降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

滋味

糸川勉さんが左京区元田中で「畑のみえるカフェ おいしい」をやっていた時、出してくれる野菜を食べると、体に沁み入ってくる感覚があった。

 


滋味、という感じ。単に必要とされる栄養素とカロリーを取るということ以上のことがある感じ。

 

生きる時に、心に必要なカロリーと栄養はこれと決めて、より効率的にそれだけをとろうとするよりは、それがどう働くものかよくわからないけれど、沁み入る滋味をとっていくと捉えるとだいぶ感覚は違ってくるんじゃないかと思う。

 

必要なものを決めてそれだけを効率的にとる意識においては、自分が大きい。自分が大きいと失敗とかうまくいかないとき、圧が自分に大きくかかってくる。一方、うまくいった時は環境に感謝せず、(人並み以上の)自分の努力と才能に高揚するのだが、この時「自分がやった」は「人はやってくれない」という裏の意味を同時に持っており、その恨みや怒りを今度は人にぶつけようとしているのを結構みる。

 

一方で、滋味をとるのを大事にする時、滋味は何からくるかよくわからない。いつも手探りになるだろう。同じことをしてもいつも同じ滋味が得られるわけではない。滋味がなくても差し当たりはたぶん全然生きていける。

 

だが滋味はたぶん、自分を知らないうちに変えていく。こうなるとイメージしてないところに連れていく。ゆだねる感覚、他力の感覚が強くなる。自分は小さくなり、感謝が大きくなる。得たものは取引の当然の結果ではなく、恵みを享受している感覚になる。

 

どちらかというと滋味を食べて生きていくには何をどうしたらいいのか。決まったもののなかで自分がより優秀なプレイヤーになり世界から当然のものを奪う意識よりも、自分の知らない世界の広がりから滋味がもたらせるものを感覚しながら生きるには。

 

もたらされた滋味を手がかりに、その滋味がどうやってやってくるのか、その通路の開き方に意識をもっていく感じだろうか。自分が直接手で掴むのではなく、通路をひらくことで、それが自然とやってくるように。

現代の学びの場

自分が考えてきたことは、つまるところサバイバルについてだ。この社会でどう生きればいいのか、どう生きられるのか。人の変化や回復について確かめていくことも、サバイバルのなかに入る。

 


ただこれは、多分サバイバルという言葉がよく使われている文脈、つまり短期間の特殊な状況や危機的状況をやり過ごすサバイバルではなくて、人間の作った社会、この文化圏のなかで、ある程度長い時間生きていくという仮定の上でのサバイバルだ。

 


人間の社会では、短期間さえなんとかやり過ごせばあとは大丈夫、というわけにはいかない。しかし、だからといってすり減っていくわけにもいかない。状態をより整え、だんだんとエネルギーやできることを増やしていくということまでできて、サバイバルが成り立つと思う。短期間のやり過ごしでは不十分で、エネルギーを蓄え、状況を変える力を増やしていってようやく主体的な生を維持することができる。

 

このようにいうのは、例えば自分が何らかのマイノリティになっている時、社会で用意されているものは全く不足していて、自分で自分の生を作りだしていく必要があるからだ。文科省がなおLGBTについて教科書で取り扱うことに向き合わなかったように、待っていても与えられない。

 

性的マイノリティでなくても、人はちょっとしたことで、いつでもマイノリティになる。実のところ、個々人の個性に対して社会が支援的などということはない。個々人の特性を生かすには、個々の必要を満たすための手づくりの自分たちの環境がいる。

 

子ども食堂を例にとるなら、本来行政がやるべきところなのに行政が能わないため、その場その場の人がやらざるを得ないからそれは生まれてきている。

 

行政は、今後色んなところでますます能わなくなるだろう。過労死ラインがおよそ80時間だとされているのに、残業時間100時間がOKになる現状。年金支払い年齢は繰り上げが検討されている。行政に対し、今後も強くあるべき姿を課していくと同時に、自律的に自分たちの生存圏を作っていくことは、今や不可避なのだと思う。

 

エネルギーをため、行政の不能や不作為に関わらず生きていく力を増大させていく自律的な人間関係。自分たちで自分たちを回復させていく場所。そういうものが必要だと思う。自分たちのエンパワメントベースを。自分たちがより良い生を生きるためのサバイバル。一般の人に対するエンパワメントは、別にやってもやらなくてもいいようなことではなくて、それぞれがサバイバルとしてやる必要があると思う。

 

多くの生きものは、どんな時でも死ぬ可能性があるのが前提なので、刺激に対する反応は、長い生存を仮定した行動を取らずその場その場をやり過ごして生きようとする。
ところが、ある程度長い時間を生きるとなると、その場その場をやり過ごすために身につけたことが、逆にマイナスに働く場合が多い。

 

人間の場合、ケアがなされず放置されていれば、幼い時に危機的状況にさらされるほど、現実にある様々な文脈を汲み取ることができなくなり、その場その場の細切れの文脈に対する反応(多くの場合長期的な人間関係を構成する上ではネガティブなもの)が優勢になる。

 

ある程度長い時間を生きることを仮定するなら、この一度身につけたものを解きほぐし、新しい反応や認識のあり方に再編される必要がある。

 

だが生きものが危機に対して一度身につけたことを捨てるというのは、かなりハードルの高い作業だ。個としての尊厳と安全が提供される場が必要となる。個々人はどのようにお互いに尊厳を提供し、守りあうことができるのか。学びはこの土台づくりからはじまる。

 

その土台を作りながら、現状のなかで、新しい状況を作りだしていく。自分たちに必要な新しい状況を検討し、実現していく。現代の学びの場は、そのような場になればいいのではないかと思う。

オールマイティ

オールマイティなモデルになろうとしてかかるコストの高さ。効率の悪さ。そしてなお矯正しきれない癖。歪み。

 

 

コストと時間をかけて作ったオールマイティさをもって、多人数に一斉にアプローチしてコストを回収するのが経済の理屈。

 

 

だが物ならともかく、人間に対してそのアプローチは自然ではなく、質的な変容をおこすには不十分か、かえって停滞させるようなことも多そうだ。

 

 

人類学者ヴィクター・ターナーは、サファリング・コミュニティという概念を提示し、同じ苦しみを持つ人が集まり場を持つと、回復がすすみやすいことを指摘した。

 

 

当事者として援助されていた人が回復し、今度は自分もかつての自分と同じような人たちの回復をサポートしだす。

 

 

心の深部の回復には、自分と同じ、あるいは自分以上に自分だというとリアリティを感じる他者に対して、関わり、自分がそうされるべきであったケアを提供し、それによって回復した姿をみるという体験が有効であるようだ。

 

 

ただ社会生活ができるというだけでなく、心の深部から回復していくために、自分以上に自分のエッセンスを体現している他者に対して、本来自分が提供されるべきだったケアや尊厳を提供するという、とむらいのような行動が自律的に現れてくる。

 

 

そのようなとむらいは、もちろん相手にとっても恵みとなりうるものだろう。

 

 

自分と同じ苦しみを持つ人に対して、人は自然と共感的で、援助的であり、その人に本来自分が提供されるべきだったものを贈る。その贈りによって、心の深部が回復する。

 

 

オールマイティなプロ、専門家を育成することだけに意識を向けずに、人間のその自然な回復に向かう自律的な傾向、求めを生かすことが重要であると思う。

 

 

それぞれの人は、自分の苦しみの専門家であり、それを抱えて生きてきたぶん現実的な感覚を持つ。ただ孤立した個人ですすめられる回復には限界や制限もある。

 

 

共にあること、どのように共にあればいいのかを学ぶ。それによって、大きな資本の用意や、無理がくるような水準のエネルギーを支払うこともなく、学びと回復は進んでいくだろうと思う。

 

 

少数のプロが主体性をもたない疎外された素人を導くのではなく、それぞれの場所にいる当事者が自らのために学び、回復の場を構成することが、根本的な向き合いであり、深い回復とエンパワメントをもたらす。

 

 

問うべきは、そのような自律的な潜在性が展開できるようにするためには、どうしたらいいかということであると思う。

寝る前

寝る前にわりと毎度親のことが頭に浮かぶ。

 

両親とも一応元気だが、年はとっていくし、父は脳梗塞以来歩きにくくなっていて、熱など出ると自分でトイレに行けないらしい。

 

らしい、というのは姉から聞いた話しだから。

 

正月は帰るし、別に話さないわけではないけど、それ以上特に関わりもしない。

関わりたくないというわけでもないが、関わる強い気持ちもない。

 

寝る前は、なんか今日の自分の過ごし方が問われるような気になっている。


自分は面倒くさいものを放棄している。週に2日しかバイトしないし、特に何もしない日も多い。

 

寝る前は、全ての義務から解放された状態なのだなと思う。

もう寝るだけで、何もしなくていい。

 

義務や強迫から解放されるから思い浮かぶのだろうか。

 

自分を支え続けて、そして老いていく親。毎日仕事して、家事をして生きている。自分は、自分の今日は、そんな親の、自分に対する捧げに値するものだったろうか? 

親孝行しようとか、そういう殊勝な気持ちを持っていない。親のことを心配するとか、ない。心配するのは自分の都合だ。

死ぬ前もこんな感じなんだろうか。やってもらったことに対して、思いを持ってもらったことに対して自分は値しただろうか、となるのか。いつも人のことなど何も考えてないのに、最後だけ都合よく、いっぱしの人みたいに殊勝になるのか。許してほしい、となるのか。

 

義務から解放された時に、負債が残っていることに気づく。返そうとしていることに、気づかず、普段を過ごしているのかなと思う。

ちょっとあとで思い返してみると、恨まれるという感覚が近いかもと思った。沈みゆく船に乗っている両親、そしてまだ大丈夫な隣の船から見ている自分。まあこっちもいずれ沈むのだけど。

恨まれるのが怖いということで、殊勝ではなく自己都合だ。なんで恨まれることを恐れるのだろうか。もう少し見てみる。

 

 

リアリティをひっつける

話しの場では何がおこっているのか。

 

 

言葉を使うので、言葉が作用することをやっているんだろうと思うけど、言葉を使う以前に表現するということでもある。

 

 

表現一般とは何なのか、そういうことはわからないけれど、自分が自分に関心に基づいて確かめてきた人の変化、更新というところにおいて思うのは、人は自己更新するときに世界と新しい出会い方をしようとすることが一つあると思う。

 

 

今まで言わなかったようなことを言うとかも、その出会い方の一つだろう。体は、その出会いに賭け、変わろうとする。自意識は恐れるのだけど、その人にとって整った環境では、言おうと思ってないこと、やろうと思ってないことに自然と現れてくる。自律的に現れてくる。予想していなかった自分がある。

 

 

そもそも予想していた自分、イメージしている自分を現実と思い過ぎていて、何かやる前から自意識は結果を決めている時もあるのかなと思う。結果を決定すると、体験される世界が決まる。

 

 

決定とは、自分で物語の結末を書くことだ。次に、その決定に基づいて世界が体験される。自分で書いた絵本の物語に閉じこめられるようなものだ。絶望や悲嘆、虚しさがやってきたりするけれど、自分が結論づけたから世界がそのように体験されるとは思わない。世界がそうだから、自分は・・と体験される。

 

 

苦しみが高まる。高い圧がかかってくる。苦しみのなかで、その圧が逃げるあり方が模索される。小手先のことで変わらない場合は、根本的な向き合いを始める。圧力は、たくさんの水が自分で流れやすい水路をつくるように、次の水路になりそうなところをノックしてくる。

 

 

新しい水路は、自分より先に、その水の流れが決めているようなところがある。支持的な、整えられた環境では、圧力は破壊的にならず、既に周りにあるものと共同作業をしながら、新しい水路を開発する。新しい水路、めぐりの通路ができた状態で、全体としても整う。

 

 

圧力があまりに高まり過ぎたり、整えが不十分な環境だと、圧力は暴発し、破壊的な成り行きになりやすい。

 

 

人の変化更新において、表現とは、出会おうとすることであるのかなと思う。出会いから疎外されている状態から踏み出し、物語を更新する新しいものに出会うことなのだと思う。

 

 

整えられた話しの場では、自律的な変化がおこる。自分にとってのリアルを表現することは、元の物語に留まることではない。リアルさは、更新をおこすために欠かせない要素ではあっても、それ自体は完成物にはならない。リアルさは、体験をひきおこし、心のなかに出来上がった世界を揺り動かし、更新するために必要なものだ。

 

 

逆にいえば、リアルさを引き起こすものを使って、心のなかの世界を更新することができる。言葉でも、身体を使ったことでも、自分にとってのリアルさを「ひっつけ」て、ひっつけたものを動かすと、いつもは静止している心のなかの世界が変わる。

 

 

本当に思っていないこと、感じていないことに沿ってされた体験は、更新をおこす体験にならない。自分にとってのリアル。リアリティ。それがどんな時も基盤になる。

 

 

だから話しの場は、まず自己一致の状態が整ってくる場である必要があるだろう。その自己一致のもとで、気のめぐりは次の状態へのノックをはじめる。あるいは既にあったノックが気づかれる状態になる。

 

 

変化更新とは、古いものの死でもある。だから恐れも抵抗もある。と同時に、その古いものに倦む気のめぐりがあり、新鮮さを回復する求めがある。その気のめぐりが求める方向に自分を差し出す。そちらの方向へ踏み込む。

 

 

踏み込みを止めると、またもう一回高まりがくるまでの一周がやってくる。自意識の前には、生きる(維持する)ために死ぬ(停滞する)のか、死ぬ(終わらせる)ことによって生きる(再生される)のか、の二択がいつもある。

話しの場

何かが始まるということは、何かが終わったということだ。
始まりはその派生的、必然的な結果にすぎない。

 


何かが本当に終わる。

そのことをみたい。

 

話しの場での気づき。

 

言葉を一つ一つ、そのリアリティをなぞるように置いていく。

 

リアリティに少しでもかする言葉をみつけ、またそこを基に近づいていく。
そしてある時、妥当な言葉が現れた。

 

その言葉にくらべると、今までの言葉は、半分ぐらいは満ちていても、あと半分は空であるようだった。

 

その言葉は、何気ないのに、満ちすぎでも不足でもなく、必要は全部満たしていた。ポンと現れてきた。

 

今までうろちょろしていた平面とは、違った位相から出てきたようであったけれど、自然な言葉だった。

 

話し手は、もうこれでいいと、自分から言ってくれた。

 

帰り際に荷物をまとめようと横に体をひねった時、自分の体の震えに気づいて驚いた。5分ぐらい、それは続いていた。

 

劣化していく歪んだコピーの再生産で出来ている世界に住んでいるようで、うんざりして、カスカスになる。

 

繰り返しはもういいから、本当の変化がみたい。本当の終わりを共に体験したい。

終わりない学びの場はつくれるか

話しの場の可能性、当事者研究、リフレクティングプロセスの場などを通して共に探りたい。

 

 

話しの場、エンカウンターグループにしても、傾聴やカウンセリングみたいなものにしても、治療者、聴き手、ファシリという役割がある。

 

 

その役割抜きに話しの場は成り立たないのかと考えると、いや全員がファシリになれる状態になってたら成り立つのではないかと思う。

 

 

漁師が海を読むように、それぞれの人が、場に対する感覚を育て持ち、それを生かすことができるならどうなるだろうか。

 

 

素人に対して、専門家がつき、導き、その場を構成する型から、それぞれがある程度、人や話し、場に対する感覚を育てながら場を構成する型、育ちあうピアというかたちができないか。

 

 

畑でたとえるなら、それぞれの人が別に自給する必要がないけれど、作物づくりの講座に教えてもらいに来ているようなかたちから、それぞれの人が作物を毎年自給しつつの協同の学びの場を構成しているようなかたちへいく感じ。

 

 

鈴鹿にいって、観察という視点を得た。一人一人が自分の反応を観察することを身につけていくと、やりとりや場の質は大きく変わる。今の僕は、観察は除くことができない要素だと考えている。

 

 

次にリアリティ。奥底から出てくるその人の凝縮されたリアリティは、場を変える。人は場の状態に大きく影響されるが、そのようなリアリティは、場自体の性質を変え、おこることの質を変える力を持っている。

 

 

当事者研究のような、個人の深い苦しみの一端が現れるような場は、そういったリアリティの力を使っていると思う。

 

 

自我の自動的機能は逸らすことであり、緊張が高まるようなことは、そもそも選択肢として思い浮かばなかったり、どうでもいいことへと向かおうとする。

 

 

その逸れをこえるために必要なのは、その人がはじめから持っている強い興味とのつながりだと思う。その興味とはその人が持つ根源的な苦しみであると僕は思っている。

 

 

人は無意識であっても、その根源的な苦しみをこえるあり方を模索している。強い興味関心は、その人の苦しみと関わっている。その苦しみを終わらせようとする力こそ、持続的なエネルギーの源であり、充実を感じさせる背景なのだと思う。

 

 

人は整った環境では、自律的に変化更新への動きをおこす。尊重するとは、その整いを用意することだ。どのような状態が整いなのか、そこから探し確かめ、感覚として知っていく必要があるだろう。

 

 

話しをするということは、時間とエネルギーを投資してより追究したあり方を身につけていっても何も無駄がないと思う。自分の整え、話しの場の整えをずっと学ぶ。そういうことをこの指とまれで、周りと共にやっていきたい。