降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人という状態

人という言葉がある一方で「人でなし」という言葉もある。人間であるのに人でなしとはどういうことだろうか。あと「鬼」とかいう言葉もあって、一つのことだけを重要視し、それ以外のものには容赦のない態度で臨んだり、切り捨てたりする。

 

 

人でない状態があるのなら、人である状態とは何を指しているのだろうか。「鬼」から考えると、周囲や世界との関係性が無視されていない状態、大切にされている状態といえるのではないだろうか。

周囲との調和性を断ったがん細胞は栄養がある限り寿命をもたず無限に増加するともきいたりするけれど、「鬼」とも重なるところのある「狂気」も疲弊せず、周りを犠牲にしながら自己増殖・自己拡大できる性質がある。周囲との関係性、調和性を無視することによって、通常でない力や推進力が生まれる。

 

 

僕は、生命は本質的にこのがん細胞のような狂気を底にもっているのではと思っている。払いきれない賠償金に暴走した国家があったように、過剰なストレスによって、何が何でも生きようとする力が周囲との関係を断って独立し暴走する事例があらゆるところにある。

 

 

この狂気を底に持ちながら生きるということが成り立っていると思う。狂気とは火のようなものであって、自己増殖するが常に他者に依存しその栄養を消費する。

 

 

生がその推進力を維持するために狂気を内在させていることはおそらく欠かすことができないことだけれど、同時にその本質的傾向は自滅的でもある。がん細胞が宿主まで殺すように、その底にある傾向は周りからも調整されることによってようやく自滅せずにいられる。狂気それ自体は別に消滅を恐れていないと思うけれど。

 

 

がん細胞以外の細胞は寿命があるわけで、そう考えると調和ということが突き詰めれば一時的なものであって、持続には疲弊がともなうものだととらえることもできるかと思う。

 

 

ここで話しは最初に戻って、人というのは種としてのヒトのことではなくて、調和性、周りとの関係性が取り戻された一時的な状態のことを呼ぶものであり、それは常に調整や状態の更新が重ねられることが前提とされたものだと思われる。

 

 

孤立化した個として固まりになり鬼化しないためには、周りとの関係性が断たれず、そこに支えが流入し続けていることが必要なのだろうと思われる。それと同時に既に固まってしまったもの、鬼化したものが解けていくためにも、必要な周りとの関係性がとりもどされていくことが欠かせないだろうと思う。

 

 

人と人であるとき、解けていくものがある。人という状態は、既にあるものではなくて常に作り出されるものだと思う。常に作り出され、調整され続ける関係性のなかで、心は循環し更新されていくと思う。

他者としての自然

人は地球の自然のなかで生まれてきて、人工物も自然の加工にすぎないのなら自然に全て依存している。自然は生きものを育んできたが、宇宙からみたら、地球の自然のなかにいるものは外から意思を持った誰かに守られているわけでも、滅びないように予定されているわけでもない。

 


生命の発生という、勝手におこったことが展開したけれど、その展開には保証がなく、ゴールがあるわけでもない。いってもみれば存在としての生きものは、今のように産み捨てられて圧倒的に放って置かれている。全ての恵みを与えてくれる母なる自然は同時に全くの他者としての自然でもあって、後者をあえて擬人化してみたら、滅ぶのも含めてどうにでもなるようになれば?別に関係ないし、という感じだ。

 

理性があれば人は自分たちの活動による自滅から身を守れるかというと、それは希望や願いであって、それも何の保証もされてない。地球の自然にできるだけ従えばいいというのは、予想できる範囲で滅びをより緩やかなものとしようとする緩和策・延命策なのであって、生きるという問題の根本的な解決策ではない。そもそも根本的な解決というような考えがそぐわないけれど。

 

どんなに素晴らしい延命策が提案されたとしても、突き詰めたところで、こうすればいいというのはない。そこに自由の根拠があると思う。純粋な間違いはもう一方に純粋な正しさがないと存在しない。究極的にはどのようであっても赦されているというのは、生きものを包みこむ自然が全くの他者であることによると思う。

 


思うような未来がこないことへの自暴自棄は、未来を取引の対象としてとらえ、取引の代価を払い続けている現在への反動として現れる。調和を「熱」望することのなかには、何かの無視や抑圧がある。高揚をたきつけて自分や人に何かさせることは、無自覚な分だけ暴力性が高い。

 

生きることのもともとの保証のなさ、方向性の持てなさを受け入れることのほうが、結局は現実的に、人にやさしくなるだろうし、自暴自棄になることもないと思う。生きることのささやかさに戻るとき、失うようなものはそもそも持ってもおらず、それにも関わらず与えられたものが感じられてくるのではないだろうか。

高槻の生命誌研究館に行ってきた 

木曜日は高槻市生命誌研究館に。

鈴鹿の人たちが来るというのでご一緒させてもらう。

 

www.brh.co.jp

 

先について入ろうとすると自動ドアが開かない。あれと思って横の手動のドアがあくのかと思って移動しようとすると中のスタッフの二人が出てきてくれて開けてくれる。古いから反応しにくいとのこと。仕事の役割としてやっているという感じじゃなくて、素の人として迎えてくれている感じだった。その後の案内でも、本当に自分がこのことを紹介したいという感じがあって、とても印象的だった。ここもたぶん素のままでいれる職場なのかなと思った。

 

僕は人間や自分のことを考えるにあたって、自然とは何かとか、生きものとはどのようなものかということをよく参照する。生きもののありようの多様性が新しいものの見方を提供してくれる。

 

ある考え方が行き詰まるとき、あるいは他の考え方と矛盾して膠着するときは、その考え方の前提に誤りがある場合が多いと思う。生きものや自然のあり方をみると、それらは既に答えを生きていて閉じた行き詰まりに穴を開けてくれる。行き詰まりを開くためには、別に何から何まで含めた全体を知る必要はなくて、今の行き詰まりを支えている考えや前提を成り立たせなくさせるだけでさしあたりは十分だ。あとはそこから確かめて押し広げていけばいいだけだから。

 

世間でもっともらしく言われていること、押しつけられることを自然はこえて存在している。だけれど自然の表面上のことだけピックアップして歪め、「自然は」こうだからと人間の抑圧に使われる場合も多い。優生思想などはその典型的なものだ。優れている生命が「正しく」劣等なものは排除されるべきである。自然はそうだからとこじつけるわけだ。

 

森岡正博さんによると、日本でもこの優生思想に基づいて1996年まで人工中絶が規定していた。優生保護法の第一条は次のようになっていた。
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm

 

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第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする
ーー

 

不良な子孫というこの文字は、障害者団体の長年の運動によってようやく改正されたという。このような思想が生まれる基盤を提供したのがダーウィンの進化論だ。生き残ることと優生思想には密接な関わりがある。

 

自然界は適者生存。ある環境においてより優れたものが生き残る。だがそれはただの結果であり、「あるべき姿」とは何も関係がない。生き残るものが生き残ったというだけだ。それをあるべき姿として積極的に利用する優生思想は歪んでいる。もしそれが本当の理なら、何も意図的にしなくても自然にそうなるわけで、積極的に中絶したり、民族浄化を行う必要はない。自らが自然の代弁者、代行者として、弱者に配分される資源を奪う。要はその奪いをしたいわけで、自然は正当化の理由、こじつけにすぎない。

 

障害が今自分にはない人は想像しにくいのかもしれないけれど、自分の役に立たない人はいらないと言われる環境で心をもった人間が人間らしく生きていけるだろうか。明日何らかの病や障害をもち、役に立たなくなれば途端に終わりだということがわかっている社会は生きづらい。

 

人は人の役に立つ間だけ存在していていい。そういう社会に誰が生まれてきたいだろう。だが、自分がやらないならば、誰かが作物や動物を育てなければ生きていけない。その人たちに働いてもらわないと生きていけない。生きるために必要なことを成り立たせないと生きていけない。だから生きることを絶対化したときには、他者の抑圧も許可されるものになってしまう。

 

生きるということを単純に「いいこと」、「素晴らしいこと」、「当然のこと=他者に強制できること」と前提したときに弱者抑圧は自然に派生する。生きるというのは単純に良いと悪いとかを決めて高をくくってしまえない業の深いことだと思う。生きるということ自体を絶対化して検討の外に置くのではなく、相対化する視点が必要だ。

 

自然は地球の生きものの全てを産んだ母であって、同時に生きものが生き続けることな
ど意も理介さない理屈で動いている他者だ。地球の自然を小さく定義するなら人間はそこを逸脱したのだろうし、宇宙をふくめた自然を想定するなら、原発であろうが遺伝子組み換えであろうが、あるものが可能性を展開しただけ。そこではどこまでいっても自然でしかない。ただ生きものに都合がいいか悪いかということがあるだけ。良い悪いは生きものの世界にしかない。

 

だが宇宙をふくめた自然にとっては、生きものなどもともとあるものの一時的な形態に過ぎず、生きたからいいとか死んだから悪いとか何もない。その視点からみるとき、生きものというのは産み落とされ、置いてけぼりにされた孤児であって、生とは儚い夢のようなもの。優生思想が求める優秀さ、能力の高さなど、この儚さのまえに意味がない。全ての生きものは、もうおいていかれているのだから。おいていかれたものとしてあるとき、やさしさは生まれる。意味の無さを獲得することは、有用性から人間の心が疎外されることを終わりにする。

 

進化について書くのを忘れていた。

 

生きものは自分から求めて進化しているだろうか? そこを見ていくと、進化というのはどちらかというと仕方なくおこっていると理解したほうが筋が通るように見えてくる。海の競争の圧に耐えかねるものたちが陸にあがり、そしてそこでも生きるための圧力が高まっていけば生きものは空へと繰り出した。生命誌研究館の進化の展示が面白かったのは、魚類→爬虫類→哺乳類→鳥類という順番にされていたところ。

 

生きものが自分から進化したいものだとか、進化する自律性をもっていると見なすのと、環境の変化に対して仕方なく進化しているとみなすのかで、生命観は真逆にもなるだろう。そして今の社会の強迫はあきらかに前者の見方によって生まれている。しかし生の実態が後者であるならば、まるで倒錯的なことをやっていることになる。

 

進化とは生きものの死にきれなさがおこすものだと思う。
そしてもともとある死にきれなさを人がさらに利用して、恵みを自分のもとにかき集めようとしているのが今の社会ではないだろうか。死にきれなさは業だ。それに飲み込まれ支配されるのか、それを逆手にとり、生きながら生を超えていくのか。後者は生に対する反逆だ。しかし、この反逆のなかで心は生きる。この反逆のなかにやさしさが創造される。

「意味」の空白地帯 学びを取り戻すために

たとえば、学ぶということが生きものにとってもともと備わった行為だと考えるなら。なぜ人間以外の生きものは学校に行かなくてもいいのか。色々な考えかた、こたえかたはあるだろうけど、生きるという、まさに軸に関わることにおいては、生きものは自ら学ぶからだとこたえることもできるのではないだろうか。


この自分が生きるという軸においては、自ら学べる。当事者はその当事者性において学ぶ。生きるということをやっている当事者は、生きるということを自ら学ぶ。
学ぶとは、取り入れることによって、もともとあったものを取り去る行為であり、更新の行為であると思う。取り入れることはいつも取り去るための便宜上の方法であって目的ではない。

 

生きるものは、生きることのプロになるために動機づけられており、そういう身体を持っていると考えてみるなら、経済行為のプロ、職業としてプロになるということは、もともとの動機づけを転用したものととらえることができるのではないか。

 

職業のプロになることが当たり前になり、当然のこととして求められるようになった時代に、この自分が生きることと直接接続されることがないことに発達を強制され、自分が生きること自体の方に活用されるはずだった、もともと持っていた潜在的能力を自分以外の誰かにとって有用なように発達させられることは、社会による、生きることの搾取であるとも考えられないだろうか。

 

大きなシステムのなかで、断片化した能力として位置づけられる個人は、そもそも自らが生きることに直接投資できたはずの潜在的資源と能力を奪われ、いざシステムが機能不全になったときに自律的に生きる力を疎外された無能な存在として野に放り出される。

 

生きづらさというものが、もともと備わっていた能力や自律性を疎外された状態から生まれると考えるなら、その疎外を脱するための環境をこしらえる必要がある。身体化され、当然のものとして一体化した価値観、認識、そういうものをとっていくための環境をつくる。そのときの環境は、お金のかかる建物とか設備とかのハードであるよりは、そこにある人と人との関係性のほうが重要になってくるだろうと思う。

 

人や社会にとってどれだけ有用であるか、どれだけ認められるかという「意味」から自分がニュートラルになる場所が、その一体化を脱していく場が必要だ。何かが「素晴らしい」とき、素晴らしくないものがその背景として必要になる。何かを「素晴らしい」というとき、素晴らしくないものを同時に実体化させ、つくりだしている。

 

よって、価値があるものをつくりだすのではなく、有用性としての意味の空白地帯をつくる。意味を相殺し、ゼロにする場、一瞬をつくる。それはもちろん厳密には存在しない場だけれど、人のなかの自律性は間隙を縫い、事実と事実の合間のなかで、そのゼロを体験することができるのだ。

死が生を生きようとするとき

動いているもの、絶えず変化しているものがあり、その一方で相対的に変わらないもの、固定化したものがある。後者が一種の死であるとしたら、生きものが恒常性とか動的な平衡を保とうとすることは、ある種の死を目指そうとする運動であるともいえないだろうか。

 


速く動き続けるもの、変化し続けるものは生きものとあまりそぐわない。大まかにいって変化しにくい安定的環境だから生きものが現れてきた。そういう意味ではどちらかというと生きものは変化することより、変化しないほうに傾いている。

 

体の全てが流動的なら体が保てない。更新が可能といっても学習はどうしても記憶の固定化の側面を拭えない。変化しにくいものを取り入れて生は成り立っていて、自意識は変化しないもの=死をやはり求めている。

 

生とは変化のひと休みであるとすると、変化を価値とし、速く変えようとすることは生のありようと逆行している。

 

ならば、世界を死だと設定してみることが生を救わないだろうか。いや、実際には死として存在する自意識にとって、自身を投影して理解する世界は死んでいるように受け取られているというだけであるのだけれど。

 

既にエピローグのなかに生きていると設定する。そこでは全てのものはもう取り残されている。どこに行くところもない。そのときあらわれるやさしさがある。やさしさは意味に奪われた世界の疎外を相殺し、無に帰すものだ。

 

自意識がどこかに行こうとすること自体が、置いていかれるもの、除け者にされるものを生んでいるのではないだろうか?

 

死が死にとどまるとき、逆に生は展開する。死が生を生きようとするとき、死は生を殺す。

6/4「はなす」@本町エスコーラ

6月4日(土)の16時半から東山区の本町エスコーラで対話の試行をします。

もうすぐですが、関心ある方はお知らせください。

 

生活から離れた抽象的な議論ではなく、かといって雑談でも世間話でもなく、セラピーでもなく、日常と自分に根ざしながら、世界との関わり、人との関わりの質を変えていくこと。認識の仕方が変われば体験は変わる。対話は、教えたり諭したりするのではなく、相手を別の状況で生きている自分であるように尊重し、贈り物をしあうように、世界と自分の間にあるものを共同で明らかにしていく行為だと思います。

 

対話とは相手をやりこめることでも、自分が優位にたつことでもなく、相手に背中を預けて、その背中を相手の目から伝えてもらうようなことだと思います。どちらかがやりこめるようなあり方でいるならば、話す前から終わっている。そこでは価値あるようなことはおこりません。

 

曖昧なものをそのまま出せるときに、認識の更新、体験の更新はおこっていくと思います。その意味で、対話ができるようになるということは、個としての相手の自律性を認め、尊重できるようになっていくことを常に伴います。

 

心とは何かを理解するというような大げさなことではなく、自分のなかに蓄積されてきた認識の仕方をクリアにし、掃除していく。断捨離、という言葉を時々みかけますが、自分にとって必要なもの、必要でないものを再吟味にかけて、捨て、整理していくことは、そのまま自分の内部の認識と現実を再吟味し、更新していく作業です。

 

対話は、何かモノを捨てるわけではないですが、曖昧なままに自分のうちに滞留し、くぐもりを作っている認識の断捨離といえるかもしれないと思います。素晴らしい認識にたどり着く必要はなく、ただ実際として滞りを作っている認識を明らかにし、順々に取っていけば十分です。

 

個人的な話しをすると僕が目指したいのは、いわば対話環境の自給です。どこかにいる先生や専門家に扱ってもらったりしないと認識の断捨離ができない依存状態・停滞状態から、関わる周りとともに対話できるお互いになっていくと世界は新鮮さを取り戻すと思います。心の通りが悪くなり、新鮮さを失うのは、世界ではなく、古くなった認識のほうの問題なので。

糸島で話しします

ご縁で糸島のトークイベントに呼んでいただくことになりました。

 

「土」をテーマに、ということで、正直、土の何たるかなんて何もわかってないのに今までやってきている実態は何なのかというところをありていに白状して、学ばしていただくしかないなあと思っています。豊かさがあるところで人は回復していくと思います。なのでそこのなかに居続けるというか、近くにいるということが、何かを受け取り続けることとなって、受け取ったものがやがて自律的なものになって動いていくということがあるのかなと思うのですが。

 

糸島芸農2016 イナリサーチ「土を語る。土は語る。」

 

 

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糸島芸農2016のテーマ「発酵する地平」にちなんで、このたび、2人の農業の実践者と1人のアーティストを招いて「土」をテーマにしたトークイベントを行います。

 

当たり前のように、土からは植物が生えてきて、それを虫や動物や人間が食べて、その排泄物や屍体が土に還り、それを菌や微生物が分解し、植物の種の養分となって、やがて再び土から植物が生えてきます。当たり前と思っているこのサイクルですが、本当に当たり前なんでしょうか。

 

今回、このトークに参加していただくのは、京都で「自給農法」を実践する米田さん、糸島で「自然農」を実践する村上さん、アーティストで「世界土協会」のメンバーのジェームズ・ジャックさん。この3人は、きっと、土と丁寧に向き合い、土の声を聞いている人たちです。

 

この3人と一緒に、土について熱く語ります。そしていつか、土の声が聞こえるようになりたいと思っています。

ゲスト|米田 量(自給農法)
    村上 研二(自然農)
    James Jack(アーチスト)
聞き手|大澤 寅雄(文化生態観察)

日 時|2015年5月18日(水)19:00〜21:00
会 場|うみかえる(糸島市二丈深江2129-11)
    JR筑肥線 筑前深江駅から徒歩12分
    深江海水浴場入ってすぐの古民家
参加費|無料(カンパ大歓迎)
    とくに予約は必要ありません。
主 催|大澤寅雄
共 催|糸島芸農2016実行委員会
問合せ|torao2003@mac.com / torao2008@pdx.ne.jp

●米田 量(よねだ りょう)
1975年生。中学で不登校。人の回復について関心。四国88か所巡りの経験と研究から人が内在している自律性を発現させていくための媒体と環境の必要性を感じる。市民参加の米づくりなどを企画運営した後、自給という視点から考案された農法を糸川勉さんに学び、環境に直接働きかけ必要なものを得ていく主体性の取り戻しと人の回復が強い相関をもつと気づく。自給農法を学ぶ「京都のらびと学舎」を主宰。

●村上 研二(むらかみ けんじ)
1971年生。熊本市出身。大学卒業後13年間畜産飼料メーカーに勤務。2007年、退職し糸島へ移住。以来自然農の田畑を中心とした暮らしを続けている。自然と共にあるための羅針盤「糸島こよみ」製作メンバー。自然界の理を出発点に、暮らしを考え、実践し、修正しながら生きて死んで行きたいと願っている。

●James Jack(ジェームズ・ジャック)
ニューヨーク市のロッキー・ソイルで育ち、ハワイのハイビスカスに飛び乗って東京に移住した。現在、ジャックは東京芸術大学明仁皇太子奨学金を受け、現代芸術について研究をしている。ドローイングや写真やインスタレーションを発表しているアーチストの観点から文章を書いている。

聞き手:大澤寅雄(文化生態観察/糸島芸農実行委員)

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