を連動させることは、周りの人や社会に対する感じ方を変えます。周りの人や社会はより自分に近しいものとして感じられ、そこに自分が関われるものとして感じられます。また単に自分以外の対象に近しさを感じるというだけではなく、そこにおいて自分自身の時間が動き、自分が変わっていくのです。

 

書き言葉を話し言葉に変えるように、たとえば同じ言葉を発することにおいても、詩というかたち、朗読というかたち、歌というかたちでも違います。

 

しかし多くの「一般の人」は朗読したり、自分で詩を書いて発表したり、自分の歌を作ったりしません。それらは多くの場合、専門家やプロのものであり、素人が「上手」でないものを作るとバカにされてしまいます。(もし未来の社会があれば、このようなことは昔の社会の文化度の低さ、未成熟の典型例とみなされるんじゃないかなと思いますが。)

 

パウロフレイレは、多くの人が主体を奪われ、受動的な観客にされてしまう文化を沈黙の文化とよんでいます。この社会はいまだに沈黙の文化に呑み込まれているのだと思いますが、この沈黙の文化の何よりもの人間疎外(人間をダメにしてまうこと)は、人々が自由に自分にフィットした表現媒体をつかって、自分と世界の関係性を変え、自分自身の時間を動かしていくことを止めることだと思います。

人々のなかから生まれてきた表現形態があっという間に「プロ」に囲い込まれ、人々のものとしての表現形態から奪われることは非常に大きな問題です。なぜならそのことによって、人々の思考の更新は止まり、自分の感じ方を更新していく心の呼吸も抑えられてしまうからです。

 

しかし、心ある人たちによって、「プロ」のもの、「専門家」のものとして存在しているものや、現在進行形で囲い込まれていく表現を人々にとりもどす動きもあるようです。ラップのことはあまり知らないのですが、既存の囲い込まれた形式の歌や音楽を、自分たちに取り戻したところからはじまっているところが強くある分野なのだろうなと思います。

 

歌と朗読の中間のような、メロディーを作らなくていいようなところ、
普通の人の感性を言葉として表現できるところなど、それまでにあった音楽の形式のハードルを壊して、今まで社会から表現をする場を持たせてもらえなかった人たちの舞台をひろげているのだと思います。

 

表現が専門家やプロだけのものとされ、人々の表現が貶められ、人々が自律的な主体となっていくことが止められる「沈黙の文化」の社会において、人々が本来的に持っていた自分の力や人間性を回復していくときに必要なことは、自分の心と表現を連動させていくことだと思います。

 

そして、自分の心と表現を連動させていくにあたって非常に重要なことは、より自分にフィットし、心が呼吸をはじめる表現媒体を用いることだと思います。人々の間から生まれたものが囲い込みをされ、人々から奪われていく社会のなかで、私たちができることは、心と表現を連動させる媒体を一つでも多く自分たちに取り戻し、あるいはラップが発明されたように、自由に、直接につくりだしていくことであると思います。

 

自分の時間や社会の時間を止めている乖離を埋めていくこと。そのために自分の心と表現を直接に連動させること。そのためにフィットした表現媒体を選び、あるいはつくりだしていくこと。このことによって、力や自信を失っていた人々は、本来の力を取り戻していくことができるのではないでしょうか。

 

そしてそれに付け加えるなら、大きな社会を一斉に変えようとすることができなくても、自分たちでちいさな活動の場、表現の場をつくることができます。そんなものに意味はない、結局は社会を変えないと言う人もいるかもしれませんが、ちいさなサークルのなかで、人が自分を取り戻たり、回復していくなら、数ではなく、その変容の「質」が周りの人を変えていくように思います。

 

人間的な、応答的な環境をもつちいさなサークルのなかで進む時間は、世間の時間とは進み方も違い、その時間の質も違います。大きな仕組みをすぐに変えられないことで諦める必要はないと思います。大きな仕組みや社会の変化は、個々人の質的な変容と関わっていると思います。大きな力の動き、時代の流れは、人が意図して直接に行使されるものであるよりも、派生的に生まれてきたものであることが多いのではないかと思います。

償い(atonement)とは、ともにある(at one with)こと

映画「プリズン・サークル」の坂上監督が雑誌『世界』で連載されているとのことで書店に並んでいた『世界』の3月号と4月号をとりあえずもらう。

 

www.iwanami.co.jp

 

3月号にはTC(回復共同体)の実践を行なっている非営利団体アミティの代表のインタビューもあった。そのなかで特に印象に残ったのが、罪の償いについて。

 

償いとは英語でatonementなのだけど、その語を分解するとat one with(ともにあること)となり、加害者が被害者のことを理解しているとは、自分が与えた痛みとat one with(ともにある)ことなのだという。

 

一般には、罪や痛みが消えてしまうことは「いいこと」だと思われている。しかし、僕は緒方正人さんの言葉をみて以来、別のように思うようになった。

 

現状のように少数の人だけが罪を被り、罪責感を感じるのがいびつなのであり、むしろ世界が健康になるためには万人が自分が遠ざけた罪、忘れた罪の痛みをとりもどすことが必要なのではないかと思う。

 

坂上監督が最初にトークバックの演劇の現場に行った時、そこで演者と観客のやりとりに衝撃を受けたという。富裕層らしき女性が、「(こんな演劇やったとしても)あなたたちは結局罪人じゃないの。自分の罪についてはどう思っているの?」と。

 

それに対して演者の一人が、「自分は3歳の時に雪の日に裸で木に縛りつけられていた。その自分をあなたは救ってくれたのか?」と返した。

 

その富裕層の言動は、のうのうと暮らして社会の歪みを見ようとも助けようともしない人の典型的な語りだった。自分の暮らしが人をどのように踏みつけにした構造のうえで成り立っているのかに無自覚なその語りに対しての返事は見事に本質をついたものだと思う。

 

罪は忘れられるものではなく、痛みとして取り戻されるものだ。それは人間でいなくなっていたものが、人間にもどることだ。

 

責任から応答へ。責任とは「ここだけをやったらいい」という限定であり、つまりは無責任な領域を作る行為だ。「環境問題」とは、それまでの個人、企業、国などの責任のシステムでは処理できなかったものが行き場なく投げ込まれた分野だという。

 

一者だけで完結する「責任」とは違い、「応答」はまるごとの世界と自分が本来的に一体であり、響きあう存在同士であることが前提となっている。そこには相手のことを「自己責任」と切り捨てず自分につながることとして引き受ける態度がある。

 

緒方正人さんの言葉を最後に紹介したい。緒方さんは責任という幻想からの自由、そして痛みにうたれて生きることを提示する。それはアミティの代表が償い(atonement)をともにあること(at one with)であると言ったこととも深くつながっていると思う。

 

「罪は普通、否定的なものとしてしか見られていないでしょう。でも俺はもっと肯定的に、我々の誰もが背負っているし、またこれからも背負っていくものだと思っている。責任がとれるという幻想から自由に、いわば責任がとれないという現実に向き合って生きる。罪に向き合って生きる。責任がとれないということの痛みにうたれて生きる。」緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

波風に応答する社会へ

昨日はDIY読書会。

 

酒井隆史『暴力の哲学』の発表からは、一見すると非暴力で治安がいいような社会のようにみえても、実態は強い弾圧や抑圧が存在する社会の状態は「擬似非暴力状態」であるという視点の紹介があった。

 

平和学における消極的平和と積極的平和の違いとも通じるところがあるのだろう。消極的平和とは、直接的暴力は少ないが、貧困や差別、格差による「構造的暴力」が存在している状態。一方、積極的平和とは、戦争の原因となるこの「構造的暴力」がない状態だとされる。(日本ではこの「積極的平和」は首相が軍事的な力を積極的に行使してつくる平和という意味で使用したため、その誤った意味のほうが一般的かもしれない。)

 

発表のなかではっとしたのは、次のくだりだった。

 

→「波風も立てられない状態」を肯定することと、非暴力との混同が擬似非暴力状態を強化する

 

波風を立てないことはここの社会においては、とても重きが置かれると思う。波風とは悪いことであり、周りの人に迷惑をかけることなのだと。しかし、そのことによって、いびつな構造的暴力が維持されている。その場で強いものが幅をきかせ、誰かを踏みつけ、しわ寄せを引き受けさせている状況がありとあらゆるところで見受けられる。

 

しかし、そのことに異議を唱えるときも、波風を立てることが周りにも影響を与える悪いことなので、周りから止められたりもする。自分が我慢すれば周りに迷惑をかけなくて住むのだ、と思いこまされる。すると、いびつな構造は維持されたままになってしまう。

 

発想を転換する必要があると思う。実際はここの社会における個々人は、波風「も」立てられない状態にあるのだと。波風「を」立てるかどうかで抑圧される社会は既に多様性を拒否している社会だ。波風は当然おこるもの。そして波風こそが社会環境を変えていくものだろう。

 

海外の労働力に依存するしかないこの社会環境で、これからはより違う文化の人たちと共に暮らしをつくることになっていく。その時に、波風がおこらないはずがない。そして「波風を立てる人」を問題にする社会とは、単に抑圧的な社会だったのだということがあらわになるだろう。

 

波風「も」立てられない個々人にされているこの社会、この世間は、そろそろ終わりにしていってもいいのではないかと思う。今、私たちは波風も立てられないのが「普通」の社会環境にいる。波風は抑圧的なものが変えられていく時に必要なもの。古い「常識」を変えていくもの。波風はいびつな構造的暴力に干渉していくもの。波風を応援していく。人として波風に応答していく。そのことによって社会は更新されていくのだと思う。