降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

終末のリアリティのなかに 

本を読むのは基本しんどいのだが、藤沢周平だけは読める。

 

彼の描く世界における人々の生のかげりは、僕にとっては生きることへの共感であり、しみこんでくる。

 

藤沢周平は若くして妻を失い、そのことは深い絶望に陥れたようだ。
今まで知らなかったがそれまでも彼自身が長い療養生活を送っていたとのこと。山形新聞に記事があった。

 

 昭和32年11月、藤沢周平さんは長い療養生活を終えて東京都内の療養所(北多摩郡東村山町)を退院する。30歳は目前だった。郷里に戻って教職に復帰することは叶(かな)わず、10月、東京のさる業界新聞社に入社する。その先に束(つか)の間の幸せな日々があった。昭和34年、郷里の後輩三浦悦子さんと結婚する。狭いアパート暮らしの共稼ぎ夫婦だったが、仕事の終えた「夕方は池袋駅で待ち合わせて一緒に帰るようなこと」もある(「半生の記」)、満ち足りた日々だった。

 

 そのころ、妻の悦子さんは妊娠中だった。もともと創作の才能と意欲に恵まれていた藤沢さんが、一応の生活の安定とわが子の誕生の期待に励まされてこの時期に小説を書き出したことはよくわかる。また書き出された小説が忍者ふうの隠れ切支丹(きりしたん)の一団の「暗闘」を描く時代小説だったことも納得できる。それは、少年時代の濫読(らんどく)体験を遠い原点とする〈面白い小説〉の水脈に通じるものだっただろう。「本であれ映画であれ、かつてそれで胸を躍らせた記憶が、時代小説を書く衝動を呼び起こすのである」(「時代小説の状況」)という作者自身の言葉もある。-同じ版元発行の雑誌への寄稿は翌年に持ち越され、38年には9編の小説が「読切劇場」その他に掲載される。 

 

 問題はいかなる状況のもとにそれらの小説が書き継がれたかということである。昭和38年の2月には長女(一人娘)の展子さん誕生。しかしそれから間もない6月に思いがけない苛酷(かこく)な運命が藤沢さんに襲いかかる。妻の悦子さんが発病し、診断の結果治癒不能の癌(がん)を告知されたのである。病の進行は早く悦子さんはその年10月に死去する。生後8カ月になるやならずの幼子を遺(のこ)した28歳の若すぎる死であった。


 妻の命を救えなかった無念の思い、まだまだ死ぬはずのない妻の命を奪い去った運命の不条理に対する憤り-軽々しく人には言い難いその鬱屈(うつくつ)した思いが長く沈潜して、それを源泉とする藤沢文学の新たな誕生が記念されるのはまだしばらく先のことだが、さしあたって注目されるのは、大地が揺らぎ嵐になぎ倒されそうなこれらの日々の中で、藤沢さんが小説を書き続けていたことの意味である。37年11月以来断続的に発表されていた短編が、38年7月から12月にかけては1月の休載もなしに同じ雑誌に掲載される。原稿執筆と誌上掲載との間には1カ月-2カ月程度のずれがあることを考慮すれば、それらの執筆時期は悦子さんの発病から死に至る期間(38年6月-10月)とほぼ正確に重なる。

妻の発病と死 それでも書き続ける|山形新聞

 

暗い闇は、僕にとってリアルなものを呼びおこす。普段生きている世界は、嘘の明るさや欺瞞でカスカスだ。そこで自分も乾燥していく。乾燥が加速していく。自分には生きることの闇を感じられる接点がもっと必要なのだろうと思う。水を汲み上げられる井戸がいる。

 

藤田和日郎の『邪眼は月輪に飛ぶ』を紹介されている記事があって読んでみた。

 

mangadake.hatenablog.jp

 

僕は『うしおととら』も好きだったけれど、うしおなり登場人物なりのこれが「人間の素晴らしさ」「あったかさ」みたいな表現は固定的でむしろ抑圧的にすら感じる。

 

どんな凄惨な事件がおこったとしても、うしおたちの周辺は敵にまわらない限り死なないという安定がある。それは天皇制みたいなもので、それぞれの地域でどんなことがおこっていても天皇の日常が安定していれば、あたかも国全体としては安定している、滞りないというような錯覚をもたらす隠蔽の構造でもあるなと思う。

そういうところはお約束なのだと思ってスルーして読んでいるが、そういう部分があってなお「うしおととら」が読めたのはそれを凌駕する闇の深さが一方で描かれているからだと思う。妖怪に晒されている人たちは容赦無く蹂躙され、虫のように殺されてしまう。解放された純粋な狂気。そういうものの存在が、自分と自分のうちのリアルをつないでいる。

 

邪眼は月輪に飛ぶ』においても妻を犠牲にするまでの執念をもつ傲岸な男が娘には弱くて言うこときくみたいなお約束の可愛げをだす設定とか、対立する組織に所属する同士に生まれる友情みたいなのはどうでもよかったのだけれど、見るだけで人を殺すフクロウが東京をとび、街が壊滅するシーンは神話的な水準を感じるほど凄かった。

 

災厄それ自体が飛び、生きるもの、出来上がったものがなすすべもなく破壊されていく。そしてそれが静かに感じられた。車が衝突し、街のあちこちに爆発がおこっていても、まるで音もないかのように感じられた。世界が静けさに呑まれていく。

 

終末のリアリティ。それが自分にとってリアルなものだ。ところがそのリアリティのなかにいれない。どうでもいい、自分を乾燥させていく別のリアリティに囲まれていて、自分もそれを錯覚し生きている。この世界にありながら、終末のリアリティのなかにあることにどのようにして近づけるのかなと思う。