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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

孤を終わらせる動機 人間と演劇研究所「からだとことばのレッスン」に行ってきた

→大村はま →林竹二(教育哲学者) 🔳教育

人間と演劇研究所の「からだとことばのレッスン」に参加。
リードする瀬戸嶋充さんは、野口三千三、竹内敏晴、林竹二に師事されたということでお話しをきいてみたかった。

 

林竹二は僕も立命館大の長橋為介さんに教えてもらわなければ知らなかった。卒業研究みたいに関心ある一点について文献を追っていくということをしなければ、価値ある情報も出会わないままなのだろうかと思った。そう思ってもやらないけど。周りに出てきた情報を少しだけ追ってみるだけになってしまう。

 

大村はまさんもそうだけど、吟味され、既に到達してくれている知見があるのにそれが後世の常識になってないのはどういうことだろう? むしろ常識は後退しているのではと感じる。世間も僕のようなものだからか。

 

教育に関する林竹二、言うことの次元が違う。引用する。(今はリンク切れで元ブログアクセスできず。)
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「林氏は授業の核心は発言ではなく、その吟味であると言う。
 吟味とは、「何かを教えることではない。問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業」であると言う。「学問というのは、カタルシスだといっているのです。吟味がその方法です」林氏は子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時であると言う。「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」」
http://www.chiba-fjb.ac.jp/masao_n/jikiden/shugyou(10)/bunseki2.html
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「真の否定が行われる」という言葉、その視点はなかなか聞けない気がする。僕は自分のなかでは棄却という言葉を使っていた。もう二度とその考えでぐるぐるすることをなくならせること。理解とは既にもっているもの、曖昧だからこそかたちをもち残っているものを完全に終わらせることのほうに近いのではと思う。

 

竹内敏晴は、大学の学部の時のテキスト『人間関係トレーニング』で知った。関心は持ったけれど関西付近でワークショップなり体験できるところが見当たらなかったまま、そのままになった。ある時橋本久仁彦さんと野村香子さんのワークショップを受けて、ダンサーの人の感性すごいなと思ったのがきっかけで、コンタクトインプロの定期レッスンに行ったり、ダンスのワークショップに行ったりしだすと、アイスブレイク、ウォームアップ的なところで竹内敏晴や野口三千三のワークがそれと銘打たずによくされているようだなと思った。名前は出てこないけれど、その断片が日常のものとしてそれぞれに受容され浸透している感じがした。そして林竹二と対談している本『からだ=魂のドラマ』に出会って、二人が共に活動していたんだということを初めて知った。

 

今回の参加にあたって、ここでは「ことば」という言葉の使い方が独特だなと思った。身体に重きがおかれるところで、ことばといえば「言葉=思考=動きやプロセスをとめるもの」「考えるな感じろ」的な距離感がありそうなところなのに「ことば」と使うのはなぜなんだろう。使われている言葉から考えてみる。

 

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長年の実践を経て「からだとことば」そして「いのち」への眼差しが、私の中で開かれてきました。両氏(→野口三千三と竹内敏晴)の語っていた「からだ」とは「いのち」のことであり、「ことば」は「いのち」の現れそのものであったことに気づき、同時に「からだ」=「いのち」が私にも諒解されてきました。

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ものごとをありのままに見るはたらきを妨げる「からだ」と「こころ」のこわばりをときほぐすのが「野口体操」のレッスンです。
深く広い集中によって、ありのままの自分を生き、他者とのつながりの中に「ことば」への信頼と「ことば」の豊かさを取り戻していくのが「竹内からだとことばのレッスンです。」

「からだとことばのレッスン」ワークショップパンフレット
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「からだとことばのレッスン」で、私が求めていることは、自分の「からだ」を「ことば」に明け渡してしまうことです。「ことば」に明け渡すということは、物語の戯曲のセリフなど、「ことば」に内在する、感情やイメージに自分の「からだ」を明け渡すことです。

この場合、障碍になるのが、自分(自意識)です。・・(略)・・
自己の表現に対して、常に自意識の監視がつきまといます。

「ことば」に「からだ」を明け渡すとは、自分の表現を作り出すことに、責任を持ちません。表現の主体(本体)は自分では無くなります。「ことば」に触発されて身内から生まれる感情やイメージが表現される主体となって、自己を衝き動かす。意識はそれを妨げない。そのためには表現を受け取る側(相手役や観客・対象)へと、途切れることなく向かい続ける、開けっ放しの集中が求められます。

いまこの場に生まれ自ら衝き動かしている表現に、自意識が善悪好悪の評価を加えようとする瞬間、注意(集中)は自らの「からだ」と「こころ」に囚われ、外部に向けて開け放たれていた集中は蓋をされ、「ことば」(イメージや感情)の表現の道筋は閉ざされてしまいます。

この場合の表現において、責任を持つとすれば、それは自分の「からだ」を開き続ける努力(深い集中)に対してです。その時々に、自分の内側から表現されてくる結果に対し、自ら評価を下してはならないのです。

「ことば」自体が目的を達成します。自分の目的を持ち込んで達成感を目指せば、物語や戯曲自体の持つ「ことば」の「いのち」は葬りさられることになります。

人間と演劇研究所ブログ
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-235.html
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「からだ」とは「いのち」の現れそのものであるとある。その「からだ」を「ことば」に明け渡す。「いのち」の現れそのものを「ことば」に明け渡す。

 

間違いを承知で自分なりの言い換えを探してみると、明け渡すというときの「からだ」は、自意識の支配下にある「からだ」という感じがする。「いのち」の現れとは、生体に不断に働いている動的なプロセス、更新作用そのものだとしたら、自意識はそのプロセスが動き出すことを阻害する。「ことば」とはプロセスが自律的に提示する道筋ともいえるのかと思う。自意識は自分の崩壊の危険を避けることを明け渡し、兆しとして現れてくる、保証の無い浮き石に運命をゆだねて渡っていく。


「からだ」そのものであり、物語や戯曲の「ことば」がもつ「いのち」とは。「からだ」が個人に属すものと受け取られるのに対して、「いのち」は物語や戯曲にもその範囲を広げている。

 

ここにきて、「からだ」「ことば」「いのち」はひとつのものを指すのではないかという気がしてくる。それは、全てが一体となった関係性のなかに存在する自律的で動的な更新プロセスではないだろうか。

 

「からだ」と「ことば」の自律的が自意識によって阻害される。個というものも恣意的な区切りに過ぎないが、その区切りの範囲内だけで限定するなら自律的プロセスは阻害を越えることが出来ない場合がある。

 

そこに物理的存在としての他者(他人)があると、むろんこの場合も自意識の阻害の影響を受けるのだが、自律的な動的プロセスは自分と目の前にいる人とを「融合」させ、この二人をして全体・総体として自らを展開させていく力を得る。

 

「いのち」と表現される自律性の強い響きは、大きな力を持つ。人の深い部分を揺り動かす強度をもった物語や戯曲は、その自律性の質の強度は、自意識の強力な保守性に干渉し、揺り動かし、塗り替える力がある。

 

自律的で動的なプロセスは個として区切られたあらゆるところに存在し、同時に全体としても存在している。

 

それは、自らによって自らの目的を達成する。限界ある人間としてできることは、そのプロセスがプロセスとして進むための環境を整え、プロセスをつないでいくことではないだろうか。

 

そしてこのプロセスをすすめるための条件や動機は何かと考える。自意識の強力な保守性、自身への固執を越えるものは何なのか。もちろん、自律性自体がその力を持つものであるのだが、僕はそこに個体としての動機を重ねることが有効なのではないかと思う。

 

それは弔いだと思う。自意識は死に切れない業を持つがゆえに存在としての苦しみを持つ。作用に反作用があるように、死に切れない苦しさを持つがゆえに、そこから解放される強い願いを不可避的にかかえている。

 

弔いは、死に切れないものを死に切らせるための祝祭の空間で遂行される。その空間は自意識が死なないために同一化している価値が無になるところ。自意識はその空間の支えによって、同一化している価値から離れることができる。

 

そしてその弔いの動機とは贖われることのない孤独であると思う。個として持った存在の根源の苦しみ。個は孤。個(孤)として区切られたゆえに否応なくもたされる世界からの絶対的な隔絶、孤立、遺棄。深く孤に突きつけられたものがその苦しみを動機として、死に切れない生の業に拮抗することができる。

もはやごまかしきれない生の業に直面しそのなかにいるものが、抗い、個を終わらせる動機をもつと思う。施設に入れられた子どもが、成人後同じ立場にある子どものための施設をつくるドキュメンタリーを観たことがあった。苦しみへの向き合いは、弔いのかたちをとるようにみえる。終わらせるためにもう一度そこに苦しみの本質を現前させる。そこに自ら対峙することは、根源的な苦しみに対する防衛反応として死なないことを引き受けていた自意識の役割を解き、消滅させていく。

遊び 揺り動かし、意味から解き放つものとして

遊び。

先の投稿で哲学カフェについて書いたけれど、僕は哲学書の一つも読んでいない(それがいいとも思ってないが。)。既にある体系ももちろん重要なのだけど、さらに重要なことがある。それは何かの権威よりも自分のなかにある自律性を優先させるということだ。この自律性の優先がまずあって、そこから聞く耳をもつのが大事なのであって、はじめから権威に従うのは本末転倒だ。それは自分を駄目にして力を奪っていくことに等しい。軸が失われ、身体に一致してない行動によっては学ぶことはできず、更新はやってこない。


自律性というのは、遊びというかたちをとって出てくる。あるいは遊びという場のなかに出てくると思う。哲学カフェで「哲学」を銘打っているのは、既にある価値観とか、しがらみを持ち込ませない「真剣な遊び」にするためだ。「哲学」と銘打つことによって、日常の価値基準がキャンセルされた場、ゼロになった場をつくる。そうしないと、自律性は遊び出さない。

 

邪魔しているのは、日常の価値基準。何が上で何が下なのか、何が正しく何が間違っているのかなど、決まった価値観の檻のようになったところで遊びはおこってこない。日常の価値基準の支配を無力化することが必要だ。

 

真剣な遊びにならないなら、やる意味がない。発想されて価値あるものは、動きだした自律性からのインスピレーションであると思う。それは真剣に遊ぶときに出てくる。

 

遊ぶことは揺り動かすこと。固まった認識や関係性、内在化した規範を揺り動かす。ここには状況に変化を起こそうとする動機がある。固まったものが邪魔なのだ。それがエネルギーの流れや展開するプロセスを阻害する。その状況を変えるために遊びの動機が生まれてくると思う。そこには純粋な主体性がある。「わたし」が主体性を持つ/持たないのではなく、主体性は自律的に存在しており、それに「わたし」が向き合えるかどうかというのが実際問題だと思う。

 

遊びは異空間をつくっていく。日常とは違う価値基準や関係性で織りなされた空間をつくり、そのことによってまた潜在していたものが呼び覚まされていく。

 

findhappiness.jp

 

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ギブアンドテイクが破綻するところ

経済的な効率性や合理性に回収されないものがある。必ずしも肯定的な現ればかりするものでなく、犯罪のような破滅的方向にも向かう。この力は世間一般的なギブアンドテイクに手なづけられない。そんなものではもはや割りが合わないのだ。
 
 
逆に言うならば、ギブアンドテイクによっては生きることはあがなわれない。世間に従うことによって世間が提示する「幸せ」や「保証」を得るのでは割りにあわなくなった人たちは、その向き合いを生きざるを得ない。
 
 
多くの人が向き合いたくないことは抑圧される。その抑圧は無自覚に、自然と少数者に割りを食わせる。多くのために犠牲になれと多くに属する自分のために言って押しつける。
 
 
駅のエレベーターは、国や鉄道会社が善意からつけたのではなく、障害のある人たちの運動によってできたと聞く。少し前は障害者が出歩くこと自体がわがままとされて白眼視されていた。
 
 
今では駅で健常者が普通にエレベーターを使う。誰かが代わりにやってくれたことの利便性を享受しながら、時には障害者が車椅子でエレベーターを利用するのは、あまり人が乗れなくなるから迷惑だと言わんばかりの目で見る。
 
 
フリーライダーであることを知らず、あるいは開きなおって抑圧に加担する。ごく自然に。
 
 
既に出来上がっているものとは、誰かにとって都合のいいものであり、その誰が1人であれ多数であれ、力を持っているからこそ維持される。そこにある根本的な欺瞞を明らかにしたり、変えようとすることは、力を持つもの、そこに乗っかっている者にとっては、わずらわしく、認めたくないもの。
 
 
少数者の告発は、それが妥当かどうかという議論や意識化に発展する前に、取るに足らぬ愚論、おかしな話しとして退けられる。自我の自動的な防衛機能は「逸らす」ことにあり、まともに考えるものとしてそもそも意識にのぼらせようとしない。
 
 
少数者が自分が生きるためにやらざるを得ないことは、必然的に多数者の欺瞞を明らかにすることとつながる。悪意すらない無自覚な無視と開きなおった抑圧に少数者は人間として反逆する。
 
 
その反逆によってもたらされた利益は、エレベーターのように、また力を持った多数者に当然のように持っていかれるのだけど。
 
 
反逆の代償は、特許のように固定化できない。ギブアンドテイクにならない。世間的にはやり損なのだ。それによって弔われるのは自らのうちと、同じ抑圧に泣いていたものの心のうちだけだ。だけれど、何かをもらう引き換えのためにやっていたのではない。自身として生きるために贈り続ける。

哲学カフェ@本町エスコーラ 「自信とは何か」

12日は、本町エスコーラにて小さいお話し会という名で哲学カフェをする。

 

浜松のクリエィティブサポートレッツのフライヤーが簡潔に満遍なく哲学カフェとは何かについてまとめてくれているので、スムーズに導入できた。

 

テーマは「自信とは何か」。
そもそもそういうものが本当にあるのかというところから話しを始める。

 

「自信」という「肯定的なもの」が自分に加わるといいのか?
または「否定的なもの」、自分の価値を積極的に下げるものが取り除かれればそれでいいのか。

 

現実的な行動をするという意味では、いちいち自分というものに対して価値判断をいれて、自分が好きだとか、嫌いだとかの状態にもっていくよりただあるもの、ただあることをニュートラルにとらえるほうが滞りがないようにみえないか。

 

能力や容姿などの資質、環境、財産など「もっていること」と「もっていないこと」がなぜ否定を自己価値に侵入させるのか。

 

所有と「自信」との関係
「〜をもっているから私には価値がある」

 

何も持っていない人には「自信」はありようがないのか?

 

乳幼児に関わる仕事をした方が何もできなくても「ありのままで素晴らしい」と実感したという事例から推測すると必ずしもそうとも思えない。

 

「何か」に照らして劣っている、よくないということがあり、この参照する「何か」の価値基準を無自覚に信じ、絶対化しているということがある。

 

文化人類学者の波平恵美子さんが紹介していた事例で、昔ミクロネシア(多分。)に拒食症はなかったが、ツィギーという針金のような細い足をしたモデルが映像で紹介されてからその症例が報告されるようになったというものがあったと思う。

 

ある価値基準が自分の今を超える大きなものとして自分のなかに設定されなければ、何も苦しまずそのままでいたのだと思う。一旦その価値基準が自分にはいると、あとはそれに支配される。

 

主体的な私が価値観をもっているのではなく、価値観が私を支配している。「そうでなければならない私」をつくり、強迫を続ける。

 

無自覚な価値基準や思い込みは、それがどのように成り立っているかが吟味され、見られていくと、価値基準の前提となる部分にまるで妥当性がないことが見えて瓦解する。必要なのはその成り立ちに意識の光をあて、曖昧であるがゆえに成り立っていたものを成り立たせなくすることであるように思う。

 

無自覚な思い込みや価値基準は、それが明らかに成り立たない状況を目の当たりにすれば変わる。必要なのは「目撃」体験だと思う。

 

沢木耕太郎の『深夜特急』で沢木は初めてあった人に屋台に連れて行かれ歓待される。その人は気がいいが家も持たない貧しい労働者で、宴の終盤には姿を消していた。沢木は彼の人間観で、その人は自分をいい気分にさせてくれた代わりに自分に食事代をおごらすつもりだったのだと解釈し、お代を払おうとしたが屋台主にお金は沢木の分も含めて支払われていると告げられる。家も持てない労働者に何もかもをプレゼントされたのだった。旅の初期に贈られたこの人間観の変容はその後の旅の体験をどのように変えただろうかと思う。

 

無自覚に信じていたものがそうではなかったということを「目撃」するには、上記のような状況に遭遇するだけでなく、シンプルに前提を問うていく哲学カフェのような場も有効だと思う。適切な問いが現れたとき、曖昧なゆえに暗闇で成り立っていたものは元の状態を保ち得ない。

 

難しいことをあらかじめ知らなくても、それぞれの自身に深く根ざしたリアリティから問いを投げかけるとき、その問いは他者となり、場にある無自覚なものを破綻させ塗り替えていく。

 

哲学カフェを含めた対話の試行を続けていきたいと思っている。今回の「自信」についてのやりとりも一回限りではなく、誰かが気になったポイントでもう一回会をもうけて、さらに吟味していくこともできるだろう。自分たちの周りで気になったことを話し合い、吟味できる場があればそこにあるものはより新しく、有機的で融通無碍になっていくと思う。

 

医療人類学入門 (朝日選書)

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深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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「人と人」

昨日は個の尊重と調和というテーマで話し合いがされた。今まで個の尊重というと、その人の意思が示されたらそれにただ従うというイメージだった。

 

しかし言われてみると確かに、権力関係や上下関係がないところで、相手が何か言葉を発したらそのまま従うなら、お互いの意思の尊重ということがおざなりにされていることになる。その時の関係性は、役割の関係性であって「人と人」ではない。

 


お互いに意思や思いのある存在なのだから、相手の意思や思いを受け止め、しかし相手にも自分にも強制を持ち込まないで自分の思いも伝える。すると相手のなかもまた変化する。

 

 

求め自体がお互い違っているので、相手の求めることと自分がすることは一致しないかもしれないが、そこに強制と役割を持ち込まなければ、心は納得し調和に向かう。その時調和とは閉じた既知の場所にあるのではなく、今までお互いに居なかった第三の場所に行くことである気がする。

 

 

ただのスローガンでなく、「人と人」で話すということがどういうことなのかよく考えてなかったなと思った。自分の気持ちや思いは下げて、相手の言うことにただ従うのがいいというようになっていた。この時は上下関係を持ち込んでいるから、「人と人」ではない。

 

 

「人と人」であることは、どちらが自分をすぐに押し下げることをしていては成り立たない。その時は自分に強制を強いているから。役割を持ち込まず、相手に強制しないだけでなく、自分にも強制しないことを両立させたときそこに流れる関係性は「人と人」としてのものになる。一方だけではなく、お互いが自律的であることも「人と人」となるための必要条件だ。

 

 

個の尊重というときに、自分にも強制を持ち込まずにいると関係性はどうなるだろうか。無自覚に相手の要求にただちに従うことがいいことだと思っていたけれど、それは「人と人」を自分からあらかじめ取り下げることだった。与える人と受ける人という上下を自分から作り出す行為だった。

 

 

一方、「人と人」であること、強制や役割をそこに持ち込まず、お互いを自由で自律した意思を持った存在としてやりとりすることが尊重と呼べることであり、それはそれ自体で贈り合いだと考えることができるのだと思った。その時閉じた個は変容していく。

 

 

人と関わること、やりとりすること自体がそもそも贈り合いだと考えるとき、日々のあらゆるやりとりに違った向き合いが生まれてくる。

能力

ふと能力とは何だろうかと考える。

 

作用に反作用があるように、何かをより生かす力は、同時に何かを殺す力ではないだろうか。何かを生かすということは同時に見えない何かを殺していないだろうか。能力の本質は、そんなに諸手を挙げて喜べるところから成り立っているだろうか。

 

 

資本主義を強力に推し進め、戦争を作り出すようなところにいる人は高能力でその能力にさらに磨きをかけているような感じがする。相手を殺す力、圧倒する力はそういう不安定なところでしのぎを削り、暴走するように力を増す。

 

 

そもそも生きる力とは死に切れない力なのだから、そういう場所で暴走する能力が引き出されるのは道理だと思える。

 

 

それは長期的にみて自己破滅的であれど、短期的には勝ち尽くすことができるものではないかと思う。

 

 

生き延びる理屈とやさしさの理屈は違う。やさしさに生きることは、生き延びる理屈に沿うことと相いれないところがある。やさしさは生き延びる合理性の支配に対する反逆としてある。勝つことが奪うことを必ず伴うのであれば、やさしさは勝たない。

 

やさしさは勝ちを打ち消すものとして存在するだろう。

【報告】浜松のクリエィティブサポートレッツに行ってきた

浜松のNPO法人クリエイティブサボートレッツの1泊2日のツアーに行ってきました。

 

レッツは、武道家で臨床心理士の田代順さんからぜひ行ってみてくださいとおすすめされていたところ、今回陸奥さんのツアーがあったので早速申し込みしました。浜松はアズワン・コミュニティ経由のご縁でトランジション浜松も訪れてみたかったので行く動機は強いところでした。

 

 

夜はサマフェスというイベントがあったのですが、1日目はほぼ自由時間でその時間をどう過ごすかは自分で決めるという最初から自分が問われる感じ。研修とかいうことだとやることが決まっていて、自分がどうであるかというのはあまり気にしなくていいのですが、自分がどうしたいかというのが問われる場だなと思いました。

 

 

こういう時、大抵は僕はただ固まっていますが、固まりつつも、場の空気感はちょっとずつ感じていたかなと思います。場はピリピリした感じがなくて、スタッフも利用者も自然体で過ごしている感じ。自分もバイトで知的障害のある方と関わってはいますが、ここで初対面の利用者さんたちの状態がどうかというところまで感じ取る目がなくて、爆音で音楽やっているときの様子がすごいいい顔で笑ってたなあぐらいでした。

 

 

どちらかというとスタッフの方たちの感じのほうが比べたりできるので感じやすかったです。スタッフの方たちは、役割としてそこにいるよりも、個人としてのキャラが自然ににじみ出ているという印象を受けました。それはこの場の人と人の関係性のフラットさの結果なのか。自然体でいるときの人は、奥行きがあるなあと思います。

 

http://cslets.net/hotnews/news-666

 

100時間ツアーというのは、その場を体験するのにいい仕組みだなと思います。観光ということで、旅人としてそこにいる。旅人というのは、通りすがりの日常の役割に組み込まれてない、どっちつかずの存在です。そういう存在としてそこにいる。

 

 

支援者だとか、ボランティアだとかという守りにもなる役割がなく、ただそこにいるということは、なかなか難しいことなのですが、役割を通して経験することはなぜか「自分の経験」にならないのですね。同じ体験をしても、自分を変える経験にならない。そういうことではあんまり意味ないなと思うのです。役割ではなく、自分として経験する。その時に認識が本当に変わっていくように思います。

 

 

僕は、福祉とは何であるか、アートとは何であるかはわからないのですが、その場にある見えない関係性の状態がどのようであるかということが人の変化にとって大きな影響を及ぼすということにはずっと関心があって考え探っています。場を媒体をどのように設定するか、あるいは人が操作できないところを含めて場や媒体どのように設定されているかによって、その場でおこることが決まります。

 

 

何か面白いことがおこっているということは、自律的なものが間隙を縫って現れてきているということだと思います。自律的なものが現れる場に必要なのは自由さ、お互いの関係性のフラットさ、価値や意味の有無が既に決定されていないことなどがあると思います。逆に言えば、自律的なものが展開するのをいつも邪魔しているものがあって、その干渉をとってあげる必要がある。邪魔しているものは、かたちのあるものであるより、手で触れない「意味」や場の上下関係であったりするので、それを相殺するのは工夫がいります。

 

 

健常者は、障害のある人に比べて、物理的にできることが多く、きちんと自己一致しているかをおいて、場に身体を適応させ自動的に馴致させてしまいます。しかし、その盲目的に馴致する能力は自己疎外的にも働きます。自分自身のフィット感抜きに自分が動いてしまうことで場をしのぐことばかりしていると、自分が何であるかわからなくなり、糸の切れた操り人形のように破綻的で統合を失った不健康な状態になってしまう。

 

 

相模原の事件があったように、障害がある人が何で生きているのかと思っている人はネットを見る限りではある程度いるわけですが、なぜそのように人の命まで操作したいぐらい強迫的なのかと考えれば、そう思う人は既に追い詰められているのだということ見えてくると思います。なぜ追い詰められているのか。脅かされているのか。

 

 

それは人にとって自分が有用であるとき、自分には価値があり、有用でないとき、自分には価値が無いという規範を自分のうちに取り入れてしまったからだと思います。これは大抵環境から無自覚に取り入れられるものだと思いますが、この取り入れによっていつも存在が脅かされています。自分は脅かされながらも必死で有用であるように苦しい仕事などしながらようやく生きているのに、自分が裁かれているのと同じ価値基準によって、裁かれていない人がいる。自分は被害者であり、裁かれていない人は加害者であると感じられます。

 

この認識を取り去るには、身体化され、無意識化した自分の認識が揺り動かされる必要があると思います。無意識に取り込んでしまった規範を意識化させ、破綻させること。これが必要になります。

 

 

障害のある人と水平な関係性で同じ場を共にするとき、障害のある人には自分が常識としている内なる規範が通用しないということに否応なく突きつけられると思います。それによって葛藤し、問いが投げかけられた自分の認識を再吟味するなかで内なる規範(たとえば「人はこうあるべきだ」とか)が破綻すれば、救われるの自分自身です。その時、被害者であった自分が終わり、それにともなう怒りや惨めさの感覚もとれていくのだと思います。

 

 

レッツのこの100時間ツアーが企画されるのきっかけになったのは、
以前、レッツで学生合宿がされたことがあり、そこで学生たちが全員ではないにせよ大きく変わっていったということがあったことだったそうです。

 

 

研修でもなく、仕事でもなく、ボランティアでもなく、役割の鎧に守られていない素の自分としてその場にいること。そしていかにそれを自然に成り立たせるかというところが、工夫やデザインのしどころなのだと思います。

 

 

レッツでは「かたりのヴぁ」という哲学カフェも行われていますが、僕もこの哲学カフェという手法、場づくりのあり方に関心をもっています。哲学ということで、既に前提にされているような価値や習慣をもう一度ゼロにして問う。人を停滞させているのはやはり内なる規範であって、それは意識化され、吟味されることによって変化をおこします。普段の日常の場では、言い出せないことも言える場。それが哲学の場ではないかなと思います。

 

 

僕は心理の大学に行ったりしてどうしたら変化がおこるのかを探ってきたのですが、とても重要な要素としてフラットさがあると気づきました。贅沢をいえば「治療者と患者」という上下間があるとそれも変化の停滞要因になる。また「治療」という時点でもう「治るべき」という価値の序列がしっかりと場にしかれていて、それが変化のプロセスに入ることの邪魔をする。「べき」を感じさせない場が工夫できるのであれば、それに越したことはない。僕的には「成長」とかも「治療」と同じ構造で人を停滞させるので、「成長」とかそういう望ましそうな価値観や言葉からも自由になるのが一番いいと思っています。

 

 

そういう時、哲学というのはフラットに内なるものをプロセスしていける媒体として適していると思うのです。いかにフラットを成り立たせるか。レッツはそれがとても意識された場所だと思います。

 

 

1泊2日ツアーで31時間分のスタンプを押してもらいましたので、また残り69時間を消化していきたいです。