降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

フレイレ 真正なる言葉 「パチンコは賭博ではない」から

フレイレの読書会。

別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。

 

フレイレは以下のようにいう。

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

 

僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、それまで前提とされていたとらえ方自体を変えるものだ。

 

既にある言葉より、さらに実態に近い言葉、フィットする言葉に置き換えていく。そうすると、単語だけでなく、それまでもっていたとらえ方が変わる。

 

無難だけれど、現実を覆い隠す言葉やとらえ方を使うのをやめると、次の思考にいける。たとえば、パチンコ店では換金はされない建前になっている。が、たとえ警察官であっても、オフでパチンコに行ったら換金しているだろう。警察に問い合わせても、換金がこれほど当たり前のことでも、公式には決して賭博なのだとは認めない。

 

僕はあえて極端な例をとっているつもりはなくて、このような虚偽のあり方が、まさにフレイレのいう「真正ならざる言葉」なのだととらえる。「現実」を荒だてない言葉、矛盾を隠蔽したままの「公式」の言葉。それがまぎれもない虚偽の言葉だ。

 

「パチンコは賭博でない」が建前として前提とされているところでは、それ以上の思考ができなくなる。よって、誰もが現実的な思考になっていくことができない。その結果は、単に部分的な矛盾の隠蔽に終わらず、社会の思考を止める働きを生む。ここがもっとも問題であるところだと思う。

 

「公式」がどうであれ、現実に即した、本当の言葉を使って思考していけば、次がひらけてくる。別にそれを告発しなくても、いびつな矛盾をそのまま明らかにしていくとき、世界の現実に近づいていく。

 

パチンコは賭博であるが、国はそれを賭博であるとは認めない。ならば、国とはなんであるのか、という思考。なぜパチンコが暗黙にギャンブルとして認められるのか。それは行政の言葉では決して語られない。そこから、国という実態は教科書に載っている通りのものではない、となる。ならば、その実態はなんなのか、ということが次の考えになってくるはずだ。

 

実態に即した本当の言葉は、目の前の世界の「現実」の矛盾をつき、欺瞞的に成り立っていた秩序に穴をうがつ。穴の向こうにあるものは、今まで馴染んでいた言葉では表現できないものであり、新しい言葉、新しいとらえ方が作り出されることを人に要求してくる。

 

日本が米国の属国であることも、建前上は否定されていて、野党も公式見解でそのまま言うことができないと思う。

 

「真正なる言葉」はそこから受けるイメージとは違って、まるで上品な言葉ではない。それはただ実態をそのままに表現している、今の秩序に馴染んでいる者からすれば、身を蓋もない言葉だ。しかし、次の時代から見れば、それは別にラディカルでも攻撃的でもないごく当然の言葉であるのだと思う。

 

実態からはじめよう。実態を言葉にしていく。「公式見解」と違っても、学者や権威が認める言葉と違っても、自分で見て、自分で確かめていって、そのうえで、現実を表現するのに妥当な言葉を使おう。そしてその言葉で思考していこう。対話に必要な言葉は、そのような言葉だ。

 

フレイレの読書会。
別の2つの読書会でも僕はフレイレをやっているので、三重にフレイレをやっている。

フレイレは以下のようにいう。

「行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。」

僕は自分が埋没している「現実」を変えるには、言葉を変える必要があると思う。そして自分の状態や状況を変えていくためにそうしてきた。しかしそれは、今まで「〜婦」と呼ばれていたところを「〜師」に変えるような、単語だけの変化ではなく、「Aは、Bだ。」といってきたことを「Aは、Bではなく、Cである」というように、それまで前提とされていたとらえ方自体を変えるものだ。

既にある言葉より、さらに実態に近い言葉、フィットする言葉に置き換えていく。そうすると、単語だけでなく、それまでもっていたとらえ方が変わる。

無難だけれど、現実を覆い隠す言葉やとらえ方を使うのをやめると、次の思考にいける。たとえば、パチンコ店では換金はされない建前になっている。が、たとえ警察官であっても、オフでパチンコに行ったら換金しているだろう。警察に問い合わせても、換金がこれほど当たり前のことでも、公式には決して賭博なのだとは認めない。

僕はあえて極端な例をとっているつもりはなくて、このような虚偽のあり方が、まさにフレイレのいう「真正ならざる言葉」なのだととらえる。「現実」を荒だてない言葉、矛盾を隠蔽したままの「公式」の言葉。それがまぎれもない虚偽の言葉だ。

「パチンコは賭博でない」が建前として前提とされているところでは、それ以上の思考ができなくなる。よって、誰もが現実的な思考になっていくことができない。その結果は、単に部分的な矛盾の隠蔽に終わらず、社会の思考を止める働きを生む。ここがもっとも問題であるところだと思う。

「公式」がどうであれ、現実に即した、本当の言葉を使って思考していけば、次がひらけてくる。別にそれを告発しなくても、いびつな矛盾をそのまま明らかにしていくとき、世界の現実に近づいていく。

パチンコは賭博であるが、国はそれを賭博であるとは認めない。ならば、国とはなんであるのか、という思考。なぜパチンコが暗黙にギャンブルとして認められるのか。それは行政の言葉では決して語られない。そこから、国という実態は教科書に載っている通りのものではない、となる。ならば、その実態はなんなのか、ということが次の考えになってくるはずだ。

実態に即した本当の言葉は、目の前の世界の「現実」の矛盾をつき、欺瞞的に成り立っていた秩序に穴をうがつ。穴の向こうにあるものは、今まで馴染んでいた言葉では表現できないものであり、新しい言葉、新しいとらえ方が作り出される必要がある。

日本が米国の属国であることも、建前上は否定されていて、野党も公式見解でそのまま言うことができないと思う。

「真正なる言葉」はそこから受けるイメージとは違って、まるで上品な言葉ではない。それはただ実態をそのままに表現している、今の秩序に馴染んでいる者からすれば、身を蓋もない言葉だ。しかし、次の時代から見れば、それは別にラディカルでも攻撃的でもないごく当然の言葉であるのだと思う。

実態からはじめよう。実態を言葉にしていく。「公式見解」と違っても、学者や権威が認める言葉と違っても、自分で見て、自分で確かめていって、そのうえで、現実を表現するのに妥当な言葉を使おう。そしてその言葉で思考していこう。対話に必要な言葉は、そのような言葉だ。

フレイレの「批判的思考」の提起を多くの人が恐れたのは、それが隠蔽された矛盾を掘りおこし、自分が今いる秩序を変えてしまうからだ。日本はアメリカの属国であると聞いて、極端な、偏ったその人の主観である、と感じるとき、その裏に恐怖がある。その恐怖は、フレイレが各地における実践で直面した恐怖だ。それを前提にしたらもう同じ秩序でいられなくなることを予感させるから感じる恐怖だ。