降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【8月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・お金についてのお話し会・DIY読書会ほか

8月は催しが多くなります。

 

8月11日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月14日(水)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ

8月15日(木)16時 お金についてのお話し会 場所:キッチン・ハリーナ

8月19日(月)20時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月23日(金)19時 私の探究・研究相談室

8月25日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口

8月26日(月)13時半 『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会 場所:フォロ・オープンスペース(地下鉄谷町線・京阪「天満橋駅」徒歩5分

 

【8/11日話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:

第2、第4日曜日の話しの場研究会は、どのような話しの場であれば話しが成り立つのか、あるいは成り立たないのかを実際に経験されたケースを当事者研究するかたちで毎月ずっとやっていくつもりです。蓄積されたことは冊子か本かにしていきます。

 

これは自分の探究や研究を発表するジャンル難民学会やDIY読書会の雰囲気が多くの人に共有されるものにすることを趣旨とするものです。自由かつそれぞれの人が尊重される場の重要性はこのブログでも何度も述べてきたことですが、それがどういうことかは世間ではまるで共有されていません。

 

求められていないのに、自分の知識を相手に「教え」たり「指導」するような動機で人と話すと、話された相手は自分で考えたり探究したりしていくそもそもの気が失せます。そのように人に関わるのではなく、今その人にどんなプロセスがおきているのかを感じとろうとする尊重の態度を関わり方(聞きかた、話しかた)の基盤におきます。

 

相手をいかに自分の思う状態に持っていくかではなく、相手のプロセスは相手の自意識をこえた自律的なものなのだという理解を持ちます。そのプロセスがいこうとしているほうのつゆ払いをするつもりで、たとえば氷上で自分からどちらかへと動こうとしているカーリングのストーンがあるとして、そのストーンが行こうとしている前をはいてあげるような気持ちで聞いてみると「新しいこと」がおこっていくのがわかるかと思います。

 

「新しいこと」がおきないと、結局前と同じ考えをし、同じことの繰り返しをします。それはお互いにそうです。なので、その古い繰り返しの殻から新しいものが脱皮していくように、お互いにその「新しいこと」がおこる状況を与えあうということが、自分の変容に伴う話しの場には必要なのだと思います。

 

自分が変わらないで状況だけ変えようとする話しの場もありますし、何を趣旨とするかによって、それはそれで妥当性もあることだと思いますが、それは自分たちがやらなくても色々検討されていると思うので、僕は自分の感じられていること、見えている風景が変わるということを趣旨とした話しの場のあり方を探究したいと思っています。

 

14日は今回で5回目の熾をかこむ会です。西川さんがお仕事の都合で来られなくなりましたが、なんとなく場の感じの共有もできてきた感じになっています。初参加の方もどうぞ。

 

【8/14(水)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

話しの場では、今まさに自分におこっていることを話すような場もあれば、記憶の遠くにあるようなこと、ずっと昔から自分のどこか
にあった感覚や思いを確かめるような場もありうると思います。

焚き火があり、まきが燃えて崩れ、細かくなっていきます。しばらくの時間がたち、一見して火が消え、全て灰になってしまったようにみえても、そこに熾(おき)が残っています。そこに空気をあて、何かを燃えるものを置くなら火はまたおこります。

誰もが生きてきたなかで、心の奥底に残ってくすぶっている熾(おき)を持っているように思うのです。それは忙しい日常では背景にひいていて、しかし実は自分の生の基調低音に影響を与えているようなものではないかとも思うのです。

人の話しを聞いていると、そして自分にある熾が感じられてくることもあります。話しを「する」という気持ちよりも、話しが「おこる」感覚で話しをしてみましょう。

 

【8/15(木)お金のお話し会】

発案者 境 毅
日時:8月15日16:00〜20:00
場所:キッチンハリーナ(左京区
急に暑くなり、暑い日が続いていますが、みなさまお変わりありませんか。
昨年ハリーナで連続3回のお話し会をやりましたが、はや1年が経ちました。参加してく
ださったみなさまのこの1年はいかがでしたか。みなさまがたからの報告を聞きたくて、このお話し会を企画しました。
私からは、今年の初めに商品とお金の弁証法精神分析をテーマとすることにし、慣れ
ない精神分析関係の本を読んできましたが、その経過を報告させてください。
SNSの時代で、オンラインでのコミュニケーションが中心になってしまっていますが、
私は、フェイスブックの自分の投稿が規定に引っかかる、ということで没にされたことがあり、それ以降フェイスブックはやっていません。でも、メールにはフェイスブックの友達の情報が入ってきて、それは見たりもしています。そんな状態ですが、やはりサークル的な集まりで顔をつきあわせて話し合うことも大事ではないかと考えています。
また、初めて参加される方も歓迎です。お金の話がメインテーマです。
お話し会詳細
話題:みなさまからの報告
なお、食事しながらの交流会も予定しています。交流会参加希望者は、ハリーナに連絡
してください。

 

【8/19(月)DIY読書会】

時間:19日20時

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

宿題なしで、自分が読んできた本を任意で発表したい人が発表する形式の読書会です。毎回3人ほどが発表します。僕は奥野克己さんのプナンの続きをやります。

 

【8/23(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

自分の関心のあること、調べてみたいと思っていること、探究したいことを持ち寄って話すことで、一人だけでは手につかなかったことが進んでいくかもしれません。

毎月第四金曜日の19時から本町エスコーラにて相談会をやっています。

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

【8/25(日)話しの場研究室】

時間:13:30〜

場所:ちいさな学校鞍馬口(北区)

内容:8月11日に開始した話しの場研究室です。

 

【8/26(月)『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会】

時間:13:30〜

場所:フォロ・オープンスペース

内容:

パウロフレイレ(1921〜1997)という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。フレイレは、エンパワメントという概念を提唱した人で、既存の社会から抑圧された人たちが自らの状況を解放していく実践的なあり方を提示し、世界中に大きな影響を与えた人です。

 

といっても、亡くなられたのはもう20 年以上も前です。わざわざそんな古い人の思想を学ぶよりも、今ならもっと発展した思想やアプローチがあるだろうにと思われるかもしれません。私自身も里見実さんが書かれたこの著作『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』を読むまでは、フレイレの著作を読むこともなく、それ以上の興味を持っていませんでした。

 

ですが、この本を読んだとき、これは今の日本の状況に見事にあてはまるなと衝撃を受けました。自分が世間や社会に対してなんとなく感じていたリアリティが、ここではもう既に、明確に言葉にされていました。

 

「抑圧」という言葉がやや大仰に聞こえるかもしれませんが、ここでいわれる被抑圧者とは、世間やマジョリティの価値観を内面化した、大勢の「普通」の人も含まれます。マイノリティはマジョリティ(社会の強者)の価値観を内面化してしまうものなので、自分は劣っていると感じ、社会の強者に憧れ、強者の思想や判断基準を取り入れて自分を補おうとします。その結果マイノリティ同士がお互い自覚のない部分ではマッチョであり、攻撃しあってしまったりするのです。

 

どうすれば人は内面化してしまった抑圧的な価値観からも解放されうるのか。それこそが今も変わらず問われるべきことではないかなと思います。フレイレはそこにおいて核心的な領域まで到達した人だと思います。

 

この本は単にフレイレの本をわかりやすく、やさしく解説しているだけではありません。それと同時に筆者である里見さん自身も同じ一人の実践家、思想家として、今まで吟味し続けてきた経験と思想をもって、フレイレと「対話」をしているのです。正直なところ、私はフレイレ以上にこの対話を行っている里見さんという人の存在に感銘を受けたといっても過言ではありません。

 

里見さんは、フレイレの実践は、「支配」の装置として作動している「教育」を人間の解放の行為に反転させていくあり方を探り続けたものなのだといいます。「教育」は、反転させてこそようやく人間を人間にしていく対話になりうるのだ、とさらっと書く里見さんですが、読んで理解すれば当たり前のこのスタートラインは、フレイレの死後もいまだに日本の公教育では実践されていませんし、その問題性は一般にはまるで共有されていないようです。

 

The more things change, the more they stay the same.(多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)という言葉があります。様々なことが発見され、新しい理解が生まれても、社会は全く新しくなっていないようです。里見さんが紹介するフレイレの分析を知ると、現代の日本の状況、SNS上でおこっているようなことなどがそのままあてはまることに驚かれるでしょう。

 

社会では、先人が既に深く分析していることがまるでなかったように忘れられ、見過ごされて、またゼロから同じ問題が議論されているように感じます。石が積み上げられては崩されゼロになる、賽の河原のようなことがこの社会で繰りかえされていますが、この本はそんな現代の日本の社会のなかで生きる一人一人に、特にそれに疑問をもち、違和感を感じている人に、一つの確かな視座を提供してくれるものではないかなと思います。みなさんと一緒にこの本を読めることを大変嬉しく思っています

【案内の更新】7/26私の探究・研究相談室

本町エスコーラで開催させてもらっている私の探究・研究相談室の案内を更新しましたので、下記に転載します。

 

私の探究・研究相談室は、ジャンル難民学会(仮)の発表のための相談の場で、また発表というかたちを考えていなくても、自分の関心はどこに焦点をもっているのか、今感じていること考えていることなどを話してみるという場です。

 

僕は一般社団法人化に向けて、その枠組みと実際にどう準備していくかというところをまとめて発表しようと思います。

 

理想的には、今やっているDIY読書会のような場がそれぞれの場にできたらいいと思っています。しかし、いきなりあの雰囲気になるのは難しいのだろうと思います。マウンティングするみたいな人がやってきて、上から評価したり、アドバイスというかたちをとって自分の意見や価値観を押しつけたり、場を独占する人が延々としゃべったりするだろうと思うのです。

 

話しの場で、どういう感じが「いい感じ」なのか、その感覚を共有するが必要だと思っています。そもそも一般の場では、人の考えていることや話しを大切にするということがどういうことなのかということはまるで理解されていません。しかし同時に、その感覚がある場でははじめから何も「研修」しなくてもそれぞれの人の話しが聞かれもします。

 

話しの場、発表の場において、何が「いい感じ」なのか。まずそれを哲学カフェ的に話しあうことからはじめてもいいのかもしれません。

 

私の探究・研究相談室

日時:7月26日(金)19:00〜

場所:本町エスコーラ(東山区

アクセスはこちらから→ 一般社団法人 エスコーラ

 

 

人が本当に変わっていくということがどういうことなのかと思います。

 

ある人が本当に関心を持っていること、偽りなく問いをもっていることだけが、その人自身の保守性とか欺瞞性をこえていくために必要な亀裂だと思います。そしてその亀裂が自分にとって何であるかは、生きることを通して確かめられていく値打ちがあると思うのです。

 

自分に見えている風景を変えていくことは、他者である世界を既に知っているものだとせず、実際に触れて、思っていたものと違うことを目撃することであると思います。

 

精神にとっての贈りものは、既知のものを守り通したり、思い通りにする以上に、見えている世界が変わり、それまでの感じかたが更新されることなのではないでしょうか。世界が変わらない、とメリーゴーランドのような同じ風景に倦むとき、既知の外にある他者に触れにいくこともできます。

 

 

自分の関心のあること、調べてみたいと思っていること、探究したいことを持ち寄って話すことで、一人だけでは手につかなかったことが進んでいくかもしれません。

 

学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。

 

自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。

 

連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

 

【催しもの】8/26 里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会

大阪のフォロ・オープンスペースで行う読書会です。

 

里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

日 時:8月26日(月)13時半~
場 所:フォロ・オープンスペース
    地下鉄谷町線・京阪「天満橋駅」徒歩5分 →地図
参加費:500円

 

山下耕平さんとツイッターでやりとりしていて、読書会やりたいです、とお伝えしたところ応えていただいて、実現しました。

 

 

下記の案内文のThe more things chage, the more they stay the same (多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)は、バイオハザード6のエイダ・ウォンのセリフから知った言葉です。フランス革命がおこって多くのことが変わったように思えて、社会の下層の人たちの状況は変わらないじゃないか、という批判がこめられた言葉だったようです。

 

www.quora.com

 

 

 ◆案内文

パウロフレイレ(1921〜1997)という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。フレイレは、エンパワメントという概念を提唱した人で、既存の社会から抑圧された人たちが自らの状況を解放していく実践的なあり方を提示し、世界中に大きな影響を与えた人です。

 

といっても、亡くなられたのはもう20 年以上も前です。わざわざそんな古い人の思想を学ぶよりも、今ならもっと発展した思想やアプローチがあるだろうにと思われるかもしれません。私自身も里見実さんが書かれたこの著作『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』を読むまでは、フレイレの著作を読むこともなく、それ以上の興味を持っていませんでした。

 

ですが、この本を読んだとき、これは今の日本の状況に見事にあてはまるなと衝撃を受けました。自分が世間や社会に対してなんとなく感じていたリアリティが、ここではもう既に、明確に言葉にされていました。

 

「抑圧」という言葉がやや大仰に聞こえるかもしれませんが、ここでいわれる被抑圧者とは、世間やマジョリティの価値観を内面化した、大勢の「普通」の人も含まれます。マイノリティはマジョリティ(社会の強者)の価値観を内面化してしまうものなので、自分は劣っていると感じ、社会の強者に憧れ、強者の思想や判断基準を取り入れて自分を補おうとします。その結果マイノリティ同士がお互い自覚のない部分ではマッチョであり、攻撃しあってしまったりするのです。

 

どうすれば人は内面化してしまった抑圧的な価値観からも解放されうるのか。それこそが今も変わらず問われるべきことではないかなと思います。フレイレはそこにおいて核心的な領域まで到達した人だと思います。

 

この本は単にフレイレの本をわかりやすく、やさしく解説しているだけではありません。それと同時に筆者である里見さん自身も同じ一人の実践家、思想家として、今まで吟味し続けてきた経験と思想をもって、フレイレと「対話」をしているのです。正直なところ、私はフレイレ以上にこの対話を行っている里見さんという人の存在に感銘を受けたといっても過言ではありません。

 

里見さんは、フレイレの実践は、「支配」の装置として作動している「教育」を人間の解放の行為に反転させていくあり方を探り続けたものなのだといいます。「教育」は、反転させてこそようやく人間を人間にしていく対話になりうるのだ、とさらっと書く里見さんですが、読んで理解すれば当たり前のこのスタートラインは、フレイレの死後もいまだに日本の公教育では実践されていませんし、その問題性は一般にはまるで共有されていないようです。

 

The more things change, the more they stay the same.(多くのことが変わる一方で、それよりももっと多くのことが変わらずにそのままだ。)という言葉があります。様々なことが発見され、新しい理解が生まれても、社会は全く新しくなっていないようです。里見さんが紹介するフレイレの分析を知ると、現代の日本の状況、SNS上でおこっているようなことなどがそのままあてはまることに驚かれるでしょう。

 

社会では、先人が既に深く分析していることがまるでなかったように忘れられ、見過ごされて、またゼロから同じ問題が議論されているように感じます。石が積み上げられては崩されゼロになる、賽の河原のようなことがこの社会で繰りかえされていますが、この本はそんな現代の日本の社会のなかで生きる一人一人に、特にそれに疑問をもち、違和感を感じている人に、一つの確かな視座を提供してくれるものではないかなと思います。みなさんと一緒にこの本を読めることを大変嬉しく思っています。

【7月の催しもの】DIY読書会 熾をかこむ会 私の探究・研究相談室

7月の催しものです。全て初参加OKです。

 

【7/9(火)DIY読書会】

自分の読んできた本、または自分の活動の報告など、自分の発表したいことがある人が発表して、聞きにくる人は聞くDIY読書会、発表者も参加者も増えてきました。初参加も可能、入退場自由です。

時間:19:30〜
場所:ちいさな学校鞍馬口 https://goo.gl/WcJSpe

1)『忘れられた日本人』宮本常一(前回のつづき) rep:エコー

2)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗/著 rep:松岡佐知

3)『近代日本150年』山本義隆著 rep:角南和宏

*初参加の方はcasaludens@gmail.com へご連絡をお願いいたします。(資料作成準備のため)

 

【7/10(水)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い三階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:臨床哲学者の西川勝さんと共にお話しをします。今回が3回目です。初めての方もどうぞ

 

【7/26(金)私の探究・研究相談室】

時間:19:00

場所:本町エスコーラ http://www.escola-kyoto.com/escola-index.html

内容:自分にとって核心的な関心や興味を探究し、それをお互いにシェアします。私の探究・研究相談室は、発表する前に相談もできるゼミのような場所です。ジャンル難民学会の新しい展開に関心がある方もどうぞお越しください。今後、有志とともに発表ができる場所を関西各地に作っていく予定です。

 

 

週プレ「キン肉マン」の考察 

週プレのキン肉マン。ジャンプ連載当時は雑魚扱いで散々な役所にまわされ報われなかった数々の超人たちがそれぞれの過去を挽回していくこの物語のあり方をなんと呼べばいいだろう? 

wpb.shueisha.co.jp

キン肉マンは今流行になるような面白く新しいマンガである必要がない。作者自身が送る作品世界へそして自分自身へのはなむけのようだ。

 

Wikipediaよるとキン肉マンは、1979年に連載を開始した。当初は稚拙であるとされ編集部内でも評判がよくなかったが、途中からバトル重視のプロレスマンガに路線を変え、大ヒット。

 

僕の記憶では最初は単なるギャグだけでキン肉マン自身もあまり強くもなかったのだが、なぜか予選を勝ち上がり、ロビンマスクというチャンピオンで貴族で紳士といった感じのレスラーと決勝戦で闘うことになる。

 

ロビンマスクは、人間性においても実力においても、また家柄のようなところにおいてもどこにも隙がない「完璧」なキャラ。一方、キン肉マンは親に豚と間違われて地球に捨てられ、貧乏で性格も怠惰でひがみっぽく、かっこ悪いという3拍子が揃ったキャラ。

 

だが、そのキン肉マンは、ロビンマスクの無自覚だった自分自身へのおごりをつき、勝利をおさめる。おそらく順風満帆なエリートであることが自分のアイデンティティであったロビンマスクは、頂点から奈落へと落ち、ならず者に加担してまでキン肉マンへの復讐を遂げようとする。

 

ロビンとの闘いのころから、ほぼふざけるばかりのギャグマンガだったところに、人間の深い苦しみが描かれるようになった。そしてエリートと落伍者、ろくでなしが出会い、闘いを通して変わっていくというテーマが現れる。

 

物語では、ロビンマスクテリーマンというエリートたちが不運(キン肉マンとの闘いなども含む。)に遭い、転落し、失意に溺れていく。

 

なんちゃって正義の味方を気取るが実際はほぼろくでなしのキン肉マンだったが、目の前で弱いものが虐げられることは許さない態度を当初より持っており、出会う相手たちの人間としての苦しみに直面し、闘いを通して、時折、何もかもかなぐり捨てたような、裸の受けとめを見せるようになる。

 

エリートたちのその転落した痛みは、実は社会の最底辺で皆に馬鹿にされ屈辱を受けてきたキン肉マン自身が経験してきた痛みではなかったか。わがままで自分勝手なキン肉マンだが、相手が深い痛みをみせるとき、それに震え、一瞬、誰よりも真人間に戻るような、底の見えない不思議な姿を見せた。

 

キン肉マンは、それまで尊厳を備えた人間として扱われてこなかった。彼は人から馬鹿にされ、周りから鼻をつままれるようなダメな特徴を全て詰め込んだような存在だった。彼がドンキホーテばりに自身を世界を救うヒーローのようにみなすことも、自分を保つために残された数少ない選択肢だったのではないかとも思う。

 

そんな彼にとって、エリートたちが叩き落とされた苦しみを感じることは、傷つられた自分自身への深い共感でもあったのではないかと思う。

 

逆に、ロビンやテリーたちエリートにとっては、持つべきものを初めから何も持っていないのに生きていて、自身を取り繕うことをしない(できない)裸のキン肉マンの姿は彼らのそれまでの拘りを捨て、再生するために必要なモデルだったのではないかと思う。

 

キン肉マンは、ある段階までは、そのような人間の生々しい苦しみや痛み、人間として認められることと、認められないことというテーマを基盤に持っていたと思う。しかし、それがだんだんとバトルやその仕掛けの珍奇さの羅列に軸を移していったのではないかと思う。人間が抱え続けてきた痛み、打ち捨てられた人間の再生といった深いテーマは、だんだんと背景に沈み、表層的な描かれ方になった。

 

大人気だったキン肉マンだったが、1987年に終了後、作者であるゆでたまごは冬の時代に入った。Wikipediaによると、1990年台半ばになるともはや過去の人として扱われ、吉祥寺を歩いているところを通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒され頭を叩かれたという。

 

またキン肉マンの後日談「マッスル・リターンズ」をジャンプの出版社である集英社とは別の出版社である角川書店で出すにあたり、集英社はそれをあっさりと許可し、その後ゆでたまご集英社の少年ジャンプでキン肉マンをまた書きたいと申し出た際には「その必要はない」と断ったという。

 

だが「マッスル・リターンズ」への反響は大きく、その後プレイボーイ誌において描かれた「キン肉マンII世」は二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなったという。

 

僕自身は、完璧超人という存在が出たタッグマッチシリーズ以降は興味が続かず、読めなくなった。「II世」も同様でキン肉マンにはもう興味が持てないという感じだった。キン肉マンを見なくなって、それこそ30年が経って、全く関心は持ってなかったけれど、週プレのセックス依存症のマンガが面白かったのでそちらを見ているとキン肉マンも更新されていたので、なんとなくもう一度見てみた。

 

キン肉マンは前のままの世界のキン肉マンだった。世界の見方の斬新さみたいなことはなかった。「友情」の捉え方も古い型通りのものだった。

 

違っていたのは、今回はまるでエピローグに徹するかのようにかつて登場した超人たちをもう一度登場させ、ストーリー展開や演出のためだけに使われたような彼ら十分に思いを遂げさせるように描いていること。かつて出てきた時の設定を思い出させ、そしてその当時では考えられないような、活躍をさせる。

 

リバイバル漫画というものがなんであるのかを理解し、軸にそえた展開だといえるのだと思う。人間は「とむらい」を生きているという理解になった今の自分にとっては、このとむらいを主軸にするような展開はとても興味深かった。とむらいは自分のなかの止まった「時間」を動かしていくことともいえるかもしれない。

 

人の心のなかの「時間」は止まっている。「時間」が止まっている状態とは、ある記憶や刺激に対し、いつまでも同じ反応しかおきず、同じようにしか感じられないということだ。思考を通して確認される世界の「時間」は止まっている。

 

そこでは既に序列は決定され、何が何を意味するのかはもう決まっている。だから思考を続けたところで同じところをぐるぐる周り、既に持っていた結論にたどり着く。

 

その決まってしまった世界を更新するためには、あることの意味が決まってしまった時のリアリティをもう一度感じながら、別の体験をするということが必要だ。すると、世界の感じられ方は更新される。

 

人間は自分を投影して世界を把握しているので、キン肉マンのなかで雑魚扱いされていた超人もまた自分の一部分であるといえる。自分のなかで軽んじられ、ひずんだまま止められたものが、とむらわれ、更新される。手放される。

 

今登場しているブロッケンJr.もどちらかというとここ一番で主役として出るような役柄じゃない壁際の存在。その彼が主役キン肉マンにかわって大一番を引き受ける。今、物語は主役をキン肉マンからブロッケンJrをはじめとした脇役たちにゆずっている。そのような脇役たちをもう一度活躍させ、花をむけることが物語の展開の軸となっている。

 

人は自分のうちに止まった世界を取り込んでいるともいえる。その止まった世界とは物語であり、その物語を構成している部分部分はそれぞれの場所に対応するリアリティが喚起されるとき、動きだし、変わっていくことができる。

 

特定のリアリティを喚起すれば、自分の世界に対する感じ方、反応の仕方は変化する。精神のなかで止まった物語に対して、精神の外にある物語はリアリティを喚起し、同期させることができる。

 

作者自身がキン肉マンによって、絶頂を経験し、そしてそこからの転落を経験したのは初期のキン肉マンのテーマと相通じていると思う。表現されたものは、自分の知らないこれからのことを予言していることがある。そして今、作者は自分自身にとって最大の作品であり、分身であるキン肉マンという作品のなかの登場人物たちをとむらうことを通して、自身のうちにある止まった世界を動かし、更新しているのだと思う。

作品の世界観は昔からあまり変わっていない。しかし、今はそこに不思議な熱気があり、自律的な展開の動きがある。作者自身のプロセスが物語と同期しているのだと思う。

 

映画「ほたるの川のまもりびと」と「万引き家族」

住民の抵抗運動を押し切って、ダム建設がすすめられるドキュメンタリーをみて、やるせない気持ちになったのは、水俣病患者(症状はあっても認定は自分から取り下げられた)の緒方正人さんが「チッソは私であった」といったように、普通の人の生活そのものが、その立ち退きを求められる住民の生活ですらが、全く無意識であってもその暴力に加担しているということだったと思う。

 

ohashilo.jp

 

この「普段の生活」を成り立たせている仕組みが、そもそも暴力の根源なのだと思う。その翌日に観た映画「万引き家族」のメンバーは社会規範に反した生き方をしているように思われるけれど、国や大企業が作った仕組みがあり、その暴力や盗みの恩恵の元に「普通の生活」がある。本質的には何も変わらない。

 

kapmos.hatenablog.com

 

緒方正人さんは、お金とは泥棒の分配センターの通行証じゃないかという。お金という代価を払ったのだから当然もらうものはもらうけれど、それがどこからどのように盗まれてきたのかは自分には関係ない。万引き家族が自分がモノを盗んだことによって彼らのした後のことを引き受ける人に何がおこるのか想像するのを拒否するように。

 

狂って以降、俺、自分のことを泥棒と思ってるんです。イヲをとる泥棒。以前はれっきとした「漁業」と思っていたばってんが。社会という枠の内では漁業でいいんだけど、その外に出ると泥棒。いっぺんこの枠自体を疑ってみる必要がある。枠をとっぱらったところでは、みんな多かれ少なかれ泥棒じゃないですか。スーパーで買えばそれで合法、と言ってすむ問題じゃない。スーパーなんていうなれば、泥棒たちの分配センターで、銭はそこの通行証みたいなものでしょ。我々はそこから持ちきれないくらい、冷蔵庫に入りきらずに腐らすくらい、いっぱいものをさげてきて、涼しい顔で金は払いました、と言ってる。

緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

 

 

 

ダムに反対している家族から建設会社に就職する若者が出る。親は葛藤がありつつも、本人がそう望むのだから自分は反対しないという。若者は建設は地図に残るようなことであり、自分はそのような仕事がしたい、とのこと。

 

雁字搦め。社会の仕組みは隅々にまで浸透して、生活の仕方も考え方も、何もかもを、人を大きな暴力に加担させるように、はめるように設定している。

 

蹂躙されて、大きな傷と尊厳の決定的否定を受けて、立ち向かう人たちがいる。自分自身がその状況にならなければ、人間は抑圧の仕組みのなかに埋没したままなんだと思う。だから僕は受難や大きな傷のようなものこそ、人を人にする契機なのだと思う。

 

ダムに反対して座り込みをしている人たちは負けてしまうかもしれない。負けるということは、この社会の仕組みのなかで綱渡りしていくことに対しては不利に働く。

 

この社会での「生き残り」という「勝ち」を目指さない人、目指せない人たちもいる。僕はそういう人たちの価値を言葉にしたいと思う。

 

本当に追い詰められたとき、死ぬ間際にあるとき、社会の仕組みをこれからどうするというようなことと、自分に救いをもたらすこととが一致しないことに気づくと思う。社会での「生き残り」のために仕方なくやっていたことの一方で、自分は実は一貫して救いを求めていたじゃないかということに気づく。救いを生きるということをはじめる。

 

万引き家族」のメンバーは、自分たちが美味しい目をみて生き残り続けることを結果的に捨てた。変わろうとしていなかったけれど、自分たちが出会った状況と人を引き受け、応答をしていくうちに、彼らが生き残るために作っていた仕組みは破綻した。しかしその代わりに、それぞれの救いを生きることがはじまった。

 

取り返しのつかない状況に追い詰められるほど、人は深い回復の契機をもつ。救いはいつか到達するものなのではなく、救い自体を生きることなのだということに気づく。

 

 

救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。

ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

 

taboman5.hatenablog.com

 

 

<ジャンル難民学会(仮)組織形態のイメージ>

ジャンル難民学会(仮)の組織のイメージをしてみました。

 

とりあえず、本部的なもの、それと話しの場の研究会、そして各地の連絡会(発表の場)の3つと、連絡会のかたちのバリエーションなど。

 

<ジャンル難民学会(仮)組織形態のイメージ>

1、本部的なもの・・・各地の連絡会の活動の活性化、相互交流の活性化をはかる。連絡会を作りたいという人に対して、連絡会のモデルや運営イメージなどの提供をする。既に存在している様々な学びの場をめぐってその様子をレポートしたりする。

 

1-2、話しの場研究会・・・本部に属し、どのような場であれば、個々人の尊厳は守られ、自由で抑圧のない相互を活性化する発表の場になるのかを当事者研究をし、得られた知見を蓄積していく。話しの場はどうすればよりいい場になりうるか、あるいはどうやっておこりがちな問題に対するかの当事者研究バンクになる。当事者研究バンクに蓄積されたものは、新しく連絡会をつくる人の参考にしてもらう。

 

おこりがちな問題例:

・限られた人だけが話し、場を独占する

・応答的なやりとりがされず、誰かの常識が人に押し付けられる

・個人の多様性を侵害するようなハラスメントやハラスメントめいた発言がされる

・発表者自身によって気づかれ、発見されていく探究の過程や試行錯誤を尊重せず、否定したり、指導したり、自分の思うようにコントロールしようとする。

 

3、連絡会・・・各地の発表の場。それぞれの状況や自律的に運営される。公開の発表会は、各地の連絡会にも情報がシェアされ、参加できる。ある発表の場を公開するかしないか、発表の会場の規模などは、各連絡会が自己裁量で決められる。

 

 

◆連絡会のモデルやパターンのアイデア

1、探究の発表の場だけを行う。

 

2、発表と発表に向けたゼミ的な相談の場、プレ発表の場なども行う。

 

3、読書会。普段は読書会をしていて、テーマが集まってきたら発表の場もうける。

 

4、DIY読書会(本が先に決められて参加者が集まるのではなく、参加者が自分の関心がある本を読んできて、その本を読んで考えたことを合わせて発表する読書会。必ずしも本でなくても、自分の活動の発表と考察でも構わない)をしながら、発表するテーマが出てきたら発表の場をもうける。

 

5、当事者研究。普段は当事者研究をやりながら、発表の機運が高まってきたら発表の場をもうける。

 

6、リードイン。(気になった他人の言葉(文章)を一つ、自分の言葉(文章)を一つ、それぞれの参加者が持ち寄って、全員がそれを紹介するという場。発表というハードルが高いと感じられる人が多いとき、まずは気になった他人の言葉や文章を紹介し、それに自分が感じることを添えるというもの。)発表したいという人が出てきて、機運が高まったら発表の場をもうける。