降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

殻と更新作用

「殻が厚くなる」という言い方は日常語で使われますが、このとき「殻」は、「厚くなっているなあ」と言われているその人本体を指しておらず、言われているその人が身にまとうもののように、その人の行動や態度のあり方を規定するようなもののようにいわれます。

 

一方、僕の周りの社会では、誰かが罪を犯したり、あるいはいいことをしたとき、その人の殻とその人は分けられたりはしません。殻とその人は同一のものとして扱われます。

 

しかし、人々の感性のなかでは、少なくともことばのうえでは、その人と殻は分けられてとらえられています。僕は殻とその人を分けるというのはとても実態に即しており、人をとらえる際、とても妥当な見方であると思います。

 

妥当だというのは、そのようにとらえることで、殻とその人が一体のものであると仮定していることで行き詰まっていることをひらくからです。

 

たとえば、意思というものが、素晴らしいもので、人間の人間たるゆえんだというようにとらえたところでは、意思の病である依存症を停滞させやすいことが最近はわかってきました。

 

自分を自分の意思でコントロールできるととらえているうちは、逆に依存症から抜けられなくなってしまうのです。そこからの回復の契機は、自分の無力さを認めることからはじまるといわれます。すると投げやりになるのではなく、今までと別のあり方で地に足をつけて変化がおこってくるのです。

 

どこにも非がなかったように思われていた「意思」が、実はそうではなかったことが次の時代で知られてくるように、現時点で常識として、検討されることもなく前提とされていることが行き詰まりをつくっていることが多いように思います。

 

色々な解決方法を模索しても、そもそもの問題の出発地点である前提に気づかなければ、それを経過し、通り過ぎていくことができずにまたちょっと先で苦しみ、行き詰まってしまいます。

 

新しい知見をもってきたりするのは、学問の専売特許のようで、もちろんそういうことも多いのですが、すでに人々のあいだで認識されていることで、学問をこえているものも僕は割にあるように思うのです。

 

たとえば、「気になる」とか「気にいる」と日常語で使われる「気」ですが、本人の意思ではないなんとなくの感じを表します。しかし、日常では、多くの物事は意思で明確に選ぶというよりは、(特に私的な場面では)なんとなく気の向くほうだったり、なんとなく感じられる兆しを行動の根拠にしていると思うのです。

 

実際そうでないと決まりきったこと、知ったことしか繰り返さず、もし自分の行動がより大きな文脈では間違ったことをしていたとしても、同じ行動のなかでは気づくこともできません。なんとなくつまらなくなったからとか、ちょっと気分を変えてみたくなるとか、そういうもので世界と新しく出会い、自分が更新されていくのだと思います。

 

日常で多用している「気」ということばのほうが、やりたいことは既に決まっており、行動の全て根拠をもって自己決定できる人間観より、人間のあり方をよくとらえているように思いませんか。

 

人は信頼のおける他者とやりとりするなかで、自分の今まで発見していなかった「やりたいこと」や「行きたい方向」が発見されてくるようです。福祉や医療の界隈でも、最近までは「自己決定」がその人を尊重することであるのだと思われてきましたが、最近はその考えではいいかたちで状況が動いていかないことが知られてきているようです。

 

これらは『中動態の世界』を書いた国分功一郎さんから知ったことです。国分さんはかつて存在した中動態という文法のあり方から「意思」の弊害やいびつさを指摘しました。全ての行動を自分の意思から行っていると考えるところでは、依存症は回復の端緒につけません。

 

自分の意思以外のもので人間は動いているし、人の意思は世間で思われているほど正しくもないし、偏っていたり、機械的であったりするのです。

 

それをうまく言い表すのが、日常語である「気」という言葉だと思います。「気が滅入る」「気をつける」など、あらゆる場面で使われる「気」という日常語は、国分さんが中動態の世界から見えてきたことを指摘する前から、既に中動態をとらえており、人々の間で現実をうまくまわすために応用されていたのです。

 

前置きが長くなりましたが、「殻」の話しにもどります。僕は人々が「殻が厚くなる」という言い方でとらえているものは、より現実の人間の複雑さをとらえているように思います。

 

では、その人のうちで、何が「殻」で何が「その人自身」的なものなのでしょうか。多くの人は、大部分がその人自身であり、殻は一部だととらえているんじゃないかなと思います。しかし、僕は自分が自分だと思うようなもの、思考、意見、判断などは殻に属すると考えています。

 

そういうふうにとらえたほうが、自分のこともより理解できるし、他人の行動も把握しやすいです。そしてそう考えることで、今までのもっていた前提のために行き詰まっていたことが開かれるように思います。

 

反論もあると思いますが、グレタさんに指摘される前から世界は大分おかしかったのに、多くの人はそれを変えようとしないように僕には見えました。日本の政治の状況にしてもそうです。動くのはほとんど最前線で否応無く直面している人だけ。なぜ多くの人は現状を変えようとするより、強いものに従い、現状に埋没するのか。そして自分自身の認識すらだましてしまうのか。それは疑問でした。

 

もともと僕は別に大衆心理とかに興味があったわけではなく、ひとりの人の変化がどのようにおこるのかをずっと自分なりに考えてきたのですが、それをより確かめていくには分野や区切りを横断せざるをえませんでした。

 

知りたいこと、理解したいことは、いわゆるその分野(僕にとっては心理学とかでしたが。)のなかだけ調べて行き詰まってしまうことがあっても、その分野の外では(たとえば演劇なり、環境再生のあり方なり。)答えが出ていることも結構あるのです。

 

僕は自分が変わることが一番難しいことであると思っていたので、本当に自分が使えるものだけを自分なりに組み立てて考えました。自分が実際に変わるのが自分で確かめられる根拠であり、それが停滞するならば、何かが間違いが含まれていると考えました。

 

その時重要なことは、自分は既に間違った前提をもっており、勘違いしているのであり、その勘違いの世界、偽りの閉じた世界があたかも継ぎ目がないようににみえているその世界で、継ぎ目を見つけ、そこに穴をうがち、閉塞した世界をもはや成り立たなくさせて更新することの繰り返しでした。

 

生きづらさは、ほおっておくとだんだんと圧力を増していきます。必要な酸素が減っていって、足りなくなって、息が苦しくなっていくように、僕にとっては自分がそうだと信じている偽りの世界のほころびを見つけて、バリバリとそこを開いていくとき、またしばらく生きられることができる、新しい空気が開いたところから入ってきます。

 

そしてその繰り返しの結果、今たどりついているのが、「殻」という考え方です。ことばをもってしまった人は、自分の脆弱性を感じなくするために「殻」を発達させるようです。殻は学習の結果生まれものであり、機械のようなものです。最近AIがどうこうとよく言われますが、言葉をもった人間の思考とか認識の仕方自体が既に機械的なもののようです。

 

武術や身体技法の分野では、自意識がコントロールしている状態や自意識的な実感があるときは、パフォーマンスが実はよくないということがよく言われるようです。それも自意識という「殻」がどういうものかをよくあらわしているように思います。それは自分のようで、自分の本体ではなく、むしろそれがあまり浮き出ているときは、動きも悪いし、周りともうまくやれないのです。

 

「殻」は、防衛機能のようで、自分を変わらないままにしようとする傾向があります。しかしそのために、世界はどんどん変わっていくのに、自分の認識や思考が変わらないまま、生きることになります。同時に、その保守的な傾向は、自分を守り、他人を抑圧することにも関係しているようです。

 

言葉をもった人は、どうも殻を発達させざるを得ないようです。言葉自体が学習の結果でもあり、殻の構成要素でもあるようです。

 

言葉で世間を認識するとは、おそらく精神にとっては、強烈な劇薬(リアリティ)にさらされ続けるようなことであり、生きるためにそれを麻痺させ、大なり小なり無感覚になろうとせざるを得ないのではないかと思います。そのため、強すぎる圧力にさらされないために、欺瞞的な、変わらない、自分を揺り動かさない世界像を自分のうちにつくり、その閉じた世界のなかで、人は生きているのではないかと思います。

殻が自分を守る傾向は自動的であり、自分の本当の気持ちや感情を騙すことさえします。AであるものをBだと信じてしまうようなことさえ、ごく普通におこります。

 

緊急時になっても、その現実を受け入れることができない「正常化バイアス」というようなものも、自我の、殻の、自動的な機能であるのかと思います。

 

殻はとにかく自分を揺り動かしそうなものをできるだけそれが遠くにいる時から察知し、意識にのぼる前にそこから逃げようとします。意識にはっきりとのぼる前なので、自意識的には、自分は逃げたのではなく、しかるべき理由のもとにそう行動した、たまたまそのように行動したと思ったり、言ったりします。しかしあとでよく調べると、自分は何かの圧力を逸らそうとしていたということがわかったりします。

 

言葉を構成要素とする殻がもつ保守傾向は自動的・自律的であり、頑強です。しかし殻があるために、その人は自分自身の認識や感じ方を更新できず、毎日を過ごしてもメリーゴーランドのように同じことの繰り返しにしか感じられなくなり、倦んでいきます。そしてその苦しさのためにより一層自分を麻痺させる刺激を求め、欺瞞の耐えきれなさをぬりこめようとします。

 

より困難で高い山にのぼることを求める人がいるように、殻が揺り動かされる状態と程よい関係をもてると、人は今までと違った世界に触れ、更新されうるようです。

 

殻の保守傾向と、それにあらがう更新作用が、人のなかにあるようです。どちらが自分が本当のものに近いかというと、更新作用のほうではないかと僕は思います。その作用はまだ意識にのぼりきっておらず、よって異物であり、言語化もされておらず、殻は危険と認識し、遠ざかろうとします。変化とは、その拮抗、せめぎあいのなかで、更新作用が結果的に新しい秩序をつくることなのかと思います。

なんでもなくなる

回復とはどういうものか、そしてどうやってその過程にはいればいいのか、ということを考えてきた。

 

回復を意識すると回復は停滞する。それはなんども言及してきたけれど、そう言いながら、この言葉自体が回復を目指してもいる。回復するために回復を意識するな、直接に指向するな、的な。

 

意味なく時間を潰していても、追い詰められなくなった。前は何か生き延びることにつながることをしなければいけないのにできない、と自動的に追い詰められて、余計に動けなくなっていた。それが毎日だったけれど、そういう追い詰められがなくなった。

 

回復したら生きていくことがひらける、というイメージがあったかもしれない。確かに地に足を着けて進んでいける。そういうふうに思っていたかもしれない。

 

だけれど、そういうふうにはなってはいない。ただ強迫の一つが抜けただけで、他は何も変わっていない。今後も別に生きていける可能性がひらけたり増えたりしたということもない。

 

近くの映画館で「解放区」という映画をみた。行政から助成金をもらって映画を作ったそうだけれど、釜ヶ崎だと明らかにわかるような映像があったために、結局助成金はもらえなくなった映画だそうだ。

 

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映画の主人公は映像をとるという自分の夢を追うために釜ヶ崎にくるけれど、財布はとられ、日雇いに出れば釘を踏み抜き、パートナーには愛想をつかされ、クスリにまで手を出してしまう。これは自分の明日だなと思う。少しのバランスの崩れで、あれよあれよとこうなってしまうだろうと思う。

 

言葉をもった人は、裸のミノムシみたいな自分の脆弱さや弱さに耐えきることができず、ミノムシが手近なものを貼り合わせてミノを作っていくように、自分の殻を作っていく。殻づくりは自動的であり、無自覚にすすんでいく。

 

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殻によって、人は自分の弱さや痛みを感じなくしようとする。何かを得たり、何かができるようになりたいと思うことは、殻をつくろうとする衝動でもある。その殻を得たとき、人はもともともっていた不安や弱さ、痛みを感じないところにおしやることができる。

 

それは実のところ欺瞞(自分を騙すこと)と抑圧によって感じなくなっただけであるのだけれど、自動的なので本人も自分がどんな欺瞞を生きているのか気づいていない。痛みや弱さが直接に感じられなくなるまで遠くにおしやることができれば、殻づくりは完了だ。

 

殻の弊害は、自分が本当に感じていることを感じられなくなること。それは自分だけにとどまらず、殻が厚くなれば他者の痛みにも鈍感になる。応答性がなくなって、自分の世界だけになり、ひどくなれば人からどう働きかけられても完結したことを繰り返すテープレコーダーのようになる。

 

弱さや痛みを感じなくなると書いたけれど、それは自意識では自覚できなくなるということであって、自覚できない混乱とか、恐怖とか、不安には陥る。たとえるなら、怖いという反応が体に出ているのに、自覚は乖離していて、怖がっているということを把握できていないというような感じ。

 

大なり小なり、言葉をもったすべての人が殻を自動的に発達させていく。自動的に自分の疎外をすすめていく。その行きつく先は、何かを得ることによって不安要素を塗り込めて、自覚の外におしやることに成功することだ。

 

ところが、それが事故とか病気とかで、できあがった殻が著しく破損させられると、忘れていた裸のミノムシの脆弱性にもどると同時に、それまで殻で騙していた部分が騙しきれなくなり、世界や他者との応答性がより取り戻された状態に更新される。

 

このとき、人間は大きく変化する。それまで人間でなかったものが、人間にもどるかのように、まっとうな人間らしくなる。ただそれで万事が良い状態に維持されるかというとそうではなくて、不安や痛みを塗り込めて無感覚になっていく自動的な疎外はそこでもまた現れるので、また殻が作られていく。

 

この前みた映画で、こういう話しがあった。主人公は女性から男性になったトランスジェンダーの作家で、差別の無い理想的な世界を描こうとしている。ところが彼のトランスジェンダーの友人は、世間的にはうまく自分がトランスしたことを隠せるので、トランスしている人が周りにもいるなどという疑いを普通の人が持つことのほうが困るという。自分は今幸せだ。だから今の幸せを壊すような可能性のある本を書くなという。

 

誰かがマイノリティだからといって、自分以外のマイノリティを抑圧しないわけではない。殻の話しに戻れば、一旦殻が壊された人も、また新しい殻がだんだんと発達してきて、とりあえず自分が大丈夫になれば、今度はその状態を維持しようとする。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れるではないけれど、嵐の最中にいた時は自分と同じような人たちの味方であっても、熱さ(苦しさ)が喉元を過ぎると、たとえ前と変わらず他者が抑圧されている状況が周りに依然とあっても、自分の平穏を維持するほうにと動機の風向きが変わってしまう。今の自分の幸せを維持するために、かつての友人の夢に反対した主人公の友達のように。

 

熱さが喉元を過ぎるとき、本人にとってはもちろんほっとする経験だろう。加えて、熱さを経験する前より優しくなっているかもしれない。しかし、それは同時に自分が今の平穏を維持するための動機のほうが強くなってきたということでもあるのだと思う。熱さがあった時のようには感じられなくなっているし、動けなくなっている。

 

これが僕の人間観であり、回復観だ。他者によって殻が壊されるとき、人間が戻ってくる。自動的に厚くなる殻によって人間は疎外されている。自分だけで自分を健全な状態に維持することはできないし、殻が自然に厚くなるにつれ応答性を失っていく。

 

この性悪説的な見方によって、僕は人間について絶望していると思われるだろうか? 僕はこのバランスに帰着したことで、むしろ自分にも人にも寛容になった。人間をその人が作った思考や振る舞いなどの殻にみるのではなく、プロセスそのものとしてみるようになった。動的な更新のプロセスこそが人間的なものなのであって、プロセスの結果として出来上がった成果物として固まったその人(のパーソナリティ)が「人間」なのではないのだ。

 

民主主義が成熟しているといわれる国でも、極右や排外主義が台頭したりする。僕は国でも人も成熟してよりいい感じで安定していくなんてことはないんじゃないかと思う。ただ、殻が壊れるような事態に見舞われるとき、人間性を取り戻すという循環が繰り返されるとき、いわばいい状態があると、そんなものではないかなと思う。

 

今の自分、ただ強迫が抜けて、安定してしまった。舵は疎外の方向にきれている。

 

で、しかし、疎外の方向はダメだから疎外されない方向にいって、人間性を回復していこうは、結局、別の殻づくりに過ぎない。自意識や自分の思考、自分の振る舞いが本質ではなくて、殻が壊れたときに現れるような、更新のプロセス自体が本質なのだから、自意識は決して価値あるものに到達しない。自分が同一化するものに本質はない。

 

自意識は自動的に意味を求めるものだけれど、求めた意味に本質的な意味はない。どのような生も間違いではないというような言い回しは、そういうことかなと思う。自動的に意味を求めるのだから、自意識がある間は意味に向かって生きるかのごとく生きるようになるけれど、同時に本質的には何をしてもどうなっても同じなのだ。本質的な意味はないのだから。

 

シルヴァスタインの『ぼくを探しに』では、主人公は完全な球体になることが生きていくことではないと最後に気づいた。自分の耐え難い欠損を埋めたいという動機は変わらずにある。しかしその欠損から派生する動機こそ、自分を同じままにとどめず、他者と出会い、生を更新する救いをもたらすものだった。彼は何かに「なる」ことをやめた。ゴールは、豊かな過程をとりあえず作りだすための、仮のものでよかった。

 

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『表現の生態系』ティム・インゴルドのインタビュー 名詞の動詞化と宗教の語源

別の用事でお邪魔させてもらっていたお宅で紹介していただいた『表現の生態系』のティム・インゴルドのインタビューをちらっと読みました。

 

sayusha.com

現物が手元にないので正確ではないですが、記憶に残ったことは、名詞を動詞化すること、宗教が語源的に「再びつながる」という意味だったこと、など。

 

今年は幾つかの読書会に参加させてもらっていて、宇井純『自主講座「公害原論」の15年』、ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして』、酒井隆史『暴力の哲学』など自分一人ではなかなか手に取らなかっただろうと思われる本の内容に触れる機会に恵まれました。

 

自分たちがやっているDIY読書会でもだいぶ前にインゴルドを取り扱ったりしていましたが、ここ4、5年で触れた別々の本が一つのまとまりをもっているように感じられています。

 

インゴルドは、アーティストにとって小石は「小石」という名詞に閉じられるものではなく、動詞として「小石しているもの」と捉えられるといいます。同様に、人間もまた人間という名詞に閉じられるものではなく、動的なプロセスとして「人間している」ととらえられるべきのものであると指摘します。

 

(そういえば「いのちがわたしを生きている」という表現もありました。)

 

そこから連想したのは、世間でいう「ひきこもり」当事者でもあった上山和樹さんが「ひきこもる」という動的なプロセス、過程を「ひきこもり」という名詞に閉じこめて、プロセスをないものとしているという批判です。

 

僕も少し前に動的なプロセスとしての鉤括弧つきの「時間」と、死んだもの、動きを止めるものとしての時間を分けて考えるということをやってみていましたが、インゴルドのインタビューは今まで触れてきたこと、考えてきたことを概観させてくれるようなものでした。

 

今の時代が流通させている見方では、個々人の思考や感情は独立しており、家が壁や戸によって中のものを外から隔絶しているように、個々人もまた別々の存在であるとされています。

 

その弊害はたとえば「自己決定」のように、個人のなかにやりたいことや主体性はすでに存在していて、それを聞き出すことが重要だ、みたいな、雑な割り切りで物事や関わりの手順を決めてしまうようなことにも現れているのかと思います。

 

国分功一郎さんや斎藤環さんたちのやりとりでは、「自己決定支援」から「欲望形成支援」への移行が必要ではと提案されています。主体性ややりたいことというようなものも、閉じた一人のなかで生まれるものではなく(生まれたとしても時代や社会にガチガチに縛られ、閉じたつまらないものなのかなと思いましたが。)、他者との人間的なやりとりのなかで生まれてくるものなのです。

 

小児科医のウィニコットは、母親と乳児を別々の存在に分けて考えるのではなく、一体のものとして考えることの重要性を指摘しましたが、さらに国分さんたちのやりとりを踏まえるなら、母親と乳児の間だけではなく、実際は人間関係に置いて、孤立した思考の主体がいると考えること自体が自然な生のプロセスに反していると考えられないでしょうか。

 

僕は、人の変化において、殻というバイアスの存在を踏まえることが重要ではないかと思っています。殻は環境や他者からの影響を自分の内側に影響させないようにするものです。有能になったとしても、殻が厚くなれば厚くなるほど、その人は自分に閉じ、変化せず、自分と周りの生きているプロセスを感じなくなります。

 

先に「人間的なやりとり」という言葉を使いましたが、人間的なやりとりとは、その人の殻が防衛機制としてあまり強く浮かび上がる必要がない関わりのあり方です。

 

人間的なやりとりにおいては、普段浮かび上がっているよりさらに殻は薄くなっており、そのためその人は心をゆるし、受容的になり、人と響きあう状態になっています。

 

人間的なやりとりとは、相手に対して安心や信頼、尊厳を提供するやりとりです。加えていえば、その人が内在化させているような強迫や不安などまでが一時的に気にならないように、打ち消されていることが肝要なので、場所とか環境なども重要な要素です。

 

人間的な人とは、精神にとって戦場のようなこの社会で、多くの人のように、自分というやわらかいプロセスを失うほどガチガチの殻を発達させ、重武装して生きていくことをうまく避けて、最小限の殻で人や世界と響きあうことを維持している人であるのかもしれません。

 

イヴァン・イリイチは、近代において、個体に所有される一つ一つの生命という生命観を批判しました。所有される「私の命」ではなく、かつてはそれぞれの存在が響きあう一体として生命があり、生きものであるかなしかにかかわらず、異なる存在がお互いの躍動性を高めあう生命観だったというのです。

 

今、とくに心や精神の繊細さに関わる分野では、個人を独立した存在として考えるのではなく、他者を必要とし、他者と響きあう存在と理解するほうが、うまくいくことがだんだんと認識されてきていると思います。

 

響きあうもの。所有できないプロセスそのもの。それを生の本質だと考えるとき、個体のなかに所有され、なるだけ保持され外から影響を受けないように守られる資産としての生命観の延長が今の社会のいびつさをつくっていることが見えてくるようにも思えます。

 

インゴルドのいう名詞の動詞化とは、お金のように管理され、他から離して貯蔵されていい生命観から、他者と響きあうことを前提とし、また必要とする生きたプロセスとしての生命観への転換することともいえるのではないでしょうか。

 

個の身体は物質としてわかりやすく存在しますが、はたして精神や心は個体に閉じて存在しているのでしょうか。ちいさな「わたし」という本質のようなものがこの体のなかにあるかのように。他者や環境と一体として存在するのではなく、独立した「わたし」があるのでしょうか。

 

考えようによっては、個体に閉じた心があるとか信じるほうが、「スピリチュアル」だったり「宗教的」ともいえるのではないでしょうか。

 

(しかし、「日本人の宗教嫌い」とか言いますが、天皇制は多くの人が大好きで、しかもそれを宗教的とは自分たちでは認めないので、自分たちの信じているものは常識で、違う人たちのは「宗教」なのでしょう。それは他宗が嫌いということなのであって、「日本人の他宗嫌い(単に異文化への不寛容?)」というのが妥当なような気がします。)

 

さて、インゴルドは宗教の語源をたどればそれは「再びつながる」という意味だったと言います。何につながるのか。それは世界とつながるということだと思います。世界を外からみる視線としての、身体を持たない「わたし」(それは変わらない(=死んだ)「わたし」です。)ではなく、体験し変容していくプロセスそのものとしての「わたし」には、他者が、そして世界が必要なのです。

【当事者研究】気持ち悪さ 醜さ

ふと思い出した。

 

ある人が無自覚に抑圧的な発言をした相手のことを「〜さん、気持ち悪くない?」と言っていた。

 

きつい言葉だなと思った。自分が無関係には思えない。

 

僕は中学校の頃に自分に執拗に絡んでくるクラスメートを出会ったなかで一番気持ち悪いと思っていて、強く憎んでもいた。無視してかろうじて優位に立とうとしていたけれど、それが精一杯で、情けなくみじめな思いでもいた。

 

ある日、彼と自分は同じだと直観し、彼に向けていた気持ち悪さや軽蔑、憎しみなどが全部自分に反転してきた。自分は世界で一番気持ち悪い人間になった。

 

30年経った今も自分が気持ち悪いという認知は残っている。ただ中学校の経験だけなく、基本的に積み上げられてきた認知のようにも思う。小さい頃から家族からは「あんたは変わっている」というのはずっと言われていたし、そういえば小学校時分にスイミングスクールに通っていたとき、25メートルプールを6人ぐらいで順番に泳ぐノルマの待ち時間の時に潜って水のなかを見ていたら女の子に「気持ち悪い」と言われたのも覚えている。

 

自分が世間の人から変に、気持ち悪く思われ、異物視されるという感覚は、子どもの時からあった。自分がこうだと思うこと、考えたことはそのままやっていたから行動は奇矯だったかもしれない。

 

あとそれに加えて、自分が汚れたような、普通の人に普通に接する価値がないような、そういう認知とそこからくるそねみの感覚が強かった。

 

それは、親がいない間に同じ家(田舎の家なので大きく8人住まいだった。)に住んでいるおばがやってきて、無理矢理に組み敷いてキスするということをされていたのだけれど、とても屈辱的で、親は助けてくれなかった(今や助けを本当に求めたのかという記憶も曖昧だけれど、やめさせてくれと言ったとは思っている。)のだけど、そういうところからきているところがあるように思う。

 

小学校では女の子に対して怒りを持っていた、と思う。それはおばの存在だったり、家族のなかで弱く、助けてくれない母親(偽善的だと思った。)や、母親の行動をチェックし、採点する祖母の性根に強い違和感があったこと、また姉に嫌われていたこともあった。それらを女性という括りにいれて反発し、意趣返しや八つ当たりをする動機があったと思う。小学校では何かをやるとすぐに女子に言いつけられ、先生に怒られると思っていたので、余計、反女子的態度になった。

 

また、あらかじめこちらが相手を嫌ったり、相手に嫌なことしていれば、嫌われる理由を自分自身の内在的なものではなく、わざとやっているものとみなして、自分を守るということもあったようにも思う。

 

しかし、クラスのなかで一人だけ普通に声をかけてくれる女の子がいて、その人は変なやつとか、嫌なやつとか、そういう感じでなく接してくれていた。もちろん自分はそれに対して素直に応じられるような子どもではなくて、その子と話したかったり、声をかけられて嬉しいなんて気持ちを認めず、自分は女子を認めない、好きになるなんて弱みは決してみせない、嫌っているのだ、という態度をとっていた。

 

その後中学校は同じだったけれど、クラスは違うし、不登校になったし、卒業後は北海道に行ったので、その子に会うこともなくなったけれど、たまに実家に帰るときなどに見かけたりしていた。

 

二十歳前ごろか、やはり彼女は大きな存在ではあったので、手紙に会ってくれないかと書いてだしたけれど、断られた。しかしちゃんと返事をくれるところが大したものだなと思う。返事がきたら自分が先に出したくせに読むのが怖くて、手にとったけれど抵抗のあまり部屋の隅に投げ捨てたりしていた。最終的になんとか読んだけれど。

 

会うのは断られたけれど、実家に帰っていたときにまた遭遇して、結婚すると言っていた。彼女に対して、恋愛的な感じが全くなかったわけではないけれど、薄いので、ああ、そうかということで、とりあえず会えたし、終わりにできてよかったと思った。

 

アロマンティックという区分がある。アセクシャルの人は、無性愛者で性欲がないけれど親密になりたい感情はあるのに対し、アロマンティックのほうは、性欲はあるが、強い愛着(恋愛)感情を持たないとされるようだ。強い愛着関係を求めず、人と別れても辛くない自分は、アロマンティックの傾向が強いのかなと思う。

 

その子に対する気持ちは、尊敬というところが大きかった。人をそねんで、嬉々として嫌いアピールをするような奴であるにもかかわらず、自分を人と扱ってくれた人として記憶している。

 

関わりがなかったので、あまり彼女のことは知らず、自分が想像しているのは自分だけのイメージである場合も多々ありそうだけど、僕が人に人として向き合うというときに想定されているのは、彼女のあり方だ。僕は彼女に救われていた。

 

先日、仁藤夢乃さんの話しを聞きに行ったとき、仁藤さんのあり方には自分はとてもなれないなと思った。街で、男に絡まれる女の子と男の間に割って入ったり、助けを必要としている人のように見える人に声をかけて無視されたりといったことは、怖くて、あるいは傷つきそうでできない。

 

気持ち悪さの部分においては、僕はあまり挑戦や踏み出しをせず、安全なところに退避するだけだった。誰かに、自分が怪訝なことをした、気持ち悪いと思われたのではというだけで、ちいさなフラッシュバックがまたくるように混乱する。僕はその混乱が日常でこないようにすることに、何より労力を払い、気遣いをしている。

 

それが自分だけを見ていることであり、それこそが気持ち悪いみたいなふうにおもいこもうとしても、あまり効果はない。思いこもうとするのは効かない。ならば、どうすればいいのか。

 

仁藤さんは最後に自分が見知らぬ他人の声かけに救われたエピソードを紹介してくれた。仁藤さんは朝帰りの電車で、クラスメートがはつらつと登校しているところにでくわした。仁藤さんは、自分とクラスメートのあまりのギャップに、恥ずかしさで顔をあげられず、携帯に集中した。いたたまれず駅で電車から出たときに、知らない女性が仁藤さんに「おはよう、今日も寒いね、気をつけてね。」といったような声をかけてくれたという。

 

仁藤さんにとってそれはとても大きな体験だったという。

 

孤独で、惨めで、世間に白い目で見られていると感じ、自分自身も自分を最低にしか思えないとき、まるでそんなことと関係なく、人として関わってくれることが、どれだけの驚きと救いをその人にもたらすだろう。

 

僕が中学を卒業して、北海道の牧場にいき、牧場主の子どもたちが自分を信頼してくれたことを思いだした。子どもたちは、無邪気に、自分のそのままの気持ちを僕に預けてくれた。それが裏切られたら傷つくような、僕自身は決してしないような、そんな信頼を彼らは僕に対してくれたように思った。

 

こんな僕を信頼していいのか。なぜそんなふうに信頼してくれるのか。そういう思いだった。自分のほうは決して傷つくまでは人に預けないのに。

 

しかし、今更ながら、自分がそれを返していく必要があるのだろう。30年経って自分は変わっていないのだから。自分が救われていくためにすることは、自分と同じような状況にいる人に対して、その人の属性も過去も行動も何も関係なく、人として応答することなのだ。 

11/16 路上で出会う”彼女”の話〜若年女性の居場所と性暴力〜

仁藤夢乃さんの講演を聞きに。

 

もともと本を読まない人間だけれど、最近ますますお勉強(してないけど)のために本を読む感じのことができなくなっていると感じる。しかし、仁藤さんの話しは身体的に迫ってくる。お勉強感はない。

 

 

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女性が性暴力にあった際は、女性側の(自分の身を守る)責任が直ちに声高にさけばれ、抑圧される。

 

 

家で虐待されていて家に帰れなくても、どんなに寒くても、お腹が空いていても、男についていってはダメ、襲われたら死ぬ覚悟で激しく抵抗しないと抵抗とは認められない、というようなことが中高生にさえ言われる。

 

16歳の女性が売春を行ったとして逮捕されたけれど、女性が勧誘すると罪になるのに、男性が勧誘しても罪にならないという指摘もあった。

 

性暴力を抑圧する言説には恨みがはいっているような感じがする。

 

また自立主義とでもいえばいいのか、非難されない人であるためには、他人の暴力の行使をさせない力を持っていなければならず、自分の状況に対応する能力にあわせて、暴力を自分に身に及ぼさない判断と行動をする義務があり、そうでなければ本人に落ち度があるとするマッチョな規範を自他に課す態度がある。

 

マイノリティ性をもつとは、一つには人間として尊厳をもって応答される条件にみたないという括りに入れられることであると思う。「一人前」とされる価値はあらかじめ与えられているのではなくて、その社会において有用だと認められる価値における競りあいに勝利したうえで与えらえる。

 

残念なことに、そのような人間の価値の認定が世間は大好きであって、稼げる人と稼げない人、迷惑をかける人とかけない人、空気を読める人と読めない人、コミュ力のある人とない人など、自分たちより一段下の「人間以前」を作りたがる。(「人間」は尊厳をもって応答される存在であるので、馬鹿にされ蔑まれるということだけで、その人たちは人間扱いされていないと十分に言えると考える。)

 

問題が根深いのは、そのように尊厳をもって応答される存在でないとされた人は、それによって下げられた価値をあげて、周りから尊厳をもって応答される「人間」に到達するために、厳しい規範を自分に課すようになることだ。

 

その規範は、自分だけでなく周りにも適用され、自分の基準をみたしていない人は、人間以前(尊厳をもって応答されるに値しない・なにがしかの義務を負わなければならない)として認識される。そして「人間以前」にされた人が周りに「人間以前」を再生産していく負の循環が生まれる。

 

「迷惑をかけない」ということが人をまともに応答されるべき存在にする価値であると考えている人は、その人の基準において「迷惑をかけている人」がのうのうと存在して、自分と同じ扱いを受けられることが心理的に許せない。

 

さて、そう考えると、他人に強い抑圧をする人は、既に強い抑圧を内在化させている。強い抑圧を内在化させているということは、その人は既に社会からいちじるしく尊厳を奪われているということになる。

 

苛烈な抑圧をする人は、自分自身にもその価値基準を敷いている。敷くというと、選択できるようなものに思うかもしれないけれど、選択以前にそれがそうだと絶対化されており、むしろ自分はその価値観に圧倒され、支配されている。だからこそフレイレは、抑圧者にも解放が必要だという。(フレイレは、無力さこそが抑圧を解放するのに必要なものだとも指摘している。)

 

強い抑圧を内面化している人は、自身に対して達成されるべき高い基準を課している。そして価値の基準において、「人間以前」の存在を生産している。国籍、人種、特定地域、性別などに対する差別は、何の中身も伴わずに、非常に手っ取りばやく自分を「人間」や「普通」に格上げする手段になる。

 

生まれたところや遺伝など、どうしようもない属性をもって、人間であるのかそれ以下なのかの基準にしてしまう性急さは、その人が自分の中身に何の価値も感じておらず、既に危機的であることを示していると思う。

 

抑圧をもった人にとって、自分を「人間」にしている「人間以前」の存在が、自分たちはそのままで人間であると主張することは、自分が人間である根拠を奪われることであり、同時に自分が正しいと信じている(実際は支配されているだけなのだけど。)価値観が否定され、侮辱されたと感じられる。

 

性暴力を受けた人たちに対する厳しすぎる基準の押しつけの背景には、まず社会から「人間」」に足らぬものとされ、多くを奪われた人たちが、手っ取り早く自分を「人間」にするために自分よりさらに「人間以前」の存在を再生産し、その存在に依存しているということがあると思う。

 

それはここでは、男性に対して劣るものとしての女性という、性差別への依存だ。この依存の手っ取り早さは、この差別が多くの人に取り入れられる要因になっているだろうと思う。

 

そして「人間以前」の存在に「自分たちも人間だ」と声をあげられることは、自分が人間であるために依存していた根拠を否定されることであり、侮辱されたと感じる。自分たちが女性より優れているから「人間」であるというその幻想を打ち砕く。

性暴力を受けた人が声を上げることに対する、強く、陰湿で、執拗な攻撃は、侮辱に対する復讐という動機もあるのだろうと思う。やっと「人間」になった自分を再度、「人間以前」にしようとするものを許せない。恨みにみちているように感じるのは、一つはそこがあるのかなと思う。

またモテ、非モテ的な、性的な魅力の多寡こそが「人間」と「人間以前」を分けるものであるとするところで、抑圧された側は性被害の訴えは、自分に性的魅力があることの遠回しのアピールとして曲解されるのも恨みが感じられる要素なのかもしれない。

自分で全て責任を持て、というような過度な自立主義の強制も裏返せば、自分は(実際は)状況に対して奴隷みたいに我慢しているのだけれど、その状況を主体的に価値あるものとして選んでいるというすり替えの欺瞞が露わになるような恐怖があり、その欺瞞を見ないためにされているようにも思う。

底では惨めさを感じているのに、自分は重要な価値を生きている主体であると信じ込もうとする欺瞞。声を上げる「被害者」は努力をしないフリーライダーであり、同時に目を背けている自分の欺瞞の告発者でもある。だから求めることは「黙れ」になるだろう。

まとまりなく。

【報告と考察】11/12星の王子さま読書会

星の王子さま読書会、次回は12月10日(火)18:30〜@茶山kpハザです。

 

今回のチラシはこちら。

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月1回のペースで27回目ということで、2年をこえた読書会。

 

今回あつかった範囲は、王子がへびと話しているところに遭遇したパイロットと王子のやりとりで物語はかなり終盤です。

 

案内役の西川勝さんは、中井久夫さんの言葉から、オンリーワンからワンノブゼムへ、唯一の一人から多くのうちの一人となることへの移行の重要性について焦点をあてられていました。

 

物語では、王子が別れを拒絶するパイロットに対し、自分が満点の星のうちの一つになることで、パイロットにとってはどの星をみても王子が笑いかけているというふうに感じるようになると伝えていました。

 

モンゴメリの『赤毛のアン』においてもアンがもし自分がある一つのものを本当に好きになったら、たとえその場所から離れても、周りのものからそのものを見いだすことができるようになるというふうに話しているくだりがあったのを思いだしました。

 

王子は死ぬにさきだって、パイロットに対し、君は羊をくれたし、羊をいれる箱も、鼻輪もくれたと伝えます。王子はパイロットに最初にあった時に、それらのものを書いてとお願いしていました。王子は自分の星に帰るとき、それらのものが必要であるといいました。

 

もちろん描いたものは絵であって、現実にはなりませんが、王子にとっては実際のものになるのです。ここで、王子はパイロットとは生の位相が違う存在とされていると思いました。

 

位相の違い。たとえば墓参りする際に線香に火をつけるとき、死者は煙を食べるなどと言われます。煙は生きものに燃焼するエネルギーを与えることはできませんが、死者はそれによって存在を持続させるエネルギーを与えられます。生者と死者は存在の位相が違うと設定されているのです。

 

王子は別れるときにも、パイロットが描いた絵を王子の世界において、現実に存在するものとして語っています。王子とパイロットが出会ったのは、パイロットが砂漠に不時着し、生と死のまさに間にいるときです。そういうときに位相の違うものと出会うことができるのでしょう。

 

王子には不思議なところがあります。パイロットの質問には直接答えず、いつも一方的に語りかけること、パイロットの考えていることはパイロットが発言する前から知っていることなどです。パイロットはそういうことに戸惑いながらも、王子に教えられ、王子を深く愛するようになっていきます。

 

ヘビと王子が話すところで、パイロットにはへびの声は聞こえず、王子の声だけしか聞こえません。物語において王子は花や動物と話しますが、パイロットが人間以外と話す場面はありません。

 

へびと王子の会話のシーンからは、外の人からみると、実は王子は花や動物と話していると妄想しているだけで、実際は妄想の世界で独り言を言っているだけなのではないかと思われるのではと思います。

 

同様に、王子も実は存在するものではなく、死にかけたパイロットのイメージとして現れているというふうにも考えられるかもしれません。もしパイロットの姿を外から見ている人がいたら、パイロットは延々と一人で、誰かと会話をしているような独り言をつぶやき続けているのです。

 

パイロットは幼いころにうわばみにのみこまれた象の絵を描いて、大人たちがそれを理解しないことに絶望して、絵を描くことをやめました。そして王子はパイロットにまず絵を描くことを求めて現れてきたのですから、王子はパイロットの内側の、パイロット自身の止まったままになっていた「幼な心」であったのではと思うのです。

 

(このあたりの解釈は西川さんによると、ユング派のフォン・フランツが『永遠の少年』で書いているらしく、僕は読んでいませんが、心理学科を卒業して、心理っぽい中途半端な見方にとらわれているかということかもしれません。まあそれでもそう思ったのだから、思ったことをベタに書きます。)

 

パイロットが生きものも水もない砂漠に不時着したとは、つまりパイロットが本来自分にあった幼な心を見捨てて、魂の危機にあったということと重ねられているとも思えます。砂漠で実際に水に飢えるように、パイロットの幼な心は自らの絶望によって水を断たれたままで今にいたり、いよいよ危機に瀕していたのです。

 

王子はパイロットが「大人」として固まってしまった部分を揺り動かして、もう一度幼な心を再発見していくように、やや強引に導いていきます。

 

王子は旅を続けるなかで、馴染みになったものに責任をもたなけばならないと気づき、自分が自分の星に見捨ててきたバラを捨ててきたことを後悔します。そして王子はそのことをパイロットに伝えます。

 

「馴染みになったものに責任を持たなければいけない」とは、まさにパイロットに対して、自分と馴染みになったのだからその後も責任を持たなければいけないよというメッセージでもあるのでしょう。王子とパイロットはそもそも一体のものであったのに、王子が花を見捨てたように、パイロットは自分の幼な心を今まで見捨ててきたのです。

 

王子がパイロットに語った旅の物語は、幼な心を失うことがどういうことなのか、王子自身が取り返しのつかない悲劇に自分を捧げることによって、その犠牲をもって、パイロットに認識させるものだったのではないかと思います。

 

王子は犠牲になることによってしか、パイロットを揺り動かせませんでした。誰かを犠牲にすること、傷つけることによって、人が人となっていくということは、僕自身も最近認識するようになったことでした。もちろんそれは放縦に人を傷つけていいと高を括ることを意味していません。

 

しかし突き詰めていくと、誰かを犠牲にし、傷つけること、誰かが自分の代わりに傷ついてくれることによって、自分の心が心となっていったことは否定できないことだと思うのです。そしてそのような加害者性の自覚のもとに、人を、自分を、ゆるすということがはじまるようにも思うのです。

【感想】熾(おき)をかこむ会  「責任」や「個」の終わり

「責任」や「個」という概念が現実のプロセスとは乖離したものであることがより実感されてくる。それらは今の社会を回すための基礎的な概念であるけれども、社会が複雑化してきて、現実というものは今まで済ませてきたようなこれらの素朴な割り切りでは扱えないことがわかってきた。

 

たとえば、環境問題というのは、誰がその責任をもつ主体であるのかがわからない問題に対応するために作られた分野でもあるとも聞いた。

 

公害を撒き散らした企業であるとかは、明らかではないかと思うかもしれないけれども、社長より株主などの方が上だったり、公害に関わった人というなら社員全体なのか、というように、現実をより実態に即してみるならば責任の主体がだれなのかはより曖昧になってくる。

 

水俣病においても、加害企業であるチッソに対して裁判で勝てたのは、内部検証において有機水銀水俣病の原因であることが判明していたのに隠蔽していたことが内部告発によって明らかになったからその点において大きな非が認定できたところも大きいのではというようなことも聞いた。

 

「責任」や「責任を持つ主体」という古い考えかたがもはや成り立たなくなっているのだと思う。話題になったグレタさんの告発は主に国や企業のような大きな権力に向けてされたものであったかもしれないけれど、責任を持つべきなのは製造者であって、使っている消費側は関係ないし、などということは、良識のある人であればもう言えない。

 

それぞれの個人には厳しく「責任」を持つ範囲があり、その外では「責任」を持たなくていいという素朴な考え方で社会は動いている。だがその責任という考え方は、実際には責任の「外」をつくる機能を果たしてきたといえるのではないかと思う。つまり、ある範囲に厳しい責任を持つかわりに、それ以外の範囲に関しては全くの無配慮でよく、放縦であっていいという暗黙の許可のために、「責任」という言葉は生まれていたと思うのだ。

 

思いをもち、自分たちが割を食っても社会環境を変えようとしている市民の活動団体が行政の無責任さや放縦さを嘆くのをよく聞く。限られた範囲の「自分の責任」や表面上の辻褄合わせさえ果たせばいいということが横行している。知っていて高が括られている。これが「責任」「責任をもつ主体」という概念の限界なのだと思う。この考え方のままでは社会システムの機能不全は改善しない。

 

さて、かといって今の社会はその成り立ちの基礎部分からこれらの概念を前提にしているのであり、そうそうすぐには変わらない。一人の人が生きているうちに変わるかどうかはわからない。

 

切迫するニーズをもった一人一人の人は、自分が死んだ後に社会システムが変わって必要だったものが多くの人に提供されるようになっても仕方ないのであり、社会が変わるのを待っていられない。必要なものは誰にまかせるでもなく、自分たちの間で生み出すことが必要になる。

 

そしてこのことこそが、行政が枠組みを決めて一方的に提供する死んだ公共性、排除の組み合わせで作った公共性(「公園」で金銭をやりとりするてづくり市が認められないみたいに。)とは質的に違う生きた公共性とその意識を育むだろう。

 

正味のところ、一人一人の人は、主体意識を減少させられること、主体意識が育まれる体験から離されることで人間として疎外(本来持っている可能性を埋められ、ダメになっていくこと)されるのだから、一方的に決められ、提供される公共などは公共でもなんでもなく、むしろ逆のものだ。

 

(ついでにいえば主体意識といってもそれは周りとの人間的なやりとりによって生まれ育まれるのであり、一人のなかで育まれるものではない。自分だけに帰属するようなものは、健康的でも創造的なものでもないだろう。自分という捉え方自体が世界から自分を区切ることであり、閉じることであるのだから。)

 

「未来の社会」があるとして、そこからみれば今はそういうことが理解されない文化以前の社会、古代社会なのであるだろう。一人の人として生きるとき、大事なことは現社会で流通している理屈を真に受けない、信じこまないということなのではないかと思う。

 

前置きが長くなった。話しの場では、「責任」とか「個」という概念を真に受けていると人にも場にも変容のプロセスがおきない。そういうものへの意識や強迫が打ち消されているとき、自律的なものが動きだす。

 

熾(おき)をかこむ会では、自分のなかで動きだそうとしているものをたき火のなかに残っていて空気にあたって燃焼するのをまっている熾とたとえる。

 

身体教育研究所の野口裕之さんは精神は忘却の過程であるという。僕が思うに、精神とはたとえば煙突のようなものであり、その煙突には物心がつく前からススがたまっている。

 

僕はある人が生きることを通じてしたいこととは、つまるところ、その煙突についたススをとることなのだと思う。そのススは、自分なりのやり方でしかとることができない。

 

精神は獲得を求めていないと思う。あたかも獲得を求めているように見えても、その獲得がすでに持っていた不安や痛みを打ち消すから求めている。抱えている不安や痛み自体を取り除きたいという動機で動いていることが、見かけ上は獲得しようとしているように見えるし、つい自分でもそう錯覚してしまう。

 

その精神という通路に残っている「スス」をたき火に残っている熾(おき)とたとえているのだけれど、それはたとえば深い川の水面下の層にたとえることもできるだろう。表面のほうで水がはやく動く層があり、その下にゆっくり動く層があり、さらに深くなれば、ほとんど動きがみえないような層がある。

 

下の層のことはなかなか意識には上がらない。しかしその層に影響されていることは生きているなかでなんとなく把握されていく。会のなかで「風景」という言葉がでた。言葉や具体的エピソードにはならないのだけれど、「風景」として記憶されているものがある、と。

 

その風景が自分の底にあり、なぜだかわからないけれど、その風景にもう一度出会いたいという気持ちがある。そのような動機もまた、止まった時間として精神にとどまっているものを動かし、消していこうとする求めであるのではないかと思っている。

 

既にあるものを完全に守ろうとして、「責任」で自分や人を雁字搦めにするとき、人は自分に必要な体験もできなくなってしまう。「責任」は意思(による世界の完全なコントロール)とセットであるのだけれど、台風のように、どちらかというとコントロールできないものによって世界は成り立っている。

 

意思によるコントロールをどこまでもすすめることは、結局は人間から生きることを奪ってしまうだろう。だから「責任」ではなく、「救い」を生きるというあり方に移行してもいいと僕は思う。

 

浅い、ごまかしの救いを生きるときは、人は自分に閉じ、他の人から奪うようなことに熱心になるけれど、自分の深い「救い」に生きることは、そのイメージとは裏腹に周囲に影響を与え、公共的なものさえ生み出す。深い救いを生きようとするとき、世界に関わること抜きに生きることはできない。

 

深い救いを生きる人は、周りには「責任ある人」「私を捨てて生きる人」のような印象さえ与える。

 

自由放縦であること、できる限りの享楽と安定を自分の周りにかき集め、所有を維持することが幸せであると思える人は、逆にそこへのこだわりが絶対化しており、強迫的に生きている。

 

自分のなかにずっとあった強迫性から解放されたときの気持ち。それを感じたとき、人は自分はこれを求めていたのだと思うのだけれど、それはあくまで結果的なことであって、多くの場合は自分の強迫性に従い、その強迫がなくなるまで獲得することが幸せだと思っている。

 

社会や他の人の有用性のために生きなくていい。自分の深い救いを生きていい。世間は「意思」や「責任」を絶対化するけれども、それらで世界はまわらない。むしろそれで支配しようとすると世界は閉じ、いびつになり、こじれていく。

 

自分の「意思」や「責任」の限界を認めるところで、別の質感をもった新しい世界がひらけてくる。社会制度が何も変わらなくても、自分の感じる世界は変わっており、そのことによって、自分は以前の自分とは違う質的な変容を経ている。

 

その変容自体が、自分の周りの強迫を解きほぐし、環境を変えていくだろう。人は一人だけでは回復しない。周りとともに回復していく。「個」は便宜的な区切りであり、見方であって、実際の影響を見るならば、一人は一人でなく、世界と一体として存在している。

 

そこでは範囲を限定し、強制される「責任」ではなく、世界と自分をともに活性化させる「応答」が生きることの基礎になる。応答には義務がなく、罰もない。しかし、どこかに責任をもって、どこかに無責任になるようなことは、確実に自分に影響を与えることは当たり前のように理解されるだろう。