降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

エピローグのなかから

何年も前、デモクラシーナウというサイトである動画を見た。

 

現在の世界の動き、大きな力をもった人の、世界を悪くしていくような発言、戦争、ネガティブで希望を失うような世界の映像なのに、その後ろでは映画のエンディングのような穏やかな音楽が流れていた。遠いところからみたことのように。衝撃を受けた。もう一度見たいと思うのだけれど見つけられない。

 

現実を直視することを避けた表現のようには思えなかった。むしろそれは悲劇に同一化する欺瞞を突き放しているように思えた。概念をもてあそんで巨大な悪をつくって絶望する欺瞞。悲劇の大きさに応じて自分も大きくなる。

 

良いも悪いも何もなく、意味の無いのところ。本当は人間がいる場所はそこじゃないかと思っている。それを虚無と感じ、認めたくないのもわかるけれど、でも意味のないお互いであるときより、良いものと悪いものをつくるときのほうが人は残酷になっていると思う。より多くの光を求めるとき、その代わりに世界のどこかの、あるいはすぐ隣の闇が深まるのが世界の均衡。

 

主人公は実は既に死んでいたということが最後にわかる物語。実感するわたしとは自意識だが、自意識は本当に「生きて」いるのだろうか。世界の主人公であること、生の主人公であることを降り、自意識の死後を生きることはできないだろうか。

 

意味で埋めつくし、固めつくしていくところで、心の震えは消えていかないだろうか。自意識はただエピローグのなかにある。その事実のただ傍らにあることができないだろうか。