映画「ほたるの川のまもりびと」と「万引き家族」
住民の抵抗運動を押し切って、ダム建設がすすめられるドキュメンタリーをみて、やるせない気持ちになったのは、水俣病患者(症状はあっても認定は自分から取り下げられた)の緒方正人さんが「チッソは私であった」といったように、普通の人の生活そのものが、その立ち退きを求められる住民の生活ですらが、全く無意識であってもその暴力に加担しているということだったと思う。
この「普段の生活」を成り立たせている仕組みが、そもそも暴力の根源なのだと思う。その翌日に観た映画「万引き家族」のメンバーは社会規範に反した生き方をしているように思われるけれど、国や大企業が作った仕組みがあり、その暴力や盗みの恩恵の元に「普通の生活」がある。本質的には何も変わらない。
緒方正人さんは、お金とは泥棒の分配センターの通行証じゃないかという。お金という代価を払ったのだから当然もらうものはもらうけれど、それがどこからどのように盗まれてきたのかは自分には関係ない。万引き家族が自分がモノを盗んだことによって彼らのした後のことを引き受ける人に何がおこるのか想像するのを拒否するように。
狂って以降、俺、自分のことを泥棒と思ってるんです。イヲをとる泥棒。以前はれっきとした「漁業」と思っていたばってんが。社会という枠の内では漁業でいいんだけど、その外に出ると泥棒。いっぺんこの枠自体を疑ってみる必要がある。枠をとっぱらったところでは、みんな多かれ少なかれ泥棒じゃないですか。スーパーで買えばそれで合法、と言ってすむ問題じゃない。スーパーなんていうなれば、泥棒たちの分配センターで、銭はそこの通行証みたいなものでしょ。我々はそこから持ちきれないくらい、冷蔵庫に入りきらずに腐らすくらい、いっぱいものをさげてきて、涼しい顔で金は払いました、と言ってる。
緒方正人『常世の舟を漕ぎて』
ダムに反対している家族から建設会社に就職する若者が出る。親は葛藤がありつつも、本人がそう望むのだから自分は反対しないという。若者は建設は地図に残るようなことであり、自分はそのような仕事がしたい、とのこと。
雁字搦め。社会の仕組みは隅々にまで浸透して、生活の仕方も考え方も、何もかもを、人を大きな暴力に加担させるように、はめるように設定している。
蹂躙されて、大きな傷と尊厳の決定的否定を受けて、立ち向かう人たちがいる。自分自身がその状況にならなければ、人間は抑圧の仕組みのなかに埋没したままなんだと思う。だから僕は受難や大きな傷のようなものこそ、人を人にする契機なのだと思う。
ダムに反対して座り込みをしている人たちは負けてしまうかもしれない。負けるということは、この社会の仕組みのなかで綱渡りしていくことに対しては不利に働く。
この社会での「生き残り」という「勝ち」を目指さない人、目指せない人たちもいる。僕はそういう人たちの価値を言葉にしたいと思う。
本当に追い詰められたとき、死ぬ間際にあるとき、社会の仕組みをこれからどうするというようなことと、自分に救いをもたらすこととが一致しないことに気づくと思う。社会での「生き残り」のために仕方なくやっていたことの一方で、自分は実は一貫して救いを求めていたじゃないかということに気づく。救いを生きるということをはじめる。
「万引き家族」のメンバーは、自分たちが美味しい目をみて生き残り続けることを結果的に捨てた。変わろうとしていなかったけれど、自分たちが出会った状況と人を引き受け、応答をしていくうちに、彼らが生き残るために作っていた仕組みは破綻した。しかしその代わりに、それぞれの救いを生きることがはじまった。
取り返しのつかない状況に追い詰められるほど、人は深い回復の契機をもつ。救いはいつか到達するものなのではなく、救い自体を生きることなのだということに気づく。
だから、共産系のユニオンメーデーに顔出してるんですよね。
— 漢字將軍金梟藎 (@HyoSheenKim) July 1, 2019
官と癒着して潤ってる筈の土建屋が何故って昔思ってましたが、そういうことらしい。
救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。
ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』