降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

第二水曜日、熾(おき)をかこむ会 参加者の募集

或る闘病記というブログを知って、読ませてもらいました。

 

fight.hatenablog.jp

 

想像ではなく、現実のこととして、死が自分のやってこようとする時の感覚。

 

あの夏の日、僕は病室の窓から蒼い空を見上げて、もう本当に死ぬのだと思っていました。もっと生きたかった、当たり前に生きたかったと、何度も拳を握りしめては膝に打ち付けました。

 

「もっと生きる」とはつまり、何であるのでしょうか?

 

10年、20年、50年と時間の延長が続くことが「もっと生きる」ことになるのでしょうか。生きる長さが自分の生に満足をもたらすために必要なのでしょうか。人は長い時間をかけて何かをやる途中にいるのでしょうか。

 

あるいは、心の奥底にくすぶっているもの、言うならば、終わりを求めている疼(うず)きに歩みよってそれを認め、見つめることを、「いつか先」という未来を想定することによって、先延ばしにしているのでしょうか。

 

「当たり前に生きる」とはつまり、どういうことなのでしょうか?

 

当たり前に生きるという言葉には、明示的ではなくても、やがて死んでいくということが含まれています。生まれ、自分という意識をもち、そして死んでいく間に、人の心のなかで何かが育ち、そして一段落していくようなことがあるのでしょうか。自分の死を、どこか納得をもって受けいれるような心のプロセスがあるのでしょうか。

 

死という突然の終わりに直面するとき、「するはず」だったことはできなくなります。それは「いつかたどりつくもの」ではなくなります。その時、自分に迫ってくるものは実は納得していない生を生きてきたという現実のあふれかえりなのではないでしょうか。

 

僕は思うのです。「生きた」とは、自分の奥底でくすぶっていた何かが確かに終わったという解放の質感なのではないかと。それは、自意識をもってからいつも自分のなかでくすぶっていた疼(うず)きが消えていったということなのではないかと思うのです。

 

灰のなかにある熾(おき)火のように、眠っているくすぶり。それは保留され、動いていくこと、灰になっていく過程が止められている時間のようでもあります。

 

誰かがその人の「本当のこと」を表現するとき、その人は震えていると思うのです。その震えは、その人を、そしてその震えが伝わった人たちを変えていくように思うのです。

 

その震えは、表面が灰に覆われ消えてしまったようにも見えるその人の熾(おき)の「時間」を動かしているように思えます。止まっていた「時間」に、もう一度火がともり、熾(おき)を燃やしていきます。そしてそのことは、その火を共にかこむ人たちの熾(おき)にも火をともすように思えるのです。

 

僕は中学の頃に、これまでのかろうじて拠り所にしていた自分のあり方が壊れる体験をしました。耐え難い恥辱と混乱の底に叩き落とされるようなフラッシュバックが日々おこるようになりました。

 

電撃のようにやってきて、積み上げた気持ちを全部叩き潰していくフラッシュバックが終わらないなかで、僕は本当に自分が心から納得するものだけを手がかりとして、もう壊されてしまわないものを集めていこうと決めました。そして落ち穂拾いをするように、回復の手がかりを集めてきました。

 

そうして30年近くたった今は、もうあの時のように圧倒されることはなくなっています。自分として見つけてきたものがあり、僕は確かにあの時より回復をしたといえるかと思います。しかし同時に、僕はもうあのような時に決して戻らないように、危険なところから遠ざかり、逃げて生きてもきました。

 

一方に、あの時のまま、時間が止まったように、変わっていない自分もいるのです。もう決して絶望しないように、自分が本当の気持ちで伸ばした手が虚しい空をつかまないように、手を伸ばすことをあきらめたまま、死んだままで生きている自分がいます。

 

今、西川勝さんと一緒に、自分にとって本当のものをもう一度見てみようと思うのです。ともに熾(おき)を囲む人を募集しています。現在の自分がどのように生きているかからはじめ、灰の下で眠っている自分の熾(おき)に近よって、それを見つめ確かめていく探究をやってみませんか。

 

日時:4月10日より毎月第2水曜日14時〜17時 向こう1年ほど

場所:茶山kpハザ(京都市左京区春菜町34−4 白い三階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

募集人数:4、5人ほど。5月以降からの参加も可能。

お問い合わせ:yoneda422@gmail.com(米田)

 

 

 

バイオハザード6続き 蝕みをはねのける怒り

まだバイオハザードで。

 

映画のように編集してくれている動画があり、前編と後編あわせて4時間近いものを観ました。

作品への愛を感じます。自分の好きなものをまたどう生かそうかと考える人のつくったものだと思いました。

 

前編

youtu.be

 

後編

youtu.be

後編を編集した作者のセリフ。後編だけで5ヶ月かけて作ったとのこと。

後編を楽しみにしてくださっていた方々、大変お待たせしました。プライベートが色々と忙しくてなかなか動画作りに時間を使えず後編をアップするのが前編をアップしてから約10ヶ月後になってしまいました。少し動画製作でのエピソードを書かせていただきます。実は最初は後編のアップは良いやと思っていました。別に作らなくても良いや(笑)と。でも前編をアップしたところいつのまにか1万、10万と再生されていき「すごく面白かった」や「後編早く作って!」などの催促の(笑)嬉しいコメントをいただき、あっこれは作んなきゃな(汗)と思い去年の12月から作り始め5ヶ月かけてゆっくりじっくり丹精込めて作りました!ぜひ最後まで見ていただけたら嬉しいです。

 

 

バイオハザード6、あらためていい物語だなと思いました。

 

もちろん何もかもいいというのはなくて、たとえば、正義の大統領が補佐官に殺されて、その後の意思を継ぐ的な、レオンの立場の物語とか、クリスの軍組織のなかの自己犠牲の物語とか、そういうのはどうでもいいをこえて、国とか軍とかを美しく描くなよなと思いますが。

 

しかし、クリスが部下をウイルスで怪物にされてしまい、記憶を失って飲んだくれになる設定はよかったです。

 

エンデの『果てしない物語』で主人公が自分を失い、かっこ悪かった自分までを忘れてしまってダメになるところを思い出しました。当時は児童文学で主人公がここまで自分を失うシーンってあまりないのではないかと思いました。ぞっとする感じがありました。

 

クリスは部下のピアーズにサポートされ、実戦のなかでだんだんと自分を取り戻していき、記憶も取り戻しますが、偽エイダに対する激情に突き動かされ、一人で暴走し、結果として仲間たちをまた次々と犠牲にしてしまいます。黒から白に急に反転するのではなく、回復中も過ちをおかしていくシーンが響いてきます。

 

ピアーズは、かつてのクリスに心酔していたので、クリスの変化にはだいぶ失望していたと思いますが、それでもクリスの本来の姿を信頼し、自分の存在をかけてクリスと向き合います。クリスが現実から逃げようとしたり、自暴自棄気味になったりしたときは、怒り、厳しくいさめます。ピアーズの怒りには傷つきが感じられます。ピアーズは、自分が傷つくことをかけてクリスを全面的に信頼しているのです。

 

もし誰かに全面的な信頼をおいてそれが裏切られたら、信頼の分だけ自分は大きく傷つくでしょう。だから普通は、その人をみて、自分が傷つくような距離感には入らないのだと思います。しかし、ピアーズはその傷つきを構わずに、むしろ傷つくぶんだけクリスに自分の信頼や尊敬を伝えていました。どれだけ自分がクリスを信頼し、尊敬しているのか、その証がピアーズの傷つきとしてクリスに伝えられるのです。(後編の42:25あたり)

 

そういう怒りのあり方があるんだなあと思いました。その怒りは別のシーンでもありました。ジェイクとシェリーのシーンです。(後編の10:40ごろ)

 

ウイルスの抗体をもつために組織に追い回され、苦しめられるジェイクは、自分の運命を翻弄する父の存在を恨み、自己憐憫に陥って投げやりになります。

 

それに対してシェリーは、怒りをこめながら、親をどれだけ非難してもいいけれど、あなたはあなたに対して責任をもつ必要があると伝えて部屋を出ていきます。シェリーの怒りもまたジェイクに対する信頼を自分自身の傷つきとしてあらわしたもののように思えます。

 

シェリー自身も親に運命を翻弄され、耐えきれない実験を繰り返されてもきたのですが、まっすぐな眼差しと精神を失っていないキャラです。シェリーにとって、自分を蝕んでいく否定的な思いを跳ね返してきたものは何だったのでしょうか。

 

人を蝕む考えの侵入を許さない強い意思。それはシェリーが自身を押さえつける圧倒的な重圧に対して、生きていくために見つけたものだったのではないかと思います。

 

ジェイクの自己憐憫に満ちたセリフは、かつてのシェリー自身の過去を彷彿させたのではないでしょうか。フラッシュバックのように戻ってくるあの時。ジェイクの姿は、「お前もそうだろう? お前も俺と同じだろう?」とシェリーに迫り、かつての闇に吞み込もうとしていたのではないでしょうか。

 

馬鹿にするな。私の生はそんなものではない。そんなものに殺されてしまうようなどうでもいいものではない。シェリーの怒りは、生きることに対する侮辱への怒りだったのではないかと思います。その傷つきの表現は、ピアーズのものと同じく、まとわりついてくる暗い影をはねのけ、相手を震わせるものになったのだと思います。

バイオハザード6 エイダ・ウォンを勝手に読みこむ

昨日の夜、連ツイしたものをまとめてみます。

 

バイオハザード6は、7年ぐらい前の作品のようです。アクションゲームが年々どうでもよくなっていて、いいストーリーのゲームはストーリーだけみせてほしい、と横着になっています。

 

そういう希望通りに編集してくれている動画もある様子。しかし、かなり長いようでまだ観ていません。

 

www.youtube.com

 

 

 

バイオハザード6、割りと否定的な感想が多い感じがしますが、エイダのストーリーはかなりすごいなと思いました。歴代のプレーヤーはキャラや言いまわしが今までと違うことへの違和感があったのかもしれないけど、僕はいきなり6から物語を知ったし、かつての姿への愛着もなく、ちょうどよかったのかなと思います。

 

僕の物事の基準は、自分に変容のプロセスをもたらすことです。ある作品が駄作と言われていようが、良作と言われていようが、自分にとって今までにないプロセスを引き起こすものであれば十分です。

 

作品の全体としての良さみたいなことも求めておらず、他の大部分が面白くなくても、一瞬でも自分の何かを変えるものがあればそれでいいと考えています。

 

更に、実際の作者の意図がどうかとかも評価の基準ではなく、たとえ全くの自分の勘違いの解釈であっても、自分に何かを引き起こせばいいと考えています。そもそもその引き起こしが稀にしかおきないですし、作品解釈や解説の仕事をしているわけでもなく、僕は自分が今いるところから出ていくというのがいつも目的だからです。

 

内的な自律性があり、それが展開すれば、そのきっかけはどのようなものでもいいという主義で、まあ一般的な見地からみればそんなあり方は貧困の極みでもあるかもしれませんが、いいのです。それほど沢山のことに自分が開かれているわけではなく、行けるところで行くだけと考えています。

 

さてエイダの話しにいきます。

 

アメリカの副大統領であり、世界を裏から支配する「ファミリー」の統括者であるシモンズは、エイダに出会い、彼女の天才性に自分と同じものみます。自らの天才性ゆえに同格者に出会えなかったシモンズの孤独の深さは、エイダと出会い、エイダに離れられたことによって狂気となり、暴走します。

 

常軌を逸したシモンズは、自分を慕う研究者カーラにエイダの遺伝子と変異ウイルスを注入し殺害してもう一人のエイダを作ろうとします。カーラの体はサナギとなり、そこからもう一人のエイダが生まれてきます。しかしその偽のエイダは、カーラの意識を一部とどめており、自分を見限り、裏切り、別の女にしたシモンズに復讐を誓います。

 

 

 

さて、シモンズがエイダを同格認識するということは、エイダのほうもシモンズと同じ孤独を生きてきたと想像されます。シモンズは強固な自我を持ちながらもその孤独に耐えきれず暴走してしまったわけですが、それと同程度の圧迫をエイダも持っているのだろうと思います。

 

エイダには「真の目的」というのがあるそうで、そのために全てのものを利用しているのですが、シモンズと同程度の孤独を抱え、また明らかに力を持つものに関わってそれを利用しているのだから、そんな可愛い目的ではないのでしょう。

 

同格、同族に出会えない孤独というモチーフは、松本大洋の『zero』や福本伸行の『アカギ』でもにも通じるところです。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

 

そして、このストーリーを書く作者もまたそれを感じてきたのだろうなと思うのです。バイオハザード6は、かなり挑戦したのだと思います。

 

スケールを大きくしたこととゲームのバランスがあわないというような批判もあるようですが、作者は自分のこれまでの生を凝縮させてこの物語に載せたような作品だったのではないかなと思うのです。全く僕の頭の中だけの推測ですが。

 

シモンズを倒した後のシーンで、エイダはカーラの研究室におもむき、そこでカーラが自分のペットとしてのシモンズのコピーを育成しているところに直面します。

 

そこで、エイダはWe're beyond sympathy at the point. と言っています。日本語字幕は、「もう同情してあげる必要はなさそうね 」。

 

エイダが自分に汚名を着せ、殺そうともしてきたカーラへの同情を捨てるのは本当に最後の最後なのですよね。どんな奴でも利用するエイダが、なぜカーラにはそこまで共感を寄せていたのでしょうか。

 

そこにはやはりカーラの深い孤独というものがあるのだと思います。この物語のなかには、自分と同じ天才性をエイダにみて暴走をはじめてしまったシモンズの孤独があり、そしてまた思慕していた相手に裏切られ、見捨てられ、自身の尊厳を完膚なきまでに否定されたカーラの孤独があります。

 

天才であるエイダもまた自らを破滅に導くような孤独を抱えていたのだと思いますが、エイダはシモンズのようにそれを暴走させることなく、その孤独の破壊性や圧力とわたりあってきたのでしょう。その意味では、エイダは自分に去られたぐらいで簡単に壊れるシモンズよりもよっぽど、幻想に依らない厳しい現実を見て、そこに向き合ってきたのだと思います。

 

シモンズも天才性からくる孤独はあれど、はじめから権力組織の後継者としてのレールにのってきたのだから、その部分では、おそらくそんな恵まれたところで生まれてきていないエイダにとっては全然甘いのではないでしょうか。シモンズの孤独など共感に値する水準には至らなかったのではないかと思います。

 

ですが、カーラの救いようのない孤独は、エイダの心を動かしたのだと思います。カーラの生きるあり様は、エイダが抱えてきた孤独の深さと相応するものとしてエイダには感じられていたのではないかと思うのです。自分が感じてきたような巨大な孤独をカーラが抱えていたと。

 

カーラは暴走した精神状態で、世界を破滅させて、変異した自分が女王エイダ・ウォンとなるのだと叫んでいました。シモンズを憎みながらも、エイダでないとシモンズに愛されることはないという分裂はおぞましくも悲痛でした。

 

カーラの孤独は、世界を破滅させるほどでないとつりあわないほど深いものでした。そしてカーラは世界を破滅させるほどではなかったにせよ、大規模なバイオテロを引き起こしました。カーラのその強烈な姿はエイダにとっては、まだ自分が表現していない、もう一つの可能性としての自分であったのだと思います。

 

しかし、エイダは最後にカーラに失望し、苛立ちと悔しさをあらわにします。カーラが自分の思い通りのシモンズを作ろうとしていたのを知るからです。それは、カーラに自分を投影してしまっていたエイダにとっては、裏切りと感じられたのではないでしょうか。

 

シモンズを自分のものにして満足できるような、卑小でくだらない心性。結局誰かにすがる自己放棄。それはエイダにとって侮辱に近いものとして感じられたのではないかと思います。エイダの怒りは、誰かを犠牲にしてコピーを作るというカーラの非人道性に対してのものというよりは、シモンズのコピーを作るぐらいのことで収まりがつくような「偽物」の孤独と自分の孤独とを、たとえひと時であっても同一視していた自分の認識に対してのものだったのではないでしょうか。

 
ラストのエイダの感情表現は激しいものでした。エイダはスマートに研究室を破壊するのではなく、火を被りそうなほど間近で、息を乱し、顔を歪めながら研究室の薬品やコンピュータを破壊していきました。

あの感情は、一瞬でも自分と同一視した者がまるでそうでなかったという裏切りへの怒り、そしてそれを期待し突き放された自分の惨めさに直面した悔しさだったのではないかと思います。

 

エイダは、自分は巨大な孤独を乗りこなし、冷静に支配していたと認識していたのだと思います。エイダ自身によって隙なく作り上げられ完成したエイダ・ウォン

 

それはおそらくかつての忸怩たる思いから始まっていたのだと想像します。そしてエイダは自分ではそのようなかつてを乗り越え、かつての自分はもはや存在しないものと思っていたのではないでしょうか。

 

しかしカーラに自分を投影していたことで、自分はまるでかつてと同じであり、今もその孤独に呑み込まれ、傷を痛んでいるのだと認識したのだと思います。地に落ちたプライド。それがカーラの研究室を破壊するエイダのなかでおこっていたことなのではないかと思うのです。

 

 

3/16追記:

バイオハザード、脚本が誰だろうと思って動画をみていると、SHOTARO SUGAとHIROSHI YAMASITAとある。

 

検索するとまず一人がわかった。

 

菅正太郎(すが しょうたろう、1972年12月31日 - 2015年3月19日)は、日本の脚本家。東京都出身。菅 正太郎(すが しょうたろう、1972年12月31日 - 2015年3月19日[1])は、日本の脚本家。東京都出身。

 

 

とある。2015年に42歳亡くなっている。追悼のサイトもあった。

 

sikyo.net

 

菅正太郎さんが外部の脚本家で、山下宏さんが発売元であるカプコンの人らしい。山下さんが、外部のライターを交えてシナリオを構築し、スクリプトも全部担当しており、山下さんはシナリオのために400時間以上のミーティングを重ねたとのこと。

 

dengekionline.com

 

上記リンク、惜しむらくはエイダ編への言及が少ない。エイダの作り込みは山下さんがやったのだろうか?


 


 

第二水曜日日中、西川勝さんとつくる話しの場

星の王子さまの読書会の講師でもある哲学者の西川勝さんとの話しの場、来月より第二水曜日の日中、おそらく14時〜18時ぐらいの間になりますが、はじめる予定です。平日日中ど真ん中ですが、ご関心ある方はどうぞ打診ください。

 

熾(おき)という言葉を名前にいれる会にしたいと今日話しあっていました。熾には真っ赤に燃えた炭だったり、一方消し炭という意味もあるようですが、僕のなかでは燃え残っている炭、消えたようでくすぶり、条件が整って燃えることをまっている状態の火です。

 

生きてきて自分のなかに残っている熾を燃やすような探究をしていける話しの場にしたいと思っています。

 

西川さんからと話していて、たとえばなぜ僕が今の仕事を選び、働く日数を決め、畑をしているのか、そういう生(なま)のものを問いとしようと言われました。

 

自分なりにも自分の核的なことを出していくつもりでしたが、そう言われて、踏み込みが全然不十分だったと思いました。この機会と場をかり、思い切りやろうと思っています。

 

自分にとって妥協のできない問いをもってきて、共にそれを吟味し、探究したいという仲間を募集しています。

 

なぜ僕が週に1、2回夜勤をして、あとは畑をやり、話しの場をつくるという今のライフスタイルになったのか。まず、ほとんどの仕事が人より遅く、仕上がりも悪いというの能力の低さがあるでしょう。

 

また人とのやりとりに怯えていて、言うことも言えなかったり、週5で会社で働くようなことはできないし、やりたくないと思っていました。やりたくないのは、無能で惨めな自分を直視したくないというのも大きな理由でしょう。

 

中学の時、フラッシュバックがおこるようになって、死に切ることはできず、極限まで苦しくなったらその時は死んでいいということにして、フラッシュバックに耐えようとしていたなと思います。

 

と同時に、もう惨めな思いをするようなことに投げ込まれる可能性があるような、頑張りが必要なことはしたくないと思っていました。思うだけでなく、実際にできないのです。精神に踏ん張りが効かないというか、苦しいこと、惨めになる可能性があることをやるぐらいなら、死んだほうがいい、どうにでもなればいいと思うのです。

 

フラッシュバック以後は、廃人のような、いわば死んだように生きていると言っていいのかもしれません。惨めになること、傷つくようなことがないように避け、安全なところだけにいて生きる。安全な場所で回復していけば、いずれこの死んだように生きている状態が変わるかもしれないとうっすら期待しつつ、しかし同時に遠巻きなので薄い体験しかできず、根本的なところで、あまり自分が変わらないような感じのままでした。

 

もし自営業ができるほどの能力や踏ん張りがきく状態であれば、さっさとそれをしていたでしょう。そうはできないから今の状態だということです。

 

ただ、この変わらない状態で、しつこくは考えてきました。どうしたらちょっとでも状態を変えていけるのか。状態がマシになるための考えとは何か。そのなかで世界の見え方はちょっとずつ変わってきています。今の状態から少しずつでも状態をずらしていく。それをずっとやってきたのだと思います。

 

僕にとっては、自分はどう生きていけばいいのかというのが問いでした。どう状態を少しでもマシにしていくのか。その先にもしかしたら生きていける基盤ができるかもしれないということにして。

 

どう生きていけるのかということを問うなかで、この世界とはどういうものなのか、精神とはどういうものなのかという探究をしてきました。しかし、それもまだ核に向かうものではなく、迂回をしているのかもしれません。

 

もう一つ、最近意識に出てきた自分のテーマがあります。それは「恥辱」でした。フラッシュバックは、自分に屈辱的な思いをさせてくる同級生に対してもっていた軽蔑、気持ち悪さ、憎しみが反転して自分に向かってきたものでした。しかし、その前から自分が他の人とは異質で、いびつで、他人からして気持ち悪い存在、後ろめたい存在であるという感覚をもっていたように思います。

 

まだ体が小さかった頃、叔母に屈辱的なことをされていましたが、両親が助けてくれないと思っていました。自分が汚れた感じ、惨めな感じ、そして放っておかれるような価値のない存在だと、お気楽そうに見える普通の人たちの欺瞞を憎み、そねんでいました。

 

そのそねみは今もあるように思います。自分は恥辱のなかに生きてきて、そしてこれ以上の恥辱にまみれることを恐れています。ちょっとした失敗で、混乱し、肥えだめに落ちるように恥辱の感覚に包まれます。

 

西川さんの場、遠慮せず、身も蓋もなく、やっていきたいと思っています。それでどうなるかを見ていきたいと思います。

 

 

 

 

一つの人格という神話 ネットワークとメッシュワーク

以前、あるダンサーの人が別のグループのダンスの練習風景をみた後に、「どんな意識状態でやっているのかをみていた」と言っていたのが当時は全然意味がわからず、なんでみただけで意識状態がわかるのだろうと思っていました。

 

そういうのは、意図的に自分がそうしようと思っているわけではないのですが、問いとしてとっておかれ、そういう無意識の問いが重なりあった状態として日常のものごとが体験されます。

 

僕にとって、世界がどうなっているかを理解しようとすることは、人の感性がとらえたものをパズルのピースのように合わせてそこに現れる絵柄をみることです。

 

ある人が自分の知らない何かについて話していて、そしてそのリアリティは自分をどこかに導くものがあると感じるとき、その人たちの感性がとらえたものを一つのピースとし、そのピースが集まっていきます。

 

今、自分がどんなピースを持っているのかは自覚していませんが、ピースに合わさるものを自動的に探していて、日常で出会うことから、絵柄を作っていこうとしています。

 

意識状態の話しは、身体教育研究所の稽古に通うようになって、そこでいう集注の状態がどういうものかを聞いていくうちに、イメージがわいてきました。整体では特定の場所の集注がおこっているときは、人格も変わっていると考えられているようです。

 

なので、集注状態によって、人にはいくつもの人格があるわけです。「自閉症だったわたしへ」のドナ・ウィリアムズは自分が現実に対応するために幾つかのの人格を持っていたことをその著書で書いています。

 

またインプロの今井純さんがマスクを使ってシーンをやると、食べ物の好き嫌いが変わるほど、人格が変わると言われていたのを記憶しています。

 

ここでパーソナリティみたいなものは、自分の中に一つの人格のもとがあって、OSのようにひとまとまりのプログラムの展開としてだけ現れているのではなく、加えて何に集注している状態なのかということも重って現れているものであるのかなと思えます。

 

そうするとたとえば怒っている時の状態、喜んでいる時の状態などは一つの人格のいくつかの面なのではなく、別々の人格であるかもしれないとも思えます。予想ですが、多分そういうふうにとらえる方が実際の現象を精緻にとらえられるのではないかとも思います。

 

一つの人格というのが、そもそも神話的だなと思えてきます。「統合」というものが機械がドッキングして一体化するみたいなものではなくて、それぞれ独立した自律性を持っているものの協働として浮かび上がっている状態なのではないかと。

 

自分たちのやっているDIY読書会で、メッシュワークという言葉がでたのですが、メッシュワークは自律的なものの対等な関係性の網の目だということで、中心=自意識=主体、的な人間観、世界観がだんだんと移行はしているのかなと思います。

 

下記のメッシュワークのデメリットの説明は、発達障害の話しと受け取ってみても面白そうな感じだなと思いました。

 

※メッシュネットワークとは、通信ネットワークの構成の一つで、複数の中継機器が互いに対等な関係で網の目(mesh)状の伝送経路を形成し、データをバケツリレー式に転送する方式。

メッシュネットワークに参加する個々の機器は隣接する機器とだけ通信できればいいので、短いケーブルや弱い無線出力の機器だけで広い範囲をカバーすることができる。また、ノードが破損したり離脱しても代替経路を確保しやすく、中心部が不通になるとネットワーク全体が停止してしまうスター型等より障害に強い。

ただし、メッシュネットワークは中心が存在しない構造のため、通信経路の探索や伝送制御(無限ループの防止など)を適切に行うために高度なルーティング技術が必要とされる。また、集中的に制御されたネットワークよりは伝送速度や遅延、回線効率などでは劣る場合が多い。

 

e-words.jp

 

お金をためて将来に備えなければならない倒錯

体制としては、3つの自給が自分たちのほうに引き寄せられるとき、人は自律的になりうると思います。食の自給、養生(医)の自給、学びの自給がないとき、たぶん感覚としては、生きるため(特に困ったとき)に必要なのは結局お金であり、それが稼ぐ場所だということになるだろうと思います。

 

そして結局生きるためにはお金が必要となると、老後や病気事故などのためにはいくら稼いでも十分ということはなくなります。将来に対しての貯金とはつまり、将来に対して「借金」を払っているのと同じことなのだと思います。そのように将来という際限ない負債に対して、利息と元本を払うための現在になるのだと思います。

 


『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 M・ムーア 記者会見

 

エンデの『モモ』を読むと感じられるように、お金を稼ぐ効率のことだけを価値とし、優先させると、精神はむしろより不安定になり、他者や世界に対する不信と不安を募らせていきます。

 

現在の自分と自分の周りにおこっているプロセスを十全に生きることが、人と人との間に関係性を育む必然を提供し、心身を健康にするのであれば、病気になることを恐れ、病気になるリスクを高める生活をしながら将来の準備をすることはどれほど倒錯的であるでしょうか。

 

www.huffingtonpost.jp

 

学びとは、閉じ、固定的になる傾向のある自意識が他者や世界との応答性をもっていくための認識の更新です。それを自分たちに引き寄せられず、外部に支配されているのなら、外部から植え付けられ、内面化された価値観にいつまでも影響されてしまいます。応答性は倫理性ともいえるもので、応答性を回復していくとき、閉じた自分の周囲だけよければいいという感覚は薄れていくだろうと思います。

 

文化とは、精神の隷従を終わらせ、他者や世界との応答性を回復していくためにあるものだと思います。奴隷として楽しむサーカスは気慰みにはなっても、世界の見え方、感じ方を変えていくものとしては不十分であると思います。

 

精神を隷従させるもの、人をして「〜せねば生きていけない」と強迫的にさせるもの、無理やり従事させられるものを打ち消していく仕組み。それが文化的な仕組みではないかと思います。自給もまた、自分たちで自分たちに必要なものを提供するということで、強迫的なもの、支配してくるものを打ち消すところに意義があるのだと考えています。

書くことと同調について バイオハザード6のエイダ・ウォン

先日も、ゾンビものについてやりとりしていたのですが、ゾンビもの(アンデッドもの)の懐の深さは、あの世とこの世(の終わり)を同時に描けることにもあるのかなあと思いました。

 

さて吸血鬼などもアンデッドものに含まれると思いますが、かなり前に読んだ文章でアンデッドとは不死者というよりは、死に切れぬ者なのだというふうに書かれていたのを事あるごとに思い出します。

 

映画「野火」を観たとき、なぜ人はここまでして生きるのだと衝撃を受け、今までの自分の理解が成り立たなくなりました。やがて生きているとは死に切れないということなのだという理解になりました。生きものが生きる力とは死に切れない力であり、つまりは反発力なのだというのが僕の理解です。

 

生きていくことが難しいと感じたとき、そこで頼れるものは自分のなかにある根源的な反発力であると思います。その根源的な反発力は自分という存在が晒された一番大きな実存的危機に対する反発であるようだと思っています。

 

その危機は意識の底に眠っているような、自覚しがたいものですが、常に自分の行動に影響を与えている文脈のようなものだと思います。何気なくやろうとすること、向かおうとすること、繰り返し選んでしまうこと、近づいてしまうこと、興味をもってしまうものがどこからきているのかと問い、そこに応答していくならば、だんだんとその輪郭が見え、そこに近づいていけるように思います。

 

いわゆる「自分のやりたいこと」みたいなことは、ニュートラルな、平地から現れた欲望ではなくて、自分という実存の根源的な痛み、苦しみに対する強い反発として現れていると思います。

 

ですので、生きづらさとは、その根源に近づく機会であるのだと思います。ただ実際的には苦しみたくもないのに苦しみから逃れられず、その状況のなかで何を頼りにしたら生きていけるのかを探っていった結果としてそこが見えてくるということなのだと思います。

 

自分の根源的な苦しみに対して応答することが、自分にとって最も活力と充溢を与えてくれるものであると思います。今の社会状況で苦しい人は、いわばさらに根を下にのばし、深層から水を得ざるを得ないのです。逆に深層から水を得ることができるようになると、自分を殺して場当たりの適応をするみたいなことをしなくてよくなるでしょう。ただ、そんな苦労は誰も自分からしたくないので、受難的なことがないとそういうことはあまり起こらないのだろうなと思います。

 

さて、ゾンビに話しを戻します。物語において死に切れないものとは、プロセスとしての「時間」が止まっているという理解ができます。

 

不死者たちは大体永遠というものに倦んでいます。目先の欲望、強い刺激に耽溺して一瞬の高揚を得て、狂気を解放しますが、そうせざるを得ないのは、永遠という止まった「時間」が苦しいからです。だから往往にして彼らは死ぬときに、「正気」に戻り、止まった「時間」から解放される安堵と救いを語ります。

 

生というのが死とは対極にある状態のように思えて、しかし実は生という状態にとどまること、縛りつけられることであるようにも思えます。つまり生もまたある種の止まった「時間」として存在しているように思えます。不死者たち、死に切れぬ者たちは、その止まった「時間」である生が極端化しただけの姿であり、地続きにある姿なのだと僕は思います。

 

一休にこんな歌があります。

 

有漏路(うろじ)より
  無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
         雨ふらば降れ 風ふかば吹け

 

うろじとは煩悩のある世界、むろじとは悟りの世界、仏の世界であるとも言われているようですが、そこで一休は「帰る」といっています。帰ることは必然なのです。悟りを得ずとも死なばそこに戻る、と一休はいっているのではないでしょうか。

 

雨ふらば降れ、風ふかば吹けは、精神が死に切れないこのうろじの世界の理屈に反応するのをやめたということであり、言葉がもたらす未来に反応することを捨てたということが表現されているように思えます。

 

そして何より、生というひと時を本質的なものとみなさず、生とは一休みであり、むしろとどまりであるのだと喝破しているように思うのです。

 

さて、いつも前置きでエントリーが終わりそうになるのですが、本題に入ります。

 

上で書いてきたように、ゾンビもの(アンデッドもの)は、自分にとって考えを深められる触媒であるのですが、そんなに熱心にゾンビもの全てをチェックしているわけではなく、その場その場で出会ったものをみています。

 

バイオハザードもプレイしていませんでした。特にアクションゲームが好きというわけでもないし、ホラーやスプラッターが特別好きというわけでもなく、物語設定とか知れればいいという感じなのですが、YouTubeで映画みたいにゲームのシーンを編集してくれているものがあり、それを昨日は見入ってました。

 

youtu.be

 

エイダ・ウォンというキャラがいて、女スパイであり、主人公的存在であるレオンに心寄せる場面もありつつ、一筋縄ではいかない人物で、主人公たちを利用したり、時には助け、共闘したりします。

 

ルパン3世でいえば峰不二子的位置っぽいですが、不二子は裏切ったりしても結局敵方につかまってルパンに助けてもらうみたいな自立度が弱いキャラですが、エイダのほうはむしろ状況の全体を把握し、動かしている存在であって、レオンはそれに翻弄され、利用されるほうです。

 

出てくるのが美男美女ばっかりの世界というのはあるのですが、女性の描かれ方として興味をもちました。ここまで自立している女性キャラは今まで寡聞にして知らなかったです。「マッドマックス3怒りのデスロード」でも、フェミニズム的観点を取り入れたといっても、マックスの実行力や構想力、説得に感化され導かれて、自分たちのあり方を達成する女性というような感じがあると思いますが、エイダは知力も精神的タフさも戦闘能力も備え、動いている状況をコントロールし、レオンより自立度が高い存在です。

 

感情的に暴発するとか、失敗を嘆くとか、状況に苛立つとかがなく、リスクを引き受けながら状況を淡々と自分の能力でひらいていき、めくるめく出来事を冷めたユーモアで皮肉り締める安定感。福本伸行の「アカギ」のような感じに近いのかなと思いました。

 

エイダがどうなっているのか、書きながら近づいてみたいなと思います。先日、自分がどのように書いているのかを訊かれることがあったのですが、あらためて言葉にしてみるなら、自分を想定されたある状況に投げこんで体験していることを眺め、なぞっているような感じです。

 

田房永子さんが、痴漢か何かの精神状態に自分がなることでその内面状況を描くというようなことをちらっとどこかで書かれていたように記憶しているのですが、僕もそういうことをやっているのかもしれません。その状況に自分を投げこみ、その同調状態から見えたことをなぞり、言葉に置き換えています。所詮自分なので、実際の相手がわかるわけではないのですが、少なくともその同調状態から見える世界は、自分にとっても新鮮です。

 

手がかりになるものから、その状態に入っていきます。

 

エイダには不動の意思があります。ある種の復讐を達成しようとするような、冷たく、ブレをもたない意思。自分が死ぬリスクを冒すこともためらわない。つまりそんなリスクを冒してでもやることでなければ、そもそも割りに合わないような飢餓をもっている。

 

その飢餓はエイダの傷ともいえるようなものでもある。かつての無防備な自分を圧倒し、元に戻ることなど決してない喪失を与えたものがある。その喪失の大きさはエイダを耐え難い恥辱の地の底に張りつけ続ける。喪失の圧倒的な大きさ、重圧がエイダを押さえ続けている。

 

力への意思、いや破壊への意思。エイダは絶望しており、その絶望の深さに比すれば、自分自身の死や破壊も取るに足らない。自分を救わなかったこの世界、救いようのない愚かな人間たちへの深い憎しみ。自分になしうる最も巨大な復讐こそこの自分のリアリティに応答するものとして割りにあう。生きていく意味はそのあるべき復讐を遂げることのみにある。

 

・・・そんな感じが、このキャラの言動や振る舞いの基調としてあるような感じがします。