岩倉の畑をはじめたころからお世話になっている方が高齢になってその方の畑もぼちぼち終わろうかというようなことを話されているそうだ。
いつも野菜や苗を自家消費以上にたくさん作って人にあげられている。その量が多すぎていつももらいきれない。何の銘を打たなくてもフードバンクのような方だ。
今日はその方のエンドウの整理のお手伝いへ。これをあげるぞ、あれをあげるぞ、前にあげたあれは足りているか、と何度も何度も言われながら、僕たちももらえるだけはもらいつつも、もらえる以上の分に対しては、足りてます、大丈夫です、と何度も何度も言うけれどそれでもなお言われ続けるというのがいつものやりとり。
そのやりとりのなかで、すまんな、時間は大丈夫か、と気を遣われる。
「大きな畑だと思っていますから。」とそれにこたえる。直観的にこたえて、たぶん通じてない感じだったけれど、自分たちの考えかたとしてはそれでいい。
自分たちは「大きな畑」をやっている。それはいつもやっている区画の作業で完結するものではなくて、周りの人とのやりとり全てがふくまれる。そのやりとりを含めた、まるごとの全体が「大きな畑」だ。
「大きな畑」をやることで、自分たちの限られた区画だけやっているよりも色んな縁や話しが舞い込んでくる。そしてその舞い込んでくるものが、結局はいつも次の展開の決定的な土台になるのだ。
ただまんべんなく周りの人といい関係性でやろうとするのでもいいけれど、「大きな畑」をやっているのだと考えると、さらに積極的な気持ちになり、「大きな畑」のもつ潜在性を生かそうと考えるようになる。
自分の小さな区画だけを守って、そこだけの「生産性」にすがろうとするとしんどいけれど、「大きな畑」をやろうとすると、ギブアンドテイクではない、思ってもみなかった余剰の豊かさがめぐってくる。
ここだけと決めた区画の畑のことだけのことを考えるよりも、「大きな畑」を生かそうとするほうが、精神的にも楽だし、実際に自分たちがそれによって生かされる。次の展開もやってくる。
「大きな畑」をどのようにイメージするかで、同じことをしていても体験は変わり、感じかたも変わる。それぞれの人が自分のイメージする「大きな畑」をもてばそれは本当の「公共」を生んでいくだろうと思う。