降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究 整理と吟味

土曜日の当事者研究

 

僕は整理と吟味は大事で、それには少しも無駄がないと思っているので、最初に今日の気分体調を言って、ここしばらくの振り返りをやる。新年なので去年の振り返りもざっくりして、今年をどうしたいかというのもいれた。A4用紙にそれぞれ書く。

 

 

自分に触れるとは、わかっていること、つまり記憶を反復したり表現したりすることではない。実際にどういう感じなのかを今ここで感じて探ってみて感じ取られることを言葉でさっと掬いとってみる。言葉で掬いとろうとするときの一瞬、高い集中がおこる。その集中によって見えるものがある。

 

 

これをしないと、気分体調を言うことも、大体こうだろうという予想で言ってしまうことになりかねない。自分に対する予期、予想を言うことは、実際の自分の状態に暗示をかけてさらに余分なベールをかけるようなものだろう。まとまった言葉にならなくていいので少しでも感じをとらえるのが大事だと思う。

 

 

高い集中の結果、感じ取られたことは、少し新しい感じ方、認識の仕方をもたらす。いつものパターンの思考がずれる。
また高い集中は余韻のように少し続くので気づきがおこりやすくなる。

 

 

振り返りで、頭に雑然と散らばってゴワゴワ動いている記憶を書いて言葉にすることは、ハードディスクのデフラグのようなものであり、気づきがおこりやすくなるよう頭の空き容量を増やすことだと思っている。頭で考えつこうとするよりも、その空き容量の増加が洞察をもたらすように思う。

 

 

そして哲学カフェ的に、言葉の吟味をする。いかにも強迫をもたらしそうな言葉を選ぶ。仕事とか、友達とか、信頼とか、幸せとか、そういうもので、よく出てくるものをやってみる。吟味によって、ある言葉が自分にもたらす反応は更新される。それはもし放っておけばずっと同じ反応をくりかえすので、苦労のパターンの研究だけやっていてもあるところでいつも同じパターンの停滞にはまってしまう感じが僕にはあった。

 

 

ある言葉を使って思考するとき、その言葉に無自覚な前提が入っていると、初めから結論が決まっている。思考の末に出てきたと思う答えや結論は、実のところ一周まわってたどり着いたもともとの前提にすぎない。

 

 

そもそもその言葉がなんなのか。そこを吟味し、おかしなものがあることに気づき、それが棄却されることによって、状態は刷新される。素晴らしいことを思いつかなくても、整理と吟味によって、自然と更新は導かれやすくなる。

文化 ささやかな逸脱と反逆として

大澤寅雄さんの文章を受けて。

news.livedoor.com

昨日送信した文化芸術推進基本計画のパブコメに関連して、このニュース。
http://news.livedoor.com/article/detail/14116493/

「稼ぐ文化」という言葉には抵抗があります。「稼ぐ文化」「稼げる文化」「文化で稼ぐ」…いろんな言い方があって、それぞれ微細なニュアンスと文脈の違いがあるし、「稼ぐこと」を軽視してはいけないこともわかってはいるけれども。正直なところ、品のある言葉だと思えないです。

過去10年くらいで「文化は役に立つ」という言葉が広がりました。教育に、福祉に、まちづくりに、国際交流に、文化は役に立ちますよ、という言い方で、そこには私も同調してきた自覚はあります。ただ「役に立つ/立たない」という評価軸が、文化そのものの価値と同じだとは思いません。文化が「結果として」何かの役に立つということは、実際にあるし、文化に関心が薄い人にとって、そうした説明も必要だと思ってきました。

そして、一昨年くらいから「文化で稼ぐ」という言葉が広がりつつあります。文化は経済波及効果を高めますよ、新しい産業にインパクトを与えますよ、文化GDPを成長させますよ、という言い方。ここまで来ると、「役に立ちますよ」と同様には同調しにくいんですが、「結果として」稼ぐことにつながることは、実際にあると思います。

ただ、この「文化は役に立つ」「文化で稼ぐ」という考え方、つまり文化芸術推進基本計画の言葉で「社会的価値・経済的価値」という側面は、文化そのものの「本質的価値」が高まることの「結果として」生まれるものだと思うし、その「結果として」生まれた社会的価値・経済的価値が、文化の「本質的価値」へと循環させないと、本質的価値がどんどん擦り減ると思うんです。

で、このニュースの文章を読むと、
公的資金文化財の修復保存など、経済原理が回りにくい部分を支えてきた。この“稼げなかった文化”も、稼ぐモデルができればより多くのクリエーターが集まり多様性と創造性が広がるはずだ。つまり新施策では公的予算を呼び水として、産業界と連携し何倍もの価値を示す必要がある。>

ここなんだな。私は、この部分が、ホントにそうだろうか?と思うところ。「稼ぐモデル」は、文化の多様性や創造性を広げることになるだろうか?私は「稼ぐもの」がどのように「稼げないもの」を支えるか、その「循環のモデル」が必要だと思う。

少なくとも文化庁が施策としてやる意味があるのは「稼ぐモデル」をつくることじゃないと思うなあ。

 

僕は文化というのは、放っておいたら既にある強いものや理屈に圧倒されて存在したり生き続けたりできない可能性を愛するというものであると思うし、それが人間性なのだと思っている。

 

 

昔、こどものともだったかに紹介されていた北海道のある植物園では北海道の気候でも自律的に生き続ける花々が植えられている。しかし、人が全くサポートしなければそこは熊笹だけの原野に戻る。熊笹の方が強いのだ。強さの理屈も美しいかもしれないが、それはただそれだけの世界だ。

 

 

ニホンザルの観察している研究者の人に質問したことがある。このサルのなかで障害などを持って生まれたサルはどうなっているのかと。答えはそういうサルはいないということだった。いてもいつの間にかいなくなっていると。

 

 

強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる意味がない。これは優しくない人に価値がないということではなく、そんな世界で生きていたって仕方がない、生きる甲斐がないという解釈もある。僕もこの解釈だ。

 

 

人はこの終わりのない矛盾のなかで住んでいる。サバイバルの世界にありながら、その内側にサバイバルの理屈を侵入させない別の世界をつくる。後者の世界で人が人としていられる場所だ。人の人たるところ、人の人たる願いは、強いもの、サバイバルに支配された世界からささやかに逸脱することであると思う。

 

 

人は、放っておけば現れてこない、この世界にある別の可能性を探究してきた。それをこの世界に現出させ、この世界のささやかな友人として共にあることを模索している。それが逸脱であることを忘れたところでは、世界の破壊が進行しているけれど。

 

 

文化(自由でもいいけれど。)を成り立たせるとは、実際的には、放っておけば現れてこない可能性、消えていく可能性を守るために強いものを侵入させない壁をつくること、あるいは津波のように押し寄せてくる強いものを常に押し返すことだと思う。

 

 

それには高いコストがかかる。生きものには限界がある。だから文化はやがては大きな時間の流れのなかで消えていくささやかな逸脱であり、ささやかな反逆であるものだ。だがそこに人の願いがあり、人として生きる甲斐がある。

 

 

稼げる、役に立つというのは、有用であるということ。有用性とはサバイバルの理屈だ。そしてそのサバイバルの支配からの逸脱と反逆を本質とするのが文化であり人間性だ。

 

 

だが社会で、何が「文化」かを定義するのも結局は強いものによって、ということにはなってしまう。強いものが文化を認定するとかは、強いものの自己強化であって、そもそも矛盾なのだが。しかし、文化とは何かを考えるならば、それが強いものの支配と蹂躙を遮断し、放っておけば存在しなかった可能性をささやかに現出させるもの、反逆と逸脱としてあるのかどうかは揺るがせない指標としてあると思う。

1月の終活ゼミ案内 人心地をつけていくために

1月の終活ゼミ・ワークショップは13日(土)、19日(土)19時〜21時@ちいさな学校鞍馬口で行います。(2回目はもと20日だったのですが、19日金曜日に変更になりました。)

 

人心地がつくと、それまでとは違う層の新しいものが動きはじめます。その人心地も突然起きたことに対するものと、生きていることを通して得ようとしているロングスパンでの人心地があるように思えます。どちらも何かを終わらせようとしているところは共通します。何かを終わらせることで、新しい状況が生まれてきます。

 

 

今必要な人心地をつけた時、また感じられてくるものがあります。他人の「達成」を見て、自分もそうあらねばと不安にかられるなら人心地が失われます。といっても不安になるときはなります。感じ方は直接的なコントロールができませんし、抑圧するといずれもっとタチが悪く噴出してきます。

 

 

それがなんであれ、今必要な人心地を満たすことが次の新しいものを生むのでどんな時も扱うことはどのようにつまらないと思われることであれ、今のことが優先です。人心地に戻り、そして感じられることにまた向き合っていく。向き合いとは、感じていることを感じていると認め、それに対して必要なことを実際にするということです。

 

 

人心地をつけ、そしてまた感じられてきたことに対して人心地をつけていく。どこかの到達点があるわけではなく、いつも、どんな状況からでも人心地に戻っていくだけ。そのためになんであれ必要なことをするだけです。ですがそのことによって、むしろ空回りではない現実的な質的展開が派生してきます。

 

 

終活とは、「普通」とされている到達すべき水準、人として扱われるために満たされるべきとされている基準は、生き続けるならがいずれ誰もが失うという現実をもって、今生きているを問い、刷新するワーク、自分の感じていることを見ていくリハビリとして位置づけられるのが妥当ではないかと思っています。その結果として現れてくることは、生きることのデザインを小さくとも自分に取り戻していくあり方だと思います。

 

 

1月より、自分が見聞きしたり、知ったりした「終活」、自分が関心をもった「終活」を持ち寄るかたちを加えようと思います。多分そこは自分の根源的な価値観が見えてきやすいところかと思います。(全ての活動は終活として捉えられると思っていますが、とりあえず、自分が「終活」だなと思うものを。過去の記憶や本とかでも結構です。)

 

 

2018年1月 終活ゼミ・ワークショップ
とき 13日(土)13時〜16時、19日(金)19時〜21時
ばしょ ちいさな学校鞍馬口
要申し込み

タイムファンタジー

タイムファンタジーが好きだけれど、君の名は。は見てなかった。

 

 

ハッピーエンドが軽薄に嘘っぽく感じられるのは、失われたものと出会えたならそれは失われたものじゃないから。でも失われたものと出会いたいのが望みだから。 現実化すると嘘になる。

 

 

あり得ないだろうが、あったかもしれない可能性が確信されるようなはざま。人に必要なのはそういうものなのだろうなと思った。

 

 

星の王子さまのボアに飲み込まれた象、箱に入れられた羊と通ずるように思う。現実化されたものは本当のそれじゃない。それは現実と現実のはざまにしかない。あるいは否定されたものの向こうにしかない。自意識としてのわたしが出会うことができないものは、そういうところにしかいられない。

 

 

自意識としてのわたしは、時間を止めた虚構の世界に住んでいる。時間を止めることによって、世界をわたしとして擬似的に体験することができる。

 

 

世界との一体性を犠牲にしてわたしという自意識は作り出されている。だがそれはいわば死と孤独を生きることであり、強い郷愁を生む。

 

 

物語で結ばれるのはある時間と別の時間。わたしとして生きることは時間の止まった死として仮想的な体験をすること。死として生きるものが、別の時間、生という、世界との一体性であり、彼方(あなた)であるものと結ばれる。それはわたしの消失を招くはずで現実ではあり得ない。

 

 

タイムファンタジーは、たとえとしてしか感じられないもの、しかしなによりも強く存在する郷愁、そしてそこに戻れない悲しみを描いているように思う。

エピローグとしての生

以前デモクラシーナウを観ていると、その年におこった様々な出来事や大国の狂気を立て続けに流している動画があった。

 

 

はっきりいって酷いものだった。世界はなんで自ら終末を求めるような歩みをこんなにも着実にすすめているのだろうと思わされるようなものだった。

 

 

だがそこで流れていた音楽は動画の深刻さをさらに煽るものではなく、まるで映画のエンドロールのようなものだった。それに衝撃を受けた。現在進行中のことなのに、まるで終わってしまった過去の遠い世界のことのようだった。

 

 

動画で流されているようなことはそんな遠い世界のことのように受けとるべきことではないのではないか。だがそのようにしか受け取れない。

 

 

この感覚は、たとえば風の谷のナウシカの喜びにあふれたラストからいきなりそれを突き放すような音楽とともに、誰の声もなく断片的なシーンで表現されるエピローグで受けたものと近い。

 

 

最後は緑の芽が出ているシーンになるのだが、村人が喜ぶ最高潮のシーンからの突然の転調し、突き放される衝撃は強かった。ナウシカは小学生の頃にみていたから、なんでこんなに悲しいような感じにするのかわからず、しかしそこにどうしようもなく心をつかまれてもいた。

 

 

クリスマスに観に行った菅原直樹さんの演劇でも、ラストの字幕で急に時が過ぎ、若かった登場人物もみな死んでしまうとき、同じ感覚がした。

 

 

無意味さ。この感覚は無意味さに対してのものだったのだと思う。大きな時間の流れのなかで生は何の意味もない。それが一人の生でなく、人全体に拡がったとしても、何の意味もない。

 

 

虚無的な認識。だが直観した。この虚無こそが実は埃のようにくだらないすべての存在をかけがえないものとして感じさせるものなのだと。全てのものは一時的であり、そのことによって心の震えが生まれるのだ。

 

言葉は心のなかに時間の止まった世界をつくる。擬似的な永遠の世界。所有され、固定され、変わらないけれど、退屈で疎外された嘘の世界。心の震えはその固定化によって震えることをやめていく。

 

時間の止まった世界で回り続けるメリーゴーランド。言葉によって自意識を持った人はそのメリーゴーランドに乗っている。それは呪いであるといってもいいものだ。素晴らしい夢も何度も見ていれば飽きる。そして全てのものは時間とともに色あせていく。

 

しかしその時間の止まった世界で生きていく。嘘の世界で生きていく。本当の世界は自意識には感じられないのだ。火は火を焼かず、水は水を洗わない。一体化しているものは他を眺めることはできない。

 

時間を止めたフィクションとしてしか世界は眺められない。だからただ旅をしよう。メリーゴーランドから見える世界の残像を変えていく。動けないものにとってはそれが旅なのだ。

 

残像として、残響として、擬似的にしか世界は体験できない。だがその世界を眺めるフィルターは更新していくことができる。いつも終わった世界にいるけれども、その風景は変えることができる。

 

年内最後の当事者研究

今年最後の当事者研究、終了しました。今年ご参加いただいた方、ありがとうございました。

今日は、いつも通り振り返りと気分体調から始まって、これからの自分助けプランを考え、最後は何が自分の生きることを充実させることをつくるのかという哲学カフェ的に考える場を持ちました。


自分助けといっても健康に気を配ることやらストレス解消法やら無限にあると思いますが、この自分にとっての生きることの意味、あるいは充実、喜びといったものは何なのかという軸のもとに、何がその自分の自分助けになるのかと吟味してもらえたらと思っています。


哲学カフェ的にやる意味は、思考の堂々巡りのパターンを少しずつずらしていくためだと考えています。何も感じずパッと思いつくことで考えることが堂々巡りを生みますが、本当に自分にとってどうなのかを吟味する時、考えるより感じるということがおこっています。感じてみて、よりフィットする言葉や感覚を見つけた時、堂々巡りはたとえおこったとしても前のものとズレています。それを続けていけば思考や感じ方に変容がおこってくると思います。

問いを受け、吟味し、感じる時、一瞬だけ高い集中が生まれています。その高い集中の時に今までスルーされていたような微かなものが捕まえられ、実際の自分の状態として意識化されます。海に潜り海底でかすかに光る何かにさっと捕まえて浮き上がるような感じかもしれません。

あとでちょっと補足したくなったのは、「充実」という言葉についてでしたが、他にもっといい言葉があればそっちを使いたいですが、とりあえず使っています。なるべく一般的な言葉にしたいと思って使いましたが、どんな幸せな人も多分強い高揚感は一時的なものであり、それが常時続いていたらそれは異常事態だし、身体にはストレス状態だと思います。


「充実」といっても強い感情をおこすものではなく、もう少し淡く満たしてくれるような感覚かもしれません。食事に例えたら、毎食美味しくて感動するご飯という感じでなく、そういう刺激はなくても、何か確かなものの手応えが感じられるといったような感じかもしれません。

質問の語句の選択は、誤解があったらあったなりに面白い発見ができる場合がある気もしていますが、自分と関係ない何かを考えつくのはあまり意味がなさそうに思います。「充実」でも「喜び」でも「意味」でも「意義」でも何でもいいのですが、問いから派生する一瞬の高い集中を使って、自分にとって重要なものをよりはっきりとみるのが目的ですので、シンプルに自分にあるものをよりはっきりみれるように調整して吟味してもらえればと思います。違和感ある語句だったら、別の言葉に入れ替えてもらっても大丈夫です。

通路の詰まりと回復 菊地直子さんの手記から

自己不信と他者不信は別々のことではない。それらは自分が閉じていなければ既に開いていつも息づかせる流れを運びこんでくるいわば「通路」の状態のことを指していると思う。

 

ironna.jp



気づいてみれば自分が閉じているためにその感じ方が作り出されるのだが、そうは思えず、他者や世界がもともと悪く自分はその被害者と感じられる。無自覚ではあれ、自分が作り出したその他者像、その世界像のフィルターを通して認識がされ、体験がされる。

 

 

気づきや支持的環境は必要だけれど、無自覚に遮断しているものが開けば世界の体験のされ方は変わる。既知の世界、つまり思い込みの世界のリアリティの外に踏み出すとき、通路は開く。その踏み込みが既知の世界に閉じ込められ、認識や感じ方までが決められていた状態を終わらせる。通路からは自分を息づかせるものが流れ込んでくる。

 

 

その流れを回復させていくことが、即ち人間が回復していくことに他ならない。そして回復の方向こそがそもそも自分が行きたかった方向であり、同時にそれ以外は死していく方向だと知る。それまでの重みが大きいほど、このことは深く理解される。

 

まだ通路に詰まっているものは何なのか。それを取り除きはじめる。生きて回復していく方向はそちらにしかない。そして詰まりが取り除かれた通路の状態こそ何を獲得せずともそのままで生の解放と充実が感じられるところだ。


 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 

この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。


「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」