降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

震えを間におくなら

とても肯定的にみえることでも、確定させ保持すること、自らのものとして所有し、コントロールすることが着地点にあるのか、それとも本当には何も持つこともコントロールすることができず、全て通り過ぎていく途中にささやかなやりとりをつくりだすことができるだけで、着地点などつくれないと踏まえているのかでまるでその場所のやさしさが違う。

 


コントロールの目的があれば、もちろんその目的に対する有用性が重要になってくる。コントロールできるということには強い高揚や万能感が付随する。しかし、強い高揚や万能感が必要なのは、その真逆の感情を感じているということではないだろうか。
有用性があるかないかということ自体を無にするものであり、意味を相殺するものとしてのやさしさがある。そのやさしさは何かをするしないとは関係がなく、むしろ与えられるとか信じているときには失われている。

 

意味がドラッグであって、ほとんど全ての人がその常習者だとすると、心の疲弊は当然だろう。強い高揚や麻痺のかわりに心は震えを失っていく。ところが心にとっては震え自体がエネルギーなのだ。心はガソリンを入れて動かす機械のようではなくて、震え響くことによって更新されていく。心に強制することは単に互いの震えが伝わる通路を閉ざすことでしかない。

 

震えを感じることをもし間におくなら、どのような「良い」ことでも強制できないことがわかるだろう。またどのように「悪い」ことに対しても、単に非難、攻撃、抑圧するなら変化は訪れないことがわかるだろう。

 

震えを伝えること、震えが伝わること、それを間におくなら、向き合い方は変わるだろう。一方だけが変わることなどなく、変わるなら互いに変わりあうということしかない。共に変わるのであればやはりその点でも向き合い方は変わるだろう。

 

震えが伝わることを間におくなら、何も持たないものとして向き合うことしか向き合い方はないだろう。無力であること、ただ震えであるときに震えは互いを一体のものとして変化するだろう。